Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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3 食文化は社会を映す鏡  

「人間と文化の虹の架け橋」趙文富(池田大作全集第112巻)

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3  板門居から北朝鮮を望んで
 池田 ドイツを東西に隔てた象徴が「ベルリンの壁」とすれば、韓・朝鮮半島を二つに分断する象徴が「板門店パンムンジヨム」です。博士は、板門店に行かれたことはありますか。
  一九七〇年代の前半、朴正熙大統領の時代に、学生を引率して訪問しました。当時、私は大学の学生部を担当しており、助教授でした。
 目の前の拡声器から、「双眼鏡を使わなくても、ここから北朝鮮のトーチカが見えます」とのアナウンスがありました。同じ民族同士の戦線の生々しさを間近に実感した瞬間、私はふと「自分には学生たちを引率する資格はないな」と思いました。
 池田 と言いますと。
  当時、私はまだ徴兵を終えていなかったからです。韓国動乱(朝鮮戦争)が終わって、しばらくの間、済州島出身者は共産主義者であるというレッテルを張られていました。そのため、私が学生だったとろは陰に陽に差別を受け、住所もなかなか定まらず、徴兵令状を受け取れないままだったのです。
 私は、板門店から帰ってからすぐに、大学を休職して軍隊を志願しました。わが国ではよくも悪くも、この休戦状態の実態を、若いころから身に刻まなくてはならないと実感したからです。
 池田 深い心情が汲みとれる貴重なお話です。
 そのような体験を経てきたからこそ、平和への希求がさらに深まり、現在の博士の教育活動の原動力となっているのですね。
  ええ。今では、韓国と北朝鮮も、そして日本や中国、ロシアも含んだ北東アジア全体が、融和への道を大きく切り開けるはずだと信じております。
4  韓日の共通点ーーご飯と味噌汁
 池田 前節では、韓日両国の家族や社会のあり方について語り合いました。「家族」と言えば、どの国でも「食事の団欒」が思い浮かびます。そこでここでは、食事のマナーの相違など、食文化を中心に両国の文化を見ていきたいと思います。
 食は文化をつくる礎です。教育や社会をつくる大前提となる営為です。また食文化は、健康につながる大切なものです。日本でも、高齢社会の到来で、そのあり方が幅広く論議されています。
 まず、この食文化に関して、韓国と日本の共通点を挙げてみたいと思うのですが。
  「ご飯と味噌汁」という基本的なスタイルは同じですね。
 これは、韓日両国の国民が好み、世界の他の地域と区別して考えられる点でしょう。
 韓国の農民たちは、昔から米については自給自足でまかなえないことがあっても、味噌、すなわち大豆だけは自給自足で間に合わせてきました。
 池田 稲作も味噌も、もともと韓・朝鮮半島を通じて、日本に伝わってきたという説もあります。
 このことからも、貴国、また中国には、語り尽くせない「文化の大恩」があることが分かります。
  中国大陸で稲作が始まったのは、一説には約七千年前です。
 しかし、中国の多くの地域、および東南アジア地域の人々が、熱帯・亜熱帯地域で生育するインディカ米を食するのに対し、韓半島と日本では、ともにジヤボニカ米を好んで食べてきました。
 韓半島での米の生産の起源を辿ると、放射性炭素年代測定により、平壌の遺跡で発見された炭化米などが約三千年前のものであるととが分かっています。また、韓国南部の遺跡からは、約二千七百年前のジヤボニカ米が見つかっています。
 池田 日本では、紀元前回世紀ごろに九州北部で稲作が始まってから、約二百年の間に東北地方まで広がったと見るのが一般的です。
  まさに、長い歴史のなかで、韓国・朝鮮人と日本人だけが、ジヤボニカ米を主食として生きてきた民族なのです。
 そうした歴史が、お互いに親近感を抱いたり、逆に近しいがゆえに、ちょっとしたマナーのちがいに余計な違和感を抱いたりする原因となっているのかもしれません。
5  食事のマナーのちがい
 池田 食器や箸なども、よく似ていますね。
 ただ、日本では箸だけですべての料理を食べることが多いのに対し、韓国では、箸のほかにスプーンがよく使われます。また、箸は日本とはちがって金属製ですね。
  ええ。韓国では、ご飯や味噌汁を食べる時に、「スッカラク」と呼ばれるスプーンを使うことが多いのです。もちろん、箸(チョッカラク)をまったく使わない、ということではありません。
 箸は主に、キムチやおかずを取る時に使います。
 日本の方は、食事をすべて箸で済ますことに慣れていますから、韓国人の食べ方を見ると、忙しそうに見えるかもしれません。(笑い)
 池田 日本ではご飯茶碗を持って食べることが食事のマナーとなっています。韓国ではそれは下品で、逆にマナーに反するということを、以前に聞いたことがあります。
 しかし、韓国でも茶碗を持って食べる人を見たような気がします。
 実際はどうなのでしょうか。
  そうですね。韓国では古くから、テーブルに茶碗あるいは食器を置いたまま、左手はテーブルから離して膝付近に乗せ、右手だけで食べるというルールがありました。
 しかし現在では、このような食べ方もあれば、食器をテーブルに置いたまま左手を添えて右手だけで口に運んだり、日本と同様に茶碗を持ち上げて食べたりと、さまざまです。
 結局、どちらの動作が合理的で便利かということと、それまでの慣習との兼ね合いで決まってくるにすぎないのだと思います。
 ですから、茶碗を持っているから、ただちに「下品」ということにはならないと思います。
 池田 よく分かりました。ことマナーなどに関しては、短絡的に評価を決めつけることは、かえって理解を妨げる一因ともなりかねませんね。
  そのとおりだと思います。茶碗を持ち上げる、持ち上げないということは、合理性と慣習とのバランスで決まることだと思うのです。
 しかし、このように実際には些末なことなのに、いちいち恣意的に評価して、一方の国では「持ち上げると物乞いのようだ」と言い、他方の国では「テーブルに置いたまま食べるのは『犬食い』だ」と言う。
 そしてそれを、雑誌やマスコミが取り上げ、あたかも固定化されたマナーのように、あるいは「知っていると得する情報」であるかのように喧伝する。
 お互いの文化の中で育まれた食事のマナーを、お互いを傷つけ合うことに使う必要がどこにあるのでしようか。むしろ、それぞれに美しい食文化がある、というふうに見るべきです。そのことを私は訴えたいのです。
 池田 まったく同感です。相手の固有の文化を認め、尊重することは、みずからの文化や精神をより豊かにしていく。それに対して、蔑視したり揶揄したりするなど、もってのほかです。それは貧しい心の表れに他ならない。
 日本人には、何事も「中身」を見ずに、まずその「形」だけを見て判断する癖があるように思います。これは直すべきです。
 牧口初代会長は、「認識せずして評価するな」と戒めましたが、これは、有意義な国際交流を進める上でも重要な指摘だと思います。
  牧口会長の、おっしゃった言葉は、まったく正しいことです。
 ともあれ、「美しい心から見る世の中はすべてが美しく見えるが、醜い心から見る世の中はすべてが醜く見える」ということではないでしょうか。
 池田 仏法においても、「たとえば餓鬼は恒河(ガンジス川の水)を火と見る。人は水と見る。天人は甘露と見る。水は一つのものであるが、果報にしたがって別々なのである」(御書一〇二五ページ、趣意)と洞察しています。
 ともあれ、まず、互いの文化を深く知ることです。みずからの「心の眼」を曇りなく開き、理解し合っていくことが第一です。
6  祖先の知恵の結晶ーーキムチと納豆
 池田 両国の食文化で、他に、どのような共通点、相違点がありますか。
  韓国人にとって、生活になくてはならない食品はキムチとニンニクですが、日本ではつい最近まで、とれらが苦手な人が多かったと記憶しています。
 逆に日本人に好む人が多く、韓国人が苦手とすのは、納豆です。
 池田 キムチも納豆も同じ発酵食品で、互いに国民食となっていますが、この二つの好みが分かれるのはおもしろいですね。
 ただ、日本でも最近、キムチを好んで食べる人が大変に多くなっています。一九九〇年からの約十年で、国内消費量は四倍以上になったという報告もあります。
  キムチは、ニンニク、唐辛子と、白菜や大根をはじめとする野菜類、そして時には小エビなどの魚介類も一緒につけ込んで作ります。
 一方、納豆は大豆というシンプルな材料から作られますね。
 両方とも、素材からしても、そして発酵食品であるという点でも体によく、両国の祖先のすばらしい知恵の結晶であると思います。だからこそ、この二つは両国でそれぞれに、親から子、子から孫へと受け継がれ、今日まで好んで食されているのだと思います。
 池田 二〇〇二年の韓日共催のサッカー・ワールドカップ以降、両国民の交流は飛躍的に増しています。互いの食文化も、より密接な関係になりつつあるように思います。
  ええ。日本でも、街の料理屈で、石焼きビビムパブ(ビビンパ)、プルコギ、チゲ(肉、魚、豆腐、キムチなどを、味噌や唐辛子で味付けした鍋物)、サムゲタン、チヂミなどの韓国料理のメニューが、多く見られるようになっていますね。
 池田 韓国でも、おでんやうどんなどが、街の食堂で、そのまま「オデン」「ウドン」として登場していると聞きましたが。
  最近は、両国の食生活のあり方が、だんだんと接近しているのではないかと感じます。
 たとえば、済州島も含めて韓国では、最近、刺身を好む傾向が強くなりました。
 もともと新鮮な魚介類は多く水揚げされていたのですが、工業廃水や生活排水によって著しく海洋が汚染され、安心して刺身が食べられなかった期間があったのです。
7  客をもてなす真心
 池田 日本では、料理を出された客は、基本的には「残さない」のがマナーです。一方、韓国では、出された料理を「残してもいい」と聞きましたが、この点はいかがでしょうか。
  そうですね。韓国では、食べきれないほどの量の料理を、一度にテーブルに出します。そして、料理はすべて食べなくても、失礼にはなりません。このあたりは中国と同様、「客が食べきれないほどの料理でもてなす」という風習があるからです。
 ところが、食生活自体が贅沢になり、人口も増えると、この「食事を残す」という行為が問題になってきました。
 しかし、いくつかの食堂で「食卓改善運動」を展開し、おかずの種類や量を減らして出したところ、急に客が来なくなってしまい、結局この運動を続けるのをやめた、というエピソードもあります。(笑い)
 池田 なるほど。いずれにせよ、皆を喜ばせ、もてなそうとする心が、貴国の食文化を大きく支えてきたことが分かります。
 他に、何か異なると思われる点はありますか。
  そうですね。複数で一つの鍋を囲む場合にも、慣習のちがいが表れます。
 鍋料理やチゲといった、大きな器に料理を用意し皆で食べる場合、日本では普通、各自が自分の食べる分を皿に取ってから食べますね。それに対して韓国では、小皿等を用いずに、各自が直接スプーンで鍋からすくい、食べることが多いのです。
 日本の方が初めて見たら、びっくりするかもしれませんね。
 池田 それは確かに、日本ではあまり見られない光景かもしれません。ただ、家族や親しい友人といった気の置けない関係では、同じ鍋をいっしょにつつき合うことが、親密さの表れとも解釈されます。
  韓国の慣習も、料理の味を味わおうとするより、むしろ仲間同士の親密さを深めようとする意味が込められているように思います。
 済州島では、冠婚葬祭や農作業の場合、ご飯が一つの食器に出されます。それを各自の食器によそって食べることもありますが、だいたいは家族や親族または親しい間柄なので、皆が一緒に直接スプーンで食べることもあります。
 池田 なるほど。家族の親密さを確認し深め合うのでしょうね。
 一つのマナーをどうとらえるかも、その意義や背景を見る視点が大事なことがよく分かります。
8  美しい「共生の文化」の花を
 池田 では、総じて貴国の食文化は、どのような文化的背景によって育まれてきたとお考えですか。
  韓・朝鮮半島は、歴史的に見て、大陸文化と海洋文化の両方を受容せざるを得ない複雑な環境の中にありました。
 そこで、混雑した内部的要因を整えていく経験から得た知恵があります。ごちゃ混ぜのなかにも調和を求めたのです。それがやがて、ビビンパブのような料理にも表れるようになったのかもしれません。
 池田 「ご飯を混ぜながら、すべての食材の調和を図っていく」ということですね。
 食に関する文化は、人間の生き方と密接しているがゆえに、突きつめていけばいくほど、奥が深い。
 それと、韓国では、食事をしたかどうかが、日常のあいさつとして使われてきた経緯があったように記憶しています。
  ええ。田舎のほうでは現在でも、「シクサ(食事)ハショッスムニカ」、つまり「食事をなさいましたか」という言葉が、そのまま「朝のあいさつ」として使われています。
 池田 朝昼晩の区別なく使える「アンニョン(安寧)ハシムニカ」「アンニョンハセヨ」というあいさつの言葉も、もともとは、相手の安否を気づかう言葉ですね。だから、時間帯による区別が存在しない。日本語の「おはようどざいます」「こんにちは」など、時刻や日柄から派生した言葉とは根本的に成り立ちがちがいますね。
  韓国では、顔を合わせた時にすぐさま安否を確認し合うという習慣が、やがて、あいさつとして定着したのでしょう。
 今はもちろん、こまで重い意味はありません。
 友人同士で気軽に「アンニョン?」と呼びかけ合います。
 韓半島は長い間、中国大陸からの武力に脅かされ、二十世紀前半には日本帝国主義の武力によって攻められ、さらに戦後には、米ソの武力によって分断され、それこそ何が正義なのか分からないほどに混乱しました。
 韓国の美しい文化も、激動の時代を移りゆくうちに汚されてきました。
 しかし、蓮の花は、汚い泥を除いてしまっては、決して咲きません。と同様に、二十一世紀こそ、幾多の試練を経てきたわが国の文化が、日本や、さらには中国の文化とも共生しつつ、爛漫と花咲かせる世界にしなくてはならないと考えています。
 池田 必ずそうなっていくことを、私も深く願っています。否、確信しています。
 中国と言えば、二十世紀の初頭、日本と中国を往来した近代中国の大指導者に、孫文がいます。
 孫文は、アジアの平和と繁栄を、誰よりも強く願っていました。ゆえに、軍事力を背景にアジアの文化を蹂躙しゆく日本の暴挙に、警鐘を鳴らし続けた。孫文は語っています。
 「仁義道徳をもちいる文化は、人を感化するのであって、人を圧迫するのではなく、人に徳を慕わせる」(「講演集」堀川哲男、近藤秀樹訳『世界の名著』78所収、中央公論社)
 今、こうした「仁義道徳で人を感化する」「人に徳を慕わせる」という、いわば文化の善の力が、世界的に弱まっています。
 この文化の善の力を強くしていくことが、これからの世界の大きな課題です。
 私は、博士との対談を通じて、韓日両国の文化の善の力を、強め、深め、広めていきたいのです。
  私もまったく同感です
 身近な生活習慣のなかから、自分たちの文化の善の力を再発見し、再認識し、あらためて自覚を深めていくことは、とても大切なことです。
 池田 孫文はこうも言っています。
 「かならずや両国(=日本と中国)が相調和しえてこそ、はじめて中国は幸福に恵まれるのである。また、両国がその平和を大切にするなら、世界の文化もそれによって大いに栄えるのである」(「中国の存亡問題」武田秀夫訳、『孫文選集』3所収、社会思想社)
 大切な思想です。韓国と日本もまさにそうでしょう。
 韓日両国が、さらに友好を深めながら、互いの文化の善の力をさらに発揮し合っていくことは、必ずや「世界の文化」を豊かにする一助となっていくと信じます。
 ゆえに、これからも、アジアと世界を見据えつつ、両国の文化と教育の交流に尽力していく決心です。

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