Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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(四)
小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)
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ある昼下がり、アレクサンドロスがフィリッポスを誘って、丘の辺の草上にひと時を過ごした。新緑に埋もれる頃と違い、野面を渉るそよ風は冴えざえと冷たかったが、秋草を褥にして腹ばうと、のどかな小春日が背に暖かい。
久し振りの二人のくつろいだ語らいが、フィリッポスの心を弾ませた。
「フィリッポス、君はいつか、医者になりたいと言ったね」
フィリッポスの目をのぞきながら、アレクサンドロスが言った。
「はい、その思いは募る一方です。出来ることなら、諸都市の医学所を訪ねて勉強し、一人前の医者になって帰りたいと念じております」
「それなら、私も出来るかぎり応援しよう。立派な医者になって、私の側にいつまでも居てくれないか」
「皇子、それは誠でございますか。必ず精いっぱい勉強して、皇子のお役に立ちとうございます」
フィリッポスは、瞳を輝かせて言った。
突然、手前の草むらから野鳩の群れが何かに驚いたように飛び立って、はたはたと東の空へ抜けて行った。その跡を追って仰ぎ見る空は広々とどこまでも澄んで、あるかなしかの雲を浮かべている。
アレクサンドロスは、遠くへ目をあげたまま深々と息をついて言った。
「あの空や雲の、ずっとずっと東の方に、インドがある」
その言葉は、フィリッポスの胸を刺した。
(ああ、皇子、あなたの心の中は、やはり東方への夢でいっぱいなのだ……)
「インドが世界の果てだ、とアリストテレス先生は仰せでした」
「うん。ペルシャよりも東の国。ペルシャの民にもほんの少ししか知られていない、インド……。パルパニソスの頂から望見できる世界の果て……」
そう言ってアレクサンドロスは、真剣な光をたたえた瞳をフィリッポスの方に返した。
「ねえ、フィリッポス。どんな苦労だって、自分が進んで求めたものなら耐えられるだろう。必ずこの道を行くと決めた時には、つらくとも苦しくとも真っすぐに進んで行けるだろう。だから、自分の道がどこにあるかを探しあてることが第一だ。それさえ心底からつかめれば――。自分の体を投げ出してもなお貫こうとするような生き甲斐が見つかるものなら――いかなる苦難も、かえって自分を輝かせるものとなる。苦難のさなかに喘ぎ苦しみながらも、本当の心の底は充実しているにちがいない。幸福とは、真実の楽しみとは、そういうものにちがいない。これから行く手に、どんな苦労が待っているかもしれないが、死をも恐れるものか。どこまでも自分の道を進むのだ。たとえ遠い異郷の果てに死ぬことになろうとも……」
最後の言葉が、戦慄のような感懐をもってフィリッポスの五体を打った。
(ああ、あなたは世界の果てまで征こうとなされている。もう、父王様のお心をも遠く凌いでおられる。……ただ、命あればこそ、皇子の宿願も成し遂げられよう。そのために身を尽くし、心を砕いて、医術に精進するのが自分の道だ……)
ペラの王宮から、数えて四年。共々に多感な少年時代の想い出を分かちあった年月は、いつしか二つの若い心を固くつなぎ合わせた。アレクサンドロスにとって、フィリッポスは今や、誰よりも大切な親友であった。
そのアレクサンドロスが「たとえ遠い異郷の果てに死ぬことになろうとも……」と言って自らの夢を暗示したとき、フィリッポスの心は決まった。真に友のために己が誓いを果たすべく、友情と信義に殉ずる覚悟ができていた。
二人は身を起こして、じっと東の空の遙か彼方を見つめた。
4
紀元前三四〇年――。ミエザに、春は四たび回ってきた。草の柔らかい芽が一斉に伸びようとして、野は、見渡す限り薄緑の毛氈を敷いたようになった。
やがて、この春かぎりで学問所も閉鎖されるという報せがペラから来た。
この頃、アレクサンドロスの父フィリッポス二世は、ヘレスポントス海峡近くまで兵馬を進め、要都ビザンティオンをうかがうとともに、これに刺激されるアテナイの軍ともやがて一戦は避けられないとして、備えを固めつつあった。
アレクサンドロスも十六になっていた。
巣立ちの時が来ていたのである。
アリストテレスは、一時故郷スタゲイロスに退いて、静かな学究生活に入っていた。
アレクサンドロスと貴族子弟達の一行が、ペラをさして帰って行く。彼らを野のはずれの分かれ道まで見送ったフィリッポスは、皇子の馬上姿が見えなくなるまで手を振り別れを惜しんだ。
見返ると、学問所の白い建物が、森を背負って遠く小さく日に輝いている。その懐かしい三年余の学舎のたたずまいを胸深くしまうと、フィリッポスは一人、遠い遊学の旅路についた――。
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