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日蓮大聖人・池田大作

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関東会研修会 常勝関東の時代が来た!

2001.8.15 スピーチ(2001.8〜)(池田大作全集第93巻)

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3  同志の敢闘を大聖人が讃嘆
 「敢闘」めざましい、完全勝利の「関東会」、本当におめでとう!(拍手)
 大関東の広宣流布の勝利の行進は、歴史に燦たる金字塔である。さすが「広宣流布の一級の闘士」が勢ぞろいした、理想的な大関東である。
 「常勝関西」が完璧に土台ができあがり、ここにまた「常勝関東」が完壁に構築された。
 創価学会の前途は、さらに盤石である。日本の広宣流布は、いちだんと完壁になった。私は、皆さま方に心からの敬意を表したい。
 関東は、本当に、よく戦ってこられた。「関東、ここにあり!」と堂々たる広宣流布の旗を、新世紀に厳然と打ち立ててこられた。この関東の同志の晴れ姿をば、日蓮大聖人が、どれほど喜ばれていることか。
 関東は、大聖人の故郷であり、法戦の大舞台であった。
 大聖人は、この生まれ故郷を、「日本国よりも大切にをもひ候」と仰せになっている。また、亡くなった関東の門下のことを、みずから足を運んで、追善してあげたいとの御心情をつづっておられる。
 (「むかし・この法門を聞いて候人人には関東の内ならば我とゆきて其のはかに自我偈よみ候はん」)
 さらに、有名な「佐渡御書」には仰せである。
 「日蓮は、この関東の北条一門にとっては支えとなる棟梁であり、日月であり、亀鏡であり、正しく導く眼目である。この日蓮を国が捨て去る時には、必ず七難が起こるであろう」(御書957㌻、通解)
 これは、大聖人が、竜の国の法難の時、大音声を放って、時の権力者に叫ばれた大宣言である。
 大聖人の門下として、わが国土、社会、地域にあって、「柱」となり、「模範」となり、「太陽」となり、「眼目」の存在となっていく。これほどの誉れはない。
 関東は、その見事なる一大実証を天下に示してこられた。上半期、埼玉も、千葉も、茨城も、栃木も、そして群馬も、過去最高の広布拡大を晴ればれと勝ち取られた。
 大聖人が「善哉、善哉」と賛嘆され、三世十方の仏菩薩も、無量無辺の諸天善神も、舞を舞って皆さま方をつつみ、讃え、守っていかれることは間違いない。この栄光と功徳は、不滅である。
4  牧口先生は地理学者として、「都市の吸引力」――人々を引きつける力について、注目されていた。
 現在、関東の各県は、人口増加数も全国の上位である。
 (平成七〜十二年の増加数は、埼玉は約十八万人〈全国三位〉、千葉は約十三万人〈六位〉、茨城は約三万人〈十二位〉、群馬は約二万三千人〈十三位〉、栃本は約二万人〈十四位〉。
 二〇〇〇年〈平成十二年〉の国勢調査によると、人口は、埼玉が約七百万人、千葉が約六百万人、茨城が約二百万人、群馬が約二百万人、栃木が約二百万人。五県の総計では約二千万人となる)
 関東の天地は、まことに広々としている。人々を引きつける魅力がある。
 古来、「関八州を制する者は、日本を制す」と言われるが、その意義は、ますます大きい。
 「関東を制する者は、二十一世紀を制す」と申し上げたい。「新しい勝利の電源地は関東である」と私は信ずる。(拍手)
5  牧口先生の論文「ヴェスヴイアス山の噴火」
 ここ群馬多宝研修道場に近い嬬恋村に、「日本のポンペイ」と呼ばれる遺跡(鎌原かんばら遺跡)がある。
 一七八三年(天明三年)の八月、浅間山の大噴火が起こった。すさまじい土石流が襲いかかり、一瞬のうちに麓の集落を呑み込んでいった――。遺跡は、その痛ましい犠牲を今に伝えている。(当時、集落の人口は五百七十人。四百七十七人が犠牲となった)
 ボンペイとは、ご存じのように、西暦七九年の八月二十四日、イタリア南部のベスビオ火山の大爆発によつて埋没した古代都市である。
 真っ赤に焼けた石や灰が降り注ぎ、犠牲者は、約二千人におよんだ。その情景を、イギリスの作家リットンが小説『ポンペイ最後の日』に描いている。この本は、私も若き日より親しんでおり、何度か紹介したことがある。
 このベスビオ火山の大噴火について、若き牧口先生が書き残された貴重な資料が、このほど新たに発掘された。(一九〇六年〈明治三十九年〉発行の学術雑誌「先世」に所収。発行者は牧口先生。創価大学・創価教育研究センター事務長の報告)
 タイトルは「ヴェスヴイアス山の噴火」。この火山は、七九年の大噴火を含め、一九四四年までに、数十回の噴火を記録している。
 一九〇六年にも、噴火しており、それをきっかけに、牧口先生は、この論文をつづられた。詳細な資料をもとに、綿密かつ多角的な分析を加えながら、まるで映像が目に浮かぶように描写しておられる。
 次元は異なるが、リーダーの皆さまの話も、生き生きと、情景が目に浮かぶような、心に残る語り口であっていただきたい。
6  避難民救出のため殉難した大プリニウス
 この論文の中で、牧口先生が、とくに強調しておられるのは何か。
 それは、大噴火のさなか、ポンペイ市民を救い出すために奔走し、殉じていった勇敢な指導者の姿である。その名は、大プリニウス(西暦二三年〜七九年)。
 彼は、当時のローマの軍人であり、行政官であり、著名な歴史家、博物学者でもあった。天文、気象、地理、人類、動植物などを解説した彼の大著『博物誌』全三十七巻は有名である。
 彼のポンペイでの人道の行動については、彼の甥であり、のちにローマの政治家となった小プリニウスが、歴史家タキトウスに送った手紙に書き記している。
 大噴火の時、大プリニウスは、ローマ艦隊の長官を務めていた。
 巨大な噴煙を目撃した彼は、すぐに快速艇を用意させた。しかし友人の救助の嘆願を聞いた彼は、さらに多くの人々を救助しようと、何隻もの大型帆船を従え、人々が逃げてくる方向へ、危険な方向へまっすぐに向かったのである。尊い「犠牲的精神」をもって。恐れることなく――。
 ポンペイ近くの岸辺に近づくにつれ、船の中に、熱い灰が降り積もってくる。すでに噴火で黒く焼けただれた軽石や、砕けた小石なども降り注いでいた。しかも、流れてきた溶岩が岸をふさぎ、海岸にも近づけない。
 水先案内人は「引き返しましょう」と忠告した。しかし、大プリニウスは、きっぱりと言い放つ。「運命は、勇敢な人に味方する」
 そして、決死の覚悟で岸に着き、何人かの避難民を救出。いち早く、安全な場所に送り届けた。
 さらに彼は、その足でスタビアエ(ポィヘイの南の都市)の友人の家を訪れ、確信ある姿で、恐怖におののく友人の心を和らげ、あえて悠然と振る舞い、励ました。
 そのまま、ぎりぎりまで、その地にとどまり、最後まで人々の救出に奮闘した彼は、硫黄のガスの噴煙に巻きこまれ、殉難するのである。
 牧口先生は、こうした大プリニウスの献身の姿、さらにまた、一九〇六年の大噴火のさいにも、国家の指導者が、みずからを危険にさらしながら、国民の救援に奔走した姿を、つぶさに描き出しておられる。
 いざという時に、指導者は、どう民衆のために勇敢に戦っていくべきか――牧口先生の焦点は、そうしたリーダーシップにあった。
 みずからをなげうって、民衆に尽くす指導者をもったイタリアの人々は「大に幸福なる国民」である――そう牧口先生は表現しておられる。
 今、時はめぐり、そのイタリアでも、平和と人道に殉じた牧口先生の崇高な生涯が顕彰され、「牧口常三郎通り」が誕生したのである。
 (=二〇〇一年四月、ベルージャ県のパッシニャーノ・スル・トラジメーノ市に開通。二〇〇二年五月にはフィレンツェ郊外に「牧口常三郎平和公園」が開園。ステア市も「牧口常三郎平和広場」を建設中である)
 まずリーダーが率先して戦う。その「敢闘」精神が、わが関東には、満々と、みなぎっている。
7  周総理″革命に殉じた同志を思えば全身全霊で″
 今夏、創価学会青年部の代表が、「中華全国青年連合」(全青連)の招聘で中国を訪問する。今、日中両国の新世紀の友好へ、たいへんに重要な時期である。(=八月十八日〜二十六日)
 謙虚に、また誠実に、「文化の大恩の国」に学び、二十一世紀の揺るぎない平和を築いていくべきである。中国の若き指導者たちと深い友情を結びながら、第二の「金の橋」を築いていくことを私は心から祈っている。
 万代の日中友好――これこそ、周恩来総理が私に託された願いであるからだ。
 周総理といえば、鄧穎超夫人の回想に、こういうエピソードがあった。
 あるとき、外国の要人が周総理に尋ねた。「周総理。あなたは、いつも、バイタリテイーに満ちあふれて、はつらつと仕事をされています。そのエネルギーは、いったい、どこから来るのでしょうか?」
 周総理は、きっぱりと答えた。
 「革命の闘争の途上において殉難していった同志や戦友たちのことを、私が断じて忘れないからです。その方々のことを思えば、幾倍も努力を重ね、全身全霊で人民のために奉仕しぬいていこうという、尽きせぬ力がわいてくるのです」と。
 ともに理想の夜明けを夢見て、尊き生命を捧げていった、大勢の誉れの同志たち。その同志の分まで、いな、その同志に代わって私は戦うのだ。倒れるまで走るのだ。声がつぶれるまで叫ぶのだ――。これが「不倒翁」と呼ばれた、周総理の闘争の原動力であった。
 総理は、だから、真剣だった。必死だった。強かった。断じて屈しなかった。無私に徹していた。何ものも恐れなかった。
 そうやって、戦いに殉じた同志の人生を、自分自身が引き継いで、同じ理想に向かって生きぬいていく。その心と行動こそが、真実の「同志愛」であり「人間愛」であると、周総理は知悉しておられたのであろう。
 私どもの広宣流布の前進にあっても、多くの先達の方々が、見事に戦い、使命を全うし、生涯を捧げていかれた。それは、硬い岩盤に爪を立てるような、必死の闘争の連続であった。
 心ない批判中傷を受けながら、ただ後継の人々のためにと、歯を食いしばって耐えぬき、断固として妙法を弘められたのである。
 われらは今、二十一世紀の新しき「広布の山」を登攀し始めた。青年は、誉れの創価の後継である。あえて苦労を求め、困難に挑みながら、何があろうとはつらつと、生命力に満ちあふれ、いよいよ勢いよく、前へ前へと進んでまいりたい。
8  今から五十五年前(一九四六年〈昭和二十一年〉)の五月、戦後の第一回の幹部会が開催された。少人数であったが、戸田先生を中心に人事を決定し、広布の推進力となる座談会の日程が組まれた。人事が大事である。
 人事は、創価学会の生命線である。国であれ、会社であれ、いかなる団体・組織も、一切は人で決まる。
 幹部会で戸田先生は、戦後の混沌とした社会状況に言及しながら、最高幹部に信心の楔を打たれた。
 「経文にも、信心強盛の人の処、我此土安穏と説かれている。なんで恐ろしいことがあろうか。さまざまな世情に、学会幹部は一ず一憂して紛動されては断じてなりません。そんな心弱い、儒弱なことでは、広宣流布の大業を遂行することは、決してできない」
 信心には、感傷も、悲観もない。いつも厳然と、悠然と指揮を執っていただきたい。「法華経に勝る兵法なし」である。
9  戦後初の地方折伏は戸田先生が先頭に
 この年の九月、戦後初となる地方折伏の歴史が刻まれた。その歴史的第一歩は、いうまでもなく、わが関東であった。
 戸田先生と同行の幹部六人は、買い出しの人たちでごった返す列車に、立ちながら揺られて、半日がかりの長旅で、栃木に向かった。
 各地で行われた講演会や座談会では、戸田先生を中心に、鮮やかなチームワークが光っていた。
 ある人は、仏法の生命論を語り、ある人は創価の理想を語り、ある人は功徳の体験を語った。講演会のその日のうちに、四人の友が創価学会への入会を希望したのである。
 ともあれ、まずリーダーが動くことだ。リーダーが、同志の折伏の応援に駆けつけることだ。
 世界でもっとも美しく、もっとも強い、創価学会のチームワークで、さまざまな友の心を開き、心をつかんでいく。幸福と栄光の「人間革命の人生」へ、ともどもに前進し、向上していく。そこに「新しい希望」「新しい喜び」「新しい前進」の波動が、広がっていくのである。
10  群馬男子部は「兄弟抄」の現代語訳に取り組んでいかれると、うかがった。その一節を、ともどもに拝したい。
 「いよいよ・をづる心ねすがた・をはすべからず」「がうじやう強盛はがみ切歯をしてたゆむ心なかれ、例せば日蓮が平左衛門の尉がもとにて・うちふるまい振舞・いゐしがごとく・すこしも・をづる心なかれ」と。
 今こそ、関東から、創価の正義の追撃を! と申し上げたい。
11  まだまだ残暑が続くが、十分に睡眠をとり、健康に気をつけていただきたい。各県、各地域の同志の皆さまに、くれぐれもよろしくお伝えいただきたい。
 二十世紀の広宣流布の拡大――それは、ここ関東から始まった。二十一世紀の大いなる広宣流布の拡大も、ここ関東から決然と開始していただきたい。
 (群馬多宝研修道場)

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