Nichiren・Ikeda
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24 春嵐(24)
区長は、新しい地区規約を読み上げていった。
「当地区の協議決定事項のいかなる事についても、自分の好むものはよし、好まぬものは知らぬというような事になると、地区全体の統制がとれなくなる。
よって、次の申し合わせ規約を定む。
一、当地区自治体の協議において決定した、あらゆる共同事業の経営に際し、地区の財産及び資金をもって充当するも、何人たりとも、異議の申し立てをする事はできない。
二、地区の協議において決定せられたすべての協議事項を履行せざる者は、(原則として)地区の一員(戸主)としての権利と資格を放棄したものと認む。
三、この規約に違反したる者は、違反したると認めた時日より満一カ年後において、地区の一員(戸主)の資格を失うものとする」
そして、この新規約の決議に移った。
福田民人以外は、一人の壮年が反対しただけで、あとは全員が賛成であった。新規約に皆が署名、捺印していった。
区長は言った。
「これで多数決により、可決いたしました。この規約は、本日より施行されることになります」
拍手と歓声があがった。信教の自由も人権も奪う、憲法に反する地区規約が成立してしまったのだ。
会場を後にする福田の背に、りの声が浴びせられた。福田は、胸の底から怒りがあふれ、体はワナワナと震えた。
″こんなことが許されてええんか! 日本は法治国家や。人権が踏みにじられてなるもんか。
俺は戦う。断固、戦ってみせる。絶対に負けるもんか……″
福田は関西の幹部らと連携を取り、地元の三田署に人権侵害、名誉毀損で区長を告訴した。また、法務局にも、地区規約には憲法違反の疑いがあることを告げて、調査を要請した。
法務局は、すぐに調査を開始し、区長に対して、地区規約を破棄するよう勧告した。しかし、地元の警察は、地区の役員らと密接ながりがあるせいか、なかなか動き出そうとはしなかった。
また、勧告を受けても、地区の役員は、考えを改めようとはせず、役員の一人は、こう言ってはばからなかった。
「憲法違反であろうが、なかろうが、地区のことは地区の規約によって運営するものや」
福田の一家には、さまざまな圧力がかけられた。
25 春嵐(25)
福田民人の地域では、竹細工が名産であり、彼の家でも竹カゴなどを作っていたが、問屋がそれを引き取らなくなった。
問屋はこの時、寺の檀家総代であった。
福田が勤めに出ていたことで、一家は辛うじて生計を立てることができた。
そんな彼にとって、「我々は、戦おうじゃないか!」との、三月十六日の山本会長の指導は、大きな勇気となり、力となった。
″いよいよ魔が競い起こって来たんや。信心が試されているんや″
彼はへこたれなかった。
この事件は、区長らが地区規約を破棄し、福田が告訴を取り下げて、和解が成立するまでに、実に約二年間の歳月を要している。
こうした事件は、兵庫県だけではなかった。やはり同じころ、三重県の熊野市のある漁村では、学会員十三世帯が、地域で祭っている「山の神」の行事への参加を拒否したことから、地区の決議によって、共有林などの財産権を奪されるという事件が起こっている。
更に、熊本県阿蘇郡小国町や群馬県安中市では、神社の行事に協力しなかったとして、学会員には、農業に必要な共同機材などを使用させないといった村八分事件があった。
なかには、神社の寄付を断ったことから、祭りのたびに、学会員の店に、神輿を乱入させるというものもあった。祭りを利用しての悪質な集団暴力といってよい。
地域の祭りなどの場合、現代では、宗教的な意味合いは薄く、文化・社会的な習俗となり、地域の親睦の場となっていることが少なくない。したがって、祭りなども、信仰として参加するのでなければ、直ちに謗法となるわけではない。
各地に起こった村八分のケースを見ると、宗教色の極めて強い行事に、しかも、半ば強制的に参加させられることへの同志の拒否に始まっている。それは、彼らが学会員となることによって、信教の自由に目覚めたからにほかならない。
もともと、折伏を受け、対話の末に、入会すること自体が、信教の自由を前提に、自らの意志で宗教を取捨選択することであり、人間としての自立を意味しているといえよう。
山本伸一は、村八分事件の報告を聞くたびに胸を痛めた。自分のこと以上に辛かった。彼は、励ましの言葉を送るなど、さまざまな激励の手を差し伸べた。
また、最高幹部をはじめ各地の幹部にも、一人一人を温かく包み、応援していくよう指示していった。
26 春嵐(26)
山本伸一は、なんの罪もない同志が、理不尽な圧迫を受けていることが、かわいそうでならなかった。
しかし、それは仏法の法理に照らして考えれば、当然のことでもあった。彼の会長就任以来、新たな弘法の波が広がり、日本の広宣流布は飛躍的に伸展しているのである。
学会員への村八分の理由となったのは、いずれも、寺院や神社の行事への不参加や、寄付の拒否であったが、それらは、むしろ、口実にすぎなかったようだ。
本当の理由は、それぞれの地域で、本格的な折伏が始まったことへの″恐れ″にあったといってよい。
学会の布教によって、まず、既成宗派の寺院や神社が、檀家や氏子が奪われてしまうという危機感をいだいた。
更に、寺院や神社にかかわりのある地域の有力者たちが、学会員が増えていけば、地域の秩序が乱され、自分たちの立場も危うくなるかのような錯覚をもち、学会員を締め出しにかかったのである。
そこには、他宗派や一部のマスコミの喧伝による、学会への歪められた認識もあった。
大聖人は、「大難なくば法華経の行者にはあらじ」と仰せである。難がなければ、まことの信心ではない。広宣流布が進めば、必ず嵐が競い起こるはずだ。
しかし、確かに嵐は吹き始めたが、それは、まだまだ本格的な嵐というには、ほど遠いことを伸一は感じていた。
彼は「難来るを以て安楽と意得可きなり」との御文を思い起こした。そして、全同志を、どんな大難にも、喜び勇んで立ち向かっていける、強き信仰の人に育て上げなくてはならないと思った。
伸一は、この村八分事件を、そのためのステップと、とらえていたのである。
また、これらの事件は、社会的に見れば、日本という国の、未成熟な民主主義と人権感覚を物語るものであったといってよい。
古来、日本には土俗的な氏神信仰があり、地域の共同体と宗教とが、密接に結びついてきた。
江戸時代になると、幕府の宗教政策によって寺檀制度がつくられ、寺院によって民衆が管理されるようになった。そのなかで、寺院の言うがままに従うことが、本来の人間の道であるかのような意識が、人びとに植えつけられていった。
更に、明治以降、神社神道が、事実上、国教化されたことで、神社はもとより、宗教への従属意識は、ますます強まっていった。
27 春嵐(27)
地域の寺院や神社に従わなければ、罪悪とするような日本人の傾向は、いわば、政治と宗教が一体となり、民衆を支配してきた、日本の歴史のなかで、培われてきたものといえよう。
戦後、日本国憲法によって、信教の自由が法的には完全に認められても、国民の意識は旧習に縛られたまま、依然として変わることがなかった。
そして、共同体の昔からの慣習であるというだけで、地域の寺院や神社を崇め、寄付や宗教行事への参加が、すべての地域住民の義務であるかのように考えられてきた。
では、なぜ、人びとは民主主義を口にしながらも、無批判に共同体の宗教を受け入れ、旧習から脱することができなかったのか。
それは、民主主義の基本となる「個」の確立がなされていなかったからにほかならない。
一人一人の「個」の確立がなければ、社会の制度は変わっても、精神的には、集団への隷属を免れない。
更に、日本人には、「個」の自立の基盤となる哲学がなかったことである。本来、その役割を担うのが宗教であるが、日本の宗教は、村という共同体や家の宗教として存在してきたために、個人に根差した宗教とはなりえなかった。
たとえば、日本人は、寺院や神社の宗教行事には参加しても、教義などへの関心はいたって低い。これも、宗教を自分の生き方と切り離して、村や家のものと、とらえていることの表れといえる。
もし、個人の主体的な意志で、宗教を信じようとすれば、教えの正邪などの内実を探究し、検証していかざるをえないはずである。
こうした、宗教への無関心、無知ゆえに、日本人は、自分の宗教について尋ねられると、どこか恥じらいながら、家の宗教を答えるか、あるいは、無宗教であると答える場合が多い。
それに対して、欧米などの諸外国では、誇らかに胸を張って、自分がいかなる宗教を信じているかを語るのが常である。
宗教は自己の人格、価値観、生き方の根本であり、信念の骨髄といえる。その宗教に対する、日本人のこうした姿は、世界の常識からすれば、はなはだ異様なものといわざるをえない。
そのなかで、日蓮仏法は個人の精神に深く内在化していった。そして、同志は「個」の尊厳に目覚め、自己の宗教的信念を表明し、主張してきた。
いわば、一連の学会員への村八分事件は、民衆の大地に兆した「民主」の萌芽への、「個」を埋没させてきた旧習の抑圧であったのである。
28 春嵐(28)
この村八分事件を、参議院議員であった、理事の関久男は、極めて深刻な問題として受け止めていた。
仏法という次元でとらえれば、それは御聖訓通りの法難であることは間違いない。しかし、関は、政治家としての良心のうえから、信教の自由が保障されている法治国家で、信ずる宗教によって人間が差別されていることを、見過ごすわけにはいかなかった。
しかも、各地の村八分の状況は、事と次第によっては、生命にもかかわりかねない問題をはらんでいる。
関は考えた。
″これを放っておけば、信教の自由などなくなってしまう。また、人権を守ることなどできない。人権のために戦ってこそ、本当の政治である。
しかも、これは、ただ学会員だけの問題ではない。すべての宗教者の人権にかかわっている。いや、宗教者に限らず、人間への不当な差別を許すことになる。
こうした差別を放置しておけば、日本という国の未来に、大きな禍根を残すことになるだろう。これを解決していくことは政治家の義務だ″
関は、学会推薦の他の参議院議員たちとも話し合い、国会でこの問題を取り上げることにした。
三月二十三日の参院予算委員会で、彼は一般質問に立った。そこで、海外移住や保育所、青少年問題などについて質問するとともに、この村八分事件を取り上げ、関係大臣らに、ただしていった。
「最近、各地で、神社、仏閣への寄付にまつわる村八分事件が起こっております。これらの寄付は、敬神崇祖などの美名のもとに、祭礼等の際に強制されている。そして、それを拒否すると、村八分にしたり、あるいは神輿を乱入させるなどの、悪質な暴力事件まで起こっております。
このことについて、まずご存じなのかどうかを、お伺いしたい」
最初に答弁に立ったのは自治大臣であった。
「神社、仏閣、あるいはお祭りなどに際しまして、寄付行為が日本の慣習としてあることは事実でございます。それを和気あいあいとして行っているのであれば、必ずしも、とやかく言う筋のものではないと思います。
しかし、お話のように寄付が強制的であったり、出さなければ神輿を担ぎ込むといったような、暴力的なことに対しては、従来もそうでしたが、これからも十分に取り締まりたい。また、そうしたことのないように、気をつけてまいりたいと思います」
29 春嵐(29)
関久男は、更に質問を続けた。
「寄付をするか、しないかは、あくまでも個人の自由であるはずです。ゆえに宗教上の信念の相違とか、経済上の理由などで、寄付をしないという人もいるわけであります。
その寄付を強制し、無理強いするようなことがあれば、法律違反は明らかであります。当然、警察が調査に乗り出し、取り締まらなければならないと思う。
ところが、警察に訴えても、警察官は消極的であることが多い。なかには、寄付は志だから、出した方がよいのではないかという警察官もいる。警察官の在り方として、これでよいのかどうか、お伺いしたい」
自治大臣が答えた。
「そうしたケースも、あったかもしれませんが、今後は厳重に取り締まり、そういうことのないようにしていきたい」
関は、そこで、水道までも止められてしまった兵庫県の青垣町の例や、地区の共有林等の財産権を失った三重県の熊野市の例などをあげながら、いかに深刻な事態が起こっているかを語っていった。
「……この熊野市の場合など、駐在所に届けたところ、一週間もそのまま放置されておりました。たまりかねて本署の方へ行ったところ、署長はうすうす知ってはいたが、『告発していないから手をつけない。それは、法務局の人権擁護委員の仕事であって、法務局の要請がなければ動かない』と言っている。
こうした村八分は、憲法第二〇条にある『何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない』という条項に違反すると思います。
また、刑法の第二二二条に定められた『脅迫』でもあると思いますが、当局の見解はどうか、明確に答えていただきたい」
自治大臣は大儀そうに立ち上がると、目をしばたたきながら言った。
「お話のような事態があるとすれば、これは厳重に取り締まり、防止しなければならないと考えておりますし、至急、そうするつもりでございます。
ただ、こういった問題につきましては、往々にして複雑な原因がからんでいることがございまして、警察の力で解決することが妥当ではない面もあろうかと思われます。
そうした点にも、よく気をつけながら、判断し、処理をしてまいりたいと思います」
あいまいさを残す答弁であった。
30 春嵐(30)
関久男は、自治大臣の答弁のあいまいさを突いていった。
「大臣の答弁を聞いておりますと、複雑な事情がからんでおれば、村八分にされても、しかたないこともあるように受け取れます。
いかなる事情があったとしても、寄付をしないことで村八分にするというのは憲法に抵触し、刑法違反ではないかと思うのですが、この点はいかがでしょうか」
大臣は、今度は、関のあげた事例の村八分は違法であり、厳重な取り締まりを行うことを明言した。
関は、更に、警察庁の保安局長の見解も尋ねた。
保安局長は、慎重に言葉を選びながら言った。
「それぞれのケースを詳細に見ていかなければ、結論は出せませんが、今、関議員が言われましたケースは、おおむね刑法の第二二二条の『脅迫』にあたるのではないかと思います」
関の質問は、いよいよ大詰めに入っていった。
「そういたしますと、祭りや寺の修理などの寄付を拒否したことで村八分にあった場合、それを取り締まらないのは、警察官の怠慢と考えて、よろしいのでしょうか」
「ご質問にありました村八分のケースを、私が想定してみました場合、まず脅迫罪があると思われます。したがって、その訴えを受けて、ぜんぜん取り調べをしない、捜査を開始しないというのであれば、若干、警察官としては、問題があると思います」
関は鋭く迫っていった。
「しかし、さきほども申し上げましたように、実際に、そういうことがあまりにも多い。
調べてみると、警察官が町や村の役員などと知り合いであったり、飲み友達であったりする。
そして、警察官がそちらの有力な方について、村八分にはかかわらないということが、現実に起こっているのです。これに対しては、どうお考えでしょうか」
「村の有力者と馴れ合いになり、被害の届け出があっても、情実にとらわれて動かないというのは、まことにまずいことであります。厳しく監督をいたさねばならないと思います」
これで、学会員への村八分は、違法行為であり、訴えがあれば、直ちに警察は取り締まらなければならないことが明らかになった。当然のことであろう。
しかし、旧習の深い地域で、有力者と警察官とが馴れ合いになり、これまで、その当然のことが行われず、学会員は不当な差別に、泣き寝入りしなければならなかったのである。
31 春嵐(31)
関久男の参議院予算委員会での追及以来、警察も学会員の訴えに、調査に乗り出し、取り締まる姿勢を見せ始めた。
しかし、学会員への有形無形の圧力や差別がなくなったわけでは決してなかった。その後も、各地で学会員へのいやがらせや、陰険な村八分が続いていた。
それは、正法正義のゆえに競い起こる、経典に説かれた三類の強敵のなかの、俗衆増上慢との戦いにほかならなかった。
しかし、同志は信心で耐え、信心で戦い抜いた。
山本伸一も、各地で、そうした同志たちから、報告を受けることがあった。その時、彼は、こう言うのが常であった。
「長い人生から見れば、そんなことは一瞬です。むしろ、信心の最高の思い出になります。
仏法は勝負です。最後は、必ず勝ちます。決して、悲観的になってはならない。何があっても、堂々と、明るく、朗らかに生きていくことです。
牧口先生は獄死された。戸田先生は戦時中に二年間も投獄されている。それから見れば、村八分なんて、蚊に刺されたようなものではないですか。
皆さんを苛めた人たちは、やがて、あなたたちご一家が功徳にあふれ、幸福になり、輝く人格の姿を目にすれば、とんでもないことをしてしまったと思うに違いありません。そして、生涯、後悔することになるでしょう」
伸一は、同情は、その場しのぎの慰めでしかないことを、よく知っていた。
同志にとって大切なことは、何があっても、決して退くことのない、不屈の信心に立つことである。そこにこそ、永遠に、栄光の道があるからだ。
三月度の本部幹部会は、二十七日、台東体育館で行われた。
三月度の折伏は、四万四千八百世帯余りで、学会の総世帯数は百八十五万を突破した。
また、この席上、桐生、北多摩、立川、熊谷、高崎、長岡、熱田、愛知、岡崎、奈良、舞鶴、神戸、兵庫、福山、松江の十五支部が誕生した。
更に、三月に行われた教学試験の最終結果も発表された。
新たに助教授五百七十一人、講師二千七百九十人、助師二万二千八百七十四人が誕生したのである。
これによって、教学部員は、一挙に二倍以上になり、四万人を超える大教学陣となったのである。
躍進の波は一段と勢いを増し、伸一の会長就任一周年となる五月三日を目指して、更に、うねりを広げていこうとしていた。
32 春嵐(32)
四月二日は、山本伸一が会長に就任して初めての、第二代会長戸田城聖の祥月命日であった。
この日、戸田の四回忌法要が、東京・池袋の常在寺で、午後一時過ぎから営まれた。
午前中は晴れていたが、伸一が会場に到着した正午ごろには、空はにわかにかき曇り、大粒の雨が降り始めた。風も激しく、雷鳴が轟いた。春嵐であった。
伸一は、窓ガラスを打つ雨を見ながら、″嵐のなかを進め!″との、戸田の指導であるかのように思えてならなかった。
彼は、一九五一年(昭和二十六年)の七月十一日に行われた、男子青年部の結成式の日のことが頭に浮かんだ。その日も、激しい雨であった。
結成式の席上、戸田は、淡々とした口調で、この日の参加者のなかから、必ずや、次の学会の会長が現れるであろうと語った。
そして、広宣流布は絶対にやり遂げねばならぬ自身の使命であると述べ、日蓮大聖人の仏法を、東洋、世界に流布すべきことを訴えたのである。
その恩師がいて、はや三年が過ぎた。伸一は、その間の戦いに、いささかも悔いはなかった。戸田に向かって、弟子として胸を張って報告できる自分であることが嬉しかった。
法要が始まった。
日達上人の導師で勤行・唱題した後、各部の代表らがあいさつに立ち、最後に伸一の話となった。
伸一は、マイクの前に立つと、一言一言、み締めるように語り始めた。
「……戸田先生が昭和二十六年五月三日に会長に就任なされた時、嵐のごとき非難と中傷が渦巻いておりました。その前に、事業が窮地に陥り、悪戦苦闘されたことから起こった批判でありました。
会長として立ち上がられた戸田先生は、そのころ、幾度となく、こうおっしゃっておりました。
『今、私は百年先、二百年先を考えて立ち上がり、戦っている。だが、人びとには、それはわからない。
しかし、二百年たった時には、私の行動が、私の戦いが、全人類のなかで、ただ一つの正義の戦いであったということが、証明されるであろう』
先生は二百年先と言われましたが、先生が亡くなってたった三年で、その戦いが、どれほどすばらしいものであったかが、証明されようとしています」
参列者は、目を輝かせながら、伸一の話に耳をそばだてていた。
33 春嵐(33)
静まり返った場内に、獅子吼のような山本伸一の声が響いた。
「今や、不幸に苦しんできた民衆が、戸田先生の教え通りに信心に励み、偉大なる功徳を受け、見事に蘇生した姿が、全国津々浦々にあります。
この民衆の蘇生こそ、誰人もなしえなかった、最大の偉業にほかなりません。
しかも、それは日本国内にとどまることなく、南北アメリカへ、アジアへと広がっております。これこそが、先生の正義の確かなる証明であります。
先生のご精神は、御本尊を根本に、この世から不幸をなくし、平和な日本を、平和な世界を築くことにありました。そのために、折伏の旗を掲げ、広宣流布に一人立たれました。
私どもは、戸田門下生でございます。先生が折伏の大師匠であれば、弟子もまた、折伏の闘将でなければなりません。私たちは、毎年、先生のご命日を一つのくぎりとして、広布への大前進を遂げてまいりたいと思います。
私は、戸田門下生の代表として、『広宣流布は成し遂げました』と、堂々と先生の墓前にご報告できる日を、最大の楽しみに、進んでまいります。
しかし、もしも、それができない場合には、後に残った皆さんが、同じ心で、広宣流布を成就していただきたいことを切望し、私のあいさつといたします」
法要が終わると、伸一は窓の外を見た。
いつの間にか、嵐はやんでいた。
庭には、枝いっぱいに花をつけた桜の木が、雲間から差す太陽の光を浴びて、微風に揺れていた。戸田の葬儀の日に、別れを惜しむかのように、花びらを散らしていた木である。
咲き薫る花を妬むかのごとく、吹き荒れた嵐も、一瞬にすぎなかった。
彼は、戸田の和歌を思い起こした。
三類の
強敵あれど
師子の子は
広布の旅に
雄々しくぞ起て
それは、一九五五年(昭和三十年)の十一月三日、第十三回の本部総会を記念して、戸田が伸一に贈った和歌であった。
その師子の子は、いよいよ本格的に疾走を開始したのだ。師子が走れば、大地を揺るがし、風を起こし、雲を動かし、嵐を呼ぶことは間違いない。既に、その兆しは起こっている。
しかし、伸一の覚悟は決まっていた。
彼は、を握り締め、春嵐に耐えた桜の枝を、じっと見つめた。