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日蓮大聖人・池田大作

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第6巻 「若鷲」 若鷲

小説「新・人間革命」

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28  若鷲(28)
 語るほどに、山本伸一の講義には、熱がこもっていった。
 「学会の活動をしている時も、御本尊に向かう場合も、大事なのは、この奥底の一念です。惰性に流され、いやいやながらの、中途半端な形式的な信心であれば、本当の歓喜も、幸福も、成仏もありません。
 本当に信心の一念があれば、学会活動にも歓喜があり、顔色だってよくなるし、仕事でも知恵が出る。また、人生の途上に障害や苦難があっても、悠々と変毒為薬し、最後は一生成仏することができる。
 反対に、一時はいいように見えても、信心を失えば、最後は惨めです。そうなれば、人生は敗北です。
 勝負は、いかなる晩年を生きたかであり、歓喜のなかに、悠々と、安祥として死を迎えることができるかどうかです。そして、それがまた、三世永遠の幸福への軌道を決定づけていく。
 キリスト教などには、『最後の審判』という考え方がありますが、本来、神が人間を裁くのではなく、生命の因果の理法によって自らが裁かれるのです。
 天国や地獄といっても、それは自分の生命のなかにある。その地獄の苦しみについて、大聖人は『かかる悪所にゆけば王位・将軍も物ならず・獄卒の呵責にあへる姿は猿をまはすに異ならず』と仰せです。
 地獄という生命の大苦悩の前には、王様や将軍であるといった、社会的な立場や肩書など、なんの役にも立たない。苦しみに翻弄される姿は、猿回しの猿のようなものであると言われているのです。
 人生の最後を大勝利で飾るかどうかは、永遠の生命のうえからも、最大の課題となる。したがって、最後の最後まで信仰の大道を歩み抜いていくことです」
 また、ある時、理事長の原山幸一の息子で、早稲田大学の学生である原山高夫が質問した。
 「提婆達多とは、どのような生命のことをいうのでしょうか」
 伸一は、原山の目を、じっと見つめて語った。
 「戸田先生も言われていたが、それは男のヤキモチです。広宣流布を破壊し、学会の前進を阻もうとするあらゆる動きも、その本質は嫉妬にある。
 しかも、その生命は、すべての人間に具わった働きです。その己心の提婆達多と戦うために仏道修行がある。信心とは、仏と魔の戦いです。君も絶対に負けてはいけない」
 この原山は、やがて教学部長となるが、名聞名利と嫉妬の心に敗れ、遂には学会を裏切り、哀れな退転者となっていくのである。
29  若鷲(29)
 「御義口伝」講義は、学生部の発展の大きな起爆剤となり、翌一九六三年(昭和三十八年)の六月末には、部員二万人を達成するに至った。それにともない、組織も分割され、部の数も次第に増えていった。
 山本伸一は、新たに誕生した部長のメンバーも、「御義口伝」講義に参加するように提案した。
 そして、彼は最初からの受講生を「一期生」とし、途中から加わった新メンバーを、ユーモアを込めて、「一・五期生」と呼んだのである。
 当初、一期生への講義は一年間の予定であった。しかし、新たに一・五期生が加わったことから、講義の期間を延長し、六四年(同三十九年)七月まで続け、そこで修了とした。
 伸一は、既に、受講生の多くが社会人となっていたこともあり、学生部の次の人材の育成のために、新メンバーをもって「二期生」を発足させることを考えていたのである。
 講義は、「御義口伝」の上巻を終え、下巻に入っていた。
 この上巻の講義をまとめた原稿に、更に伸一の筆が加えられ、六五年(同四十年)四月二日には、『御義口伝講義(上)』が発刊されている。
 その出版から一カ月後の五月三日の本部総会終了後、一期生の四十四人の受講生に対して、伸一から修了証書が手渡された。
 伸一は、メンバーが全世界に行き、「御義口伝」の講義をする資格を有するとの意義を込めて、この修了証書を作ったのである。
 伸一が全魂を傾け、心血を注いだ講義を、全身で受け止めてきた受講生たちは、皆、見違えるほど、たくましく成長していた。
 修了証書を手に、頬を紅潮させ、誇らかに胸を張る若鷲たちの雄姿に、彼は深い感慨を覚えた。
 東京での「御義口伝」講義の一方、伸一は、関西でも、六三年(同三十八年)の九月から、京都大学の学生を対象に、一年間にわたって「百六箇抄」の講義を行っている。
 更に、京大生への「百六箇抄」講義を終えると、六四年(同三十九年)十一月から、関西の学生部の代表に、「御義口伝」講義を開始したのである。
 そして、同年の十二月には、中部でも学生部の代表に対する、「諸法実相抄」の講義を実施している。
 東京での「御義口伝」講義が再開されたのは、六五年(同四十年)の十二月二十二日であった。メンバーも二期生として新たに人選され、「御義口伝」下巻の講義が行われた。
30  若鷲(30)
 「御義口伝」の受講生にとって、講義の場は、会長山本伸一の魂と、自身の心が溶け合う″生命の溶鉱炉″ともいうべきものになっていた。
 受講生は、講義に臨み、伸一と会うことは嬉しくもあったが、また、怖くもあった。伸一と目が合った瞬間、自分の一念が、すべて見透かされてしまうように感じていたからである。
 事実、伸一には、一瞬一瞬の皆の心の動きまで、よくわかった。
 彼は、一人一人の性格や考え方、生活の状況に至るまで、すべて頭に入っていたし、何よりも、日々、メンバーの成長を祈り念じ、題目を送り続けていたのである。
 二期生の講義も順調に回を重ねていった。しかし、それにつれて、メンバーの緊張も解け、いつしか惰性に流され始めていた。
 予習会は、主任副学生部長になっていた、一期生の原山高夫らを中心に、毎回、行われてはいたが、皆の勉強不足が目立つようになっていった。こんな調子で、講義に臨めば、山本会長から叱られてしまうことは目に見えていた。
 まとめ役の学生部の幹部は、一計を案じた。
 ――メンバーには、自信はなくとも、必ず手をあげるように徹底しておく。そして、講義の際には、自信をもって真っ先に手をあげた人だけを指名し、解釈をさせる。更に、難解な御文については、事前に解釈するメンバーを決めておき、その人を指すようにする。
 皆の不勉強が明らかになり、自分にも責任が及ぶことを恐れたこの幹部の、保身のための画策であった。
 講義当日は、全員が手をあげ、指名されたメンバーも、よどみなく解釈し、すべては、計画通りにいくかに見えた。
 伸一の講義が一区切りつくと、まとめ役の幹部が言った。
 「では次、希望者!」
 「はい!」と、全員が挙手した。
 その時、伸一の鋭い声が響いた。
 「形式は止めなさい!
 こんなことをして、なんになるのだ……」
 伸一には、誰が何を画策したか、手に取るようにわかった。
 メンバーのなかには、伸一が指摘したことの意味がわからず、戸惑いの表情を浮かべる人もいたが、皆、自分たちが不勉強であったことは自覚していた。
 沈黙が流れた。
 彼は、最前列にいたメンバーから、次々と指名していった。
 指された者は、しどろもどろで、ほとんど満足な通解はできなかった。その場に立ち尽くす者もいた。
31  若鷲(31)
 誰よりも真剣に、講義の場に臨んでいたのは山本伸一であった。
 「学生部の代表がこんなことでは、あまりにも情けないではないか……」
 伸一は、怒りを含んだ声で言った。
 彼が情けないと言ったのは、受講生が御文の解釈ができなかったからだけではなかった。それよりも、その場を取り繕い、要領よく立ち回ろうとする、学生部のまとめ役の幹部の、心根が情けなかったのである。
 伸一は、多くは語らなかった。
 「今日はこれまで!」
 彼は御書を閉じ、講義を打ち切った。その目には深い悲しみがあふれていた。
 受講生は、彼の目を見た時、不勉強のまま講義に参加した、自分たちの安易な姿勢を恥じた。
 次の講義は、打って変わって、皆、真剣に研鑽を重ねて集った。
 伸一は、何事もなかったかのように、皆を笑顔で包みながら、和やかに講義を進めたのである。
 一九六二年(昭和三十七年)の八月末から始まった、この「御義口伝」講義は、創価の後継の陣列を築き上げる、伸一の手づくりの人間教育の場であった。
 彼は、よくメンバーにこう語った。
 「私は、戸田先生から、十年間、徹底して、広宣流布の原理を教わった。師匠は原理、弟子は応用だ。
 今度は、将来、君たちが私の成したことを土台にして、何十倍も、何百倍も展開し、広宣流布の大道を開いていってほしい。私は、そのための踏み台です。目的は、人類の幸福であり、世界の平和にある」
 伸一は、毎回、講義のたびごとに、菓子や食事を用意し、一人一人を温かく包み込み、励ますことを忘れなかった。時に放たれる厳しい叱責も、深い慈愛からの指導であった。
 会場の下足箱の前に立って、底のすり減った靴を見つけると、後から、その持ち主に、新しい靴を買い与えることもあった。
 メンバーは、講義を通して、山本伸一という若き仏法指導者の人間に触れていったといってよい。
 そして、そのなかで、仏法の法理を体現した人格の輝きを知ったのである。
 受講生にとって、伸一は生き方の手本となり、人生の師として、心のなかで次第に鮮明な像を結び始めたのである。
 そこには、広宣流布という最高、最大の目的に向かう師弟の、温かい交流があり、触発があった。
 それは、次代を担う逸材養成の、類いまれな人間主義の学舎といえた。
32  若鷲(32)
 一九六六年(昭和四十一年)七月、山本伸一は「御義口伝」講義の二期生を中心に、学生部の人材グループ「潮会」を結成した。
 この二期生への伸一の講義は、六七年(同四十二年)の四月まで続けられた。
 一期生への最初の講義以来、五年間にわたる、学生部の本格的な育成となったのである。
 二期生への伸一の講義が、『御義口伝講義(下)』としてまとめられ、出版されたのは、その年の十月十二日のことであった。
 伸一が多忙に多忙を極めたこの時期に、学生部への講義をいっさいの行事に最優先させてきたのは、広宣流布の壮大な未来図を実現するためには、新しい人材の育成が、最重要の課題であると考えていたからだ。
 広宣流布は、大河にも似た、永遠の流れである。幾十、幾百の支流が合流し、大河となるように、多様多彩な人材を必要とする。
 そして、いかに川幅を広げ、穏やかな流れの時代を迎えようと、濁流と化すことなく、澄み切った清流でなければならない。
 それには、初代会長牧口常三郎から第二代会長戸田城聖へ、更に、山本伸一へと受け継がれてきた、仏法の精神を継承する、まことの弟子を育て上げるしかなかった。
 また、もともと病弱な身でありながら、心身を削るかのように、日々、フル回転し続ける伸一には、自分はいつ死ぬかもしれないという思いがあったからでもある。
 「潮会」の結成式となった箱根・仙石原での二期生の研修会の折、星空を仰ぎながら、伸一は、しみじみとした口調で語った。
 「見てごらん、この満天の星を。昼間は見えないが、ひとたび太陽が沈めば、星は夜空いっぱいに輝く。その一つ一つは、太陽と同じ恒星だ。私は、このきら星のごとく、人材をつくっておきたいのだ……」
 学生部の代表への伸一の講義は、彼の生死をかけた、後継の人材の育成であったといってよい。
 かつて、萩の松下村塾で吉田松陰に育まれた門下生は、師の志を受け継ぎ、明治維新の夜明けを開いた。今、伸一は、彼が心血を注いで育てた受講生たちが、生命の世紀の、世界の広宣流布の夜明けを開くことを確信していた。
 彼のその信念に誤りはなかった。
 事実、若鷲たちは大きく翼を広げ、新しき時代の大空に、さっそうと羽ばたいていった。そして、ほんの一握りの退転者を除いて、広宣流布のあらゆる分野の中核に育ち、創価の星となって輝いていくのである。

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