Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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8・24記念大田区幹部総会 深き「感謝の心」「歓喜の心」を

1987.8.23 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

前後
26  日達上人は、この御文を次のように講述されている。
 「南無妙法蓮華経と我が正宗の信心をする人は、誰でも、身分に貴賎上下の隔てなく、僧俗男女の別なく、みんな平等であります。
 しかし、竹は幹が一つであります。それでも、上下に、節が次第してあるように、信心の内に入って、そこに師弟、僧階、入信の前後等の次第がありますから、それに順じて礼儀は守らなければなりません。
 もちろん私どもの信心する所は、久遠元初自受用身の御本尊様で、そして、願う所は、みな即身成仏でありますから、僧俗決して差別あるものではありません。すなわち、差別の中に平等があり、平等の中に差別がそなわるのであります。
 たとい、物事の道理のわからぬ人があって、物事に注意せず、礼儀に欠けた行為をしても、自分(僧の立場)は、その人の心中を哀れに思って寛恕かんじょ(=あやまちなどをとがめずに、広い心で許すこと)なさい。そこに僧の立場と在家の立場のことなりがあるのであります。
 そのような無頓着で礼儀をわきまえない者に、憐愍を持つのは、仏様の大慈悲で僧の立場であります。
 大聖人は妙一尼御前御消息に『仏は平等の慈悲なり一切衆生のためにいのちを惜み給うべし』と説かれております。
 そういう、礼儀をわきまえない者を、憎く思うのは、凡夫の心で、在家の立場であります。こういう所に、世間法、出世間法のことなりがあるのであります」と――。
 世間には、さまざまな人がいる。しかし、どのような人をも僧侶は慈悲の心で包んでいかなくてはいけない。そこに僧侶としての宗教者のありかたがあることを教えられている。まことに、ありがたきお言葉である。
27  謙虚な心で後輩育む人に
 かつて戸田先生は″慈悲に満ちた指導者たれ″と、次のように指導された。
 「指導する位置というものは、一般よりも、より高き位置にあるように考えられる。事実また、そうであらねばならぬことである。しこうして学会の指導者は、なにをもって一般よりも高しとしうるのであろうか。いうまでもなく信心の力である。その人自身の持っている才能、財力、社会的立場等ではない。ただただ信仰の道においてのみであることを深く自覚しなければならぬ」と。
 指導者は、何よりも「信心の力」において、人々よりもより高いものをもっておかなければならない。仏法の世界では、この力こそもっとも大事である。幹部に、この一点が定まっていれば、永久に学会は発展し、栄えていくことは間違いない。
28  さらに戸田先生は「されば、大御本尊のこと以外においては、謙遜けんそんであって、決して傲慢ごうまんな姿であってはならない。また、上長の位置を誇ることなく、なにごとも命令的であってはならぬ。指導である以上、相手に納得のいくようにしてやらなくてはならぬ。そうして御本尊の尊さ、功徳の偉大さを十分に納得させねばならぬ」といわれている。
 人々を「納得」させられるかどうか。指導者は納得させられるだけの力をもたねばならない。そうでないと指導者として失格であると断ぜざるを得ない。
 続けて戸田先生は「要するに御本尊を信ずる力と、慈悲とに満ちて、友として指導するものこそ、指導者の自覚を得たものというべきではないか」と結論づけられている。
 すべての人が友人である。とくに信心をしている人々は″法の友″である。広布の指導者は、その自覚を強く持って、妙法の友への指導、激励に当たっていただきたい。
 さらに、戸田先生の指導に「私は支部長の人格を尊重している。支部長は地区部長を尊重せねばならぬ。班長、組長も同様である。上の人が信心を十分して、下のものをかわいがらねばならぬ」とある。
 この言葉は、戸田先生の大事な指導として、私はいつも胸に刻み、心がけてきたつもりである。
 いずれにしても幹部の立場にある人は、後輩を大事にし、かわいがっていかねばならない。謙虚に、ていねいにお世話していかねばならない。これが学会の精神であり、仏法の慈悲の精神に通ずる。
29  ご存じの通り、私は昭和二十二年(一九四七年)八月二十四日、十九歳で入信した。以来、広宣流布一筋に進んできた。そして明二十四日には、入信満四十年を迎える。次に私は、入信満五十年を目指して、広宣流布のために、全世界の平和のために、また正法外護と大切な仏子である会員を守るために、全力をあげて戦い抜いていくことをお誓いし、本日の私のスピーチとしたい。

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