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日蓮大聖人・池田大作

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4 ”分析的思考”の特徴  

「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)

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2  仏教の極微論批判
 池田 インドでも、学派によって説は分かれていますね。極微塵、または極微は、サンスクリットでは、「パラマ・アヌ」と言います。
 インド哲学学派の一つ、ヴァイシェーシカ学派は、すべての存在がこのパラマ・アヌからできていると主張しました。
 しかし、仏教はとの教えに反論しています。
 有名なところでは、『唯識二十論』には「(極微が上下四方の六カ所で、隣りあう)六個の極微と接触しているならば、極微は六個の部分をもつことになる」(大正三十一巻、趣意)と、述べています。
 極微がこれ以上分けられないとするならば、隣の極微と接触するととが不可能になりますつまり、接触するということは、ある点や面で接触するということであり、接触する部分をもつということになってしまうのです。
 こういう論法で、仏教は、極微論者を批判しています。
 一方、物理学では、ご存じのように、物質を細かく分けていくと「原子」になり、さらに「原子」は「原子核」と「電子」からなり、さらに「原子核」は「陽子」と「中性子」からできているとしています。
 一九七〇年代から、「陽子」や「中性子」といった素粒子も、じつは「クォーク」という、さらに小さな基本粒子から構成されているととが明らかになりました。
 では、「クォーク」は、はたして究極の基本粒子在のか、それとも、さらに小さな粒子が存在しているのか
 ”極小”の素粒子の研究は、ビッグパン理論などの”極大”の宇宙論ーーすなわち「どのようにして、この宇宙が誕生し、進化してきたのか」という問いにも直結してきます。
 こうしたテーマについては、世界的な物理学者である、モスクワ大学前総長のログノフ博士とも語りあったことがあります。
 その折、ログノフ博士は、「縁起観」や「三諦論」など、仏法の智慧の成果に強い興味を示しておられました。物質の究明は、それを行っている人間の思惟能力それ自体の究明にも向かわざるをえません。
3  病気を診て人間を忘れる
  この問題についての議論は、これからも長く続くでしょう。なぜなら、科学実験の能力には結局、限界があり、科学実験でこの問題を解決する可能性にも限界があるからです。
 私の浅はかな考えによれば、「基本粒子」という概念自体に「無限に分けられるものではない」という意味が含まれていると思います。おおよそ「分けられる」物質の素粒子は、「基本粒子」ではないのです。
 「物質が無限に分けられる」という説は、じつは「基本粒子」の存在を否定しています。
 「基本粒子」という概念自体が「無限に分けられない」という意味を含んでいる、ということについてだけ論じるならば、「物質が無限に分けられる」という説は成立しないのです。
 池田 西洋の分析的思考は、近代科学、とくに物理学の長足の進歩をもたらしました。その自然観への反映については、すでに論じあいましたが、現今では「人間」による「自然」の支配から破壊を引き起こすにいたっています。
 また、”分析的手法”は生命観にも適用され、西洋近代医学では精神と肉体を分離し、精神よりも肉体のほうに重きをおいてきました。
 その結果、人間の体を機械の部品のようにとらえ、また、生命の諸現象も電気的、化学的に解明できるとする「要素還元主義」という生命観をもたらすことにもなりました。
 そこに西洋近代医学の進歩があるとともに、その限界性も明らかになってきています。たとえば、部分の臓器を見て身体の全体を見ない。先ほど、季先生も指摘されたように、病気を診て、病める人間を忘れているといった批判が出ています。

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