Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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(一)
小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)
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2
男の名はフィリッポス。アレクサンドロスの侍医である。アレクサンドロスの家では伝統として代々、侍医を手厚く遇してきた。彼自身も医学が好きで、詳しかった。だが、そういう事情にもまして、二人は少年時代からの良き友であった。一人の恩師を共にいただき、共に遊び、共に学んできた。いわば親友であり、学友であった。遙かなる虹の将来を目指して励まし合い、誓い合った、生涯にわたるであろう盟友と許し合った仲でもある。
ギリシャの北方を広く治めていた若きマケドニアの大王であるアレクサンドロスは、今、病んでいた。彼は歩兵と騎兵合わせて約四万のマケドニア・ギリシャ連合軍を率いて遠征中の身であった。遠征軍は現在、小アジアの南の懐深く、地中海に面した静かな平野の首都であるタルソスで休息をとっていた。彼は町からやや南へ下って地中海に面した館を、寝所とも本営ともしていたのである。
この静かな平野はキリキア平野といって、現在もその名が残っている。タルソスの町は、烈しい夏日をうけながら、一見、平和そのものに見えた。大軍はここで三日間駐屯し、鋭気を養って、目指すペルシャへ進軍するところであった。
アレクサンドロスは、以前は、これという病兆があったわけではない。体の頑健さに任せて彼は一瀉千里に戦いの道を走りに走って来た。そして、「少し休もう」と思い始めた時、急に疲労困憊を感じたのである。懐かしくも美しき故国の山影に別れを告げ、すでに一年余りの月日が経っていた。転戦を続けた小アジアの土地には全く慣れないうえ、心身の疲労が体の芯まで食い込んで、体力をひどく消磨させていた。つい今しがた越えて来たタウロスの山道も身に堪えていた。それにもまして、あまりにも暑い日であり、どうにも気怠かった。
近くにキュドノス川がある。タウロスの山塊に源を発する流れである。彼は、この川に二、三の従者を連れて水浴に出かけた。水が身を切るように冷たく心地よい。何度も何度も彼は川に潜った。何度目かに水面に頭を出した時、くわっと炎熱の日差しがことさらに眩しく感じられて、目がくらくらした。彼は、慌てて水を掻き分け掻き分け、急ぎ河原までのぼってきた。しかし、心臓が早鐘を打つように高鳴り、胸がしめつけられるように苦しくなった。やっとのことで本陣の館に帰る馬上にあった彼の全身を、激しい悪寒が襲っていった。必死の思いで寝台に身を投げ出すと、急に全身が痙攣して、そのまま意識を失っていったのである。
館は静かであった。
急ぎ駆けつけた侍医の一人は、アレクサンドロスの顔を見て、一瞬蒼くなった。胸苦しそうにあえぐ彼の心音は、最後の一打ちが、今か今かと思えるほど弱々しくなっている。顔も土色が深く、瞳孔が半開きのまま、動く気配がない。すでに病状は重体であった。
病床は早三日目を過ぎた。彼の容体は少しも高熱がとれず病勢は募る一方である。起きたくても起きられない彼は、その深刻さが自分で分かった。時折、目が霞み、意識がもうろうとしてたびたび発作の症状もある。
だが、持ち前の強靭な生命力で、辛うじてもちこたえていた。
それにしてもこの三日間、ほとんど薬らしいものが自分に施されていないのは不思議といえば不思議である。意識が戻っている時に二、三度、薄荷湯のようなものを飲まされたのは覚えている。が、それが単なる気休め程度でしかないことは、医術の知識をもつ彼には分かっていた。
侍医団への疑いが雲のように湧いて、病中の彼の頭にくるめくのであった。
(「大丈夫でございますから、お気を確かにもって」とか「ごゆっくりお体を休めれば体力を回復なさいましょう、きっとこれは深い疲れからきたもので……」とか、医者達は代わる代わるあたりさわりのないことを言っては、この館を出たり入ったりしている。しかし、本当に大丈夫なのか。治療のめどが立たないのではないのか。どいつもこいつも、薮医者め。……いや、彼だけは違う、フィリッポスだけは。彼はさっぱり顔を見せぬが、どうしたのだろう……)
3
アレクサンドロスが、自国マケドニアの東に隣接するトラキアの町アンフィポリスから東征に進発したのは、前年の紀元前三三四年五月初めのことである。これより以前、彼の親友フィリッポスは、小アジアのギリシャ植民都市にある医学所を転々と訪ね歩き、医学の研鑚を深めていた。
アレクサンドロスがペルシャ攻撃のためギリシャ全土に出兵を命じた時、これを聴き知ってフィリッポスはアンフィポリスへと急ぎ駆けつけた。彼はこの時に結成された国王の侍医団の一員として従軍したのである。
若き国王アレクサンドロスの胸中は焦りと不安が渦巻いていた。
側近の幕僚達の憂色は深まっていった。できれば兵士達に知られないうちに切り抜けたい。王の重病は、全軍に深刻な動揺を与えるであろう。もし、敵側に知れてしまったならば――。
すでにペルシャの大王ダレイオス三世は自ら大軍を率いて古都バビロンを進発し、連合軍を迎え撃つべく西へ進軍中である。病の指揮官をいただいてペルシャ軍の総攻撃をうけたら、ひとたまりもあるまい。まして、王の身に万一のことがあったら――全てが敗北につながる。
彼らは、侍医団を呼び寄せた。
「どうだ、アレクサンドロス様のご容体は? 容易ならぬものと見うけられるが」
王の側近の一人が、厳しくただした。
「はい、恐れながら、極めて重体でございます」
長老格らしい一番年かさの医者が答えた。
「ご病気は、何なのだ?」
「それが、何とも……。熱病とも、風土病とも、過労とも、何とも知れませぬ。手の施しようがございませぬ」
「それでは、望みがないとでも言うのか?」
たまりかねて、若い幕僚が怒鳴ると、医者達はたじろいでうつむいた。
「だいたい、お前達はいったい、何の治療をしたというのだ。ろくろく薬を差し上げた形跡すら見えぬではないか。アレクサンドロス様を見殺しにする気か?」
幕僚達の激怒の前に、医者の一団は鳴りを静めて立っている以外になかった。
「そういえば変だな。お前達は何となく尻込みをしているぞ。この三日間、ただ診察するだけの繰り返しではないか」
三人目の幕僚が、詰問した。
「ごもっともでございますが、何分、原因が分かりませぬゆえ、へたに投薬しますと、かえって危険でございます……」
しどろもどろの答えは、幕僚達の怒りを募らせるだけであった。
「お前達の心は読めておる。もはや、国王のお命を見限っておるな? 恐れ多くも、もし薬の甲斐なき時の責任をこわがっておるな? ええい、腰抜けどもめ。国王のみか、四万の将兵の命運がかかっているこの瀬戸際に、何ということだ」
それは図星であった。
もはや医師達は、アレクサンドロスの病状を絶望視していたのである。治療しても失敗は目に見えていた。王の逝去。それは、斬首といった処罰を進んで志願するようなものであった。
たまりかねたように、一人の医者が言った。
「フィリッポス……フィリッポスが今、薬を調合しているところでございます」
「なに。そういえば、フィリッポスの姿が見えないが」
「はい、自分の幕舎に引きこもって、何やら薬を処方しているようです……」
「どんな薬なのか?」
「それが、我々には分かりませぬ。この小アジアにしか生育していない薬草を種々混ずるのだというのです……。詳しいことは一切、我々には申さぬまま、どうやら部屋に、こもりきりのようすでございます」
「そうか。しかし、医者仲間にも分からぬ薬というのも、心配だな」
4
その頃、フィリッポスは、アレクサンドロスの館に急ぎ向かっていた。暁が近かった。あたりを皓々と照らしていた満月の残光が、キリキア平野の町や村を静かに美しく包んでいる。薄暗い道を彼は、急ぎ急ぎ薬液を入れた壷をたずさえながら進んでいった。日中の暑熱とは打って変わって急速に冷え込んでいく夜気のもとに、陣営はひっそりと沈みきっている。すでに王の重病は、幕僚達の思惑をよそに兵士らの耳にも届いており、もはや人馬の行き交いもなく、ただ焚き連ねる篝火の影が点々と揺らぐのみである。
突然、町の入り口の方から馬蹄の音が聴こえた。それは夜目にも白い砂烟をあげてみるみる近づいて来たかと思うと、フィリッポスの脇を疾風のように通り抜けて、彼方のアレクサンドロスの館あたりで闇に紛れた。どこからかの早馬にちがいない。が、そんなことは目外に置いてフィリッポスはまた先を急いだ。
特使の馬は、老練な副将パルメニオンからの急使であった。
彼の軍はキリキアの東のはずれまで先発していたのである。この若き使者は薄明の夜道を飛ぶように疾駆してきた。
使者は疲れを見せなかった。衛門に立つ兵に意を告げると、真っすぐにアレクサンドロスの病床に歩み寄り、厳重に緘された一封の密書を手渡して辞去した。
辛うじて意識が戻っていたアレクサンドロスは、やっとの思いで来信を開いた。そして、その短い数行の走り書きを目を凝らして読み終わると同時に、薬壷を両手に高く捧げ持ったフィリッポスが姿を見せたのである。
(アレクサンドロス様、フィリッポスでございます……)
押し殺したような彼の声が聴こえた。仄暗い館の中である。病熱に霞む彼の目には、相手の表情は読むことができない。しかし、間違いなくフィリッポスの声のようである。
驚愕したアレクサンドロスは大きく目を見開いて、半身を起こそうとした。
「いえ、いけませぬ。寝ていなくては……」
フィリッポスの制止の言葉にあらがうように、アレクサンドロスは渾身の力をふり絞って、褥の上に起き上がった。肩が大きく波打っていた。目をすぼめて彼はフィリッポスの顔を何とか見極めようとしたが、暁闇のとばりがそれを許さない。
しばらく両者は無言であった。
フィリッポスは、苦しそうにあえぐアレクサンドロスの肩に静かに手を置きながら言った。
「アレクサンドロス様、ご安心くださいませ。私が秘術の限りを尽くして、あなたさまの病に即効ある薬を調合してまいりました。もう大丈夫でございます。今度は、私がお命をお助け申し上げます」
彼の声は澄んでいた。その言葉をアレクサンドロスは無言のまま聴き入っている。
「いよいよ、その時が来たのです。私の命をいくつ差し上げても足りないあなたさまのために、万が一のこの日のために、学びもし、修業も積んできたのです。
病の床につかれた時、すぐ馳せ参じて、お体を良く診させていただきました。気を失っておいでのあなたは気付かれなかったでしょうが。何が障ったものかを私は見届けました。それは申し上げますまい」
アレクサンドロスの頭の中は一瞬、嵐のように雷が光り、雷鳴がとどろくようであった。しかし彼は無言であった。
そしてフィリッポスの声は続いた。
「ご心配を大きくする種にもなりましょうから……これなるものは、幾種類もの野の薬草を掘り集め、根や葉を煎じたものを一度散薬にし、それを水薬に戻したものでございます。
眠りも食もとらずに、寸刻も早く出来上がりますよう、力の限り知恵の限りに努めました。みごと、あなたさまが所期のお志を遂げられますよう、お助け申し上げられるように、と。いつか、きっと、あなたさまがアジアの征旅に立たれるものと、私は信じておりました」
アレクサンドロスは動悸が一層激しく、強くなったように感じた。しかし彼は無言であった。何か額が冷たく汗ばんでくるのをどうしようもなかった。
「そのために、少しでもアジアの水や空気や土の近い処で医術を修めてまいったのです。少し毒性の強い薬ではありますが、その薬毒が病毒を消す働きをするのです。必ず、お命は助かります。もう少しのご忍耐でございます。何とぞ、私の薬をお服み下さいませ」
あたりは次第に白々と明るくなっていた。
フィリッポスは自らの思いを言い尽くすと壷からグラスに薬液を注いでテーブルの上に置いた。アレクサンドロスは、その器の一点をいつまでも厳しく見つめている。
同時に、落手したばかりの密書の文面が、彼の生命の中を駆け巡っていた。それは、ごく簡単な文面であった。
敵方への通謀者にご用心あれ。フィリッポスはペルシャ宮廷に買収されているとの密告がございました。確かな筋の者からでございます。彼が何か薬をお勧めしようとも、くれぐれも服されませぬよう、ご用心のほどを。お命を狙っております故。詳しくは、後に。パルメニオン
と副将のサインがしてあった。
今、フィリッポスは手を小刻みに震わせながら、アレクサンドロスから無言のうちに手渡された密書の恐るべき行文を読み終えようとしていた。
寝台の脇にある獣脂の明かり皿から、微かに青烟があがっている。その、じりじりと焼ける音だけが、館の内にあった。
フィリッポスの姿は、漠とした仄暗い影に包まれていて、いぜんとしてその表情はぼんやりとしか見えない。
一瞬、アレクサンドロスの脳裏を、父王フィリッポス二世の面影が厳しくかすめた。あの時の父の最期の悲憤の顔が――。
父王は、旧王都アイガイの劇場で、何者かに襲われ、殺された。それも、自分の眼前である。半生を戦場に捧げた父はやがてコリントス同盟を打ちたてた。長年の宿願であったギリシャ諸都市との融和をやっと整えた時に、四十六歳の王は非業の死を遂げたのである。つまり宮廷内にわだかまる門閥闘争の毒牙に倒されたのであった。
その暗闘の名残は、今も一掃したとはいい切れない。現にかつて自分自身も危うい目にあった。常に、蠢動する何かが、身辺には感じられる日々でもある。
今ここで、自分も父と同じ運命にあうのか――いくつかの冷たい目が、アレクサンドロスの胸に浮かんでは消え、消えては浮かんだ。
それに、東征軍の動きが、敵方に敏感につかまれている気配も、彼は感じ取っていた。たとえば、今回のこの最大の難事であったタルソスへの進軍も――。
タルソスの町へ来るには、タウロス山脈を越えねばならない。
しかもその山脈を越えるとき「キリキア門」と呼ばれる自然関門がある。これが何分にも狭い山峡の道で、四、五人が肩を並べて通るのがやっとという長い隘路である。これを、夜間に乗じた行軍とはいえ、全く無抵抗、無傷で通過できたことが、アレクサンドロスには不思議であった。
もし高い山峡の頂から、敵の石弾や矢玉が雨あられと降って来たら――手痛い打撃をうけたであろう。「キリキア門」を通過し、赫々たる朝日に光るキリキアの草原に出ると、全軍は喚声をあげたものだ。大麦、小麦、ごま、葡萄の豊かな畑。
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だが、なぜ、この関門を、敵は当地の将軍に放棄させたのか。なぜ、こんなにも無傷で――。
それは、単に幸運とするには余りに幸運すぎる。むしろ、アジアの深部へアレクサンドロスを誘い込み、前後の平野を焼いて四万の大軍の飢えと疲れを増進させ、そのうえで一気に叩こうという策略ではあるまいか。現に、ここでも敵には焦土作戦の動きがたしかにあった――。
きっと何者かが、ペルシャと内通しているにちがいない。このことは、パルメニオンが繰り返し耳打ちしにきている。彼は、父と共に精鋭なマケドニア国民軍を仕立て上げた側近中の側近であり、大功労者である。この密書も、その彼が先着地から何事かをつかんでもたらした情報なのである。
しかし――フィリッポスは、自分の無二の友なのだ。幼い日の想い出も、将来の誓いも、分かちがたく一つであった互いに親しい友である。
我が友の言葉と、側近の功臣の諌言と、いずれを選ぶべきなのか。
信ずるべきか、否か――。
アレクサンドロスの心の中は、迷いと熱病の二つの突風が重なりあって激しく渦巻いていた。疑おうと思えば、あれもこれも疑わしい材料として彷彿としてくる。
その決定的なものが、今、フィリッポスが手にしている密書という一見動かしがたい証拠でもあった。
そして、フィリッポスを信じるためには――。
そのためには、文書という具象物を捨てて、もっとあいまいな、目に見えぬ抽象物――人間の心を信ずるしかなかった。フィリッポスの心、を。否、それ以上に、彼の心を信じようとする自分自身の心を。
(毒性の強い薬だと?……待て待て、彼が裏切るものかどうか、心を試すには、彼に薬の毒味をさせたらどうなのだ……いや、彼に毒味をさせるなど、そんなことをするくらいなら、いっそ口実を設けて服まなければいい……だが、どっちにしても、それで“友”というものは死ぬのだ。たとえ彼の身は生きていても――)
アレクサンドロスの心は濁流となってとめどもなく回転した。
(いやいや、結局、私は自分の命が惜しいのか。我が身の可愛さに、命欲しさに、自分の欲に浮かされて、真実を見分ける心が曇らされてはいまいか。どの道、死ぬかもしれないこの身なのに……。万が一、こっちが友を裏切ることになるのなら、それこそ死んでも償いきれない恥辱になるのだ)
自分が彼を裏切るか、彼が自分を裏切るか――。
そして、生か、死か――。
(私は、王なのだ。全ギリシャの覇者なのだ。かりに、杯を服まずして、事実は全くフィリッポスの誠心誠意から出た薬であることが分かったなら、自分の卑劣と臆病は、それこそ後世までの笑い草だ……だが、王なればこそ、どうあっても生きねばならぬ)
彼は濁流のような心の中に一筋の太陽の光を見いだそうと必死であった。
(いま目の前に置いてある薬が毒杯と知りながら服んで一命を落とすとは、間抜けな王と指弾されよう。それは犬死にと言われても致し方ない……だが、もし一つ誤れば、私は、友よりも、王の面子を愛することになるのだ。友の命を見限って。……否、断じてそんなことがあってはならぬ)
アレクサンドロスには、とどまることを知らぬ無限の苦悶と思えた。しかし、実際にはほんの数秒間の逡巡でしかなかったにちがいない。目くるめくさまざまな想念がこの一瞬間に凝縮されて、複雑な心の回路を、彼は刹那のうちに駆け巡ったのである。
部屋の片隅の壁が、明かり皿の炎を薄あかく映している。一瞬、館の四壁を叩くように一陣の強風が吹き荒ぶと、その火影は大きく揺らめいてフィリッポスの横顔を明るませた。
書面に見入る彼の目がきらりと光を帯びた。そして、今まさに、その目をアレクサンドロスの方へあげようとした。
その刹那――。
ふと彼は、一つの遠い声を聴いた。いや、聴いたように思った。
(友愛とは……)
それは、少年の頃、フィリッポスと共に聴いた恩師の声である。アレクサンドロスの胸の奥底にこびりついている師の声の記憶が、機に触れて呼び声となって耳に蘇ろうとしていたのである。
(友愛とは……)
彼は、その後に続く師の言葉を記憶からたぐりよせようと懸命に心を凝らした。
師の声の中にすべての回答があることを、彼は直覚していた。その言葉こそ自分の行く手を示す標であり、迷いの闇を払う灯にちがいないと、瞬時に悟っていた。
遠い微かな呼び声の断片は、二度、三度こだまのように繰り返されるごとに次第に大きく、力強くなっていくのである。
遂に、明瞭な師の言句が記憶に蘇って耳朶に響くと、彼は、はっと胸を突かれた。そして、目をあげて、もう一度フィリッポスの顔を凝視した――。
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