Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)
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2
東京の近郊にあるこのM中学に、早乙女剣司が転校してきたのは、この春のことであった。それから、まだ一カ月もたっていない。
新しい友達と学校生活のなかで、剣司はかすかなときめきを感じていた。それは、いままでとちがう環境に身をひたすとき、少年ならだれしも覚える、あの期待と不安のいりまじった感覚であったにちがいない。
転校の時期が、学期の途中でなく、学年のかわるときであったことも、剣司にとって幸いだった。クラスの編成がえで、みんなが新しい出あいにそわそわしている。
心なしか緊張したクラスの空気も、二言三言かわすうちに、いつしかときほぐれ、教室のあちらこちらに、語らいの輪が広がる。そして、新しい友情の芽がふくらみ始める。そうした雰囲気のなかで、剣司もすぐに初めてのクラスにとけこんだ。
始業式の翌日、剣司はさっそくサッカー部を探した。
校内では、いろいろなクラブが新入生の勧誘に声を張りあげている。
「君も風になろう!」と呼びかけているのは、どうやら陸上部のメンバーらしい。「大空へジャンプ!」と書いたたれ幕を掲げているのは、バレーボール部の生徒だ。講堂の前では柔道着をはおった連中が「男なら、これしかない!」とどなっている。
校庭の一角に「燃やせ青春!サッカーは世界のスポーツ」とうたうのぼりが見えた。まわりには、ユニホームを身につけた部員が集まっている。足の甲やももでボール・リフティングをやっている選手もいる。ヘディングをかわしあっている仲間もいる。
剣司の近づく姿を見つけて、そのなかの一人が声をあげた。
「あっ! きた、きた。サッカー部へ、ようこそ!」
「新入生第一号だ!」
「君! サッカー部に入るんだろ」
みんなが矢つぎばやに呼びかける。
「はい。よろしくお願いします――」
剣司はみんなをまぶしそうに見まわしながら、ペコリと頭を下げた。
「じゃあ、まず、この紙に、学年とクラスと名前を書いてください」
画板を首からさげた選手が、ボールペンを手渡しながら、せかすようにいった。どこの部も、新部員の獲得には懸命らしい。
剣司の手元をのぞきこんでいたひとりが、びっくりした声を発した。
「あれ! 二年生か――君は。どうりで、でかいと思った」
「転校してきたばかりで――」
「それに、B組といえば……おーい、竜太!お前と同じクラスだぞ」
竜太と呼ばれた少年が、人垣のなかから現れた。ボール・リフティングをたくみにこなしていた選手だった。
「知ってるよ。さっき教室で見かけたから。ぼく、風間竜太です。よろしく――」
笑みをたたえた涼し気なひとみが、きらきらと輝いている。
別の部員が、身を乗り出すように声をかけた。
「転校っていってたけど、どこから?」
「静岡のK中から……」
剣司は、みんなの視線がいっせいに集まるのを感じた。
「K中といえば、去年の全国大会でベスト4に入ったところじゃないか」
「そこでも、サッカーやってたの?」
「うん――」
「レギュラー?」
「まさか。まだ一年だったもの。うまい先輩もたくさんいたし――」
口々に問いかけるみんなをかき分けて、ひときわ背の高い選手が進み出た。あとから知ったのだが、これがキャプテンの海野湧一であった。
「ところで君、新人戦はどうだった?」
暮れから新春にかけて行われる、一、二年生で構成したチーム同士の対校試合である。
「はい。そっちの方はレギュラーで全試合、出場しました」
「それで、結果は?」
「県で優勝です」
まわりから、どよめきが起こった。静岡のサッカーといえば、とてもレベルが高い。しかも新人戦に一年生で出場し、そこで優勝したとなれば、やがて全国一を争う実力の持ち主になるであろうことは、疑いないところである。
「大戦力になりますね、キャプテン」
「これは頼もしいや」
「今年の地区予選は楽しみだぞ」
キャプテンの海野は、入部用紙に書かれた文字をちらりと見ると、切れ長の目を細めながら、右手を差し出した。
「早乙女剣司君か。よろしく!これから、いっしょに頑張ろう――」
3
ハーフライン方向へ小走りで戻りながら、剣司の胸のうちに渦巻いていたのは、まず味方に対する不満であった。
ボールはすぐにとられてしまうし、パスは通らないし、フォーメーションはなってないし……。どいつもこいつも、頼りにならないやつらばかりだ。
一軍と二軍の紅白試合だから、さほど得点は関係ない。とはいうものの、しかしこれでは自分の力が発揮できない。こいつらが、おれの足を引っ張っているのだ。
試合が始まってまだ間もないというのに、剣司は早くもそのことを感じて、いらいらするばかりだった。
サッカー部の監督やキャプテンに対しても、剣司の怒りはおさまらなかった。
なんで、おれが二軍で戦わなくちゃならないんだ。おれは、サッカー校で有名な静岡のK中にいたんだぞ。いまどき、ほんとうなら、そこでレギュラーになってるはずだ。
だいたい、このM中なんて、地区予選も勝ち抜けず、都大会に顔を出したこともない学校じゃないか。それなのに、どうしてこのおれが二軍なんだ。
これまでやってきた毎日の練習でも、おれの実力は十分わかっているはずだ。こんな紅白試合は、やるまでもない。
それを考えると、剣司はむしょうに腹が立ってくるのである。
しかし、なんといってもいちばんしゃくにさわるのは、あの竜太の存在だった。
小さいくせに、やたらすばしっこい。足も速い。センスもいい。状況判断も的確だ。三年生のレギュラーにまじっても、けっしてひけをとらない。その点では一目おかざるをえない、と剣司も思う。
竜太がきらいなわけではない。ふだんは、冗談をいったり、ふざけあったりもする。明るいし、飾らないし、勉強だってよくできるし、クラスでも人気ものだ。
しかし、サッカーのこととなると、剣司の心のなかには、竜太への対抗意識がむらむらと雲のようにわき起こってくるのである。
ほかのことはいい。けれども、サッカーだけは絶対に負けたくない。とくに、同じ二年生の竜太には……。その気持ちを、剣司はどうしてもおさえることができなかった。
紅白試合は二十分ハーフで行われていた。前半だけでも、まだ十八分以上ある。自分の実力を見せつける時間は、じゅうぶん残っているといっていい。
ハーフライン手前の位置についた剣司は、大きくひとつ息をすると、相手陣営の竜太をグッとにらみつけた。
さあ、試合続行である。
気を取り直したのか、一軍の攻勢に、その後の二軍はよくもちこたえた。しかし、前半十二分に、今度は一軍フォワード立石のロング・シュートで追加点をもぎとられた。
だが、剣司も負けてはいなかった。その直後の前半十五分、自分であげたパント・キックを、飛ぶ鳥のようなすばやさで、さらにドリブルにもちこみ、敵のバックス陣をかいくぐり、キーパーの出ぎわをねらって、一点を返した。
後半に入っても、剣司の動きは、いっそう激しくなるばかりだった。
意表をついたオーバー・ヘッド・キックはする。ハンド・スプリング・スローで、みんなを「あっ!」と驚かす。
オーバー・ヘッド・キックとは、背後に体を投げだして宙に浮いた瞬間、自分の頭越しにボールを真後ろへける離れ業である。ハンド・スプリング・スローとは、タッチラインからのスローインの際、両手でボールを持ったまま、前方に体を一回転させて投げ入れる高級技をいう。
どちらも、いってみればアクロバット的なプレーである。見ている観客を思わずうならせるような、派手な技といってよい。それを剣司は連発した。
まわりで見ているサッカー部の一年生たちは、剣司がそんなプレーをするたびに、「ウォー!」とか「やった!」とか、無邪気に喚声をあげている。
ところが、監督の島野先生は、だんだん険しい顔つきになってきた。
島野耕平――三十一歳。歴史の教師。独身である。年齢より若く見られることを、いつも自慢の種にしている。本人は、まだ二十代のつもりらしい。
その島野先生も、初めのうちは剣司の活躍に目をまん丸くしていた。
「うーむ。なかなかやるな、あいつは……。たいしたもんだ」
「よし! そこだ――いけ!」
「ほー! お見事、お見事」
前半十五分にあげた剣司の一点にも、ことのほか満足で、まわりの部員たちにこんな解説をしたものだ。
「いいか、お前たち――。剣司はいま、キーパーが出てくるところをねらってシュートした。そしてボールは、キーパーの右を抜いて入ったんだが、さあそこで問題――なぜ剣司は、キーパーの右側にシュートしたのか。わかる人!」
答えを待つふうでもなく、島野先生がすぐに言葉をついだ。
「――それは、あの瞬間、キーパーの体重が右足にかかっていたからなのである。つまり……」
部員の一人が得意そうに叫んだ。
「体重がかかっているから、パッと反応できない!」
島野先生が、ちょっといやな顔をした。
「ウホン……。ま、そういうわけだな。体重のかかっている足のあたりは、すぐそばを抜けるゴロでも反応できない。剣司のシュートは、キーパーのそうした弱点を、瞬間的な判断で、たくみについたものなんだ。うーん、サッカーというのは、奥が深いなぁ……。どうだ、みんな!」
うなずきながら、島野先生は一人で悦に入っている。
しかしそんな気分も、前半のうちだけであった。剣司ひとりのスタンドプレーがやたら目につき始めるにつれ、島野先生はだんだん首をかしげるようになったのである。そして、むっつり腕を組んだまま、やがて身動きしなくなってしまった……。
4
事件は、後半十六分に起きた。
九対二と、得点は圧倒的に一軍である。九点のうち二点は竜太、キャプテンの海野は四点をあげている。一方の二軍の得点は、剣司が全部たたき出していた。
剣司にとって、これは竜太との戦いであった。あいつなんかに負けるものか。たたき出した得点でいえば二対二だ。戦いは、まだ互角なんだ。いや、バックの選手を考えれば、一軍と二軍なのだから、こちらの方が勝っているともいえる。これ以上、絶対に、竜太に……点は……とらせない!
フィールドをかけずりまわりながら、剣司の胸のなかにはこの思いだけが、暗く溶岩のようにたぎっていた。
二軍のゴール前に、センタリングが上がる。一軍のフォワードが突進してくる。
竜太が走る――。
剣司が追う――。
スーッと落ちてきたボールに、竜太がねらいを定める。
――あっ!ボレー・シュートをきめるつもりだ。まずい!
なんとか防ぎたい。だが、間に合いそうもない。竜太が右足を浮かせた。剣司は歯ぎしりをした。
そのとき、二軍のバックスが懸命に走り出て、宙に体をおどらせた。球は、竜太にわたる間一髪の手前でさえぎられ、フィールドを転々としていく。
追いついたのは、一軍センターハーフの中村であった。中村はボールを止めると、すぐさまパスを繰り出す。ボールがふたたび竜太へと戻っていく。
竜太はワン・トラップでボールをおさえると、すばやくシュートの体勢に入った。
そこにタックルをかけようと、剣司が猛烈な勢いですべりこむ。
土ぼこりが舞い上がる。二つの体がもつれあう。
グラウンドの選手たちも、まわりで見ていた部員たちも、思わず「あっ!」と息をのんだ……。
その瞬間――。
竜太は左の足首に異様な衝撃を感じた。右足でシュートを放とうとする矢先であった。
体がバランスを失った。天と地が、ひっくり返った――。
目の前を、土ぼこりが流れていく。春の日を浴びた大地の、あのむせかえるような匂いが鼻をつく。透き通った空の光が、目にまぶしい。
竜太は、あおむけに倒れていた。
かたわらには、剣司が尻もちをついている。
しばらくすると、剣司がすっくと立ち上がった。そして、じっと竜太を見おろした。
「おーい、竜太!どうした」
「大丈夫か」
みんなが口々に叫びながら、走り寄ってくる。竜太が四つんばいになった。なんとか起き上がろうと足を伸ばしたとたん、顔をしかめてまた崩れるようにすわりこんだ。竜太はしかし、うめき声ひとつあげない。
「無理するな! 横になれ」
島野先生が、竜太のそばにしゃがみこんだ。左足をそっと持ちあげるようにして、サッカーシューズを外し、ストッキングを脱がせる。竜太の足首は、青黒く、まりのようにふくらんでいた。
「こりゃ、いかん――。おい、山口と赤城、二人で、とりあえず医務室に運んでくれ」
左右の肩を支えられ、足を引きずるようにして、竜太がグラウンドを去っていく。その後ろ姿を、剣司はうつろな気持ちで見送っていた。
5
翌日の放課後、新しいレギュラー・メンバーが発表された。
校庭のかたすみにある部室の前に、サッカー部員が集まっている。キャプテンの海野以外は、全員が腰をおろしていた。三年二十一名、二年十八名、一年二十六名――計六十五名の陣容である。
傾きかけた日差しが、みんなの背中を照らしていた。身動きひとつせず、みなかたずをのんで、キャプテンの表情を一心に見つめている。
海野が口を開いた。新レギュラー・メンバーの名前を、次々に呼びあげていく。
「……坂本幸一……中村大二郎……立石貢……」
呼ばれた選手が返事をして立ち上がる。レギュラーに選ばれるのは、キャプテンの海野を含めて二十名だ。互いにだれが呼ばれるかは、日ごろのプレーでだいたい想像できる。とはいっても、やはりこのような発表には、いつの場合にも緊張がつきまとう。みんなの真剣な表情も、そのことを物語っていた。
「……鈴木光隆……早乙女剣司……」
「はい――」と答えた剣司の顔に、海野がチラリと視線を走らせた。
レギュラー選手全員の名を告げ終わると、海野は顔を上げ、立っているメンバーをグルリと見まわした。
「――この二十名で、これからの試合を戦っていく。以上!」
レギュラーのうち、三年生については数人の交代があった。二年生は剣司ただひとりである。ちょうど竜太と剣司が入れかわったかっこうになった。
監督の島野先生が前へ進み出た。
「新しい一軍の二十名が決まった。新しい決意で、新しい挑戦の意欲に燃えて、大いに頑張ってほしい。一軍にあがった人、二軍にさがった人、いろいろあると思う。しかし、どんな立場になっても、自分のいまいるところでベストを尽くすことが大切だ。やたら有頂天になったり、いたずらに気を落とすのは、二流三流の人間である。一流の人間は、どんなときにも黙々と努力を積み重ねていく。それが、最後の勝利をつかみとる秘訣だ」
午後のやわらかい光が、島野先生の日焼けした顔に降り注いでいる。ひたいに手をかざすと、島野先生は続けた。
6
「いまの全日本の選手たちも、ワールドカップに出てくるような世界の一流プレーヤーたちも、みんながみんな君たちのころからずば抜けた素質の持ち主だったわけじゃない。中学生のころは目立たなくても、十代の後半あるいは二十代に入ってから、めきめき力をつけてきた選手がいっぱいいる。それだけじゃない。高校のときからサッカーを始めて、日本代表になった選手だっているんだ……」
サッカーの世界は厳しい。少なくとも小学生のころから取り組まなければ、一流のプレーヤーになることは、ほとんど不可能ともいわれている。
高校から始めたって、もう遅いのではないか――全日本の代表選手になったその彼の心にも、こんな考えが何回となくちらついたという。
他人と同じ努力をしていたのでは追いつかない。二倍努力して、やっと同じレベルになれる。他人よりうまくなるには、三倍の努力をしなくちゃならない。そう決意して、彼はだれよりも早くグラウンドへやってきて、朝も夜も猛練習に明け暮れた。
結果を出せない努力は、ほんとうの努力ではない。結果を出せなくても自分の努力に満足してしまう人は、一流にはなれても、超一流にはなれないのだ。
「君たち! 目指すなら一流といわず、超一流を目指せ。そのための、毎日の努力を怠るな。人間だから素質もある。技術のうまいへたもある。けれども、超一流の人間というのは、たんに素質や技術のすぐれた者をいうのでなく、どんなときにもけっして地道な努力を忘れない人のことをいうんだ。その一歩一歩の懸命な努力の積み重ねが、超一流の人間をつくっていく。このことをよく覚えておいてほしい――。それから、最後に……」
島野先生が声を落とした。
「みんなも知ってるように、きのう竜太がケガをした。左足首の捻挫だ。病院でみてもらったところ、関節のすじが切れてしまっている。いまも病院に行ってるけど、全治二カ月の重傷らしい。だから当分、練習もできない……」
剣司は、顔を上げることができなかった。みんなは島野先生を見上げているけれど、あのときの剣司のプレーをきっと思い出しているにちがいない。
あのとき――あの瞬間――。
おれは竜太めがけてすべりこんだ。なんとしてもシュートを防ごうと、思いきってタックルをしかけにいった。あのとき、おれはなにを考えていたのだろう。あの瞬間、おれの心にあったのはなんだったのか。
目の前にボールがあった。そのすぐわきに竜太の足があった。おれはボールをねらったのか、それとも……竜太の足をねらったのか……。
一秒の何十分の一という瞬間、おれの心にあったのは、どちらだろう。おれの心にきざしたものは、なんだったろう……。
剣司は自分の心の奥底を、のぞきこむのがこわかった。あの一瞬を、はっきりと思い出すのがいやだった。
――ええい、忘れてしまえ。サッカーにケガはつきものだ。こんなことは、しょっちゅうある。いまさらくよくよ考えこんでも、しようがないじゃないか。
――ちがう、ちがうんだ。自分をごまかすな。他人の目はごまかせても、自分の心はごまかせないぞ。あの一瞬の、自分の心の奥を、しっかりとのぞきこんでみろ。
二つの思いが、剣司の胸に渦巻いた。苦しかった。考えたくなかった。しかし、気にするのはよそうと思えば思うほど、胸の息苦しさはつのるばかりであった。
7
剣司がサッカーを始めたのは、小学校の一年のときだった。
休み時間になると、クラスの仲間たちといっしょに、ボールをけとばしながら走りまわったものだ。サッカーというより、それは楽しい遊びのひとつだった。
四年生になったとき、剣司は近所のサッカー・クラブに入った。
素質があったのだろう。剣司はメキメキ頭角を現した。四年の三学期には、五年生や六年生をさしおいて、早くもレギュラーに選ばれるほどになった。
剣司の入ったサッカー・クラブは評判のチームだった。県大会でも、何回となく優勝している。
クラブの監督が口ぐせのように語っていた言葉を、いまでも剣司は忘れられない。
「いいか! 勝負は負けちゃだめなんだ。どんなことをしても勝つんだ。その執念がなくっちゃ、試合には勝てないぞ!」
どんなことをしても勝つ――。なにがなんでも勝つ――。その言葉を、剣司はいつも自分にいい聞かせてきたのである。
静岡のK中に入学してからも、それは変わらなかった。県で一、二を争うサッカー部だけあって、練習も厳しいし、試合もきつい。しかしそのなかで、剣司の負けん気の強さはいっそう激しくなっていった――。
去年の暮れに行われた新人戦の第三戦でのことである。前半は〇対二とリードされた。しかし後半、一年生の剣司がひとりで三点をたたき出すという“ハット・トリック”をやってのけ、見事に逆転したのだった。
そのときの剣司の活躍はすさまじかった。反則すれすれのタックルをかけて、ボールを奪いとる。ドリブルで、何人もの相手をごぼう抜きにする……。後半は、まさに剣司だけのワンマン・ショーといってよかった。
試合には勝ったものの、さすがに監督はいい顔をしなかった。
そのあとのミーティングで、監督は剣司にこういったものだ。
「サッカーはひとりでやるもんじゃない。お前はボールを持ちすぎだ。もっと味方にパスをまわせ。サッカーは十一人でやるスポーツなんだ。チームワークを忘れるな。きょうはたまたま勝てたが、いつもこんな調子でいくとはかぎらんぞ! パスをまわせば、もっと楽に点を取れたんだ」
それでも剣司は、内心こう思うのだった。
――そんなことはわかっている。チームワークといったって、へたなやつにボールをまわしても、すぐにとられてしまうばかりじゃないか。それが前半、敵にリードを許してしまった原因だ。逆転できたのも、おれがあれだけ頑張ったからだ。なんでそのおれが、文句をいわれなきゃならないんだ。
口にこそ出さなかったが、そんな不満が剣司の胸のうちにはくすぶり続けた。
これまで強気一辺倒で押してきた剣司である。しかし、竜太の負傷をまのあたりにして、心のなかで揺らぐものを、剣司は感じ始めていた。
不思議なことであった。じつをいえばこれまでも、乱暴なプレーで相手にケガをさせてしまったことが、剣司には何度かある。しかし、これほど気にはならなかった。
どうしてなんだろう。同じチームの選手だからか。同じ二年生の相手だからか。それとも、別の理由があるのだろうか……。
そんなことに気を取られず、おれはいままでのおれでいいんだ――と剣司は自分にいい聞かせる。
だが彼は、そのように納得しようとしながらも、揺らぐものの正体をいつしか見きわめようとしている自分に気づくのだった。
8
春は時おり強い風が吹く。教室の窓のすきまからも、砂ぼこりがいつの間にか忍びこんでくるようだ。机の上も、ほこりっぽく感じられる。
六時限目の歴史の授業であった。教壇にはサッカー部監督の島野先生が立っている。古代ギリシャの文化について語っているが、この日はめずらしくなかなか“脱線”しない。
あたたかな春の午後……うつらうつらしている生徒もいる。剣司もその一人だ。
先生は黒板に地図を描きながら、ギリシャが紀元前四世紀、マケドニアの王フィリッポス二世によって征服されたことを説明していた。フィリッポス二世の子アレクサンドロスは、ペルシャを討つため東方遠征に出発し、わずか十年の間にギリシャ、エジプトからインド西部にまたがる大国家を建設した――。
「ガウガメラの会戦で、アレクサンドロス大王は、四倍以上のペルシャの大軍を、わずか七千騎で打ち破ったのであった……」
風が、窓わくを揺さぶる。
きょうも練習前に、しっかり水をまかなくちゃならないな……と竜太は思った。
全員がフィールドを走りまわれば、もうもうたる土ぼこりがわきあがる。この季節ともなれば、なおさらだ。突風にあおられて、目をあけていられないことも少なくない。
選手たちは、手足はもちろん、首すじから髪のなかまで、汗とほこりですぐ汚れてしまう。グラウンドへの散水は、だから欠かせない仕事であった。
ケガをしてから、竜太は新入部員にまじって水まきを手伝った。「先輩、いいんです。休んでてください」という彼らの声を背に、竜太は左足をかばいながらも、率先して散水の準備に励む。
「いいか、君たち。水まきにも、こつがあるんだ」
消火用の筒先がついているホースを、水の勢いに負けないよう、しっかり腰に構えること。一カ所にジャブジャブ注ぐと、そこだけぬかるみになってしまう。なるべく均等に、霧雨が降るように、水をまくこと。そして、しっとりと湿り気を含ませて、大地を落ち着かせる……。
ケガの翌日を除けば、毎日の練習にかならず竜太は現れた。もちろん、みんなといっしょに駆けることはできない。だが、そのかわり、竜太は雑用と思えるような仕事に率先して取り組んだ。
くじいた左足首に、それほどの痛みはない。あまり無理をしなければ、多少は動きまわれる。とはいっても、大地をまともに踏みしめれば激痛が走った。学校への行き帰りは、やはり松葉杖を使わなければならなかった。
レントゲンで調べたところ、左足首外側のすじと膜が完全に切れてしまっていた。ギプスで固めて、治るまで二カ月――それが、医者の診断であった。となると、六月いっぱいまで、サッカーはできないということだ。
失敗だった……と竜太はつくづく思う。
――右ななめ後ろから剣司がタックルしてくることを、ぼくはあのとき気づいていた。いつもなら、パッと跳びあがってかわすところだが、ちょうどシュートの体勢に入っていたので、かわす決心がつかなかった。あのぎりぎりの瞬間に、ぼくは一か八かでシュートを選んだのだ。
右足を振りおろし、まさにボールにふれようとした寸前、剣司の足が矢のように飛んできた……。ぼくの判断ミスだった。
だが、剣司のタックルがわずかにそれて、ぼくの左足にくるとは思わなかった。
衝撃を受けた瞬間、左の足首はものすごい力で外側にねじ曲げられ、竜太はゴキッといういやな音を聞いたように感じた。そして、気がついたときには、フィールドにあおむけに倒れていた……。
むこうずねをけられたこともある。かかとの骨にひびが入ったこともある。手の指を折ったこともある。すり傷などはかぎりない。しかし、治るまでこれほど時間のかかるケガは初めてだった。
ケガをするたびに、いちばん心配するのは母親であった。痛々しそうなまなざしで「あんまり、むちゃしないでよ。お願いだから」と口ぐせのようにいう。
けれどもそのようなとき、きまって父親はこんなふうに口をはさむ。
「いいんだ。少々のケガぐらい……男なんだから」
「何いってるんですか、あなた! ケガした竜太の身にもなってやってくださいよ。ほんとに無責任なんだから」
「何が無責任なものか。こうやって男は鍛えられていくんだよ」
「そんなこといったって、取り返しのつかないケガをしたらどうするんです」
「…………」
いつも最初に口を開くのは母親、そして口を閉じるのは父親であった。
母親に心配をかけるのがいやだったので、竜太はケガをしても、泣きごとをけっしていわなかった。痛くても、じっとこらえて黙っていた。
でも、さすがに今度のようなケガは、かくしようもない。
左足を包帯でグルグル巻きにして戻ってきたわが子を見て、母は「あらぁー」と叫んだまま、大きなひとみをよりいっそう大きく見開いて、しばし言葉を失ったものである。
あのときの母の表情を思い起こすと、竜太はおかしくなって、クスンと笑い出しそうになった。
9
「おい! そこで、放課後の練習のためにエネルギーをためこんでるやつ。剣司、君だ。いまの問題の答え、わかるか」
剣司がもぞもぞしながら、眠そうな目を上げた。ぼんやりと島野先生をながめている。
「もう一度、いうぞ――。ここに一万人の軍勢がいたとする。これをA軍としよう。向こうにも同じく一万人の軍勢がいる。これはB軍だ。このA軍とB軍が、二回にわたって戦闘を繰り広げたとする……」
アレクサンドロス大王から、いつの間にか話が戦争クイズにとんでいる。どうやらきょうも授業は、大幅に“脱線”したらしい。
「……A軍は、一万人全員が二回の戦闘をぶっ続けで戦った。B軍は、一万人を五千人ずつの二グループに分けて、それぞれ一回戦と二回戦を戦った。要するに、一回戦が終わったら、それまで戦って疲れている五千人にかわって、元気いっぱいのもうひとつのグループ五千人がおどり出て、二回戦を戦うわけだ。両軍の兵士の戦闘能力は、まったく互角であるとする。さて、このとき、勝利をおさめるのは、どちらの軍勢であろうか。A軍か、B軍か――。剣司! どうだ」
島野先生が、うれしそうに問いかけた。剣司はキョトンとして、首をかしげたままだ。
「おい! この問題、わかる人!」
教室中が、ざわつき出した。あちらこちらで、意見をかわしあっている。
「半々にして戦うB軍のほうが有利じゃないかな。A軍みたいにぶっ続けで戦ったら、へばっちゃうぜ」
「いやあ、A軍のほうが勝つだろう。なんたって、人数の多いほうが強いよ」
「だけど、あんまり疲れすぎたら、戦えなくなっちゃうんじゃない」
「そんなことはないだろう。選挙だって、数の多いほうが勝つんだぜ」
「なにいってるの! 選挙と戦争はちがうわよ」
「あたしは、だけど、戦争って、やっぱりいや。人間と人間が殺しあうなんて、最低よ」
議論は白熱するばかりである。まとまりそうもない。
「よーし、みんな!それでは決をとろう。A軍が勝つと思う人、手をあげて!」
クラスの半分ほどの生徒が、ぱらぱらと手をあげた。
「それでは、B軍が勝つと思う人!」
残りの手があがった。どうやら意見は、まっぷたつに分かれたようだ。
「正解は――A軍である。この場合は、A軍が勝利をおさめる」
「ほーら、やっぱり!」
「エーッ、ウッソー!」
教室に、どよめきと歓声が入り乱れた。
「おーい、みんな、静かにしろ!」
島野先生が両手で制して叫んだ。
「つまり、このことは何を物語るかといえばだな、要するに戦いは“遊び”のあるほうが負ける――ということなんだ」
つねに全員が戦っているA軍に対して、B軍のほうはいつも半分の兵士が遊んでいる。疲労などの問題はあるかもしれないが、しかしそういった点を考慮しても、これではB軍に勝ち目はまったくないのである。
島野先生の説明に、生徒が感心したようにうなずいた。
「では、次に、応用問題だ――」
先生がにこにこしながら、またもや身を乗り出した。歴史の授業は、どうなったんだろう。
「君たち、騎馬戦を知ってるだろ。三人で騎馬を組み、一人が上に乗る。つまり四人で一騎を組み上げる。そして互いに相手の騎手を落としあう。たくさん残ったほうが勝ちだ。さて、まったく同数・同能力の陣容であった場合、かならず勝つにはどのように戦ったらいいか。つまり、騎馬戦の必勝法だな――」
島野先生が、ウキウキした表情で、片手をまっすぐ上にあげ、「はい、わかる人!」と例の通りに問いかけた。いつも変わらぬポーズである。教室がまた、ざわざわし始めた。
「相手を落っことすんじゃなくて、鉢巻きを取ったら勝ちなんじゃないの」
「それは、小学生の騎馬戦だよ」
「後ろから襲いかかるようにしたら、どうだろう」
「いつも、そう、うまくいくとはかぎらないぜ。向こうだって、警戒するだろうし……」
「騎馬戦なんて、やったことないから、わかんないわ……」
「あれ、危ないから、やっちゃいけないのよねぇー」
「つまんないこというなよ!これは問題なんだから」
またもや、いっこうに回答は出そうにない。島野先生がうんざりして、やれやれといった顔つきになった。
「あのね――さっきもいったように、ポイントは“遊び”なんだよ。遊んでるほうが負ける――この原理を応用するわけだ」
「わかった! じゃあ、敵を遊ばせちゃえばいいのね」
声をあげたのは、クラスでいちばん成績がよく、バレーボール部のエースとして活躍する花岡咲子だ。
「その通り! さあ、敵を遊ばせるには、どうしたらいい」
「うーん、要するに……遊んでいる敵を、なるべく多くつくり出せばいいってことね。それには……」
みんなはまだわけがわからず、けげんなまなざしで咲子を見つめている。
「……敵と当たるときに……こちらはかならず……二騎がペアで……ぶつかるようにすればいいんじゃないかしら。そうすれば、戦っている騎馬は、いつもこちらが相手の二倍。逆に、遊んでいる騎馬、つまり戦ってなくてあちこち移動している騎馬は、いつも相手の方が多くなる――」
「その通り! しかし、お前、よくわかったなあ。今までにこの問題ができたのは、花岡が初めてだ」
島野先生も、びっくりした様子である。
「おい、みんな! いまの答え、わかったか――」
かんで含めるように、先生がもう一度、ゆっくりと説明した。
戦いが始まる前に、こちらは二騎ひと組のペアを決めておく。相手の騎馬と戦うきは、かならずこのペアでぶつかるようにする。一対一の戦いは絶対に避ける。
相手の一騎に対して、こちらは二騎で立ち向かうのだから、断然こっちが有利である。
運悪くペアのうちの一騎がつぶされてしまった場合も、生き残った一騎は、同じような“はぐれ騎馬”とまた新しいペアを組むか、もしくは近くのペアに合流していっしょに戦うようにする。どんな場合も、単独で向かっていくことは絶対しない。これが鉄則なのである。
敵と味方が入り乱れて、ごちゃごちゃしてきても、かならずペアでぶつかるという一点さえ忘れなければ、知らないうちに味方が勝利をおさめる結果になることは、九分九厘まちがいない。
「なんだか、卑怯だな。ちょっと、ずるいんじゃないの……」
「なにが卑怯なもんか!こういうのを作戦というのだ」
島野先生が、むきになっていい返す。
「一対一の戦いを避けて逃げまわるなんて、あまりかっこよくない……」
「かっこの問題じゃないんだよ。たとえば、相手がそういった戦法でくるなってことがわかれば、こっちはさらにそれを打ち破る戦法を考えればいいんだ。三騎でいっしょに行動するとか、陣形にも工夫をこらすとか……。同じ土俵の上でルールを守って戦うのは、当然のことだ。そのうえで、作戦をねるのがどうして悪い」
「そういわれてみれば、やっぱりそうかなあ……」
「とにかく――きょう、ぼくのいいたかったことは、戦いでは“遊び”のあるほうが負ける、ということなんだ。これは戦争ばかりじゃない。スポーツでも同じだぞ。たとえば、サッカーだ――」
見えない糸でつながっているかのように、十一人全員が動くこと。ひとりのプレーに連動して、他の選手も的確な状況判断のもと、どのような展開になっても即応できる体勢をとっておくことが大切だ。
ボールが遠くにあるからといって、ぼんやりしているようではだめだ。なぜなら、そこには“遊び”が生まれているからだ。このように、遊んでしまっている選手がいるようでは絶対に勝てない。
また、同じチームにあっては、他の選手を“遊び駒”にしないプレーが大事である。つまり、自分勝手なワンマンプレーは断じていけない、ということだ。仲間を遊ばせてしまうような選手のいるチームは、まぐれで勝つことはあっても、優勝をねらえるところまでは絶対にいかない。
互いに生かしあうプレーを忘れるな。それがチームワークということだ。
「――わかったか、剣司」
「はい……」
そのとき、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「よーし、じゃあ――きょうはこれでおしまいだ」
生徒の一人が叫んだ。
「先生! 今年の体育大会は、騎馬戦やりたいですね」
笑いの渦が教室を包んだ。
歴史の時間なのに、この日もまた、何の勉強だかわからない授業となった。
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