Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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快楽としての性
「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)
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たとえば、エスキモーの間で行われた年配者による自発的な居住地の放棄(つまりは自殺)、世界の多くの地域で行われた(往々にして一妻多夫制に関連しての)女児間引きの慣習、古代世界における幼児、特に身体に障害のある幼児の遺棄、それに人工中絶などがそれです。
いま私は、一般性の少ない順に挙げましたが、いずれも、個人の生命を、本来あるべきよりも早い時点で終息させる方法です。これらの事例に、はからずも同様の効果をもたらしたもう一つの付随的なものとして、自発的な独身主義の慣習を含めてよいと思います。これは、いくつかの社会で人口の少なからぬ部分を占めた人々――たとえば中世ヨーロッパ社会の司祭・修道士・修道女など――が実行していたことです。
マルサス(注1)は人口過剰の危険を社会に警告し、婚前の貞節、婚期の延期、結婚生活における節制を、妥当な予防策として奨励しました。
十九世紀末以降、産児制限技術の効率が大いに高まったため、ますます多くの人々が、家族の規模と子供を作る間隔を計画的に決められるようになり、人口計画における幅広い、近代的な社会政策への展望が開かれました。もちろん公権力は、子供を産もうとする親に対しては、アメとムチを振るう以外にはほとんど何もできません。つまり、ある場合には(ナチ・ドイツにおいて、またフランスでも時折行われたように)、特別の恩典や社会的な名誉を与えて、人々がもっと子供を産むように仕向けるか、あるいは、別の場合は(最近数十年間にインドで、また中国でも時々行われたように)、人々に子供を産むのをやめるよう、うまく説得するかの、いずれかしかないのです。
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池田
個体の維持とともに、種族を存続させようとすることは、あらゆる生命に本然的に仕組まれた基本的機能であることはいうまでもありません。ただ個体維持の場合は、たとえば食物を摂取する、危険から身を守るといった例を見ても、比較的簡単なプロセスから成っていますが、種族保存の場合は両性の結合ということが不可欠ですので、そこに複雑な要素が絡んできます。また高等動物になるに従って、生まれた新しい個体が自らの力で生を維持できるようになるまでには、養育の労がともないます。この養育の労は、さらに文化的水準が高度化するにつれて、いっそう増大していくことになります。
ただいま教授は、ナチ・ドイツやフランスでの産児の奨励、逆にインドや中国での制限を例に挙げられましたが、親が子供をどれだけ作ろうと望むかということについては、もちろん個人差はあるにしても、全体的・平均的傾向としては、養育に要する労苦といったものが、かなりの比重をもって関係してくると見ることができます。
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フランスやドイツ、イギリス、また現在の日本においては、子供が社会の中で人並みに生きていけるようにするには、長期間の教育を受けさせることが必要であり、これは親たちにとって大きな負担です。したがって、これらの国々では、なるべく子供をたくさん作らないようにしようというのが、人々の平均的な傾向になります。
それに対し、東南アジアやアフリカ諸国等においては、幼児死亡率が高く、たくさんの子供を作っておかないと子孫が絶えてしまう心配が強いためと、子供の養育のためにかけねばならない労苦がさほど大きくなく、むしろ、子供を早くから働かせて家計を支えさせていく習慣から、できるだけ多くの子供を作ろうとします。
もちろん、個人差がありますから、一概にはいえませんが、総体的には、人口抑制の問題は、それ自体を人々に押し付けるのでなく、社会全体の生活水準・教育水準を向上させることを根本とすべきで、人口の抑制は、その結果としてもたらされるものと考えられるべきであろうと思います。
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ウィルソン
私的ないし公的な人口計画の推進が有効であるか否かは別として、性的抑制の奨励からはっきりと区別される、性行為の“結果”をコントロールしようとするあらゆる試みが明らかに意味するところは、性的満足は、生殖機能にはおかまいなしに、それだけで本来まったく正当な目的として、少なくとも暗黙の容認がなされているということであり、なかにはそれは人間の権利だという人もいます(もちろん、それがローマ教会であるはずはありませんが……)。
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池田
教授の言われるように、性的満足と生殖の関係は本質的に無関係であるとし、性的満足を求めること自体を、完全に正当な目的であるとする人も少なくないでしょう。望まない妊娠によって悲劇が生ずるケースも多く、今日、性教育の必要性が先進諸国で叫ばれたり、すでに実施されたりしているのも、多くはこうした予期しない妊娠をどうすれば避けられるかということが、一つの目的になっているようです。
ある意味で、快楽としての性の追求は、文明社会の避けられない傾向ともいえると思います。問題は、それにともなうモラルをきちんと確立することではないでしょうか。
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ウィルソン
この問題の性質上、私たちはさまざまな文化や時代における性行為の様式について、いくぶん無知な面があります。しかし、かつては社会的に未婚者に純潔が要求されていた社会――たとえば、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の伝統が影響を与えた社会――において、妊娠をともなわない性行為が可能になったことによって、純潔を支えていた強力な拘束力の一つが取り除かれたことは、疑問の余地がありません。
道徳的規範は、必ずしも目的論的な根拠から課されるわけではありませんが、しかし、西洋で、数世紀にわたって、キリスト教の性的規制、特に女性向けの規制を強力に補ってきたのは、この望まない妊娠の危険でした。その危険がなくなったこと、あるいは少なくともその危険が非常に大幅に減少したことによって、多くの人が、伝統的なキリスト教の性倫理に挑戦するようになったわけです。
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ローマ・カトリック教会は、今日でも相変わらず、出産を目的としない性行為を否認しています。しかし、そのローマ・カトリック教会ですら、“安全期間”式避妊法の使用は認めており、この点では明らかに、詭弁を弄しているわけです。
他のキリスト教教会は、段々と規制を和らげてきています。英国国教会は、かつて一九一六年には主教たちが人工的な産児制限法の使用は「危険で、風紀を乱し、罪深い」との“躊躇のない判断”を下し、「不自然なもの」としていましたが、今日では、結婚生活における夫婦の快楽の一つとしての性行為を、実質的に認めるところまで変わってきています。しかし、ユダヤ教とともに、キリスト教のすべての主な宗派では、性交渉は夫婦間に限るべきだとの主張を続けており、これら全宗派が、結婚生活以外の気軽な性行為――それはもちろんただ快楽のみを求めての性行為と定義づけられるわけですが――は、道義上非難されるのが当然であるとしています。
こうした主張にも、それなりに、社会学的な裏付けはあるのかもしれません。それは、婚姻外の性交渉は、当事者にとっては楽しいものであるかもしれませんが、もし避妊に失敗した場合、その結果が、こうした男女関係から生まれる子供を不幸にする恐れが十分あるからです。これは特に西洋においていえることですが、私生児は往々にして『旧約聖書』の神が言い渡した「父の罪を子に報いて」という定めの犠牲者の、最たる例となってきたのでした。
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しかし、それよりもさらに広範囲に及ぶ害の原因となりうるものもあります。気まぐれな性行為、つまり、正規の安定した婚姻関係以外の性交渉は、結婚生活そのものに、何らかの影響を与えることになるのではないでしょうか。もし人々が、安定した夫婦関係がもたらす主な恩恵の一つを、結婚生活以外にも安易に得られるとすれば、それは、結婚という制度の放棄につながるかもしれません。
たしかに個人にとっては、このような性行為は、今日、少なくとも軽薄な意味で、しばしば一種の束縛とされているものからの、一つの解放のように見えるかもしれませんが、それが社会の安定に及ぼす長期的な影響は、深刻なものとなるでしょう。結婚生活がもたらすその他の役割は、別のものがそう簡単に取って代わるわけにはいかないでしょう。
また労働の性別分担は、習慣的に受け入れられているように――女性解放運動の主張いかんにかかわらず――社会全体のために十分機能していると思われる、うまく適合した家庭の秩序の一形態なのです。現在、結婚制度や核家族の存続は、他の社会制度間の複雑な相互関係の中で支えられていますが、性行為と出産を分離することによって生ずる長期的な影響は、今後、より広い領域の社会的構造の中で見極めなければなりません。
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性にまつわる事柄を道徳的に規制した昔からの考え方にも、付随的な利点があるのかもしれません。たとえば、放縦が抑制され、しつけの教育がなされ、本能的生殖欲が芸術的分野での創造的努力に昇華されるといった点です。社会によっては、他の機関や仕組みによってこうした必要な規制が立てられ、個人の中に維持されてきたこともあるでしょうが、私は、少なくとも西洋社会においては、性行為に課せられた道徳的禁戒が道徳的反応の原型といえるものを生み、それが、他の分野での社会的挙動の範例となってきたのではないかと考えたいのです。
もし、これが事実であれば、快楽のための性が公然と承認されるというように、性道徳に対する態度が急激に変化することによって、他の道徳的訓戒も弱まることになるかもしれません。ただし、現代社会の新たな科学技術体制を考えると、道徳的規制が、はたして秩序ある社会の統制にとって十分なものであるかどうかという疑問があることは、前にも提起した通りです。
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池田
先に述べましたように、仏教においても、一般世俗の人々のために定められた戒律の一つに「夫あるいは妻以外の異性との性的行為を禁ずる」という項目があります。これは、いわゆる小乗仏教で強く戒められているものですが、根本的には、仏教全体に通ずる戒律と考えられます。
文明社会においては、生殖を離れた快楽のための性が一般的傾向となってきているわけですが、そこにはモラルが必要です。仏教のこの戒律は、そうした快楽のための性も、夫婦という結婚制度と、家族制度の維持を前提として行われるべきだということを意味しています。
結婚制度と、それを基盤として成立している家族制度は、社会の諸機構を支えるばかりでなく、一人前に育つために長い年月を要する人間の養育のための――ということは文化の保持のためでもあるわけですが――欠くべからざる条件です。しかも、男の子であれ女の子であれ、男と女という異なった特質をもつ親が、その初期の人格形成に関わることは、やはり重要です。
もし不幸にして、片親だけの場合、その片親は、両方の親の特質を兼ね備えて、子供に対することが必要となりましょう。その意味でも、結婚制度と家族制度は、人間が人間らしく育ち、人間らしさを保持するための不可欠の条件であり、その立場から、性のモラルも確立されなければならないと私は考えます。ただし、それは権力によって強制されるべきものではなく、一人一人の自覚によって支えられるのでなければなりません。
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(注1)マルサス(トーマス・R)(一七六六年―一八三四年)
イギリスの経済学者。アダム・スミスらとともにイギリス古典派経済学を代表する。その著『人口論』において人口と食物の増加力を比較し、人口増加にともなう貧困と罪悪の必然的発生を防ぐため人口増加抑制を唱えた。
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