Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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1 「平和の世紀」への挑戦
「希望の世紀へ 宝の架け橋」趙文富(池田大作全集第112巻)
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父と母の思い出
池田
では、対談を進めるにあたって、読者の方々への自己紹介も兼ねて、まず互いの半生について語り合えればと思います。
趙博士は、いつ、どこでお生まれですか。
趙
一九三二年の十二月十三日、韓国・済州道の北済州郡で生まれました。
その後に父が再婚したことと、私が生まれつき病弱な体質だったこともあり、届け出が遅れてしまったようで、戸籍上は「一九三五年生まれ」になっていますが、本当の誕生日はその三年前です。
池田
三二年といえば”併合”の名のもとに韓半島の植民地化を推し進めていた日本が、中国に「満州国」を発足させるなど、アジアの近隣諸国に対する理不尽な侵略を一段と強めていた時代ですね。
趙
ええ。そうした時代状況が、私の少年時代にも色濃く影を落としていました。
一つは、先祖代々、受け継いできた土地の多くを、父が失ってしまったことです。
植民地統治が本格化した一九一〇年代、経済政策の一環として「土地調査事業」が行なわれました。
この時、自分が所有する土地の申告が求められたのですが、土地が奪われるのではないかと疑ったり、税金が多く取られるのではないかと心配して、過小に申告する人や、申告しない人がたくさんいたのです。
そのため、申告しなかった残りの土地はすべて、日本の国策会社である「東洋拓殖会社」の所有に帰属されてしまったのです。私の父も、その例外ではありませんでした。
池田
「東拓」と呼ばれていた会社ですね。
この東洋拓殖会社は、年を経るごとに土地の占有をふやし、敗戦時には二十五万町歩に及ぶ土地を占有していた”最大の地主”であったと言われています。
趙
また戦争遂行のため、日本政府によって人員や物資の供出が強制的に行なわれるなかで、多くの韓国人が苦しい生活を送っており、農業で生計を立てていたわが家も、かなりの困窮を余儀なくされたのです。
ようやく得た麦や粟などの穀物も、その大半が供出のために持っていかれました。温厚な人柄で評判だった父でしたが、家族を守るために、供出の量をめぐって村の役員たちと口論になることも、しばしばでした。
春窮期(とくに食糧に窮する、春の端境期)を過ごすのが、わが家の毎年の耐え難い課題となりました。その結果、知人に食糧を借りては、これを返すために土地や家財を売るという悪循環に、陥ってしまったのです。
池田
胸が痛むお話です。
当時、朝鮮総督として”兵站基地化政策”を推し進めていた宇垣一成は、貴国の農民の姿について、こう述べています。
「過去多年の搾取誅求に悩まされて、心のうちは著しく荒廃し、いわゆる酔生夢死、奮発心も感激性もすり減って希望も理想も意気もない」(鄭在貞『新しい韓国近現代史』石渡延男・鈴木信昭・横田安司訳、桐書房)と。
つまり、日本の指導者層は、そんな農民の窮状を知りながらも、苛酷な供出を強い続けたーーあまりにも残酷というほかありません。
私も小学生の頃、父や兄から、そうした日本の非道ぶりを、よく耳にしたものでした。
父はかつて、ソウルに二年ほどいたことがあり、長兄も徴兵されて、中国に渡った経験を持っていました。
二人は、「日本はひどいよ。あの横暴さ、傲慢さ。同じ人間同士じゃないか。こんなことは、絶対に間違っている」と口にしていたのです。
そんな状況のなかで、父は、私たち兄弟を育てるために必死で働き続けました。
母も、私たちにひもじい思いをさせまいと、自分の分を我慢してまで、「これを食べなさい」と、毎日のように私たちに食事を譲り残してくれたものでした。
その母が本当の”産みの親”ではないという事実を知ったのは、母が亡くなったあとで、ごく最近のことです。しかし私は、”産みの親”と変わらぬ感謝の念を持っています。
なぜ生母と父が離婚し、養母が父と再婚したのか、今となっては知る由もありませんが、有形無形に、二人の母の愛情を受けられたことに、私は幸福を感じているのです。
生母が、その後、どのような人生を送ったのかは分かりません。時代が時代だっただけに、苦難の連続であったことは想像にかたくありません。その状況は養母にとっても変わることはなかったと思います。
その深い恩を感じるだけに、私は、すべての女性に、”母たる存在”としての敬意を抱いています。
そのことを紛れもなく断言できることが、人間にとってより大きな幸福の源泉となるのではないかと私は考えます。
池田
博士の清らかな心と深い思想に感動しました。私も、まったく同感です。
その思いを、かつて「母」という詩に託して詠んだことがあります。
私の母も、日本が戦争の泥沼に突き進む中で、息子たちを次々と兵隊にとられ、病床に臥した父を支えながら、私たちを懸命になって育ててくれました。
父は、近所で”強情さま”と呼ばれるほどの頑固者でしたので、自分が病に倒れても、他人の援助をかたくなに拒み続けました。
そのために、わが家の生活はかなり厳しくなりましたが、母は「うちは貧乏の横綱だ」と言っては、私たちの前で笑顔を絶やさず、努めて明るく振る舞っていたのです。
子ども心にも、そんな母の心が痛いほど伝わってきたものです。小学六年の頃には、少しでも家計の足しになればと考え、新聞配達のアルバイトも始めました。
博士は、戦争中のことで強く記憶に残っていることはありますか。
3
戦争の嵐と少年時代
趙
そうですね、やはり記憶に残っているのは、物資の供出が、戦争とともに日増しに強まったことでしょうか。なにしろ、食糧をはじめ、生活に欠かせないものが次々と戦争のために調達されましたから。
金属では鉄製の器具はもちろんのこと、銅製の祭器までもが取り上げられ、大人たちは大きなショックを受けていました。というのも、済州島では伝統的に先祖を祭ることを大切にしてきたのに、それに欠かせない祭器を奪われてしまったからです。
日本が強制した「皇民化教育」や「朝鮮語禁止」などの政策は、まだ幼かった私にとって、さほど深刻に感じることは少なかったのですが、大事な祭器までもが取り上げられ、怒りと悲しみに震えていた大人たちの姿は、今も鮮烈に記憶に残っています。
こうした容赦ない供出の影響は、私が通っていた小学校にも及んでいました。
運動場がすべて掘り返されて、じゃがいもを栽培する場所に変えられたり、私たち自身も勉強の時間の合間に、近所の野山へ薬草や松ヤニ油を取りに行かされたものです。
池田
日本は戦争遂行のため、戦費の約七割を、貴国をはじめとする地域から調達していたといいます。
大事な祭器を奪い、勤労動員が小学生にまで及ぶほど、その支配は蟻烈をきわめたということですね。
趙
ええ。私たちもですが、近所の村の青年たちが兵隊や軍属として徴発されたり、炭鉱や軍需工場で働かせるために強制的に連れていかれたりしました。彼らが村に戻ってくることはありませんでした。
父も、済州島の軍用飛行場の建設に強制動員されて、何週間も家に帰ってきませんでした。やっとの思いで、夜中に帰ってきたと思ったら、今度は何日間も病床で過ごすような状況だったことを覚えています。
池田
重要な証言です。
どれだけ日本が貴国の人びとに、非道の限りを尽くしたのかーー。悲劇を二度と繰り返さないためにも、こうした歴史の真実を一つひとつ、後世に正しく伝えていく必要があります。
国外で「侵略」を行なう国は、国内で「人権侵害」を行なうのが歴史の常です。軍国主義ファシズムの嵐が吹き荒れた日本でも、最も苦しめられたのは無名の民衆でした。
私も、高等小学校を卒業して勤め始めた鉄工所が、ほどなくして軍需工場に転換させられました。鉄工所内にも「青年学校」が設けられ、私たち新入社員に軍隊的な教育や訓練が、毎日のように課せられたのです。
当時、結核を患っていたこともあり、夏の暑い日に無理をおして軍事教練に参加したあとで、血疲が出たこともありました。
また、”少年志願兵”として同級生の多くが戦争に駆り出され、若い命を戦場に落とした友もいます。私も兄を戦争で失っただけでなく、空襲で疎開先の家を焼かれ、火の海の中を逃げまどったこともありました。
こうした中で私は、戦争のむなしさや残酷さを肌身で感じました。そして、罪もない人びとの幸福や生活の基盤を根こそぎ奪い、苦しめる戦争に激しい怒りを抱くようになったのです。
今日まで、世界平和のための行動を続けてきたのも、一つには、この時の原体験があったからだと思います。
趙
そのお気持ちはよく分かります。
私も幼いながらに、戦争の悲惨さが身に染みただけに、平和の必要性をつくづく感じ、平和な時代への憧れを強く持ちました。
戦争末期の頃には、日本の関東軍の一部が済州島に上陸してきて、アメリカ軍との戦闘準備のために、山に穴を掘って軍事施設を新たに設けるようになりました。
それで、半島に疎開することになった島民を乗せた船がアメリカの潜水艦によって撃沈されたこともあります。
私の住む村の近くでも一九四五年七月、沖に碇泊していた大きな輸送船が魚雷攻撃を受け、多くの人が救出されぬまま、海底に沈みました。
人びとの嘆き、苦しみは、植民地支配下における経済的な苦痛以上のものでした。
4
文明にとって「勝利」とは何か
池田
「光復の日」(終戦の日=一九四五年八月十五日)は、どのように迎えられましたか。
趙
光復の日を迎えた時、私は小学校の四年生でした。
祖国の解放を喜ぶ気持ちは当然ながら大きかったのですが、それ以上にに、私の心を占めていたのは、ある一つの疑問でした。
池田
その疑問とは何ですか。
趙
一言で言えば、”なぜ東洋の軍事力は歴史上、西洋の軍事力より常に弱いのか”という疑問です。今になってみればそれが私にとって、比較研究を通じての人類社会に対する問題提起の始まりでした。いわば世界の平和と繁栄の問題に取り組む前提としての”関門”にぶつかったのです。
長じて学問の道に進み、この問題に対する考察を続ける中で、私は、文明における「勝利」の概念そのものを改める必要があるとの結論にたどりつきました。
二十世紀までの軍事中心の時代における「勝利」と、これからの二十一世紀における「勝利」の概念を、明確に区別しなければならないということです。
つまり、科学技術の発達がもたらした兵器や武器による脅迫で相手を屈服させるのではなく、慈愛をもって相手の心情に深く訴えて共感を湧き起こし、ともに人類としての正しい道を選び歩むようにすることが、これからの時代に求められるのです。
池田
実に重要な視点です。それこそ、二十一世紀の軌道であらねばなりません。
私ども創価学会の牧口常三郎初代会長も、趙博士の思想に通じる「人道的競争」の理念を提唱しておりました。
牧口会長は二十世紀初頭(一九三年)に発刊した『人生地理学」という著作の中で、帝国主義や植民地主義が横行した当時の世界の動きを俯瞰した上で、軍事的・政治的・経済的競争から、人道的な競争へと時代を転換しなければならないと訴えました。
これは単に、軍事や経済といった”競争の単位”を変えることだけでなく、”競争のあり方そのもの”を問い直す思想でした。
牧口会長は、その眼目を、次のように記しております。
「要はその目的を利己主義にのみ置かずして、自己とともに他の生活をも保護し、増進せしめんとするにあり。反言すれば、他の為にし、他を益しつつ自己も益する方法を選ぶにあり。共同生活を意識的に行なうにあり」(『牧口常三郎全集』2)と。
つまり、弱肉強食的な「競争」から、皆がともに価値を創造しながら幸福を享受する「共創」「共生」へと、人びとや社会の意識を根本的に転換することを目指したものだった
趙
すばらしいビジョンです。牧口会長の先見性に敬意を表したいと思います。
二十世紀をリードした指導者や知識人たちの多くが、その転換の必要性を正しく認識せず、時代を変革しようという明確な意志を持たなかったことに歴史の不幸がありました。
この”責任の不在”、また”真の知性の不在”こそが、悲劇を止めることができなかった原因の一つだったと思います。
池田
まったく同感です。
本来、社会で責任を負うべき人びとが、自らの過ちを認めなかったり、目の前で起こっている事態から目を背け続けたために、一体、どれだけ悲劇が拡大していったかーー。
この現代の病理を深く考察した著作に、現代アメリカの文芸評論家であるE.W.サイード氏の『知識人とは何か』(大橋洋一訳、卒凡社)があります。
その中で、サイード氏は、趙博士は指摘された”真の知性の不在”という問題について、こう述べています。
「知識人にとってみれば、自分自身の民族的・国民的共同体の名のもとになされる悪には目をつぶり、あとはただ自民族を擁護し正当化しておくほうが、気が楽であるし、そのほうが人から憎まれずにすむ」
「だが、たとえそうであるとしても、知識人は、集団的愚行が大手をふってまかりとおるときには、断固これに反対の声をあげるべきであって、それにともなう犠牲を恐れてはいけないのである」と。
趙
サイード氏といえば、『オリエンタリズム』など、鋭い文明批評で知られる人物ですね。
池田
ええ。氏は、こうした知識人の責任が、最も厳しく悲劇的な形で問われた近代国家は、日本をおいてほかにないとも述べています。
戦前の日本は、天皇制イデオロギーを柱とする軍国主義ファシズムが社会全体を覆い尽くす暗黒時代でした。その中で、牧口会長は、弟子の戸田城聖二代会長(当時、理事長)とともに、時流に抗して「平和」と「人道」の闘争を貫いたのです。
その結果、二人は「治安維持法」違反等の容疑で逮捕されました。牧口会長は獄中で生涯を閉じ、戸田会長は終戦間際まで二年間にわたり獄中生活を余儀なくされました。
この両会長の闘争に、私ども創価学会、またSGI平和運動の不滅の原点があります。
趙
牧口会長、戸田会長の信念の闘争、また池田会長はじめSGIの方々の献身的な平和行動については、よくうかがっております。
池田会長は、対立や反目が続く世界史から脱し、「世界の平和」と「人類の共存」を実現せねばならないという信念を燃やして、休みなき活動をしてこられました。
池田
ありがとうございます。私が長年にわたって、世界の心ある人びとと「対話」を重ねてきたのも、未来の人類のために「平和の大道」を切り開きたいとの思いからにほかなりません。
この対談で、私は、敬愛する趙博士とともに、その道をさらに大きく広げていきたい。
そしてともどもに、二十一世紀の世界に、希望と信頼と幸福の種を植えていきたいと願っています。
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