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日蓮大聖人・池田大作

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解説 アンドレ・シェニエと時代背景

小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)

前後
2  一七八九年五月の三部会の開催後、六月に国民議会が成立し、第三身分が結束しての「球戯場の誓い」などの急激な改革が進められ、八月四日には、貴族・聖職者の特権を廃止する法令が決議され、二十六日には「人間と市民の権利の宣言」(「人権宣言」)が採択されます。
 法の前における万人の平等、国民主権へと歴史が転換していきますが、この間、七月十四日には、バスチーユ牢獄襲撃事件が起こります。これは、パリの民衆による自分達の生活を脅かすものへの抵抗であり、十月五日に行われたヴェルサイユ襲撃もまた、パリ峰起の影響で全国に広がった農村騒動のなかで、食糧危機などの窮状を国王ルイ十六世に直訴しようとしたパリ民衆の行動でした。こうしたなかで定着していった社会勢力の動きは、王党派(宮廷反革命派)、経済的危機から政治にかかわっていく都市と農村の民衆運動、新社会へ向けて民衆運動を利用して反革命派の制圧を図る議会ブルジョワという相互関係でとらえられると、歴史的に検証されています。
 一七九二年九月に発足した国民公会によって、王制の廃止と共和制の樹立が発せられます。この国民公会では、過半数を占める平原派を挟んで、ジロンド派と、ジャコバン派などの山岳党が対立していました。いずれも、ブルジョワ出身の共和主義者で、経済的自由主義に走るあまり民衆運動の要求する経済統制に応じなかったジロンド派に対して、ジャコバン派は革命遂行のため民衆運動とその要求を少なからず認めようとする立場に立っていました。
 ジャコバン派とジロンド派の抗争は激しさを加えていきますが、翌九三年五月三十一日と六月二日の、ジャコバン派を支持する国民衛兵軍と武装した市民の峰起によって、ジロンド派が議会から追放され、山岳党が権力を握ることになります。その結果、憲法によらない非常政治体制である独裁政治が始まり、立法府の中の各種委員会が強力な行政機能を果たすことになりました。とりわけ、ジャコバン派の指導者ロベスピエールの加わった公安委員会は、軍事や外交、内政全般に強権をふるい、可決した反革命容疑者法による“恐怖政治”を断行していくのです。
 議会内での反対派ばかりか、市民層をも粛清する“大恐怖政治”の最中に、革命裁判所の追放者リストに挙げられていたシェニエも、パリのパシーで逮捕されるのです。国王を擁護する反革命的な危険人物と見なされていたからであり、“自由の名のもとにおける専制”を痛烈に非難した彼の政治論文がロベスピエールの激麟に触れたからでしょう。
3  サン・ラザール監獄へ収監されたシェニエは、四カ月余りの獄中生活後、一七九四年七月二十五日、国家をくつがえそうとする論文を書いた罪をきせられたまま、三十二歳の若さで命を絶たれました。「テルミドール九日」の政変が起きたのは、それから二日後であり、ロベスピエールらが断頭台の露と消えたのは、その翌日でした。
 しかしながら、アンドレ・シェニエの作品は、死後二十五年を経て、甥に当たるガブリエル・ド・シェニエの手によって出版され、獄中で紙片に書き付けられた正義への叫びをはじめ、その美しく、力強い詩は、ヴィクトル・ユゴーらロマン派の詩人達に深い影響を与えたのです。そして、今日、シェニエは「十八世紀の時代精神を表現した最高の詩人」「十九世紀における詩の復権を準備した先駆者」として不滅の光を放っています。

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