Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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8・24記念大田区幹部総会 深き「感謝の心」「歓喜の心」を

1987.8.23 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

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20  多くの宗教が、高尚な人間愛、また生命の尊厳を説くにもかかわらず、異端、または異教の人間に対しては、残虐非道な行動をとってきた。
 私どもも、大聖人の仰せ通りに広布と信心の道を進んできたにもかかわらず、正信の徒と自称する違背の者から、理不尽な仕打ちを受けた。宗教が一歩誤れば、いかにその権威を借りて残酷で、恐ろしいものとなるかを経験している。
 しかし、真実の仏法は、すべての人間が本来、仏性を抱いた尊厳な存在であることを説ききっている。ここに信仰のいかんにかかわらず、一人一人の人間を尊重し、麗しい人間共和の世界を築く根本原理がある。この仏法の根本精神こそ、あらゆる人々が持ち続けるべきである。そして、″時代の精神″としていくとき、人類の願望であった、美しい人間性に満ちた平和にして安穏なる世界が開かれていくのである。
21  次元は異なるが、建治元年(一二七五年)、鎌倉幕府は、蒙古(元)の使者五人を竜の口で斬首した。その報告を身延で受けられた大聖人は「科なき蒙古の使の頸を刎られ候ける事こそ不便に候へ」――罪のない蒙古の使いが首をはねられた事こそ哀れである――と悲しまれている。
 この御文では、国に仇をなす邪法の僧達ではなく、縁もゆかりもない蒙古という異国の民が斬首されたことを哀れんでおられる。悪人ではなく善人を罰することこそ国を危うくするものである、と教えられているわけであるが、ここにも御本仏の大慈大悲の深い思いがあられると拝察されるのである。
22  またユダヤ民族並びにユダヤ教には、長き迫害と受難の歴史がある。本年一月、私はイスラエルのコーヘン駐日大使と会談した。その折に、ユダヤ民族の迫害と受難の歴史を通しながら、「仏教はユダヤ教をいささかも迫害したことのない唯一の宗教である」と言われていた。私は仏教の寛容性を評価されたこの言葉に、深い感動を覚えた。
 そのとき私は、仏教者として、世界の平和のためにも、いつの日かイスラエルと、イスラムの諸国を訪れたい、と強く思ったものである。
23  「平等」「慈悲」こそリーダーの精神
 少々、話しは変わるが、大聖人は佐渡の阿仏房の夫人・千日尼に対して、他者の謗法への態度について次のように仰せである。
 「浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし、重きあやまちならば信心をはげまして消滅さすべし」――浅い罪であるならば、こちらからゆるして功徳を得させるべきである。重い過失であるならば信心を励まして、その重罪を消滅させるべきである――と。
 当然、謗法は厳禁である。信心は、どこまでも自分自身で厳しく律していかねばならない。また、正法を誹謗し、敵対する者には、文証、理証、現証の上から堂々と破折していかねばならない。しかし謗法を責めるという根本精神は、御書に繰り返し引かれている章安大師の「彼がために悪をのぞくはすなわちれ彼が親なり」との文のごとく、「慈悲」の一点にあることを忘れてはならない。
 故に信心をしている同志の謗法に対しては、程度の差はあるが、むやみに責め立てたり、追いつめて、逆に信心から離れさせてしまうようなことは、絶対にあってはならない。あくまでも、その人の信心を、より前進させてあげよう、深めさせてあげようと、励まし、指導していく忍耐強い慈悲の一念が大事なのである。そうでなければ″正義″という名を借りた権威の乱用を招く恐れがある。その点によくよく留意していかねばならないことを、将来のために、私は特に強く申し上げておきたい。
24  日亨上人は、日有上人の「化儀抄」を注解して次のように述べられている。
 「同志のことを不用意に謗法と決めつけて、世間や多勢の人の耳に軽々しく入れるべきではない。破和合のもととなってしまうからである」(趣意、富要一巻)と。
 まことに心すべき戒めである。
 また次のようにも言われている。
 「提婆達多が釈尊に反抗するために、仏弟子の一部を誘拐して新教団を組織したことは、提婆の『破和合僧罪』といって、その罪のもっとも重いものである。現代において、これは『破和合僧』また『破和合講』にあてはまる。人を教え、そそのかして正法正義に違背させる罪は、自分一人が行うよりも大きい。かつ無知の人を、無限地獄に苦しめることになるから、深く戒めて、この破和合の罪にふれぬよう心していくべきである」(趣意、同前)
 これまた深く心にとどめねばならない点である。
 広い意味で「和合僧」とは、正法を流布しゆく人の集まりをいう。その団結を乱すことは「破和合僧」に通じるといえる。妙法の世界では、破和合僧の罪はまことに重い。一人で謗法を犯す罪よりも、何倍も重いのである。
 また、そういう人間に限って弘教もしていない。同志の激励、指導に足を棒にするわけでもない。教学も知ったかぶっている。腹黒く策にのみ走り、口がうまく、真面目で清らかな信心の人を批判する。そうした卑劣な「破和合僧」の姿は、皆さま方もよくご存じの通りであるがゆえに、ここでは略させていただく。
25  先程も述べたように、歴史を振り返るとき、宗教裁判に象徴されるように、宗教の世界には「権威」と「傲慢」と「残酷」の暗黒史があった。この歴史を転換し、いかにして「平等」と「共和」と「慈悲」の世界を築きあげていくか。宗教界の指導者の責任は大きく、重い。
 日蓮正宗の精神は、悪しき権威主義を徹底して排し「平等」と「慈悲」に貫かれている。すなわち、「化儀抄」には次のように記されている。
 「貴賎道俗の差別なく信心の人は妙法華経なる故に何れも同等なり、然れども竹に上下の節の有るがごとく其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか、信心の所は無作一仏、即身成仏なるが故に道俗何れにも全く不同有るべからず、たとい人愚痴ぐちにして等閑とうかん有りとも、我は其の心中を不便と思うべきか、之に於て在家出家の不同有るべし、等閑の義をなお不便に思うは出家・にくく思うは在家なり、是れ則ち世間仏法の二つなり」
26  日達上人は、この御文を次のように講述されている。
 「南無妙法蓮華経と我が正宗の信心をする人は、誰でも、身分に貴賎上下の隔てなく、僧俗男女の別なく、みんな平等であります。
 しかし、竹は幹が一つであります。それでも、上下に、節が次第してあるように、信心の内に入って、そこに師弟、僧階、入信の前後等の次第がありますから、それに順じて礼儀は守らなければなりません。
 もちろん私どもの信心する所は、久遠元初自受用身の御本尊様で、そして、願う所は、みな即身成仏でありますから、僧俗決して差別あるものではありません。すなわち、差別の中に平等があり、平等の中に差別がそなわるのであります。
 たとい、物事の道理のわからぬ人があって、物事に注意せず、礼儀に欠けた行為をしても、自分(僧の立場)は、その人の心中を哀れに思って寛恕かんじょ(=あやまちなどをとがめずに、広い心で許すこと)なさい。そこに僧の立場と在家の立場のことなりがあるのであります。
 そのような無頓着で礼儀をわきまえない者に、憐愍を持つのは、仏様の大慈悲で僧の立場であります。
 大聖人は妙一尼御前御消息に『仏は平等の慈悲なり一切衆生のためにいのちを惜み給うべし』と説かれております。
 そういう、礼儀をわきまえない者を、憎く思うのは、凡夫の心で、在家の立場であります。こういう所に、世間法、出世間法のことなりがあるのであります」と――。
 世間には、さまざまな人がいる。しかし、どのような人をも僧侶は慈悲の心で包んでいかなくてはいけない。そこに僧侶としての宗教者のありかたがあることを教えられている。まことに、ありがたきお言葉である。
27  謙虚な心で後輩育む人に
 かつて戸田先生は″慈悲に満ちた指導者たれ″と、次のように指導された。
 「指導する位置というものは、一般よりも、より高き位置にあるように考えられる。事実また、そうであらねばならぬことである。しこうして学会の指導者は、なにをもって一般よりも高しとしうるのであろうか。いうまでもなく信心の力である。その人自身の持っている才能、財力、社会的立場等ではない。ただただ信仰の道においてのみであることを深く自覚しなければならぬ」と。
 指導者は、何よりも「信心の力」において、人々よりもより高いものをもっておかなければならない。仏法の世界では、この力こそもっとも大事である。幹部に、この一点が定まっていれば、永久に学会は発展し、栄えていくことは間違いない。
28  さらに戸田先生は「されば、大御本尊のこと以外においては、謙遜けんそんであって、決して傲慢ごうまんな姿であってはならない。また、上長の位置を誇ることなく、なにごとも命令的であってはならぬ。指導である以上、相手に納得のいくようにしてやらなくてはならぬ。そうして御本尊の尊さ、功徳の偉大さを十分に納得させねばならぬ」といわれている。
 人々を「納得」させられるかどうか。指導者は納得させられるだけの力をもたねばならない。そうでないと指導者として失格であると断ぜざるを得ない。
 続けて戸田先生は「要するに御本尊を信ずる力と、慈悲とに満ちて、友として指導するものこそ、指導者の自覚を得たものというべきではないか」と結論づけられている。
 すべての人が友人である。とくに信心をしている人々は″法の友″である。広布の指導者は、その自覚を強く持って、妙法の友への指導、激励に当たっていただきたい。
 さらに、戸田先生の指導に「私は支部長の人格を尊重している。支部長は地区部長を尊重せねばならぬ。班長、組長も同様である。上の人が信心を十分して、下のものをかわいがらねばならぬ」とある。
 この言葉は、戸田先生の大事な指導として、私はいつも胸に刻み、心がけてきたつもりである。
 いずれにしても幹部の立場にある人は、後輩を大事にし、かわいがっていかねばならない。謙虚に、ていねいにお世話していかねばならない。これが学会の精神であり、仏法の慈悲の精神に通ずる。
29  ご存じの通り、私は昭和二十二年(一九四七年)八月二十四日、十九歳で入信した。以来、広宣流布一筋に進んできた。そして明二十四日には、入信満四十年を迎える。次に私は、入信満五十年を目指して、広宣流布のために、全世界の平和のために、また正法外護と大切な仏子である会員を守るために、全力をあげて戦い抜いていくことをお誓いし、本日の私のスピーチとしたい。

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