Nichiren・Ikeda
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26 開道(26)
シズコ・グラントの頬は次第に紅潮していった。
山本伸一は、彼女が、使命の人として一人立つことを念じて、指導を重ねた。
「イギリスには、日本から来た四、五人のメンバーがいると聞いています。まず、その方たちとしっかり連絡を取り、励まし合っていってください。
また、たくさん友人をつくって、その人たちとともに幸せになるために、仏法を教えていくことです。
人のために尽くすことは自らの生命を浄化し、自身の境涯を開いていきます。あなたの活躍を、私は期待していますよ。
今日は、せっかく来てくださったのだから、何か相談があれば、この後、一緒に来ている幹部と話し合ってください。
それから、もし、よろしければ、明日、市内を回りますので、ご一緒にいかがですか」
「はい。よろしくお願いします」
シズコ・グラントは、嬉しそうに答えた。
彼女は、一時間ほど、同行の幹部に指導を受けて、帰っていった。
その夜、伸一の部屋に、皆が打ち合わせのために集まって来た。
伸一は言った。
「ここで、ヨーロッパの組織について、検討したいと思う」
同行の幹部が尋ねた。
「やはり、ヨーロッパは支部か総支部とし、各国に地区を置くことになるのでしょうか」
「いや、今は、各国ともほとんどメンバーはいないのだから、急がなくてもよいのではないか。
アメリカやアジアに総支部をつくったからといって、ヨーロッパもそれに合わせる必要は全くない。
なんでも画一的に考えるのではなく、各地の実情に合わせて、対応していくことが大事だよ。
ヨーロッパの場合は、まず、西ドイツ(当時)、フランス、そして、このイギリスに連絡責任者を置いたらどうだろうか。
そして、その人たちを中心に、メンバーが増えてきたら、正式に地区などを結成していくようにした方がよいと思う。ヨーロッパは、足元を固めながら、じっくりやろうよ」
伸一は、何よりも実質を重んじた。
アメリカでは、ほとんどメンバーがいないネバダにも地区をつくり、オリバー夫妻を地区部長と地区担当員に任命した。
それは、この夫妻ならば、自分たちの力で、地区を建設することができると、確信したからである。また、自分で組織をつくり上げることができてこそ、本当のリーダーといえる。
27 開道(27)
組織をつくることに対して、山本伸一は、常に慎重であった。
全会員に、漏れなく激励と指導の手を差し伸べていくには、組織は必要不可欠である。
しかし、それぞれの国情も、十分に考慮しなければならない。また、中心者にふさわしい人が、育っているかどうかが、最も大事な要件となる。
特に、ヨーロッパの場合は、伝統的なキリスト教社会であるだけに、中心者になる人には、その文化をよく理解し、無用な摩擦を起こさぬ配慮も求められる。
広宣流布の目的は、どこまでも、その国の人びとが良き市民となり、社会に貢献しながら、自身の幸福と平和を築くことにある。
だから、伸一は、社会を大切にしていた。また、同志を守ることに、誰よりも心を砕いていた。そして、それゆえに、組織をつくることには、慎重にならざるを得なかったのである。
同行の幹部たちも、彼の考えに同意し、まず、国や都市に連絡責任者を置くことになった。
検討の結果、ドイツ連絡責任者として、一行を空港で迎えてくれた日系の婦人が、パリ連絡責任者として、バレリーナの婦人が、更に、ロンドン連絡責任者として、シズコ・グラントが内定した。後は、本人の意向を確認し、決定をみることになる。
各国の人事の案が決まると、伸一は、川崎鋭治に言った。
「ところで、ヨーロッパ全体の連絡責任者は、川崎さんにやってもらおうと思うがどうだろうか」
川崎は、一瞬、緊張した顔をしたが、大きく息を吸い、元気な声で答えた。
「はい、わかりました」
「よし、これでヨーロッパは大丈夫だ! 今日は、ヨーロッパと川崎さんの新しい出発の日だよ」
川崎は、その言葉にハッとした。考えてみれば、山本会長は、以前から、このことのために、信心もわからぬ自分と何度も会い、忍耐強く激励し、指導してきてくれたのではないかと、彼は思った。
そして、二年前に初めて伸一と会って以来の、数々の思い出が川崎の頭に浮かんでは消えていった。
また、このヨーロッパの旅の間も、山本会長が寸暇を見つけては自分に語りかけ、あらゆる機会を通して仏法のリーダーとしての在り方を、教えてくれていることが実感された。
″いよいよ私も立ち上がる時が来たのだ。この先生の期待に応えなければならない。「信心の名医」になるぞ!″
川崎は、欧州広布の使命を深く自覚したのである。
28 開道(28)
ロンドンでも天候に恵まれ、晴れた日が続いた。
十四日は、朝から市内を回った。
大英博物館やバッキンガム宮殿、更に、郊外にある王室の居城となっているウィンザー城や、チューダー王朝などの王宮だったハンプトン・コートにも足を延ばした。
ロンドンの街は、華やかなパリに比べ、落ち着いた風格があった。
街を行く男性も、きちんと帽子を被った″イギリス紳士″が多く、歴史と伝統を大切にする気風を感じさせた。
途中、とある公園を歩いた。ベンチで憩う、たくさんのお年寄りの姿が目についた。
「ハロー。ちょっと隣に座ってもよろしいですか」
山本伸一は、丁寧に帽子を取り、七十代半ばと思われる白髪の老人に、声をかけた。
同行のメンバーが、それを英語に訳して伝えると、その老人は、穏やかな目で頷いた。
伸一が日本から来たことを告げると、語らいが始まった。
このころ、イギリスでは六十五歳以上の高齢者の比率は、人口の一二パーセント近くに達していた。
一方、日本は、まだ、六十五歳以上の高齢者の比率は六パーセントに満たなかった。しかし、医学の進歩などによって、日本も他の先進国と同様に、平均寿命は飛躍的に伸びつつあった。また、人口は都市に集中して、核家族化はますます進み、子供の数は減りつつあった。
すると、日本も、将来、高齢者の人口比率は増加の一途をたどることが予想された。
にもかかわらず、老年問題−−今日いうところの″高齢化社会″の問題に対する一般の関心は、まだまだ低かった。
しかし、伸一は、会長として、年配の同志のことを考え、また、日本の将来を考えると、この問題にも、決して無関心ではいられなかった。
デンマークで高齢者アパートを視察したのも、そのためであったし、「揺りかごから墓場まで」と言われる、優れた社会保障の制度をもつイギリスの実情も、知っておかねばならないと思ったのである。
老人は、公園のベンチで伸一と語り合ううちに、ぽつりぽつりと、身の上を話し始めた。
かつては、繊維工場に勤めていたが、既に退職し、今は、年金を受け、二階建ての集合住宅で独り暮らしをしているという。息子は二人いるが、それぞれ郊外に家を建てて住んでいるとのことだ。
29 開道(29)
山本伸一は言った。
「イギリスの社会保障は優れていますから、経済的な面では、どの国のお年寄りより、恵まれているのではないかと思います」
老人は、深い皺の刻まれた口元に笑いを浮かべた。自嘲的な笑いであった。
「ほかの国のことは知らないが、確かに、私たちは生活に困ることはないし、病院へも行ける。でも、決して楽ではない。
年寄りが増え、働き手が少なくなれば、国の経済力は落ちていくからだろう。かつて、七つの海を支配したイギリスの未来と、自分の老後に、私はもっと期待していたんだがね……。
年金暮らしを始めてからも、私は、まだしばらくは働きたいと思った。体も元気だったからね。しかし、年寄りを雇ってくれる会社はなかった。むしろ、それが、一番寂しかった。生きる張り合いがなくなったというか……」
伸一は、老人の話を聞きながら、日本の未来を重ね合わせていた。
−−この当時、日本では、五十五歳を定年とする企業がほとんどであった。
イギリスに比べ、社会保障の制度の遅れた日本では、高齢者の比率が増えれば、年金制度も行き詰まり、年金だけで生活することは困難になる可能性も高いに違いない。
それを避けるためには、年金制度だけでなく、定年制も見直し、高齢者にも、広く就労の場を提供する必要があろう。
また、人間の生きがいという面でも、一定の年齢に達したからといって、一律に就労の場がなくなるということは、大きな問題をはらんでいる。
しかし、高齢者の雇用を推進しようとするならば、お年寄りに適した仕事のペースや勤務時間を考え、通勤ラッシュや職場環境などを改善することも不可欠となろう。つまり、就労一つとっても、さまざまな問題に波及していく。
″高齢化社会″に備えるためには、従来の社会の在り方そのものを考え直し、政治はもとより、医療機関、企業、住民など、社会全体で取り組まなければならない。しかも、それらは、一朝一夕に対応できることではない。
それだけに、国家の指導者には、未来を見すえて万全な対策を練り上げていく構想力と、それを実行していく、リーダーシップと、責任感とが求められる。また、そうでなければ、国民が不幸である。
伸一は、こう考えると、賢明にして責任ある政治家の出現を、待望せざるを得なかった。
30 開道(30)
秋風に、色付いた木々の葉が揺れていた。
老人は、自分の気持ちを山本伸一に語っていった。
「実は、二年前、妻に先立たれてしまってね。私にとって、最大の衝撃だった。人生から急に光が失せてしまったよ……」
老人は、語るうちに目頭を押さえた。伸一は、優しい口調で尋ねた。
「親しくしているお友達はいないのですか」
「近所に同じ年の親友が住んでいたが、その男も、半年前に死んだ。人間なんて、はかないものだ。
今では、一日中、部屋にこもり、誰とも言葉を交わさないことがよくある。いや食事を作ることさえ面倒になり、抜かしてしまうことが多い……」
その言葉には寂しい響きがあった。伸一は思った。
−−老年問題を考えると、社会保障などの制度の整備が必要であることはいうまでもないが、同時に、友情と励ましと助け合いの人間の輪が大切になる。
隣近所のお年寄りに声をかける。親身になって話に耳を傾ける。自主的にできる限りの応援をしていく−−周囲にそうした思いやりのネットワークがあれば、独り暮らしをしていても、孤独感や不安感は、随分、軽減されるに違いない。
日本の都市部にも、町内会や自治会などの組織はあるが、それが人びとの心を結ぶ、助け合いの″現実の力″として機能しているかといえば疑問である。
ここまで考えた時、伸一は、従来のタテ線の組織とともに、近年、学会が力を注いできた、地域に根差したブロック組織に思いをめぐらした。
そこには、同じ地域に住む人びとが、互いの幸福を願い、親身になって相談にのり、いたわり、励ます、人間の融合の姿がある。利害ではない、無償の助け合いの人の輪である。
独り暮らしのお年寄りに対して、日々、自分の親のように接し、何かとお世話している同志の話も数多く耳にしてきた。しかも、各人が、自分の考えで、自発的に行っているのである。
また、会合で、整理や誘導にあたる、学会の青年たちの姿にも、お年寄りを大切にする心を感じることができた。
では、なぜ、学会のなかに、そうした精神が育まれていったのか。
戸田城聖は「青年は、親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人を愛せようか」と、仏法者の当然の生き方として、民衆を、そして、親を愛することを教えてきた。
更に、日蓮大聖人は、人間の道として報恩を説き、父母や衆生などの恩についても述べられている。
31 開道(31)
報恩は、仏法を貫く特徴的な考えといってよい。
そして、そこには、縁起(縁りて起こる)、すなわち、いかなる物事も、たった一つで存在するのではなく、すべては、互いに依存し、影響し合って成り立つという思想がある。
この考えに立つならば、今の自分があるのも、多くの人びとに支えられてきたからであり、親に限らず、他者への感謝と報恩の心で、接していこうとすることになる。
つまり、学会の世界に見られる麗しい人間の絆は、この仏法の「共生」の哲学を、一人一人が身につけてきたからにほかならない。
社会保障の制度が完備されているからといって、晩年の人間らしい生活が保障されることにはならない。それは、人が生きるための、必要な条件の一つにすぎないといえよう。
たとえば、どんなに立派なストーブがあっても、石炭などの燃料を燃やさなければ、部屋を暖めることはできない。社会保障の制度がストーブだとすれば、燃料を燃やす行為にあたるのが、身近に接する人びとの思いやりであり、心遣いである。
こうした人間的な支援こそ、高齢化した社会を守り、支える、最も大切な要件といえる。
また、お年寄りが人間らしく生きることのもう一つの要件は、なんらかの役割を担い続けるということであろう。
体力は衰えても、自分のなすべき仕事をもち、若い世代とも交流し、生きがいを創造できてこそ、人間的な生活といえる。
その点、たとえば、かつての農家では、大家族で生活を営み、子や孫との日常的な接触があり、高齢になっても、自分の役割、仕事があった。
特に、経験に裏付けられた老人の知恵が尊重され、孝養を重んじる日本社会の伝統が生きていた。およそ、お年寄りが疎外されることはなかったといってよいだろう。
しかし、日本の工業化が進むにつれて、人口は大都市に集中し、家族は分散され、核家族化が広がっていった。しかも、目覚ましい技術革新の波は、多くの分野で、経験を積み重ねてきた熟練者の技術を必要としなくなった。
それに対して、学会にあっては、年配者の活躍の場は数多い。
人間の道を学び深める信仰の世界にあっては、幾多の試練を経てきた、豊富な人生経験をもつ人びとのアドバイスが、皆の生き方の最大の参考となり、手引きとなるからである。
32 開道(32)
友の激励に自己の使命を見いだし、人びとのよき相談相手となり、後輩の成長を見守る、高齢の同志は数限りない。
その姿には、はつらつとした生命の輝きがある。
老年期とは、人生の総仕上げの時代であり、精神の完成期といえよう。
社会的な地位や立場、また、金やモノにも翻弄されることなく、一個の人間として、生と死を、そして、自己自身を見つめ、人生の本当の価値を探求できる年代である。
しかし、どこまでも自分を高め、自己完成への意志を持ち続けていくには、確かな生死観、生命観をもつことが不可欠であろう。
古来、幾多の人びとが不老不死を願望してきたが、人間は生老病死を離れることはできない。いかなる人も、やがていつかは老い、死んでいく。
だが、この世は、ただ無常なだけの世界で、死によってすべてが終わるとすれば、多くの人は、死を前にして、人生のはかなさ、空しさを覚えるに違いない。
そして、そのなかで、自己の完成に向かって、最後まで努力し続けることが、果たして可能であろうか。
人間が最高の生を全うするためには、死をどうとらえるかが、極めて重要な問題となってくる。
また、死後、自分がどうなるのかを考える手掛かりがなければ、人は死に対して大きな不安を感じよう。
ましてや、死んだ後に、「地獄」という苦しみの世界が待っていると思えば、死は最大の恐怖以外の何ものでもなくなってしまう。
仏法は、その死と生とを解明した、生命の法理である。「無常」の世界を貫く「常住の法」があることを説き、生命の永遠を明かしている。
すなわち、肉体は滅しても、生命は滅びることなく、また、新たな誕生を迎える。そして、罪業も、福運も、境涯も、自分がつくり出したものであり、それは、そのまま、来世にも引き継がれると説く。
更に、仏法の偉大さは、今世でその宿業を転換し、いかなる試練にも負けない自己を確立し、絶対的幸福境涯を築きゆく方途を示していることにある。
つまり、今世の人生の勝利が、そのまま来世のスタートとなることを、仏法は教えているのである。
この生命の法理に立脚してこそ、人は死を直視し、限りある人生の一日一日を最後の瞬間まで、人間の完成に向かい、自己を燃焼させ続けることができる。
また、その求道の心には、「生涯青春」の息吹が脈打っていく。
33 開道(33)
ドイツに生まれ、アメリカに育った、ユダヤ人の詩人サムエル・ウルマンは、「青春」と題する詩で、次のようにうたっている。
青春とは人生のある期間ではなく、
心の持ちかたを言う。
薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、
たくましい意志、ゆたかな想像力、炎える情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
青春とは臆病さを退ける勇気、
安きにつく気持を振り捨てる冒険心を意味する。
ときには、二〇歳の青年よりも六〇歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うとき初めて老いる。
この詩は、山本伸一がイギリスにあって考えた、心の若さという問題を、巧みに表現していたといってよい。
伸一は、日本の″高齢化時代″を考える時、創価学会の重大な使命を痛感せざるを得なかった。
一人一人の同志が、それぞれの地域にあって、周囲に「共生」と「慈悲」のネットワークを広げていくならば、「人間砂漠」のような現代社会も、心のオアシスへと変えていくことができる。
また、「生涯青春」の気概で、人生を全うしていくためには、仏法という確かな生命の哲学を、人びとの心に打ち立てていかなくてはならない。
人間は、誰でも、いつかは老いる。本当に″豊かな社会″とは、老いても、人間らしく、楽しく、喜びにあふれ、創造的な人生を最後まで全うしていける社会といえよう。
時代は、間違いなく、仏法を渇望しているのだ。
伸一は、公園で、老人と別れ際に、こう語った。
「子供さんも、お孫さんも、おじいちゃんがいつまでも、元気でいることを願っているはずです。
元気でいるためには、みんなのために、自分にできることは何かを考え、行動していくことです。周囲の子供たちや、同じお年寄りに声をかけて、励ましてあげることもよいでしょう。
ともかく、いつまでも、なんらかの目標をつくり、希望と喜びをもって生きていくことです。
私は、あなたのことは忘れません。人生の先輩に敬意を表します。いつまでもお元気で!」
老人の顔に、屈託のない微笑が浮かんだ。
34 開道(34)
この日の夜、山本伸一は、ロンドンに駐在している、日本の商社、銀行の何人かの関係者と語らいの場をもった。
伸一は、イギリスの経済の展望や、ヨーロッパの未来について、話を聞きたかったが、あいにく、彼らが口にしたのは、この地での生活の不便さであった。
散髪やクリーニングなども、日本と比べると仕事が粗雑であり、また、どの料理店も、自分たちには決してうまいとは思えないというのである。
伸一は、笑いを浮かべながら言った。
「外国に来て、日本と比べ、日本と同じことを期待するのは、間違いではないでしょうか。
イギリス人も、フランス人も、日本に来れば、おそらく、いたるところで、不便を感じるでしょう。
確かに『我が家が一番』というのは人情ですが、ことわざにも、『郷に入っては郷に従え』ともいうではありませんか。その国に来たら、やはり、その国の価値観、文化、感覚に立とうとするべきではないかと思います。
これから、世界は、ますます狭くなっていくでしょう。そこで大事になるのが″心の世界性″であると、私は考えております」
「ほう、″心の世界性″ですか……」
商社の支店長が、興味深そうに言った。
「つまり、日本の文化や伝統、生活様式を基準にして、それぞれの国を評価するのではなく、世界の多様性を認識し、そのまま受け入れていくことです。
もちろん、日本人としての誇りや、自国の文化を守ることも大切です。世界性を身につけることは、自国の文化や伝統を捨てることではありませんから。
ただ、自国を判定の基準にして、優劣を決めるという感覚から、脱皮していかなくてはならないということです。
また、外国に居住しながら、日本人が、いつも日本人だけで行動するというのも、非常に閉鎖的な印象を与えかねません。
その国の社会に溶け込む努力が必要であると、私は思うのですが……」
すると、年配の列席者の一人が言った。
「確かに、おっしゃる通りだと思いますが、年をとると、感覚を改めるというのは、なかなか難しいですな……。私なども、なんでも日本と比べてしまい、つい腹を立てたり、妙に感心してしまったりすることが多い。
結局、なんだかんだと言っても、私には日本が一番いいですね」
35 開道(35)
ここにいる人たちは、語学も堪能だし、海外生活も長いはずである。
しかし、彼らには、日本的な閉鎖性が根強く残っているようだ。山本伸一は、正直なところ、残念でならなかった。そして、何がそうさせているのかを、考えざるを得なかった。
皆と語り合ううちに気づいたのは、何年かすれば、自分は日本に帰る立場であり、この国は″腰掛け″にすぎないという意識をもっていることであった。
したがって、長い展望のうえから、この国のために何ができるかを考えるのではなく、自分の赴任中に、いかに実績を上げるか、あるいは、いかに問題を残さずに任期を全うするかが、テーマになっているようであった。
伸一は、率直に、自分の思いを語った。
「人間は、一定の年齢になってしまえば、感覚を変えるのは、確かに大変でしょうから、青年に期待するしかありません。
皆さんの会社でも、どんどん青年を派遣してほしいし、あらゆる職種の青年が外国に来るべきです。
皆さんが不便だと感じたり、客観的に見て、改善すべきだと思う点が多いということは、まだまだ日本の青年たちが、力を発揮できる分野がたくさんあるということです。
また、日本の青年は、もっと、もっと大胆に、自分たちは″世界市民″であるのだという気概をもたなければなりませんね。
ただし、外国に働きに来る限りは、一旗揚げて、故郷に錦を飾ろうなどと考えるのではなく、そこに永住し、その国を愛し、その国のために貢献していくぐらいの決意がなければならないと思います。これは、私の恩師の思想なのです。
そうでなければ、その社会で信頼を勝ち取ることはできない。
また、そうしていくことが、国境を超えて人間と人間の相互理解を深め、互いに信じ合っていく大事な要素にもなります」
話題は、それから、青年の使命に移り、更に学会の青年部へと移っていった。
伸一は、青年部の精神を通して、学会の理念について力を込めて語った。
ここに集った商社の支店長らは、ロンドンの日本人社会では、大きな影響力をもつ人たちである。
その人たちに、学会への深い理解を促すことで、今後、日本からロンドンにやって来るメンバーたちのために、道を開いておきたかったのである。
″開道″は対話から始まる。勇気の言葉、誠実の言葉、確信の言葉が、閉ざされた人間の心の扉を開くからである。
36 開道(36)
翌十月十五日は、ロンドンを発って、次の訪問地である、スペインのマドリードに向かう日であった。
一行の搭乗機の出発予定時刻は、午前十時四十分である。山本伸一たちは、九時前に空港に到着した。
ところが、濃霧のために飛行機の出発は遅れるとのことであった。しかも、いつまで待つことになるか、わからないという。
空港には、ロンドンの連絡責任者となったシズコ・グラントも、見送りに来てくれていた。
伸一は、待合室で、彼女に言葉をかけた。
「わざわざありがとう。
励まし合える友人も、指導してくれる先輩もいないところで、信心を続けるのは大変なことだ。歓喜し、決意に燃えている時はよいが、ともすれば自分に負け、ついつい惰性化してしまうのが人間の常です。
しかし、御書には『心の師とはなるとも心を師とせざれ』と仰せです。自分の弱い心に負け、弱い心を師として従ってはならない。
その時に、帰るべき原点が御書です。御書こそが、心の師となる。ゆえに、教学が大切になります。
その意味で、今日は、この時間を使って、教学の試験をしよう」
「試験ですか!」
彼女は戸惑いの表情を浮かべた。
「心配しないで大丈夫だよ。あなたが、これまでに学んできたことを、確認するだけだから。
それに、ヨーロッパでは今のところ、教学の試験の予定もないので、教学部員になるチャンスをつくっておきたいのです」
伸一は、傍らにいた同行の幹部に、設問を考え、試験官になるように伝えた。
一人の友の成長のために何ができるか−−彼は、常にそのことばかりを考えていた。
広宣流布とは、人間性の勝利の異名だ。そうであるならば、人を磨き、鍛え、育て、輝かせていく以外にその成就の道はない。
待合室の一隅で、シズコ・グラントの試験が行われている間、伸一も御書を拝読していた。
時刻は正午を過ぎた。
昨夜、会食をした商社の関係者が、一行のために、昼食のオニギリを届けてくれた。その人は帰りがけに、こう語った。
「昨日の山本先生の、その国に永住し、愛し、貢献していくぐらいの決意でなければならないとのお話は、心に残りました。私たちが忘れている大事なことを教えてくれました。やはり″腰掛け″のような気持ちではいけませんね」
心の共鳴は、広がっていたのである。
37 開道(37)
滑走路は、まだ濃い霧に覆われていた。飛行機が飛び立つ様子はなかった。
川崎鋭治らが空港の係員に、何度も出発の見通しを尋ねていたが、「わからない」との答えが返ってくるばかりであった。
皆、次第にイライラし始めていた。
それを感じ取ると、山本伸一は言った。
「霧の都ロンドンに、霧が出るのは仕方がない。ロンドンに来て、霧も見られないとしたら、かえって寂しいじゃないか。
それに、今度の旅では、ベルリンで少し雨に降られた以外は、晴天に恵まれてきた。いつも、そんなにうまくいくものではない。大雨もあれば、濃霧もあって当然だ。
広宣流布の道だって同じだよ。いつ、何が待ち受けているかわからない。順風の日ばかりであるはずがないもの。
しかし、霧が立ちこめたり、嵐があったり、時には絶体絶命の窮地に陥りながらも、そのなかで戦い、勝っていくから痛快なんだ。
『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』だよ。みんな勇気をもって、すべてを楽しみながら、壮大な広布のドラマを演じていこうよ」
伸一は悠然としていた。
「さあ、せっかく時間ができたんだから、少しでも勉強しよう」
彼は、こう言うと、再び御書を開いた。
そして、一時間ほど御書を研鑽すると、今度は、絵葉書を取り出し、日本の同志にあてて、次々と激励の一文を書き始めた。待合室は、まさに書斎となり、執務室となった。
人が無為に過ごす時間というのは、かなり多いに違いない。その時間を有効に生かし、活用することによって、人生に、いかに大きな実りをもたらすか計り知れない。
空港のアナウンスが、マドリード行の飛行機への搭乗を告げたのは、午後五時近かった。既に六時間余りの遅れである。
伸一は、見送りに来てくれたシズコ・グラントに丁重に礼を述べ、飛行機へと向かった。搭乗機は、更に待機した後、離陸し、雲のなかを上昇していった。
しばらくして、伸一は、窓の外を見た。満天の星である。
その星々のなかに、恩師戸田城聖の顔が浮かんだ。
″先生は、私の旅を、じっと見守ってくださっている。日々、新しい歴史のページを開き続けよう″
伸一は、いささか疲れを感じていたが、戸田を思うと、胸には、泉のように闘志がわくのであった。