Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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2 教育と政治権力
「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)
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池田
人間の欲望の無限の肥大化を反映して、権力は、すべてをみずからの支配下に組み込もうとする傾向をもっています。もちろん、政治が福祉や災害への対処において指導力を発揮することは、人々の幸福のために望ましいことです。また巨大科学や産業構造の複雑化から、政治権力がそれを調整する役割を担うことは、不可避でしょう。
しかし、教育は、次代を担う青少年の人格を形成する分野です。これに政治が干渉することは、人間形成というもっとも尊いはずの仕事が、そのときの権力によって左右されるということであり、人間の尊厳をふみにじることになるのではないでしょうか。
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デルボラフ
あなたが“教育分野への政治の干渉”と呼ばれたものは、教育政策という、特別な責任分野に由来します。教育に対する政治の権限は、三つの課題に分けられます。
その第一は「教育政策」で、これは教育界と協力して、教育上の責任を分担します。他の二つは、経済的課題と政治的課題で、この二つは本来の教育分野を超えて、行動に対してより大きな動機づけの地平を開くことになります。
いわゆる「教育上の責任」とは、成長する青少年を相応の対策(教育的交際や授業実施)によって、独立した一人前の青年へと高めることです。この目的は教育政策においても、すべてに優先して、独自のものとして追求されなければなりません。そして、とりわけ教育政策の課題は、この目的を実質的にみたすことにあります。
ただし、この目的はまだかなり形式的・抽象的です。そこで、この課題を実現するためには、この目的に、ある特定の、時代意識に相応した資格をあたえてやることが必要です。
たいていの場合、そのための価値基準は、国の憲法で定められています。たとえば、西ドイツの国民は、東西緊張のなかにあっては西側にくみするとしても、すべての民族と良い関係を育成しようとする、平和を愛する国民である、という自己理解があります。
しかし現実は、かならずしもそうではないようです。数十年まえをふりかえってみれば、日本でも同じような状況でしたが、ドイツの教育政策は、ヒトラーの民族帝国主義によって支配されていました。そして、それ以前にも、ワイマール共和国が、その民主主義的基本理解を公教育によって貫徹しようとして、失敗しています。
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池田
日本の場合、いまの憲法は、近代化の過程で日本がおこなってきた、アジア諸国への軍事的侵略に対する反省から、戦争をいっさい放棄することをうたったものです。その草案は、連合国軍司令部によって提示され、それを被占領下の当時の日本政府が受けいれた、という不自然な成立経過をたどりましたが、そこに盛りこまれていた精神は、戦争の苦しみから解放されたい、と願っていた日本国民の大多数の気持ちに合致していました。
また、国内的にも、かつての軍国的全体主義は、国民の思想・信教の自由を抑圧して成り立っていたのですが、この憲法がうたっている人権尊重は、国民一人一人にとって、大きな希望の灯でした。ところが、ドイツとちがって日本では、戦前の軍国主義に加担した政治家がつぎつぎと復権し、保守党政権のなかで隠然たる指導権をもってきました。いまだに、アジア諸国への侵略を反省する気持ちもなく、歴史の教科書の記述に対しても干渉をつづけ、さらには憲法の改定をさえ叫んでいる勢力があります。
歴史は、ふたたび戦前の振り出しにもどるのではないかというのが、心ある人々の憂慮している最大の問題です。しかも若者たちには、無関心層がふえています。
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デルボラフ
ここで注意すべきことは、教育上の努力は、かならずしも成功するとはかぎらないし、また、それ以上に――そして、このことが問題をいっそう悪質化するのですが──教育上の責任に反することも、おこりうるということです。
このことは、ナチスの教育政策が成長する青少年に判断の自主性ではなく、総統への服従を義務づけたことに見ることができます。教育制度と社会体制は錯綜しており、そのためにさけられない、学校制度への教育政策の影響全般はやむをえないとしても、こうした操作に対しては可能なかぎりきびしく抵抗すべきだと思います。
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池田
近代以後、教育が国家の事業となったことによって文盲率は低下し、国民の文化的水準が向上したことは、大きな成果です。しかし、同時に、私は、教育が政治権力者の意向によって左右され、彼らの好きなように利用されるという、巨大な弊害も生じてしまったことは、否定できないと考えます。
教育は、二十年、三十年後に、社会を担っていくべき人間をいかに育成するかという、きわめて重大な仕事です。社会のあらゆる分野のなかでも、これほど重大なものはないといっても過言ではないでしょう。それが、その時代その時代の政治権力によって、しかも、基本的には、自分の権力者としての地位をいかに維持するか、を第一に考えているような人間たちによって左右されるということは、まことに憂うべき問題です。
とくに歴史――自国の歴史をどう評価するかということは、観点によって、まるで変わります。先にも述べましたが、日本ではとくに歴史の教科書の記述に対する政治の干渉が、心ある人々の憂慮のマトになっています。軍国主義時代のアジア諸国への「侵略」を「進出」とあらためさせたことは、中国や韓国の日本政府への不信を呼びおこし、外交問題にまで発展しました。
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デルボラフ
教育政策の教育上の権限には、先に述べた最終目標の設定のほかに、教育や教養の内容、厳密にいえば、教科課程と教科書もふくまれます。これは、たいてい、大臣の委託のもとに教育者と政治家からなる委員会によって、選定されます。したがって、教育政策の全般的方針を定めるのは、個々の人ではなく、政党の政治的構想と信条である、ということになります。
しかしながら、この委員会の教科課程や教科書作成の現場で、ときには、昔ながらの旧式な動機を正当化するグループが意をとおすことがあります。あなたが述べられたこと、つまり、第二次世界大戦において、日本軍が朝鮮や東南アジアで追求した帝国主義的動機を、意図的に隠蔽しようとした日本の文部省の試みも、そのような例であろうと思います。
実際、授業科目のなかにはこうした政治的イデオロギーのカムフラージュに対して、たとえば国語や歴史などのように、とくに敏感な分野があります。西ドイツの歴史教科書も、第二次世界大戦の結果に関する記述について、何度も批判の対象となったことがあります。教科書の著者たちは、悪意もなく、責任を回避するつもりもなかったのですが、戦争を美化した、という非難を受けるはめにおちいったのです。このような不本意な事態をさけるために、西ドイツではドイツ人とポーランド人からなる教科書委員会を設立し、ドイツ史書の表現が適切かどうかを、常時チェックしています。
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池田
これは、日本の場合とは逆のようですね。
日本の場合は、教科書の執筆者はほとんどの場合、反軍国主義者で、戦時中の政府のやり方に対してきびしい批判をくわえています。それを検閲してあらためさせようとする政治勢力があり、そうして改編された部分が、アジア諸国の批判をあびたのです。
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デルボラフ
教育政策にかかわる権限には、教育的側面のほかに、経済的側面と政治的側面の二つがあることは、先に述べました。
ここに「経済的」ということは、(これまで述べてきた教育内容とは別とする)手段提供にかかわる全分野を意味しています。簡潔にいうと、計画的教育や養成にかかわる課題を実施するために、必要な物質的・組織的条件をととのえるということです。
それに属するものとしては、教室や学校施設だけではなく、教師の採用や養成も、経済的課題となります。また、親が子どもの教育費を全部負担する場合でも、そのお金を適切に管理したり、本来の目的にかなう使い方をするためには、教育的・経済的エネルギーの余力分が必要なのです。
教育は最終的には一つの財ですから、社会におけるいっさいの財と同様、ここでも公平な分配が必要となります。教育政策が、その特殊な政治的意図においてこの課題を果たすわけですが、教育の機会――そして、これにはとうぜんのことながら、教育の機会によって得られるはずの職業上の機会もふくまれます――を、次世代の若者たちに公平に分配するということが、教育政策にはますますきびしく要請されます。
「公平に」とは、均等という意味での「同一」ということではありません。均等ならば、この課題はいともかんたんに解決できることになるでしょう。教育機会の分配は、むしろ、さまざまな価値基準でおぎなわれる比率を基礎としています。その価値基準は、公平な社会秩序という考え方にしたがって設定されますが、これ自体、イデオロギー的にさまざまです。
たとえば自由主義的な指導理念にしたがっていけば、教育の配分という点ではとくに成果を重んじますから、優秀な子どもたちを、その教育意欲に応じて特別に奨励することになるでしょう。社会主義的秩序を重んじる思想の場合には、貧しく弱い者を奨励する傾向が強くなり、いわば自然が授けなかったものを、人間的援助をとおして、彼らにあたえようとすることになります。
保守的態度が強い場合には、社会のなかの階層構造はより強化され、各階層のもつさまざまな性格に対応して、教育機会の分配は、混合的なシステムをとることになるでしょう。
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池田
権力に要請される理念が「公平」であることは、だれしも異論のないところでしょうが、具体的にどのようにすることが真の「公平」になるかという問題になると、さまざまな考え方があるわけですね。仏教の経典(涅槃経)には、七人の子どもをもっている両親の心情を例に引いて、慈悲の心を説いています。「その七人のこどもの中の一人が、病気にかかった時は、父母の子にたいする愛は平等であるべきはいうまでもありませぬが、しかも病児にたいしてはひとしおの心づかいをするものであります」と。(『仏教説話文学全集1』(166㌻、隆文館)
その点からいえば、私はいまあなたがあげられたなかでは、やはり社会主義的な生き方が、優先されるべきであろうと思います。そのうえで、優秀な素質をもっている子どもたちには、その意欲に応じて、特別にその才能を発揮できるような教育をほどこすことが必要でしょう。
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デルボラフ
私としては、こうした区別を分析することによって、教育政策上の複雑性を明らかにしようとしたわけで、その責任の重さを軽く見ているのではありません。事実、あなたが正しく強調しておられるように、今後二十年間から三十年間の運命は、教育政策のいかんによって左右されます。
私の分析は、教育政策の教育制度に対する干渉はすべて強制的・独裁的で、さらには有害であるとすることは、偏見であることを明らかにするためでした。むしろ、明確に誤った処置は別にして、たいていの方策は有意義であるし、事態にかなっています。
ただ、それがひんぱんに一方的に企画され、実施されるため、同じように理由のある他の要求には、背く結果になってしまいます。
そこで、たとえば、西ドイツの社会民主党・自由民主党の連立内閣は、七〇年代の初頭に「貧しく弱い人々に、より良き教育機会を!」のモットーのもと、各種の進学コースを一カ所に集めた総合制学校を設立したばかりでなく、この学校を正規の高等学校に昇格させようとしました。その結果、大多数の父兄が支持している伝統的ギムナジウムが、一時期、危機にさらされたことがあります。今日では、教育制度の改革がさらにすすんで、ある程度の釣りあいがとられるようになりました。
教育政策をさらに不評なものとしているのは――これは少し不公平な気がしますが――それが不確実な未来展望のうえに企画されざるをえない、という事実です。西ドイツが好景気で、それに乗って教育熱が高まったころ――七〇年代でしたが――一連の新しい総合大学や、同一地域にある種々の高等教育機関を再編統合した大学が創設されました。
しかし、避妊薬による出生率低下を予見できず、現在のところは高校卒業生の入学が増大しているものの、近い将来には、逆に、こうした高等教育機関に学ぶ人は、ほとんどいなくなるかもしれません。
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池田
出生率の変動の問題は別にして、教育内容に関していえば、これは、私が十年以上まえにすでに訴えたことですが、教育は、時の政治権力の干渉しえない、独自の主体性をもつ分野として位置づけられなければなりません。つまり、今日の議会制民主主義国家においては、立法、行政、司法の三権分立が原則とされていますが、それにくわえて、教育も、これにならぶものとして確立し、四権分立をはかるべきである、と思うのです。
もちろん、では、その教育の最高方針を定めるのは、どんな人々であり、また、そのメンバーをどのようにして選ぶのか、といった具体的な問題は残りますが、私はまず根本的に、この考え方が少なくとも近代国家において実現されていかなければならない、と思っています。
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デルボラフ
教育すなわち青少年養成を、議会民主制における、いわば「第四の権力」として定着させるべきだ、とのあなたの独創的な理念については、以前から私も存じあげております。
その理念には、教育と議会制民主主義という、二つの課題に対する正当な、高い尊敬の念があらわれています。その尊敬の念については、だれ人も歓迎するはずです。
ただ、私としては、だからといって、「教育」という文化領域のなかに、だれもが認めるべき権威といったものを築きあげてはならないと思います。むしろ、そこから汲みとるべきことは、逆に、この非常に鋭敏な、現代社会の「精神の積みかえ作業場」を思慮深く、慎重にあつかうべきだ、という要請ではないでしょうか。つまり、かつてヘーゲルが表現したように、多かれ少なかれ、万事は「自然の成り行き」である以上、その場を借りてかならずしも「造作をくわえ」たり、あることを「まねき寄せ」たりすべきではない、という要請です。
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教育の真実の意義がいかなるものであるのかは、健全な教育が認められ、なんら操作がおこなわれていないところで、もっとも明確になります。教育は、人間の「第二の自然」であるといわれます。そして、第一の自然は、理解しがたい要素として、取り残されています。
その人がどんな職業を選び、何を所有するか、何を創造し、いかなる業績を残すか、また、どういう誤りをおかして失敗するかは、結局、その人がいかなる教育を授けられたか、または教育されないままに育ったか、に帰せられるべきものなのです。たとえ、あるとき、何か誤りをおかしているように思えたとしても――そして、人生のあらゆる場面でおこることは、教育の場でもさけられないでしょうが――それをただすため乱暴に干渉することは、つつしむべきです。
なぜなら、この場合、めざしている有用な目的よりも、「予期しない副作用」のほうが、大きな弊害をもたらすことになりがちだからです。このような改革は、かえって「改悪」となるのです。
だからといって、われわれの教育制度が何の改革も必要としない、ということではありません。さもなければ、それは人間の制度ではないことになります。ただ、改革というのは息ながく、少しずつ歩みをすすめ、ゆっくりとより大きな結果へと累積していくべきもので、その成果と副作用を観察しながら、つねに制御できる状態にしておく必要があります。
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池田
私が立法、司法、行政の三権分立にくわえて、教育を第四権として自立させるべきであると考えるのは、これまで述べてきたことからもおわかりいただいていると思いますが、あまりにも教育の立場が弱く、とくに行政権力によって左右されてきたことに対する、解決策としてです。立法、司法、行政の権力分立自体、司法や立法が行政権に支配されてはならない、との理念から立てられたものであるのと同じです。
現実には、三権分立といっても、たがいに依存しあい影響しあっているように、教育を第四の権力として自立させたとしても、他の三権と密接にからみあっていくでしょう。現実の社会、時代の推移と無関係に、教育の世界だけが、化石のように固定化していくものでないことはとうぜんです。
その根本理念は、司法が、そのときの政権の意向に左右されるのではなく、国の法律が定めた正義を守り、実現していくことをめざすように、教育は、つぎの時代を担う人間教育をめざすのでなければなりません。
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デルボラフ
第二次世界大戦終了以後、教育に関する任務を代表しているのは、ユネスコ(国連教育科学文化機関)という国際的分野の重要な機関です。
あなたは、あなたの提起された理念に近づくためには、政治力のうえでもっと大きな重みをこの機関に認めるべきだ、と言われるかもしれません。しかし、ここで忘れてならないのは、あなたが「第四の権力」へと高めようとされているものは、もはや教育自体ではなく、むしろ、すでにその政治的仕組み、つまり、教育の代弁者として、けっして無視できない「教育政策」を遂行する機関なのです。
その課題に対して責任を担う者がみたすべき資格についても、この前提に立ってはじめて問うことができるわけです。私の意見は、そこで選ばれるべき人たちは、通常の良心的な政治家としての資質だけでなく、そのうえに高度な教育学的・政治的能力をもっていなければならないということです。したがって、教育者としての経験をもつ教育政策者が、他の職業の人よりも好ましいでしょう。
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今日、たしかに、政治責任者は専門的助言もかんたんに受けられるし、また、そのような忠告をことわるわけにはいかないでしょう。しかし、最後の政策上の決定をくだすのは、彼ら選ばれた人たち自身であり、そのため、彼らには少なくとも、当該の問題に関するさまざまな視点から適切に判断する能力が、必要となるわけです。
教育が、政治全体のなかで第四の権力としての役割を担う世界となるならば、事実上、「あらゆる世界で最高の世界」となるでしょう。今日、われわれは、第四の権力の座が、すでに新聞やマスコミによって占められている、二番目によい世界に生きています。
もちろん、ジャーナリズムを、そのうわさ話を好む傾向、しばしば見られるきわめて許しがたい詮索ぶり、そしてうまい話への無責任な扇動等のなかに見るかぎり、“二番目によい世界”ということは“ちょっとちがうのではないか”と思われるかもしれません。それでも、情報提供、報道、論評という課題、また、裏づけある批判という課題は――マスコミの、娯楽を目的とする広範囲な活動分野を度外視すれば――最終的には教育と関係があります。つまり、マスメディアはたんに材料を提供するだけで、その処理は個人にまかせられているわけですが、それにしても、これは、成人教育とかかわっているのです。
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池田
マスメディアが相手にしているのは“成人”です。したがって、マスメディアが提供する情報には、しばしば問題になるように、きわめて、いかがわしいものや歪曲されたものも少なくありませんが、それらを判断する力をある程度もっている人々が、その対象です。それに対し、教育が対象としているのは、あたえられた情報や知識を批判的に取捨選択できる力をまだもっていない子どもたちです。
しかも、成人たちは、マスメディアが提供する情報を、額面どおり受け取ることを強要されはしません。ところが学童たちは、教科書や教師によってあたえられた知識・情報をそのまま受け取るよう、試験という形で強要されます。
それだけに、教育の内容に思想的偏向があった場合に生ずる結果は、深刻で重大なものになるわけです。この意味からも、私は、そうした偏向や歪みを最小限にとどめるための、最善の努力がなされなければならないと考えるのです。
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デルボラフ
マスメディアが、啓蒙的役割を果たすだけでなく、多くの偏見を世間に流すこともある、というあなたの意見に、全面的に賛同します。
マスメディア、ジャーナリズムを、国家の実質的な第四の権力とみなした場合、それを無制限に教育界に流入させたり、教科書などがジャーナリスティックに書かれたりすることは、まったく問題外です。ジャーナリズムが、成人教育という課題を担うことができるということは、青年が学業を終えたあとも、自己教育のための指針や、少なくとも指針となる情報を必要としている、という事情と関連しています。
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