Nichiren・Ikeda
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第七章 「死」の実体に迫る仏…
「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)
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19 追善とは死後の生命に法味を送ること
木口 さきほどの死後の問題についてですが、閻魔大王などは、どうなんでしょうか。
池田 それは比喩でしょう。
そうした譬えは、すべて、生命に内在する喜びとか、恐怖とか、苦悩とかの象徴としての生命の働きを意味しているのではないでしょうか。
木口 なるほど。よくわかります。
池田 ともあれ、それこそさまざまな「死」があり、「死に方」がありますが、人間、一度は「死」が到来する。そのときに「苦痛なき死」――これが人間本来の最大の願いではないでしょうか。
―― そのとおりですね。
木口 そのとおりだと思います。
池田 真実の仏法というものは、人に生きる希望を与える。
さらに、ありとあらゆる悩みをすべて包みながら、乗り越えていける境界をもつことができる。そして、さらに安らかな微笑をたたえゆく、後悔なき死を迎えることができる法であると思っております。
木口 なるほど。
池田 ちょっと題名は忘れましたが、たしか裁判関係にたずさわった人で、すでに絶版になった本だと思いますが、次のようなことが書いてありました。
木口 どのようなことでしょうか。
池田 それは、いくら、この地球上の人間が善行を及ぼしても、この社会がよくなるとはかぎらない。そこに、別な要因を含めて考えなくてはならない。
さまざまな苦しい死に方をした「霊」のようなものが宇宙にはたくさんあるわけで、それを成仏させなかったら、正しい社会はできない――というような内容であったと思います。
―― たしかに、そこらへんまで、考えていかざるをえないこともありますね。そうした存在を変えゆく、深い清らかな「法」といったものが必要と思いますね。
木口 深い話ですね。
池田 人生、社会へのまじめな思索の結果が、漠然とはしているが、人間の力では、いかんともしがたい、なんらかのものを感じとっていったのではないでしょうか。
木口 わかるような気がします。
池田 いまの話は、あくまでも、思索の範疇にすぎないことですが、仏法上の「追善」ということは、そうした死後の生命に、妙法の法味を送るという甚深の意義となるわけです。
木口 科学者の立場としては、「追善」という意義については、なかなか納得しないむきがありますが、たしかに何か永遠性のものがあることは感じます。
池田 仏法の勤行とは、この「法味」を服するという意義になっております。そこに「追善」という意義も摂せられ、さらに、まえにもお話ししましたが、日月、四天をはじめとするあらゆる諸天善神にまで本源力を与えていくという意味があります。
―― そうですね。
池田 その点については御書に「ろがね}(鉄)を食するばくもあり、地神・天神・竜神・日月・帝釈・大梵王・二乗・菩薩・仏は仏法をなめて身とし魂とし給ふ、」と説かれています。
―― いま「くろがねを食する」というお話がありましたが、「鉄喰う虫」という温泉地や沼に生存する細菌がありますね。
木口 一般には、「鉄」を食べることなど考えられないことですが、現実に「鉄」を食して生命を維持している細菌がいるわけです。
それにしても、七百年も前に、大聖人はよく調べておられたのですね。
―― 一つの事実作用ですね。
池田 この「法味」ということも、仏法上からみれば、諸天善神もこの法味を食して、威光を発揮する。われわれもまたやはり、「南無妙法蓮華経」という無上の法味を、朝な夕なに食しながら、わが色心を調和させ、生命力を満々と発現させゆく以外、真実の人生はない――ということになるわけです。
木口 なるほど。いつものことながら、眼前の視野が、大きく広がる思いがいたします。