Nichiren・Ikeda
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後記
「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)
前後
3 ところで、科学が進歩すればするほど仏法の正しさが証明されるという。その良い例が宇宙に関する領域であろう。それほど仏法の宇宙観と現代科学の宇宙観とは同じ認識に立っているのである。いやむしろ現代科学が仏法の宇宙観にますます近づいているといってもよいかもしれない。
例えば法華経寿量品に「五百塵点劫」という語句がある。これは釈尊が久遠に成道したことを示した経文であるが、その内容は次のようなものである。
「譬えば、五×百×千×万×億×那由佗(一兆または一千億)×阿僧祗(無数または十の五十一乗)の三千大千世界(小千世界〔小世界とは須弥山を中心とした一世界なのでその千倍〕の千倍の千倍)を全て粉々の塵として、東の方に向かって行き、五×百×千×万×億×那由佗×阿僧祗の国を過ぎたらその粉の中から一塵だけを落として、そのようにしてず—っと東に行きながら一塵ずつ落としていき、その塵を全部落とし尽くしたとする。さて次にその無数の世界の、塵を落としたものも落とさなかったものも、それらを全て合わせてまた粉々にして無数の塵となし、その一つずつの塵を各一劫(測りがたい長遠な時間)として計算したとする。自分(釈尊)が成仏したのはそれよりもさらに五×百×千×万×億×那由佗×阿僧祗劫も大昔のことなのである」
4 一度読んだだけでは分かりにくいと思われるが、そこに展開されるものは気が遠くなるほど長遠な時間であり、とうてい数えきれないような無数の世界である。ここに説かれているのはあくまでも譬えではあるが、たとえ譬えであったとしても、そのような無数の世界がその中に出てくるということは重大である。それは現代科学が説く宇宙像よりも遥かに大きな宇宙像を、仏法が説いていたことを示しているのである。かつては荒唐無稽に思われたかもしれないこのような宇宙像が、科学が進歩するにつれてにわかに現実味を帯びてきている。そのことは何を意味しているのであろうか。それは科学が進歩するにつれて、仏法の正しさがますます証明されてきている一つの証拠といえよう。
以上の例からも分かるように、宇宙を深く知ることは仏法を知ることに通じるのである。というよりも宇宙は仏法そのものであるといってもよいであろう。これは何も宇宙に限ったことではない。自然界の全ての事象はもちろんのこと、人間界の全ての事象の一つ一つも全て妙法蓮華経に他ならないのである。このように万象はそのまま妙法蓮華経であり、その万象の本質を知ることはそのまま仏法を知ることになるのである。
5 日蓮大聖人はそのことを御書の中で次のように仰せである。
「されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし」
ここにいう「法界」とは宇宙の中の森羅万象の全てである。したがってこの御文はこの世の中の全ての事物・現象は、全て妙法蓮華経であるとの意である。これはもちろん総じてのお立場からお述べになったものではあるが、この御文に明らかなように宇宙は妙法蓮華経そのものなのである。このような御文は御書の中に数多く拝されるところであり、そのように達観して、初めて宇宙の真実も理解されるのである。
6 現代は「宇宙時代の幕開け」であるといわれているが、以上のことから「宇宙時代の幕開け」というのは「仏法の時代の幕開け」に他ならないことが理解できよう。そしてそれはまた「真実の世界平和ヘの幕開け」といってもよいであろう。
仏法は絶対の平和主義を主張する。創価学会はその仏法の平和主義を掲げて、力強く世界にその活動を展開している。生命の根本法に基づく生命尊厳の理念から発せられる創価学会の平和主義に対しては、人種やイデオロギーの壁を超越して、世界中の人々から多くの賛同と支持が寄せられているのが現実である。その平和活動は、宇宙時代にさらに進展するであろうことは、まさに明白である。
二十一世紀は「宇宙の世紀」になるであろうが、それは創価学会がかねてから主張してきたように「生命の世紀」になることは間違いあるまい。そしてそれは同時に「真実の平和の世紀」すなわち「仏法が世界に流布する世紀」になることを意味しているのである。
平成四年四月二日