Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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第2章 教育とは「生命を与える」こと
「21世紀への母と子を語る」(池田大作全集第62巻)
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盲目的な愛情は子どものエゴを助長
池田
そう。また、子どもの成績のことで、他の家庭と競い合うのも愚かなことです。
わが子の成績を卑下したり、みんなの前で自慢するような母親になってはならない。自分の子どもだけを溺愛するような盲目的な愛情は、かえって子どものエゴを助長し、成長を歪めてしまう。
小野里
「成績」や「学歴」だけで、人間を見るようなことがあってはならないと、自ら戒めています。ところが、今の世の中は、そんな物差しで人を評価することが多いです。
池田
社会全体に確たる人間観もなければ、理念や哲学もないのです。
どんな子も皆、かけがえのない存在です。
法華経に「三草二木」の譬えがあります。世界には、たくさんの種類の草木がある。形も、大きさも、性質も、千差万別です。早く生長するものもあれば、時間をかけて、じっくり、じっくり、育っていくものもある。
しかし天の雨は、すべての草木に、あまねく降り注ぎ、育み、生長させていきます。そして草木は、それぞれが自分なりの花を咲かせ、実を実らせる。
これは、ありとあらゆる衆生を、その違いを超えて慈しみ、育む、仏の広大な慈悲を譬えているのです。
子どもも千差万別です。それぞれが、すばらしい「個性」を持っている。どの子どもも、自分らしく、“個性の花”を開花できるよう、大きな慈愛を注いでいかねばならない。
久山
次元は違うかもしれませんが、私は、非行に走る青年などを見ると、胸が締め付けられるように感じるのです。“この子たちは、こういう形でしか自分を表現できないのだ”と。
池田
学校の成績は、人間の偉さとまったく関係ない。「学歴」と「人間の力」は別次元の問題です。
しかし、「学ばずは卑し」である。「学ぼう」とする心が尊い。勉強することによって、自分を磨き、高めていけるのです。「学ぼう」「向上しよう」という心を、子どもに教えていくことが大切です。
小野里
学年末は、受験や就職など、子どもの進路の問題に直面する季節でもあります。
わが家の経験なのですが、息子が中学三年生の時、「普通校には行かない」と言い出し、戸惑ったことがありました。「大学に進学できなくなるかもしれないよ」と言ったのですが、「コンピューターを勉強して違う道に進みたい」と、商業高校を志望したのです。
今は、充実した学校生活を送っているようで、好きな道に進ませてよかったと思っています。
池田
子どもの将来は、最終的には、子ども自身が切り開いていくべきものでしょう。
その上で、進路については、子どもと「よく話し合う」ことが根本です。親には、親の考えがあるでしょうが、子どもにも、子どもの考えがある。それを「子どもだから」と軽んじて、親の思いを一方的に押しつけてはいけない。お互いによく話し合って、最もよい方向に向けていくよう努力すべきです。
牧口先生は「三つの目的」について語っておられます。
「千メートル競走のついでに百メートルの競走はできるが、百メートル競走のついでに千メートル競走はできない。大目的が確立してこそ、中目的、小目的が明確になり、その方法も生まれる」(『価値創造』創刊号「目的観の確立」牧口常三郎全集第十巻所収、趣意)と。
人生というマラソンレースで勝利者になることが大切なのです。
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誤った教育の犠牲にしてはならない
久山
私には、忘れられない思い出があります。
一九六〇年(昭和三十五年)七月十六日、初めて沖縄に来られた池田先生を、母といっしょに那覇の空港に出迎えに行きました。当時、高校一年生だったと思います。その時は、先生の姿を見て、「内地の人は、色が白いなあ」と思ったものでした(笑い)。精悍な先生が、とても大きく感じられたのを覚えています。
翌日、行なわれた支部結成式にも参加しました。私は、“沖縄に平和の楽土を建設しよう!”との先生の呼びかけに、とても感動しました。
実はそれまで、「沖縄は本土よりも劣っている」という劣等感が、心のどこかにあったのです。
ところが先生は、「沖縄は広宣流布の“要石”である」と言ってくださいました。「私たちには、大きな使命がある!」――先生は、沖縄の私たちに、かけがえのない自信と誇りを与えてくださったのです。
うだるような猛暑のなか、池田先生は、連日、ほとんどおにぎりだけで、会員の激励に全力を傾けてくださいました。
婦人部の先輩の方は、そのことを「『一ドルでもいいから沖縄に残して手助けをしてあげたい』との先生の思いが痛いほど感じられました」(当時、沖縄はアメリカの施政下におかれていたので、通貨はドルであった)と語っておられました。
池田
会長に就任して二カ月後のことだった。暑い盛りの訪問でした。
長い間、他の地域から抑圧され続けてきたのが沖縄の歴史です。第二次世界大戦の時は、日本本土を守る“防波堤”にさせられた。アメリカ軍が上陸して、“鉄の暴風”と言われるような猛攻撃が行なわれ、住民の四分の一が犠牲になった。
その沖縄の同志が、酷暑の地域で広布のために汗を流している。その尊い苦労を、身をもって知るためにも、最も暑い季節に行こうと決めたのです。
「最も苦しんだ人が、最も幸福になる権利がある」――これが私の信念です。私は、沖縄の悲劇の宿命を転換し、ここに平和の理想郷を築きたかった。愛する地域のために、けなげに働く沖縄の方々を何としても励ましたかったのです。
久山
私が小学生の頃、沖縄にはまだ、「方言札」の制度が残っていました。学校で沖縄の方言を話すと、その罰に、札を首にかけさせられたのです。
その札は、次に方言を話した人を見つけるまで、かけていなければいけません。ですから、「次は、だれか。次は、だれか」とお互いに友だちを“監視”し合うような雰囲気がありました。知らず知らずのうちに「方言を話すのはよくない」「沖縄は劣っている」という気持ちが染み込んでいったように思います。
小野里
そんな制度が残っていたのですか……。子どもに文化的な劣等感を持たせるだけでなく、陰湿な監視の環境をつくる。二重の意味でよくないですね。
久山
もしもあの時、先生に出会っていなかったら、先生が沖縄の使命について語ってくださらなかったら、きっと劣等感をぬぐいきれないまま大人になっていたと思います。
池田
昭和初期の「沖縄方言撲滅運動」が「方言札」を生みました。国家主義の教育は、本当に恐ろしい。これからも、絶対に子どもたちをそうした教育の犠牲にしてはならない。
社会の環境や、周囲の言動が、敏感な子どもの心に、どれほど大きな影響をもたらすか、真剣に考えていかねばなりません。
身近な生活のなかでも、それは同じです。会員のお宅を訪問し、子どもさんのいる前で両親に話をする時もあるでしょう。そうした時、決して親を叱ったりするようなことがあってはならない。
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「戦う心」が健康と幸福へのカギ
小野里
母としての賢明な振る舞いといえば、私たちの群馬では、日本人女性初の宇宙飛行士・向井千秋さんのお母さんの話が先日、地元の「上毛新聞」に連載され、反響を呼びました。
宇宙を舞台にスケールの大きな活躍をする向井さんですが、母親の内藤ミツさんは、本当に明るい、“全身が笑顔”のような方だといいます。
好奇心旺盛な行動派で、今は向井さんの住むアメリカと日本を行ったり来たり。向井さんが学生時代、イギリスへ短期留学するかどうか、迷っていた時、「イギリスなんて、ほんの軒下でしょう。いってらっしゃい、いってらっしゃい」と言われたそうです。
池田
たしか、向井さんは「聖教新聞」の日曜てい談にも、登場されていたね。
久山
はい。てい談で、お母さんについて、こう語っておられます。
「母は少しでも家計を助けようとカバン店を開き、私は四人姉弟の長女でしたが、みんな忙しくていっしょに食事ができないなかでも、両親は深い愛情をもって育ててくれました。
母の言葉で一番心に残っているのは『決してお金のある家じゃないので、洋服とか嫁入り道具はあまり買えない。でも教育だけは身につけさせてあげるから、よいと思ったことはやりなさい』と、いろんな本なども買ってくれました」
小野里
お母さまは、カバン店の収入で二六年間、子どもたちに仕送りを続けたそうです。
池田
すごいことだね。昨年(一九九八年)、向井さんと共にスペースシャトルに搭乗したアメリカのグレン上院議員が、向井さんのことを「エネルギーのかたまり」と評しておられたが、お母さんの影響もあるのだろうね。
久山
私の母は、私が子どもの頃、とても病弱で、いつも床についていました。当時は、父が家事もやっていました。仕事からいったん戻り、生後まもない弟のおむつを洗って、みんなの食事の用意をしてから残業に戻るのです。
ある時、母が涙を拭いながら、父と話していました。「どうしたのかな?」と思っていると、母が父に「早く私と別れて、若くて元気な奥さんをもらったら」と言っていたのです。
そんな母が、創価学会に入会し、仏法を実践するなかで、みるみる元気になっていったのは、子ども心に本当にうれしいものでした。
学校から帰って、「ただいま!」と家に入ると、なんと、母が掃除や洗濯をしているのです。その姿が、本当にまぶしく輝いて見えました。
池田
私も小学二年生の時、父がリューマチで床についたことがあった。家業も苦しくなり、母がすべてを支えていました。
そんな日々がしばらく続いた後、父は回復に向かい、四年生になる頃にはずいぶん元気になった。家族全員で、明るくお正月を迎えた時のうれしさは今も覚えています。
親は、いつも健康でいたいものです。自分のためだけでなく、家族のためにも、賢明な生活で健康を心がけていってほしい。
長い人生です。時には病気になることもあるでしょう。しかし、心まで病気になってはならない。決して前向きな心を失わないことです。「心が健康」であることが肝心です。
人生は戦いです。負ければ不幸です。「戦う心」が健康と幸福へのカギなのです。
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教訓よりも訓練──「鍛え」が大切
久山
はい。そのうえで、私が母親として心がけてきたのは、「忙しい」ということを言い訳にしないことでした。しかし、時間がないことも多かったので、子どもにいろいろと我慢させた部分もあったと思います。
長女は小学三年生の時、ちょっとしたいじめにあったのですが、自分で『わたしの家庭教育』(第三文明社)という本を読み、一人で祈り、乗り越えたのです。私がそのことを知ったのは高校生になった時のことで、胸が痛みました。
三女も小学六年生の時、自分でこの『灯台』を読んで、「自分はどう育つべきか」と考えたそうです。(笑い)
池田
「親はなくても子は育つ」と言うが(笑い)、いつも、常に子どもといっしょにいるのが、必ずしもいいわけではない。何でもしてあげたいと思うのが親心だろうが、それでは、子どもの自立心をつみ取ってしまうこともある。
ルソーは言っている。
「わたしたちのなかで、人生のよいこと悪いことにもっともよく耐えられる者こそ、もっともよく教育された者だとわたしは考える。だからほんとうの教育とは、教訓をあたえることではなく、訓練させることにある」(『エミール』今野一雄訳、岩波文庫)
教訓よりも訓練――「鍛え」が大切です。荒波や寒風に向かう「強さ」が大事なのです。
7
まず親が福運をつけること
小野里
ところで、創価学会の婦人部員にとっては、子どもたちに、どうやって信心を受け継がせていくかが大きな課題です。
池田
信心は一生の問題です。だんだんと深まっていけばよいのです。信仰は強制されてやるものではないのだから、無理に分からせようとしても、かえって逆効果だ。
まず親自身が、人間として、信仰者として立派に成長していくことです。子どもには、その姿を示しながら、自然な形で、徐々に身につけさせていけばよい。
久山
私の子どもたちは、私たち夫婦が学会活動から帰ってくるのを寝ながら待っていて、門の開く音で寝室から出てきました。それで、私と夫の遅い夕飯の食卓をみんなで囲んで、“わが家の夜の座談会”をしたものです。仏法のいろんな話をしたのも、この食卓でした。子どもたちは、印象深く覚えているのです。
勤行は、どの子も小学一年生の夏休みくらいから教え始めました。小さいうちから、夫が勤行する時、隣に座らせていたため抵抗はなかったようです。
小野里
わが家でも、子どもにきちんと勤行を教えたのは小学校入学からですね。
ただ、それ以前から見よう見まねで覚えていたらしく、三歳の頃、外で何か騒いでいる声がするので、見に行ってみると、息子が近所の子どもたちに勤行を教えているところでした。(笑い)
池田
仮に、子どもが信心しないからといって、内向きになってはならない。くよくよするよりも、人の面倒を見たほうがいい。必ず一家を信心させてみせる、という確信を持ち続けることが大事です。
また、親が、子どもの“従者”のようになってはいけない。子どもに心を奪われて、信心もしっかりできない母親は、自分も人間として向上しないばかりか、子どもも立派に成長させられない。夫にも影響を与えて、時には働けなくしてしまうものです。
子どもに引きずられている母親は、結局は子どもの自主性を奪い、子どもの成長を阻んでしまう。小さな自分を乗り越えて、社会のため、人々のために行動するお母さんの姿こそ、最高の教育です。
かつて戸田先生は、子どもの教育で悩む婦人に、こう語られた。
「まず子どもを三角にしようか、四角にしようかと悩むまえに、自分に福運をつけなさい。
どこの親でも子どもを立派にしたいという願いは、みな同じです。食べるものも詰め、夜も寝ずに子どもに尽くすだろう。その努力と信念だけで子どもがよくなるなら、世の中の不幸はないのです。
ところが『こんなはずではなかった。こんなことならいっそ、子どもなんか産まなければよかった』と悩んでいる親はたくさんある」
小野里
本当にそのとおりですね。
池田
戸田先生は、続けてこう言われている。
「それは子どもに対する福運がないからなんだよ。自分に福運があれば、子どもはみんなよい子に育ち、立派に成長していくのです。
まず自分です。一生懸命、仏道修行に励んで、福運を積むのです」と。
久山
「まず自分に福運を」――ここから出発すれば、どんな問題に直面しても、揺れ動かずに進んでいける気がします。
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子どもたちを愛する心に平和がある
小野里
福運を積むために活動していますが、「子どもを会合に連れていくと、騒いでしまうので困る」と悩んでいるお母さんも少なくないのですが……。
池田
子どもは、もともと騒ぐものだからね。元気な証拠です。(笑い)
久山
先生が、コスタリカで行なわれた“核の脅威展”の開幕式(一九九六年六月)であいさつされた時のエピソードが印象に残っています。
――大統領をはじめ、多くの閣僚、政府関係者らが列席して、おごそかな雰囲気のなかで始まった開幕式。ところが、壁を隔てた隣の「子ども博物館」から、子どものはしゃぐ声が聞こえてきます。先生のスピーチが始まった時も、それは、騒がしいくらいだったといいます。
しかし、先生は、微笑みながら、その声を抱きとめるように、こう語られました。「にぎやかな、活気に満ちた、この声こそ、姿こそ、『平和』そのものです。ここにこそ原爆を抑える力があります。希望があります」と。
当意即妙のスピーチに、参加者のだれもが感動しました。大手新聞社の論説委員長は「何よりも深い感銘を受けました。あの一節に、池田会長の知性とセンスと人間性が、余すところなく表れています」と語られたといいます。
池田
子どもたちを愛する心に「平和」があるのです。子どもを抑えつけようとするのは、平和の対極にある。自由奔放な子どもの生命力を愛し、未来へと限りなく伸ばしていくことが大人の責任です。
小野里
以前、私は婦人部の先輩から、こんなお話をうかがいました。それは一九七四年、池田先生が南米のペルーを訪問される途中の飛行機の中でのことです。
ある外国人の婦人が三人の子どもを、きつく叱っていました。しかし子どもは、大きな声で泣き叫ぶ一方です。先生は、すっと母子のそばに寄られ、談話室に誘われました。そして、ボールペンでいろいろな絵を描いて遊んであげるうち、いつしか子どもたちは泣きやみ、楽しげに遊び始めたというのです。
そのお母さんは、何回となく先生に感謝し、叱ることしか知らなかった自分を反省していたそうです。
同行していた婦人部の方は、先生が子どもの心をよく知り、どんな国の子どもたちとも、心を通わせられることに感動されたそうです。
池田
そんなこともあったね。
ともあれ、婦人部の皆さんは、いろんな工夫をして子どもといっしょに会合に参加しておられるね。
小野里
はい。三人のお子さんを持つ、群馬のある婦人部の方は、「会合参加の時は、子どもが静かにしてくれるよう、三〇分から一時間、しっかり祈ってから参加しました」と言っていました。
また、午前中に子どもたちと公園で思い切り遊んで、午後の会合には疲れて自然に静かにしているように工夫したそうです。
私自身、息子が幼い頃は、「大事な会合だから、みんなの迷惑になるようなことはしちゃいけないよ」と、会合の前によく言い聞かせました。
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母の心を生命に刻んだ人は原点に帰る
池田
創価学会には、いろんな人がいて、それぞれが個性を輝かせながら、皆が心を一つにして理想に進んでいる。社会のため、地域のため、未来のため――。
友の嘆きにいっしょに悩み、友の喜びをわが喜びとする。不幸に打ちひしがれている友の手を取り、励ましながら、ともに歩んでいく――これが学会です。こんな世界は、ほかにありません。言葉や、理屈で伝えるより、子どもを学会の世界に、じかに触れさせることが、いちばん自然な人間教育になる。学会そのものが、人々に「生命を与える」世界だからです。
子どもと学会の世界をつなぐうえで、最も大きいのがお母さんの役割です。
小野里
母としての使命の大きさを胸に刻んでまいります。
池田先生の友人である、インド最高裁判所元判事のモハン博士が群馬に講演に来られた時、父親がいないという一人の女性に対し、こう語られました。
「実は、私も父を知りません。私が生まれる前日に、父は死んだのです。わずか一日違いです。私は母の手ひとつで育てられたのです。それでも最高裁の判事として、世の中に尽くせました。
母の偉大さを決して忘れてはいけないですよ、青年の皆さん。あなたのお母さんこそ、世界で一番偉大な方です。お母さんの心のなかにこそ、神は宿っているのです」
池田
博士は、偉大なる人権の闘士であるだけでなく、著名な詩人でもあります。そのエピソードは『世界の指導者と語る』(潮出版社)にも、綴らせていただきました。
博士が、お母さまに捧げた詩には、深く胸を打たれます。
おお愛する母よ。
あなたに贈る一番の栄光は、わが名望が街中に響きわたること。
私は貧しき人の味方。病める者の友。窮せる人の仲間。
彼らを助けることを私はやめない。ためらいもしない。
たとえ貧苦の底に転げ落ちようとも。たとえ、この身が疲れ果てようとも。
これが母よ、あなたの宗教。
あなたの口ぐせは、こう。
「偉ぶるな。つつましくあれ。いつも謙虚な心であれ」――(詩「おお愛する母よ」から)
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博士のお母さまが、博士に、民衆のために生き抜く「生命」を与えたのです。自らの命を削るような思いで。「自分のこともかえりみず、悩める人々に尽くし抜く。これこそ『母の宗教』である」と――。
「母の心」が生命に刻まれた人は、途中で、どんな人生を歩もうとも、必ずその原点に帰ってくる。いつか、正しい人生の軌道に導かれていくものです。それほど、母の愛は深いものなのです。
“子どもに生命を与えてゆく”かけがえのない存在と自覚して、何があっても前向きに頑張ってほしいのです。
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