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日蓮大聖人・池田大作

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第12巻 「栄光」 栄光

小説「新・人間革命」

前後
31  栄光(31)
 競技に続き、ブラスバンドの演奏が終わると、グラウンドの中央に積まれた木材に、火がともされた。
 第二部の、フェスティバルの開幕である。
 合唱に続いて、現代社会の歪みを風刺した寸劇と、学園での教師と生徒の日常を再現した寸劇が上演された。
 劇と劇の間には、数人の生徒が、二十一世紀への決意をうたった詩を発表した。
 フィナーレは、学園寮歌の合唱であった。
 皆が歌い始めた。
 一、草木は萌ゆる 武蔵野の
   花の香かぎし 鳳雛の
   英知をみがくは 何のため
   次代の世界を 担わんと
   未来に羽ばたけ たくましく
 生徒たちは、頬を紅潮させ、真剣な眼差しで、自身の誓いを託すかのように、寮歌を熱唱していった。
 荘重な調べである。
 山本伸一は、身を乗り出し、目を輝かせて聴き入っていた。
 寮生が、自分たちの手で作詞した歌である。
 彼らが寮歌の制作に着手したのは、四月の下旬のことであった。
 寮生に誇りをもってもらいたいと考えた寮長の永峰保夫が、寮歌の作成を提案したのだ。
 永峰は、まず寮歌の説明から始めなければならなかった。
 「かつての旧制高等学校には、みんな寮歌があったんだ。
 たとえば一高だ。ここは、後に新制の東大教養学部に合併されるが、この一高には『嗚呼玉杯に花うけて』という有名な寮歌があった。また、京大に併合される三高には、『紅萌ゆる丘の花』という名曲があった。どの高等学校の寮歌にも、自分たちが、やがて国を背負い、新しい社会を担っていこうとの意気があふれていた。
 そこで、私たちも、世界の指導者に育つ、鳳雛の心意気を託した寮歌をつくりたいと思うが、どうだろうか」
 寮生たちは頷いた。
 「よし、決まった! どの寮歌よりも立派な歌をつくろう。みんな、歌詞を考えて、持ってらっしゃい」
32  栄光(32)
 作詞を手がけたことのある生徒など、ほとんどいなかった。
 それでも、旧制高等学校の寮歌を聴いたり、詩集を読みあさったりしながら歌詞を考え、寮長の永峰に提出した。
 全部で六十編ほどが集まった。
 永峰を中心に検討会が開かれた。どれも、なかなかの力作である。
 そのなかでも、ひときわ光彩を放つ秀作があった。大倉裕也という大阪出身の高校生の作品であった。歌詞は四番からなり、「草木は萌ゆる 武蔵野の……」から始まって、武蔵野の春夏秋冬と、創価の学舎で青春を過ごす意味を、問いと答えによって詠いあげていた。
 一番では「英知をみがくは 何のため」と問い、「次代の世界を 担わんと」と答えが示されている。
 二番には「情熱燃やすは 何のため」「社会の繁栄 つくらんと」、三番には「人を愛すは 何のため」「民に幸せ おくらんと」、四番には「栄光めざすは 何のため」「世界に平和を 築かんと」とある。
 それは、自身の生き方を問い、崇高な目的を確認し、勇んで進みゆかんとする、壮大な気概の歌であった。
 歌詞をつくった大倉裕也は、祖母と兄が熱心な学会員であり、よく聖教新聞に目を通していた。そして、創価高校の開校の記事や写真を見て、自分もこの学校で学びたいと、受験を決意し、入学した生徒である。
 ところが、慣れない寮生活で、ホームシックにかかったり、孤独に陥りもした。また、勉強も大変であった。そのなかで彼は、自分はなんのために創価高校に進み、なんのために学ぼうとしているのかを、自身に問いかけ続けてきたのだ。彼は、その答えを求めて、創立者である山本伸一の指導が載った聖教新聞や、伸一の著作を、むさぼるように読んだ。そうして紡ぎ出された自分なりの結論を、寮歌の歌詞に、書きつづっていったのである。それは、青春をかけた思索の結晶であった。
 寮歌の検討会では、皆が大倉の歌詞を推した。
 作曲は、学園の音楽の教師である、杉田泰之に頼むことになった。
33  栄光(33)
 杉田が寮長の永峰から寮歌の作曲の依頼を受けたのは、六月半ばのことであった。
 彼は、すぐに作曲に取りかかった。
 鳳雛たちが舞い飛ぶ、二十一世紀の大空に思いを馳せ、学会歌の「世界広布の歌」のような、明るく軽快で、格調の高い歌にしようと、曲づくりを始めた。
 できあがった寮歌の曲を、ピアノで演奏して生徒たちに聴かせ、感想を求めた。自信作であったが、意外なことに、生徒たちには不評であった。
 「歌っていて、力が入らない気がするんです」
 「やっぱり寮歌は、旧制高等学校の寮歌のような感じがいいですよ」
 生徒たちは、曲調は短調の日本的なリズムで、一人で歌っても自分を鼓舞できる、孤高の志を歌うようなイメージの曲を求めているのだと、杉田は思った。彼は、再び、全魂を傾けて作曲に挑戦した。
 できた曲をピアノで弾き、テープに吹き込み、寮に持って行った。
 「君たちの要望通りの曲をつくったよ」
 今度は、寮生の評価は高かった。
 「先生、こんな歌がほしかったんですわ」
 「イメージ通りです」
 皆、大喜びである。
 こうして、寮歌「草木は萌ゆる」が完成したのである。
 七月十四日に行われた第一回「栄光祭」では、この歌を皆で合唱した。
 また、寮歌はテープに吹き込まれ、歌詞とともに、山本伸一のもとにも届けられた。
 伸一は、それを、妻の峯子とともに聴いた。
 「いい歌だね。さわやかで、すがすがしい。そして、力強い。二十一世紀に羽ばたかんとする、学園生の心意気がみなぎっている。名曲が完成したね」
 伸一は、毎日、このテープを聴き、学園生の未来に思いをめぐらせ、成長を祈念した。
 八月、各部の夏季講習会が行われたが、高等部の講習会の折、創価高校の高等部員たちが、この寮歌を、伸一の前で熱唱した。
 伸一は、傍らにいた青年部の幹部に言った。
 「すばらしい歌だろう。作詞をしたのは、学園生なんだよ。私は、この歌が大好きなんだ」
34  栄光(34)
 学園寮歌を聴きながら、伸一は、彼らの一途な開道の心意気に、なんとしても応えたいと思った。そして、寮歌の五番の歌詞をつくって、贈ろうと考えた。
 八月は夏季講習会が二十三日まで行われ、陣頭指揮をとっていた伸一は多忙を極めていたが、寮歌の五番の作詞に取りかかった。
 四番までの歌詞を何度も読み返しては思索し、五番では友情をうたおうと思った。
 ペンを手にすると、伸一の頭には、泉のように言葉が浮かんだ。
 それを吟味するかのように、推敲を重ね、歌詞を書き記していった。
 五、富士が見えるぞ 武蔵野の
   渓流清き 鳳雛の
   平和をめざすは 何のため
   輝く友の 道拓く
   未来に羽ばたけ 君と僕
 「輝く友の 道拓く」の個所には、学園生のために命がけで道を開こうと決めた、伸一自身の決意も込められていた。
 この五番の歌詞が、生徒に伝えられたのは、二学期の始業式が行われた九月二日の月曜日のことであった。歌詞を聞くと、皆、歓声をあげて喜び合った。
 そして、九月六日のグラウンド開きで、全員で大合唱することになったのである。
 グラウンドに組み上げられた古木は、音を立てて燃え盛っていた。
 寮歌を熱唱する生徒たちの顔は紅潮し、その炎よりも赤かった。
 歌は五番に入ると、一段と力強さを増した。
   ………… …………
   輝く友の 道拓く
   未来に羽ばたけ 君と僕
 学園生は、「君と僕」の歌詞に、二つの意味を感じ取っていた。
 一つは、「君」は「友」であり、「僕」は「自分」である。そして、もう一つは、「君」が「自分」であり、「僕」は、創立者である「山本伸一」である。
 歌いながら、生徒たちは、伸一が極めて身近な存在に思えた。そして、ともに未来に向かって前進する、共戦の父子の絆を感じるのであった。
35  栄光(35)
 学園寮歌の合唱が終わると、伸一は、生徒たちに、自分の前に来るように言った。
 そして、喜びにあふれた声で語り始めた。
 「私は、これまで、数多くの会合に出てまいりましたが、これほど気持ちのよい、清らかな集いはありません」
 彼は、こう感想を述べたあと、将来、創価女子中学・高校、創価女子短期大学も開校するが、それら創価の学舎の軸となり、出発点となるのは、どこまでも創価中学・高校であると訴えた。
 「『源遠ければ流れ長し』という哲人の言葉がありますが、ここに集った皆さんの存在こそが、根本であり、源です。諸君は、五百人余であり、小さな源かもしれない。しかし、源がすばらしければ、その流れは、永遠に続いていきます。
 私は創立者として、皆さんのことは一生涯忘れません。胸の中に叩き込んでおきます。このなかから、世界の平和を実現する偉大な指導者が、必ず出ると信じております。
 かつては、旧制高校の寮歌を歌った人たちが、日本の社会をリードしてきました。今度は、創価学園の寮歌を歌った人が、次代の指導者に、また二十一世紀のリーダーになっていくことは間違いない。学園寮歌が、日本中、世界中の人から愛唱される日も、さほど遠くないと確信しております」
 この寮歌「草木は萌ゆる」は、後年、創価中学・高校の校歌となるのである。
 伸一は、鳳雛たちに、魂を注ぎ込む思いで、話を結んだ。
 「私は諸君がかわいくて仕方ない。諸君のためには犠牲にもなる。それが私の根本精神です。どうか体を大切にし、うんと鍛えて、人間性豊かな実力主義、健康な英才主義を、さらに証明していく一人ひとりになっていただきたいことをお願いし、今日は、これで失礼します」
 一心に創立者を見つめる生徒たちの目に、涙が光っていた。深い決意を胸に、唇を固く結ぶ生徒もいた。
 それは、「平和」と「正義」の理想に生きる、父と子の、師と弟子の、生命と生命の交流のドラマであった。
36  栄光(36)
 一学期の終わるころから、教師たちの間では、下宿生への生活面での指導を、どう行うかが課題となっていた。
 教員の目も、各下宿生の生活の詳細にまでは行き届かなかった。
 下宿生活は、寮生活とは違って自由が多いところから、誘惑もあった。同じ下宿の大学生に、麻雀などによく誘われるという下宿生もいた。
 教師たちは、こうした問題を深刻に受け止めていた。しかし、ただ、「あれをするな」「これもするな」というのでは、問題の解決にはならない。大事なことは、下宿生一人ひとりが、創価学園生としての自覚を新たにし、自らを律していく強さをもつことである。
 ――そう考えた教師たちは、日常的に、生徒同士が切磋琢磨していくように、下宿生の生徒組織をつくることにした。
 その報告を受けると、山本伸一は言った。「大事なことですね。教育の本義は、人間の自立にあると思う。したがって、生徒が自分たちで考え、話し合って、自らを律しようという方向にもっていくことこそ、本当の教育といえるでしょう」
 そして、伸一は、栄光の青春を送ってほしいとの願いを込め、この下宿生の組織に、「栄光会」という名を贈った。
 それを聞いた下宿生の心に、誇りが芽生えた。
 九月十五日、寮の集会室で、「栄光会」の結成式が行われた。
 中心者となる執行部の部長には、矢吹好成という、温和だが、芯の強そうな感じの、長身の高校生が就いた。
 彼は、都立高校に一年間通学したあと、学園に入学したため、同級生より一歳年上であった。自宅は東京の下町であったが、通学にかなり時間がかかることもあり、一学期の途中から、下宿をしたのである。
 矢吹は、部長就任の抱負を語った。
 「これからは、私たち下宿生は互いに連携を取り合い、交流と友情を深め、成長を競い合っていきたいと思います。そして、栄光会の誇りと自覚を胸に、後に続く後輩たちのために、下宿生のよき伝統をつくり上げていく決意ですので、どうか、よろしくお願いします」
37  栄光(37)
 彼のあいさつには、強い決意が込められていた。
 その矢吹の顔を、驚いたように、まじまじと見る生徒もいた。入学当初の彼の姿からは、想像もできなかったからだ。
 矢吹の創価高校への進学は、父親の薫の深い祈りから始まった。
 薫は、学会の理事をしており、創価高校が開校した暁には、ぜひ息子を入学させたいと念願していた。創価学園は、山本会長が、世界の平和を願って、全精力を注いで開校する、人間教育の学校であることを、よく知っていたからだ。また、創価学園こそ、創価教育の道を開いた牧口初代会長、戸田第二代会長の遺志の結実であり、三代にわたる師弟の教育の城であることを、痛感していた。
 だが、息子の好成は、既に高校一年であり、学校生活を楽しみきっている様子である。
 今の学校をやめて、新たに受験して創価高校に入り、自分より一歳下の生徒と机を並べることには、好成は抵抗を感じるにちがいないと思った。
 しかし、薫は、それでも息子を、創価高校に入れたかった。一期生として、学園の建設に生きることは、最高の栄誉であり、かけがえのない青春の思い出になると、薫は確信していたのだ。
 彼は、好成が都立高校に入った時から、翌年の創価高校入学を、懸命に祈り始めた。
 そして、折に触れて創価高校のすばらしさを語ってきたが、受験せよとは言わなかった。
 自分が言えば、かえって反発するだろうと思えたからだ。
 また、あくまでも、本人の意志で決断させたかったのである。
 だが、夏が過ぎ、秋になり、冬が来ても、好成は、創価高校を受験するとは言わなかった。全く考えたことさえないといった様子であった。
 薫は一計を案じた。好成の家庭教師をしている山原祐介という学生部員から、創価高校に行くように、説得してもらうことにした。山原は、家が貧しいなかで、必死に勉強して、東大に合格した勤勉な青年であり、好成も、彼のことを尊敬していたのである。
38  栄光(38)
 山原は、好成に、創価高校の受験を勧めた。
 しかし、好成は、「いまさら、いやですよ」と、一笑に付した。
 父親の薫は、好成の創価高校入学を祈念して、毎日、丑寅勤行をするようになった。
 好成は、なぜ父親が、急に丑寅勤行を始めたのか、わからなかった。彼は、父の仕事が行き詰まってしまったのかもしれないと、不安にかられて、母親に事情を聞いてみた。
 「お父さんはね、あなたが創価高校を受験するように、真剣に祈っているのよ」
 好成は愕然とした。余計なことを考える父に、うっとうしさを覚えた。
 山原は、一日置きに家に来て、二階の好成の部屋で勉強を教えながら、創価高校に行くことを熱心に勧め続けた。
 しかし、好成には、全くその気はなかった。
 出願締め切り日の前日のことであった。
 勉強が終わって、山原が階下に下りていくと、父親の薫が待っていた。
 薫は、心配そうな顔で尋ねた。
 「山原さん、好成は、受験する気になったんだろうか」
 すると、山原は、深々と頭を下げた。
 「すいません。説得できませんでした。本当に申し訳ありません」
 少し遅れて、階下に下りていった好成は、そのやりとりを目にした。
 ″どうして、ぼくのことで、山原さんが父に謝らなければならないんだ……″好成は、腹立たしかった。また、自分に責任があるような気がして、山原に申し訳なく思った。
 彼は、とっさに、こんな言葉を口にしていた。
 「父さん、ぼくが受験すればいいんだろ! 受けるだけなら、受けてもいいよ」
 「そうか!」
 父の顔が輝いた。
 薫は、願書も取り寄せ、すべて周到に準備していた。
 翌日、好成は願書を提出しに行った。創価高校に着いたのは、締め切りの午後四時近かった。窓口に出すと、担当者が言った。
 「間に合ってよかったですね。あなたが、最後ですよ」
 窓が閉められた。
39  栄光(39)
 入学試験の日が来た。
 受験生は、必死になって、答案用紙に鉛筆を走らせていたが、矢吹好成は、あくびを噛み殺しながら、周囲の様子を観察していた。彼は、白紙で答案を出すつもりであった。″受験したことで、親父との約束は果たしたんだから、何も、文句を言われる筋合いはない……″
 そう思いながら、何気なく、試験問題に視線を落とした。
 好成は驚いた。かなりの難問であったからだ。高校生の自分でも、解けるかどうかわからない問題ばかりであった。
 ところが、周りの受験生は、すらすらと、問題を解いているようだ。
 ″中三で、こんな問題が解けるなんて、どんなやつらなんだ!″
 彼の胸に、むらむらと闘志が燃え上がった。中三になんか、負けたくないと思った。
 気がついた時には、一心不乱に、問題に取り組んでいた。
 合格発表の日となった。
 好成は入学する気はなかったが、結果が知りたくて、発表を見に行くと、合格していた。
 家に帰ると、父の薫は尋ねた。
 「どうだった」
 「受かっていたよ」
 「それじゃあ、創価高校にいくんだろう」当然のことのように考えている父親に、好成は反発を感じた。
 「ぼくは、いきませんよ。ただ受けるだけの約束でしたから」
 その言葉を聞いて、父親の顔色が変わった。
 「それはないだろう。お前が受かったために、誰か一人の人が、落ちてしまったんだ。
 その人は、一生懸命に勉強して、題目をあげ、山本先生のつくった学校に入ろうと、夢を抱いて受験したんだ。それで、お前が入学しないというのは、その人の人生を、弄んだことになる。お前はその責任を感じるべきだ」
 薫は真剣であった。
 好成は、変な理屈だと思ったが、話を聞いているうちに、入学しないのは、すごく悪いことであるような気がしてきた。
 どこか騙されているような感じもしたが、悩んだ末に、創価高校に入学することにした。
 しかし、彼は、なかなか、学園の雰囲気になじめなかった。
40  栄光(40)
 入学式の前々日には、新入生が登校したが、その折、入学式のリハーサルも行われた。
 生徒たちの大多数は、栄えある創価学園の一期生の誇りをもち、自分たちの手で歴史的な第一回の入学式を荘厳なものにしようと、真剣にリハーサルに取り組んでいた。校歌はもとより、全員がそろうようにと、起立したり、着席する練習も繰り返された。
 矢吹好成が通っていた都立高校では、生徒の大半は、入学式をしらけた思いで受け止めていた。そうした環境のなかで過ごしてきた矢吹は、むしろ、創価学園に違和感を覚え、隣の生徒に、つぶやくように言った。
 「この学校、ちょっと変だよな」
 すると、その生徒は、驚いた顔で、睨みつけるように矢吹を見た。
 ″ついていけないな″と、彼は思った。
 自分たちこそ、二十一世紀を担う、創価学園建設のパイオニアであるとの使命に燃える生徒と矢吹とは、自覚が全く異なっていた。
 それが、入学式を迎える″心の温度差″となり、情熱の違いとなって表れていたのだ。
 学校が始まると、矢吹の違和感は、ますますつのっていった。多くの生徒が、希望に燃えてスタートした黄金の学園生活も、彼には色あせて感じられた。
 父親の薫は、そんな好成の心を感じ取り、不安を覚えた。
 通学時間もかかるし、学校をやめると言い出すのではないかとハラハラしていた。
 ――進学など、人生の進路の決定は、当然、本人の意志を最重要視すべきである。本人にその気がないのに、親の意見を押しつければ、早晩、破綻してしまうことになりかねない。
 薫も、そのことは、よくわかっていた。
 だから、好成の創価高校への進学については、本人の考えを尊重しながら、説得にあたってきたつもりであった。そして、最終的には、本人が決断したことであり、好成の意志によるものであると思っていた。
 だが、日ごとに元気がなくなっていく息子を見ると、胸が痛んだ。
 薫は、自分にできるのは、題目を送ることしかないと思った。
41  栄光(41)
 入学して、二カ月が過ぎたころ、薫は、好成に尋ねた。
 「家から通学するのは大変かね」
 「うん、結局、片道二時間近くかかるからね」
 「それなら、学校の近くに下宿しなさい。大事な勉強時間が、そんなに取られてしまうのはもったいない」
 薫は、好成が学校の近くに住めば、学校に行かなくなったりすることはないだろうと、考えたのである。
 好成は下宿生活を始めたが、このころ、彼は学園で、幾つかの″発見″をした。それは、教師たちが生徒に、常に情熱をもって「人びとのため」「社会のため」「世界の平和のため」に勉強し、成長していきなさいと、訴えていることであった。
 前の高校では、決して耳にしたことのない言葉であった。
 教師の口から出る言葉は、いつも、「受験」や「偏差値」であった。東大に何人合格させるかだけを、至上目的としているようであった。
 「授業についてこられない者は定時制に行け!」と、定時制を差別するような発言をする教師もいた。彼は、そんな教師に反発を覚えた。
 それだけに、創価高校の教師たちに、人間としての誠実さを感じた。
 また、矢吹の下宿の近くに、鹿児島県出身の中学生の下宿生がいた。彼は、その生徒の存在は知っていたが、積極的には関わろうとしなかった。
 ある日、下宿生を担当している教師に、矢吹は、こう指摘された。
 「なぜ君は、中学一年生で親元を離れて生活している彼を、励まそうとしないんだ。先輩として、冷たいじゃないか。君のように、後輩の面倒も見ようとしない生き方は、人間として恥ではないか!」
 中学でも優等生として過ごしてきた彼は、いつの間にか、成績の向上にばかり夢中になり、他人を思いやる心を忘れていたのだ。
 自分の利己主義的な面に、初めて気づかされた出来事であった。
 彼は、叱られながら、教師の言っていることは正しいと思った。また、そこまで言ってくれる教師のいる学校は、すばらしいと思った。
42  栄光(42)
 もう一つ、矢吹好成の心を大きく変えていったのは、必死になって学園生を激励する、創立者の山本伸一の姿に触れたことであった。
 彼は父親から、学会の会長である伸一が、いかに多忙を極めているかを聞かされてきた。
 その山本会長が、寸暇を見つけて、学園に来ては、生徒の輪のなかに入り、直接、声をかける。
 時には、生徒とテニスや卓球をしてくれる。球を打ち損なうと、おどけたり、地団駄を踏んだりする。決して偉ぶることなく、生徒と同じことをし、生徒の目線で話しかけてくる。
 また、一人ひとりの健康や生活を心配し、悩みを聞き、生命を振り絞るようにして、激励を重ねている。
 さらに、矢吹は、伸一の周到な気遣いにも、感嘆した。
 下宿先の主人に、担当の教師を通し、「生徒がお世話になります」という伝言とともに、心づくしの品が届けられていることを知ったからだ。
 彼は、伸一の慈愛ともいうべき思いと、生徒への期待を実感した。人間として、それに応えたいと考えるようになっていった。
 いつしか彼は、学園が好きになっていた。学園のために、何かしたいと思った。
 そして、矢吹は、下宿生の生徒組織である栄光会の発足にあたり、執行部の部長を引き受けたのである。
 栄光会の結成式で、矢吹は、「生涯精進、生涯勉強、生涯努力、生涯建設」という、下宿生のモットーを発表した。
 これは、伸一の「若き日の日記」の一節からとったもので、提案者は矢吹であった。
 そこには、若き日の伸一が、ひとり暮らしをしながら栄光の青春を生きたように、自分たちも人生の飛翔のために悔いなき青春を送ろうという、誓いが込められていた。
 執行部の部長となった矢吹は、率先して、自ら皆の下宿を回り始めた。
 互いに励まし合い、固い友情に結ばれた、下宿生の連帯を築こうと必死であった。
 やがて、下宿生の団結も生まれ、皆の心に、栄光会のメンバーとしての誇りと自覚が、育まれていったのである。
43  栄光(43)
 山本伸一は、成績が伸び悩んでいる生徒のことも、気がかりでならなかった。
 教師たちは、次代のリーダーにふさわしい力をつけさせようと真剣であり、授業の速度も速く、学習量も多かった。それだけに、授業についていけずに、悩んでいる生徒がいるのではないかと、伸一は心配した。
 そして、校長の小山田隆と相談し、二学年への進級が危ぶまれる、三十人ほどの高校生と会って、励ますことにした。
 二学期の期末試験を終えた十二月下旬、彼は学園を訪問し、学園の理事長の森川一正と一緒に、生徒と面談した。
 生徒たちは、教師から「山本先生が、成績不振者に会われる」と聞かされていたせいか、ばつが悪そうな顔で、部屋に入って来た。
 伸一は、生徒を、笑顔で迎えた。
 「緊張する必要はないよ。叱るために会ったんじゃないからね。ぼくは、君たちを勇気づけたいだけなんだ」そして、それぞれの生徒に、悩んでいることはないか、体調はどうか、通学時間はどのぐらいかかるのか、家庭の状況はどうかなどを、丹念に尋ねていった。
 伸一は、何か問題があれば、相談にのり、助言し、できる限りの応援をしたかった。
 また、勉強以外にも、生徒一人ひとりがもっている、さまざまな可能性を引き出す機会にしたかったのである。
 語らいのなかで、多くの生徒たちは、その伸一の心を感じ取っていったようだ。
 「先生。勉強、頑張ります!」と、自ら誓う生徒もいた。
 それを聞いた伸一は、にっこりと頷き、包み込むように言った。
 「そうだ。そうだよ。頑張るんだ。一ミリでも、二ミリでもいい。決してあきらめずに努力して、前進していくことが大事だよ」
 また、「成績が悪かったからといって、卑屈になってはいけない。今度こそ、今度こそと、挑戦していくんだよ」「得意科目をつくろう」「自分に負けてはいけない」など、一人ひとりに、渾身の激励を重ねた。
 来た時は、暗い顔をしていた生徒たちが、帰りには、風呂上がりのように、さっぱりと、紅潮した顔をしていた。
44  栄光(44)
 生徒を激励する伸一の姿を見て、最も驚いたのは、教師たちであった。
 ″山本先生は成績の良い生徒にではなく、成績の悪い生徒と会って激励してくださった。
 どんなに成績の悪い子も優秀にしてみせる――というのが、創価教育の精神ではないか。私たちこそ、頑張ろう″
 伸一の面談は、生徒たちにとっても、教師たちにとっても、大いなる発奮の起爆剤となった。後年、その生徒たちのなかから、大学教授も出ることになる。
 伸一は、この日も寮を訪問し、寮生と会食。皆の近況を聞きながら、激励を続けた。さらに、外に出て、星を仰ぎながら、寮生の歌う寮歌に耳を傾け、交流のひと時をもった。
 二学期の終業式の前夜、寮生の帰省を前に、寮では″お別れ会″が開かれた。
 二週間足らずの冬休みだが、寮生の多くは、別れを惜しんで涙ぐんだ。
 固い、固い友情に結ばれた彼らは、仲間と別れて、帰省するのが寂しいのである。
 また、一人の寮生は、寮担当の教師に、こう語るのであった。
 「ぼくは、最初はホームシックにかかり、家に帰りたくて泣いてばかりいましたが、今は最高の青春を送っていると思っています。郷里に帰ったら、後輩たちに、創価学園で体験した感動を語り、ぼくよりも、何倍も優秀な受験生を、たくさん連れて来ます。
 だから、ぼくは″帰る″のではなく、学園生として″派遣される″と思っているんです」
 まさに、学園建設のパイオニアとしての自覚と責任が、皆の胸に、しっかりと培われていたのである。
 二期生の入学試験が実施されたのは、翌年の二月であった。
 試験当日の役員を募ると、寮の高校生全員が、異口同音に「やらせてください」と、強く希望したのである。駅から学校までの道案内をはじめ、連絡係や救護係など、生徒たちは大奮闘した。そのさわやかな、はつらつとした姿に接した受験生たちは、合格したいとの思いを、ますます強くするのであった。
45  栄光(45)
 二期生の入試では、こんなこともあった。
 整理役員となった寮生の一人が、寮の黒板に受験生の姿を見た心境を和歌にして書いた。
 「ひととせを 胸に刻みし 新たなる 二期生ならん 子等をみつめて」
 翌日、中学の第一次の合格発表が行われ、合格した受験生の母親が、寮の見学に来て、この黒板の和歌を見た。
 その母親は、合格した息子に代わって返歌を詠み、黒板に記した。
 「縁ありて 兄弟の契り 結ばんに 導き給え いたらぬわれを」
 寮生たちは、返歌を認めたのが母親であることを知ると、息子を送り出す親にとっては、先輩となる自分たちが、最大の頼りなのだと思った。
 そして、先輩としての責任の重さを感じ、自覚と決意を新たにするのであった。
 この入学試験で、中学二百五人、高校三百十五人が難関を突破した。
 山本伸一は、開校二年目もまた、足繁く、学園を訪問した。
 四月の二日には、創価大学の起工式が、東京・八王子の建設予定地で行われたが、式典が終了するや、直ちに学園を訪れたのである。大学の建設を、学園生とともに喜び合いたかったからだ。
 二期生の入学式が行われた四月八日にも、彼は学園を訪問した。
 式典を終えた新入生と記念撮影したあと、体操着に着替えて、体育館での、一期生の進級祝いの球技大会に参加。終了後には、伸一が汁粉をよそって、生徒たちに振る舞う光景も見られた。
 また、この日、開校一年の学園の歩みを後世に残すために、校史の発刊を提案した。
 その四日後、彼は、生徒と教師の代表二十人ほどを、都内のホテルに招き、中華料理をご馳走しながら、校史の打ち合わせを行った。伸一が生徒たちとホテルで食事をしたのは、やがて世界の指導者に育つ鳳雛たちに、食事のマナーを教えておきたかったからである。
 メンバーのなかに、五カ月前に癌で母親を亡くした、加賀雄輔という中学二年生の生徒がいた。
 校長から、その報告を聞いた伸一は思った。
 ″十三歳の少年にとって、母親の死ほど、大きな悲しみはあるまい″
46  栄光(46)
 伸一は、加賀を傍らに呼んだ。
 「お母さんを亡くされたんだね」
 「はい……」
 そう答えると、加賀の瞳は、見る見る涙で潤んでいった。
 「山本先生のもとに行きなさい」と、創価中学の受験を勧めてくれ、入学式の時には、目頭を拭いながら、満面に笑みを浮かべていた母である。「お母さん」という言葉を聞くだけで、少年は涙が込み上げてくるのだ。
 伸一は言った。
 「お母さんが亡くなっても、悲しまないで、学校がお母さんなんだと思って頑張りなさい。人生には、必ず、越えなければならない山がある。それが、早いか、遅いかだけなんだ。
 深い悲しみをかかえ、大きな悩みに苦しみながら、それに打ち勝ってこそ、偉大な人になれるんだ。偉人は、みんな、そうだ。だから、君も、絶対に負けずに頑張るんだ。
 学園建設の一年の記録は、君の人生の記録でもある。お母さんへの感謝と誓いを込めて、一緒に本をつくろうよ」
 頷く少年の瞳が決意に光った。それは凛々しい若武者の顔であった。
 五月十一日には、伸一が出席して、校史の第一回の編集会議が開かれた。二十人ほどの会議であった。青年時代に、戸田城聖の経営する出版社で、少年雑誌の編集長を務めた彼は、この機会に、編集の在り方や醍醐味を教えたかった。
 語らいは弾んだ。生徒の質問を受けながら、伸一の話は、文学や読書にも及んだ。それは、創立者の楽しき″特別講座″の観を呈していた。校史には、伸一も「発刊によせる」を寄稿することになった。
 六月十五日に行われた編集会議にも、伸一は顔を出した。この時、校史のタイトルが『創価学園 建設の一年』と、決定したのである。
 それから六日後の二十一日にも、突然、伸一は学園を訪れた。そして、校史の校正作業にあたるメンバーの作業室をのぞき、ともにゲラを見ながら、校正の力を培うことの大切さを語ったのである。
47  栄光(47)
 山本伸一が創価学園への訪問を重ねていた、ある日の朝、妻の峯子が言った。
 「あなた、今日は、学園に行かれるんですね」
 この日、峯子には、まだ、その予定を伝えていないはずであった。
 「どうして、わかったんだい」
 「そりゃあ、わかりますよ。学園に行かれる日は、朝から楽しそうにしていらして、いつもと違いますもの」
 伸一は、確かに、そうかもしれないと思った。
 学園生は、彼が、その成長を最大の生きがいとし、人生のすべてを注いで、慈しみ、育てようとしている人たちである。学園生と会えると思うと、楽しみで、喜びが込み上げてくるからだ。
 一学期の期末試験を終えた七月十七日、第二回の栄光祭が開催された。
 前年に、寮祭として始まった栄光祭であったが、この年から、全校生徒が参加する学校行事として、行われることになったのである。
 この前日には、アメリカの宇宙船「アポロ11号」が、人類初の月面着陸をめざして、宇宙に飛び立っていた。
 伸一は鳳雛たちの未来に思いを馳せながら、午後五時前、学園に到着した。
 「遂に、できました」
 出迎えた教師の一人が、彼に数冊の本を差し出した。
 校史『創価学園 建設の一年』である。
 伸一は、本を手にとって、ページをめくると、笑みを浮かべた。
 「立派な本ができたね」
 それから彼は、会場のグラウンドに向かった。栄光祭のテーマは「栄光の青春」であった。
 十二年前の七月、伸一は、創価学会という民衆勢力の台頭を恐れた国家権力によって、不当逮捕され、投獄された。
 そして、獄中闘争を続け、生涯、権力の魔性と戦い抜き、民衆の勝利のために挺身し抜くことを誓った彼が出獄した日が、この七月の十七日であった。
 伸一は、ここに集った学園生が、自分の志を受け継ぎ、民衆の勝利のために戦う指導者に育ってほしかった。いな、そうなってくれることを確信していた。
 グラウンドの中央には、舞台が特設され、その後ろのパネルには、力強く羽ばたく鷲が描かれていた。
48  栄光(48)
 伸一がグラウンドの席に着くと、栄光祭は開幕となった。
 第一部は、民謡大会である。
 学園には、全国各地の出身者がいることから、「阿波踊り」に始まり、「北海盆唄」「ちゃっきり節」「鹿児島おはら節」などの歌や踊りが次々と披露された。
 第二部では、フォークソングの演奏、パントマイム、創作劇などが、参加者を沸かせた。
 フィナーレでは、この日のためにつくられた、「栄光祭音頭」を生徒全員で踊り、学園寮歌「草木は萌ゆる」の合唱となった。
 どの演目にも、工夫が凝らされていた。英知があふれていた。力強さがあり、青春の情熱がみなぎっていた。
 開校から一年三カ月余り――生徒たちが、たくましく大きな成長を遂げていることが、伸一は何よりも嬉しかった。
 寮歌を歌い終わると、生徒たちは、伸一の周りに集まってきた。
 彼は語り始めた。
 「どうもありがとう!
 私の根本の使命は、つまり、人生の本当の総仕上げは、二十一世紀に誇る偉大な指導者をつくることです。
 その方法は、教育しかありません。その教育に全魂を打ち込んでいくことが、私のこれからの最大の仕事となります。
 したがって、私は、学園の創立者として、諸君が偉大な大樹に育ってもらいたいと、常に、心から念願しております。それが私の最大の願いであります。どうか、しっかり、頑張っていただきたい」「はい!」
 元気な鳳雛の声が、こだました。
 武蔵野の空を、夕闇が包み始めていた。
 千人を超す生徒が皆、瞳を輝かせ、真剣な顔で、伸一の話に、一心に耳を傾けていた。
 「諸君こそ、二十一世紀の人生を生きる、二十一世紀の指導者です。二十一世紀まで約三十年、諸君はその時、四十代です。私は、今年、四十一歳になりました。これからの十年間、また、十五年間が働き盛りです。
 諸君は、今の私と、ほぼ同じ年代に、二十一世紀を迎えることになる。まさに、働き盛りで、新世紀を迎えることになるんです」
 伸一は、未来を仰ぎ見るように、空の彼方に視線を向けた。
49  栄光(49)
 山本伸一は、言葉をついだ。
 「二十一世紀の初めには、この一期生、二期生から、社長や重役、ジャーナリスト、あるいは、科学者、芸術家、医師など、あらゆる世界で、立派に活躍する人がたくさん出ていると、私は信じます。また、ある人は、庶民の指導者として、地味ではあるが、輝く人生を生きているかもしれない。
 その二十一世紀に入った二〇〇一年の七月十七日に、ここにいる先生方と、千人の先駆の創価学園生全員が、集い合おうではないか」
 「はい!」
 誓いのこもった声が、夕空に舞った。
 伸一は、さらに、人生には、さまざまな試練や苦労があるだろうが、すべて、指導者としての訓練と受け止めて克服してほしいと訴え、再び、呼びかけた。
 「その一つの決勝点として、西暦二〇〇一年をめざそう。一人も負けてはいけないよ。健康で、世界に輝く存在として集まっていただきたい。
 獅子から育った子は、全部、獅子です。この創価学園から育った人は、皆、栄光輝く使命を担った存在です。
 人生の栄光とは、どんな立場であれ、わが使命に生き抜くなかにある。根本的には、社会的な地位や役職が高いとか低いとか、富貴であるかないかなどは、問題ではない。人間として、どう輝くかです。
 私も、二〇〇一年を楽しみにして、諸君のために道を開き、陰ながら諸君を見守っていきます。それが、私の最大の喜びであるし、私の人生です。
 そういうつもりでおりますから、どうか思う存分に、それぞれの人生を、堂々と闊歩していっていただきたい」
 伸一は、この日、生徒たちが退場するまで、手を振って見送った。
 彼らは二〇〇一年に集おうと言われても、実感はわかなかった。
 ただ、二十一世紀の世界平和を担う人材を、命がけで育てようとする、創立者の心は、痛いほどわかった。その心に、なんとしても応えようと思った。
 栄光祭は、鳳雛たちの二十一世紀への旅立ちの舞台となり、人生の誓いの場となったのである。
50  栄光(50)
 山本伸一は、学園生の未来の大成のために、全魂を傾け続けた。
 この年の夏休みには、教師、生徒の代表に、アメリカ旅行を体験させている。生徒の世界性を育む道を開こうとしていたのである。
 彼は、その後も、幾たびとなく、学園への訪問を重ねた。″ヨーロッパ統合の父″クーデンホーフ・カレルギー伯爵をはじめ、世界の識者を案内することもあった。
 句会を提案し、生徒たちと、句を詠んだこともあった。
 臨海学校や林間学校の折には、ともに泳ぎ、一緒に魚を追ったこともあった。自ら湯加減を調整し、生徒たちを風呂に入れたり、夜、生徒の部屋を見て回り、風邪をひかないように、そっと布団をかけたこともあった。
 伸一は、固く心に決めていた。
 たとえ、学園生が人生につまずくことがあったとしても、自分は、生涯、励まし、見守り続けていこう――と。
 創価学園の三十余年の歴史のなかには、問題を起こして、やむなく退学となった生徒もいた。そんな時、伸一は、その生徒のために、深い祈りを捧げ続けた。
 ある年の秋、学園を訪問した伸一は、中学三年生の寮生の二人が、不祥事を起こして退学処分となり、郷里の大阪に帰るとの報告を聞いた。
 彼は、早速、二階の寮生の部屋を借りて、彼らに会うことにした。
 部屋に来た二人は、伸一の前に、かしこまって座った。膝が触れ合うぐらいの距離である。伸一は、できることなら、退学という事態は回避したかったが、規則は規則である。
 また、既に学校が決定したことを、覆すわけにはいかなかった。
 伸一は二人を見た。彼らは、きまり悪そうに目を伏せた。
 入学した時は、瞳を輝かせ、希望に胸を膨らませていたはずである。しかし、今、学業半ばで学園を去っていくのだと思うと、残念で、かわいそうで仕方なかった。また、親の悲しみは、どれほど深いかを考えると、胸が張り裂けるような思いがした。
 ″この二人を、不幸にはしたくない。生涯、私は見守っていこう″
51  栄光(51)
 伸一は、退学になって大阪に帰る二人に、全生命を注ぎ込む思いで言った。
 「私は、何があろうが、いつまでも、君たちの味方だよ。私が大阪に行った時に、二人そろって、会いにいらっしゃい。何がなんでも、絶対に会いに来るんだよ。いいね」
 伸一は、彼らの成長を真剣に祈り念じながら、見送った。
 それから、二年ほどしたころ、大阪を訪問していた伸一を訪ねて、二人は関西文化会館に来た。といっても、伸一との約束を聞いていた家族に促されて、やって来たのである。
 二人とも革のジャンパーを着て、一人は髪をリーゼントにしていた。ロックンローラーのような格好で現れた彼らに、面食らったのは、会館の受付のメンバーであった。
 二人が取り次いでもらうには、詳細に、事情を説明しなければならなかった。
 伸一は、彼らが約束を守り、自分を訪ねて来たことが、何よりも嬉しかった。
 「よく来た。本当に、よく来たね!」
 文化会館の事務所の前で、懇談が始まった。二人は、今は地元の大阪の高校に通っているという。
 伸一は、彼らが、どんな進路を選ぶのかが、気がかりでならなかった。
 「大学はどうするの」
 「英語が、わからへんから行けませんわ。働きます」
 「しかし、大阪弁がそれだけしゃべれるんだから、英語だって、やればできるだろう」
 その言葉に、彼らの心も和んだようであった。
 「先生。全然、ちゃいますよ」
 「そうか」
 二人の顔に、屈託のない微笑が浮かんだ。
 「まぁ、大学に行くことだけが、人生ではないからな……。
 自分の決めた道で勝てばいいんだよ」
 そう言うと伸一は、自分の原稿料から、そっと小遣いを渡した。
 「君たちに会えて、よかった。また、会おう。必ず会いに来るんだよ。それから、お母さん、お父さんを大切にね」
 「はい!」と、笑顔で頷く二人の顔が、伸一には、限りなくかわいらしく感じられた。
52  栄光(52)
 中退した二人は、その後も約束を守り、伸一が大阪を訪問すると、彼に会いに来た。
 伸一は、そのつど、温かく彼らを迎えた。
 出会いを重ねるにつれて、二人の表情は明るくなり、生き生きとしてくるのが、よくわかった。
 高校を卒業した彼らは、やがて、二人とも地下鉄の運転士となる。
 そして、職場に信頼の輪を広げるとともに、地域にあっては、学会のリーダーとして、活躍していくことになるのである。
 伸一にとっては、退学することになった生徒も、すべてが学園生であった。皆、かわいい、わが子であった。
 伸一の学園生への激励は、在学中はもとより、卒業後も折に触れて続けられた。
 たとえば、下宿生の中心者となった、あの矢吹好成にも、さまざまな機会に、励ましを送り続けていった。
 矢吹は、その後、創価学園の諸行事の運営に、自ら積極的に携わるようになり、高校卒業後は、その年(一九七一年)に開学した創価大学の経済学部に進学した。
 ここでも、第一期生として大学建設に全力で取り組んだ。そして、彼は、一九七五年(昭和五十年)に創価大学を卒業すると、アメリカのミネソタ州のグスタフ・アドルフ大学に留学した。
 渡米してしばらくは、緊張感もあったが、すべてが珍しく、楽しい留学生活であった。
 また、日本の友人たちからも、近況を伝える便りがたくさん届いた。
 しかし、秋になり、冬が近づくころになると、ほとんど手紙も来なくなった。ミネソタの冬は寒く、真冬には、氷点下二〇度から三〇度にもなる日がある。
 英語は、なかなか上達しなかった。授業も難しかった。矢吹は、迫り来る冬に追い詰められるように、焦りに苛まれていった。現地には、相談できる先輩もいなかった。孤独感がつのった。
 日本にいる友人たちのなかには、社会で目覚ましい活躍をしている人も少なくなかった。
 それを思うと、自分だけが、取り残されたような気がするのである。
53  栄光(53)
 寒さは、日ごとに厳しさを増してきた。
 矢吹は、いつものように、大学の構内にある自分用のメールボックス(郵便箱)を見た。
 日本からの手紙など、途絶えて久しかったが、授業が終わると、条件反射的に、ほのかな期待を込めて、メールボックスをのぞくのである。それは、何もないことを確認し、空しさを噛み締めるための、日課のようでもあった。
 だが、その日は、一通の手紙が届いていた。
 手に取って、差出人を見た。英文タイプで、シンイチ・ヤマモトと、打たれていた。
 ″まさか、山本先生から、直接、手紙が来ることはないだろう″
 そう思いながらも、高鳴る胸の鼓動を感じながら、急いで封を切った。
 便箋に、青いインクで書かれた文字が、目に飛び込んできた。
 見覚えのある、山本伸一の字であった。
 夢中で、便箋に目を走らせた。
 「矢吹君に。
 君よ、わが弟子なれば、今日も、三十年先のために、断じて戦い進め。
 君の後にも、多くのわが弟子たちの、陸続と進みゆくことを、忘れないでいてくれ給え。
 君には、多大なる責任と使命があるのだ。その為に犠牲になったとしても、後輩の道だけは、堂々と切り開くことだ。祈る、健康と成長。  伸一」
 涙で文字がかすんだ。
 矢吹は手紙を手にしたまま、しばらく立ちつくしていた。″ぼくは、遠く離れたアメリカで、ひとり取り残されたように感じていた。だが、それは、自分がそう感じていただけだった。先生は何も変わっていなかった。いつも、ぼくのことを考えてくださっていたんだ″
 涙を拭うと、矢吹は、再び手紙を読み返した。
 生命に焼き付けるかのように、何度も、何度も、読み返した。
 ″そうだ。先生のおっしゃる通り、何千人、何万人と続く、学園生、創大生のために、今、自分はここにいるんだ! 負けるものか!″
 こう誓った時、彼は、胸に、ふつふつと勇気がたぎり、全身にエネルギーがみなぎってくるのを覚えた。
54  栄光(54)
 伸一は、その後も矢吹好成が帰国した時や、自身がアメリカを訪問した折などに、彼と会っては激励した。
 「将来は、アメリカに創価大学をつくるから、その時のために、しっかり勉強して、博士号を取るんだよ」
 まだ、日本の創価大学自体が、完全に軌道に乗ったとはいえない時期である。アメリカ創価大学の建設など、誰もが、夢のまた夢と考えていたにちがいない。しかし、矢吹は、それを、やがて来る現実であるととらえ、懸命に勉学に励み、九年間の留学生活の末に、ワシントン州立大学で、博士号を取得したのである。
 山本伸一は、生徒の幸福と栄光の未来を考え、一人ひとりを大切にする心こそが、創価教育の原点であり、精神であると考えていた。
 国家のための教育でもない。企業のための教育でもない。教団のための教育でもない。本人自身の、そして社会の、自他ともの幸福と、人類の平和のための教育こそ、創価教育の目的である。
 その精神のもと、一九七一年(昭和四十六年)、東京・八王子市に創価大学が開学したのをはじめ、創価の一貫教育は着々と整えられていった。
 七三年(同四十八年)には、大阪の交野市に創価女子中学・高校が開校。七六年(同五十一年)には、北海道の札幌市に札幌創価幼稚園がオープンした。
 七八年(同五十三年)には、小平市に東京創価小学校が開校となった。
 また、創価中学・高校では、八二年(同五十七年)度から女子生徒を受け入れ、男子校から男女共学に移行している。一方、創価女子中学・高校も、この年、男女共学となり、名称も関西創価中学・高校に変更。大阪の枚方市には、関西創価小学校が開校した。
 さらに、一九八五年(昭和六十年)には、創価大学構内に創価女子短期大学が開学したのである。
 創価教育は世界にも広がり、幼児教育では、九二年(平成四年)に香港、翌年はシンガポール、九五年(同七年)にはマレーシアに、創価幼稚園がオープン。
 そして、二〇〇一年(同十三年)には、ブラジルにも創価幼稚園が開園した。
55  栄光(55)
 アメリカにあっては、一九八七年(昭和六十二年)二月、創価大学のロサンゼルス・キャンパスがオープンし、後にアメリカ創価大学に発展。九四年(平成六年)九月から大学院がスタートした。そして、新世紀開幕の二〇〇一年(同十三年)の五月三日には、オレンジ郡キャンパスが開学。「生命ルネサンスの哲学者」「平和連帯の世界市民」「地球文明のパイオニア」の育成をめざして、アメリカ創価大学が本格的に始動したのだ。
 この新しい出発に際して、学長に就任したのは創価学園出身の、あの矢吹好成であった。
 創価学園生は、第二回栄光祭(一九六九年)で山本伸一が提案した、″二〇〇一年の再会″を目標に、それぞれの使命の道をひた走って来た。
 そして、二〇〇一年(平成十三年)九月十六日、創価学園二十一世紀大会が開催され、一、二期生はもとより、十八期生までの代表約三千二百人が、日本全国、さらに世界十六カ国・地域から母校に帰って来たのである。
 開校から三十三年余。青春の学舎から旅立った学園生たちは、「世界に輝く存在」となり、創価教育原点の地に立った。
 卒業生からは、百四十人の医師が、百十一人の博士が、六十人の弁護士など法曹関係者が、六十人の公認会計士が、四百六十二人の小・中・高の教員が誕生していた。会社社長、ジャーナリスト、政治家もいた。
 伸一は、体育館の壇上から、誓いを果たして栄光の大鵬となって集い来った鳳雛たちに、合掌する思いで視線を注いだ。
 わが後継の大鵬たちの顔を、心に焼きつけておきたかったのである。
 式典には、ロシア連邦・サハ共和国の賓客、また創価教育に共鳴してインドに創立された、彼の名を冠する女子大学の一行など、海外の多くの友も祝福に駆けつけ、まさに世界市民の同窓会となった。
 この日、伸一は、創価教育七十五周年――すなわち、一九三〇年(昭和五年)に牧口常三郎と戸田城聖の師弟によって『創価教育学体系』第一巻が発刊されてより、七十五周年にあたる二〇〇五年(平成十七年)の再会を約し合いつつ、万感の思いで詠んだ。
  偉大なる
    成長歓び
      喝采を
    我も挙げなむ
      君たち勝ちたり

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