Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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2 生い立ち
「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)
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母の思い出
池田
ありのままに語っていただき、ありがとうございます。季先生は、まさに「中国の大地の子」なのですね。
そのような厳しい生活状況のなかで、お母さまのご苦労も並大抵のものではなかったと思います。
季
母親のことは、これまで片時も私の心から離れたことはありません。
ある年の中秋節(旧暦の八月十五日)のことです。母はどこからもらったのか月餅を手に入れ、ひとかけら割って私に分けてくれました。私は石のそばにかがんで勢いよく食べ始めました。当時、私にとって月餅は珍しく、貴重で、めったに口にすることはできないものでした。
そのとき、私は母が食べていたかどうか、気にもとめませんでした。
しかし、今、思えば、母はひとくちも食べていなかったのです。月餅だけではありません。ほかの「白いもの」も、母は一度たりとも味わったことはなかったのです。全部、私のために取っておいてくれたのです……。
池田
そのお母さまの心が、胸にしみます。
私の母も、大勢の子どもを抱えながら、一人一人に愛情をそそいでくれました。
こんな思い出があります。母とともに、皆で一個のスイカを分けあって食べていました。自分の分を食べ終えた一人が、「お母さんはスイカが嫌いでしよう。僕におくれよ」と、残ったスイカを食べようとしました。しかし母はすぐさま、「お母さん、スイカが好きになったんだよ」と、その場にいなかった子どもの分を確保してあげたのです。
そのときの神々しい母の表情と声は、今もって覚えています。
季
母は終生、赤い色のコーリヤン餅を友としていました。凶作の年になると、それすらも食べられず、野生の菜を食べるよりほかはなかったのです。
私は母のもとに六歳までしかいませんでした。叔父を頼りに
済南
チーナン
(山東省の省都)に移り
住んだからです。今、思い出してみても、私はどうしても母の笑顔を思い出せません。母は一生笑ったことがなかったように思います。
家は貧しく、息子は遠く離れ、母は苦労をなめ尽くしました。笑顔などいったいどこから来るというのでしょうか。
あるとき、家に帰ると、向かいの叔母から告げられました。
「あんたの母親はいつも言っていたよ。『いったん送り出したら最後、二度と戻れないことを先に知っていたら、何がなんでも息子を行かせはしなかった!』とね」
この短い言葉のなかにどれほどの母の辛酸、悲しみがこもっていたことでしょうか! 母はどれほど多くの昼夜を、遠くを望みながら、自分の息子が帰ってくることを待ち望んでいたことでしょうか!
しかし、私は母がこの世を去るまで、ついに母のもとに帰ることはできなかったのです。
3
母と子の絆
池田
粛然たる気持ちになります。真実の人間の声です。厳粛なる人生の歴史です。
季
私はこのような状況について、最初はさっぱりわからず、深く理解することもありませんでした。高校に上がってから、私も成長し、少しずつ理解するようになりました。
しかし、私は他人に身を寄せており、経済的にも自立しておりませんでした。大望壮志だけ空しく心にあって、いかんせん実現するすべはなかったのです。
私はひそかに決心し、誓いを立てました。大学を出て、仕事が見つかったら、すぐに母を引き取ろうと。しかし、私の大学卒業を待たずして、母は去ってしまったのです。永遠に、永遠にこの世を去ってしまったのです。
昔の人は「樹は静かならんと欲すれども風は止まず、子は養わんと欲すれども親は待たず」と言いました。それはまさに私の身に、ぴったり当てはまりました。
母が臨終の最期に、愛する息子を思うようすを想像するのは、私には耐えられませんでした。それを思うと、私の胸は張り裂けそうになり、目からは涙があふれました。
私は
北平
ベイピン
(
北京
ペキン
の旧称)から急いで
済南
さいなん
に帰り、済南から
清平
せいへい
での葬儀に駆けつけました。母の棺を見、そまつな家を見て、私は、棺桶に自分の頭をぶつけて、地下に眠る母を後追いしようとさえ思いました。
私は絶対に母のもとを離れるべきではなかったのだと、深く後悔しました。この世のどんな名誉も、地位も、幸福も、高貴も、母のそばにいることにはかないません。たとえ一字も読めない母であったとしでも、また、「赤いもの」ばかり食べている母であったとしてもです。
池田
お話をうかがい、私は思います。
お母さまは、季先生が国家や人類のために偉大なる貢献をされているお姿を、どれほど喜んでおられることでしょうか。
また、季先生が波瀾の人生の山坂を越えてこられた陰にも、お母さまがいつも見守り、先生を守ってこられたのではないでしょうか。
季先生の勝利が、お母さまの勝利です。偉大なお母さまは、見事に勝たれたのです。
季
ありがとうございます。胸にしみ入るお言葉です。
4
青春時代
池田
季先生は六歳のとき、故郷を離れ、済南へ移られた、と言われました。
済南と言いますと、春秋戦国時代、斉の国都として栄えました。古来、学術研究の盛んな所です。
斉の宣王は、大いに天下の学者を集め、優遇したので、この地(
稷下
しょっか
)に学者街ができました。「稜下の学」として有名ですね。
季
そうです。中学進学後、叔父の私に対する期待はきわめて大きく、また厳格でした。叔父はみずから私に朱子学の文章を講義してくれました。
私が今日、いくらか学問をすることができるのは、すべて叔父の教育のたまものです。私はその恩を永遠に忘れることはできません。
叔父の要求によって、放課後は、古典学習のクラスに通い、『左伝』『戦国策』『史記』等を学び、夜は英文講習会で英語を学びました。
池田
まさに勉学に「打ち込んだ」お姿ですね
中国の古典文学を熱愛し、世界の文学も幅広く読破された。高等学校時代には、すでにロシアのツルゲーネフの散文詩を翻訳されていますね
季先生にはとても及びませんが、私も青春時代、本の虫でした。
『三国志』や『唐宋八家文』、トルストイの『戦争と平和』、ルソの『エミール』、ユゴの『レ・ミゼラプル』、『ゲーテ詩集』などの文学書や哲学書、詩集を、むさぼるように読みました。とくに詩などは、気に入った個所は暗記して、道を歩きながら口ずさみました。懐かしい思い出です。
先生は、一九三〇年に、高等学校卒業後、清華大学に進学し、西洋文学科でドイツ文学を専攻されます。そして、済南から北平へと移られました。
季
はい、そうです。大学はドイツ文学専攻という名目でしたが、実際に教えられたのは、すべて古代ローマを含む西洋文学全般でした。
外国籍の教授が多く、講義はすべて英語で行われました。清華大学での四年間、私の一生に、おいて最も忘れがたい、最も愉快な学生生活を送りました。
そのころ、日本の中国侵略により、済南を占領されるなど、われわれの国と民族は、まさに危急存亡の危機に瀕しておりました。清華大学も俗世間から離れた桃源郷ではありえませんでした。
しかし、学園内の生活は終始、生気に満ちあふれ、活力がみなぎっていました。民主的な気風、科学的な伝統が、いつも支配していました。私が今もっている知識は、すべてこの大学において基礎を築いたものです。ここでの基礎づくりがなかったならば、すべては不可能だったと思わざるをえません。清華大学での思い出は、永遠に私の心の中に刻まれています。私は清華大学を訪れるたびに、母親のもとに帰ったように、心の底から自然と幸福な思いがわき上がってくるのです。
池田
母なる大学ーー文字どおりの「母校」なのですね。
私は、終戦まもない時期、大世学院(現在の東京富士大学短期大学部)の政経科夜間部に通いました。一年あまりの短い期間でしたが、仕事が終わると、疲れながらも、駆けつけたものです。
校舎は戦災を免れた建物を借りたものでした。明かりは暗く、窓ガラスは破れ、雨風が吹き込んでくるような教室でした。
しかし、院長の高田勇道先生の講義は、火を吐くような気迫のこもったものでした。魂を揺さぶる先生の授業を受講できたことは、私の生涯、忘れられない金の思い出です。
季先生は、ドイツの名門、ゲッテインゲン大学に留学されます。一九三五年、清華大学とドイツとの交換留学生の選抜試験に合格されたのですね。
5
友情の”絆”
季
はい。いつのころからか、外国、とくにドイツへ行きたいという希望が、私の心に芽生え始めていました。
しかし、実際には漠然としたもので、まだ大きな動機ではありませんでした。また文科系の学科は、国家の経済や人民の生活になんの役にも立たない”落ちこぼれ学科”とみなされていました。そのため、官費による留学など、当然、無理だと思われました。では自費で外国へ行くと考えたとしたら、それもまた、ありえない妄想とも言うべきものでした。
ところがこんなとき、私に願ってもないチャンスが訪れました。少しのお金さえあれば、ドイツに二年間行けるというのです。
しかし、お金を工面しなければならないという問題がありました。
私は当時、故郷の済南に帰り、高等学校の教師をしておりましたが、わずかな給与は少しも残らなかったのです。
私は何度もこのチャンスを手放そうと考えました。そのとき、数人の友人がお金を工面してくれ、勇気と力を与えてくれました。友情がいかにありがたいものであるかを、私は知りました。
池田
友情こそ、宝ですね。
仏典でも、友情の大切さを教えています。たとえば、「木を植えるのに、大風が吹いても、強い支柱で支えておけば倒れない。もともと生えていた木でも、根が弱いものは倒れてしまう。
ふがいない者でも、助ける者が強ければ倒れない。少し強い者でも、独りであれば、悪い道では倒れてしまう。(中略)仏になる道は善知識(善友)に勝るものはない」(御書全集1486ページ、通解)と。
季
たしかに、そのとおりだと思います。真の知己とは、志と信念を同じくし、なんでも語りあい、ともに喜び、ともに泣くという関係でなければなりません。
友人とまじわるときは、必ず、誠心誠意、相まみえなくてはなりません。
池田
当時のドイツは、二十世紀初頭から第一次世界大戦の始まる一九一四年にかけて、ル・コックらを西域の発掘調査に派遣するなど、東洋学への関心が高く、世界的にも優れた人材を輩出していました。
そうしたドイツに師を求めて、季羨林青年は未知のドイツ留学へと旅立ったわけですね。
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