Nichiren・Ikeda
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第七章 「死」の実体に迫る仏…
「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)
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17 仏法では病気をどうみるか
木口 ところで「死」ということと関連しますが、いま「健康」ということに、たいへん関心が高まっていますが。
―― 衣食たりて「礼節を知る」が、「病を知る」になっている感がありますね。(笑い)
先日の厚生省の調査(一九八三年八月十三日発表)によると、八人に一人は、本格的治療を要する病気にかかっているそうです。
木口 これは、たいへんなことですね。
池田 たしかに「病」というものは、人生の最難問の一つにはちがいない。
私も幼少のころから病弱で、「死」という問題については、人一倍悩み、煩悶した人間かもしれない。
木口 そうですか。「生老病死」といいますが、仏法では「病」と「死」を、どのようにみるのでしょうか。
池田 そうですね。
関連性はないとはいえませんが、イコールとはいえないでしょう。厳密に言えば、「病気」は「病気」、「死」は「死」です。
このことについて、戸田先生は、「病気じょうずの死にべた」という言葉を言われながら、よく指導しておられた。
木口 なるほど。
池田 ただ病理学的に、「死の原因は何か」というときに、肝硬変であるとか、胃ガンであるとか、心筋梗塞、脳卒中というようなことになってくる。
木口 すると仏法では、病気そのものをどのようなとらえ方をしているのですか。
池田 仏法では、身体は「地水火風」の四大によって構成されていると説きます。この四大が調和を乱すと身体の病気になります。「法華経」には、「仏」は「少病少悩」といわれている。
仏身といえども生身だから、四大によって形成されている。ゆえに環境の変化によって四大が少し不調和になると、身体も少し病むことになる。また複雑な人間社会ですから、当然、多少の悩みもでてくる。
しかし仏は、すぐに四大の調和を取り戻し、悩みを乗り越えていかれる。凡夫のように四大の調和を大きく乱し、「大病」「大悩」にまで引きずられてはいかないという意味ではないでしょうか。
―― 仏法には、「四百四病」とありますが、これは、どういうことでしょうか。
池田 「治病抄」という御書に説かれた御文で、四大つまり「地」「水」「火」「風」の不順、乱れによって起こる病気の総称です。「身の病」と仰せです。
木口 ずいぶんありますね。(笑い)
池田 一方、三毒(貪瞋癡)などの煩悩や業によって起こる「心の病」は「いわゆる八万四千」とも説かれています。(笑い)
―― 「地水火風」の四大とは、どういうことなのでしょうか。
池田 そうですね。四大とは、身体を構成する一種のエネルギーともいえます。この身体エネルギーに、四種の性質があります。
「地」とは硬さの意で、「地大」はものを保持する作用です。人体でいえば、主として「骨」「髪」「毛」「爪」、あるいは「皮膚」や「筋肉」などになってあらわれます。
「水」とは、湿り気の意です。
「水大」のエネルギーは物を摂め、集めるという作用をもっています。主に血液、体液などの体液成分になってあらわれます。
「火」とは熱さで、「火大」はものを成熟させる作用をもっています。発熱、体温となってあらわれます。
「風」は動きの意です。「風大」はものを増長させる作用です。呼吸作用などになってあらわれます。
この「四大」が順ならざるゆえに病気になると説いているわけです。
木口 なるほど。たしかに、お医者さんは、どんな病気でもまず体温・血圧・脈拍を計り、呼吸をみますね。
―― これは、ギリシャ哲学の原子論にも影響を与えているようですね。
ただ、アリストテレスの「四元素説」でも現象論にとどまり、いま名誉会長がお話しされたようなエネルギー論にまでふみこんだトータルな体系ではないようですね。
池田 そうですね。また仏法では、「心の病だけは、いくら名医でも治せず、仏の法門によってのみ治すことができる」とも説いております。
木口 なるほど。
―― この場合、「心の病」とは、思想的なものまで含まれているわけですか。
池田 そのとおりです。煩悩のなかに悪見や邪見として含まれています。
さらに、御書には、「法華誹謗の業病最第一なり」とまで説かれているのです。
木口 なかなか、厳しいものですね。
―― この「四大」が調うということは、宇宙自然の調和の姿にもあてはまることですね。
池田 そのとおりです。この宇宙も、四大という物質的エネルギーによって構成されている。四大が不調和になれば、宇宙現象も乱れます。四大が調和を取り戻せば、万物もリズム正しい運行を奏でていきます。
妙法は自身の生命の一切の調和、開いては社会の調和、世界の調和、宇宙の調和にまで広がっていく大法則です。
木口 たしかにそうですね。
星のなかには、「変光星」という、せわしなく息をはずませている、発育不全のような星があります。
これは、重力や熱の出入りが不安定な状態で、光も落ち着きがなく、地球から見ると激しく光が明滅しています。
池田 なるほど。まさに四大の不調和ですね。
仏法では「四大は万物を育て」と説かれます。星一つとってみても、絶妙なる「四大」の摂理により運行しているわけですね。
木口 そのとおりだと思います。
18 人は死後どれくらいで生まれるのか
―― ところで「病気」から「死」の問題に戻りますが、信仰すれば自殺者がなくなると断定できますか。
池田 それはむずかしいでしょう。
信仰といっても、「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(「三重秘伝抄」)、また、「信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり」であり、信心の強弱、厚薄が大前提です。ゆえに、いちおう信心しているだけであるとか、ただ形式のみの場合には、薄情のようですが、別問題と言わざるをえないでしょう。ですから、信仰の確立、深化ということが大切になってくるわけです。
―― なるほど。
木口 信仰していて事故死にあった場合はどうですか。
池田 それもあります。
ただ仏法上では「悪象」に踏まれて、とあり――現代でいえば交通事故のようなものですが、仮に、それで死ぬようなことがあっても、それが因で、地獄などの三悪道に堕ちるわけではないということも論じられています。
木口 なるほど。
池田 また仏法では、そうした「死」を遂げた生命に対し、追善の回向が説かれております。
―― ところで、人間は死んだのち、どのくらいでまた生まれてくるのでしょうか。
池田 たいへんな難問ですね。(笑い)
これは、あくまでも信仰のうえから考えねばならない問題ですが、仏法では、死という意味での最高の成仏というものを、「上上品の寂光の往生」と説きます。これは、またすぐ新たに、この世に生まれる。
新しい躍動の生命で、社会に貢献しゆく人間として誕生してくる、ということになっています。
また、「中有の道」ということが御文にある。これは、死後の生命が、夢をみるようにさまよい、やがて宇宙の十界の次元の、いずれかに融合していくということになりましょうか。
たとえば、悪因悪果をもった生命の場合は、この「中有の道」を、怖き夢、悲しき夢、または、苦しき夢をみるごとくさまよいつづけ、最終的には、地獄、餓鬼、畜生の三悪道、または四悪趣、六道という低い次元におさまっていってしまうわけです。
―― 一般的に「中有」とは、死の瞬間から次の生をうけるまでの期間のことで、「中陰」「中蘊」ともいいますね。
池田 そうですね。
人の「中有」は、いちおう四十九日とされ、七日ごとに再び生をうける機会があり、最後の七七日までに生縁が決定されるという経文もあります。
そこで、故人に対して追善供養する初七日から四十九日の回向という、今日みられるような伝統儀式ができあがってきたのではないでしょうか。
―― なるほど。
「七」という数字はおもしろい数字ですね。
木口 月火水木金土日の一週間も七日です。
―― 曜日の「曜」とは「かがやく」ということですね。
池田 そうです。太陽と月と、それに火星、水星、木星、金星、土星の五星をそれぞれ一週間に配したわけですね。
木口 ドレミの音階も七音ですね。
―― 色も七色の虹といいますね。(笑い)
池田 宇宙の音も色も、すべて七音のリズムと、七色の光の光彩に集約することができるということでしょうね。
―― たしかに「七」という数字は、「基本」というような意味合いがありますね。
19 追善とは死後の生命に法味を送ること
木口 さきほどの死後の問題についてですが、閻魔大王などは、どうなんでしょうか。
池田 それは比喩でしょう。
そうした譬えは、すべて、生命に内在する喜びとか、恐怖とか、苦悩とかの象徴としての生命の働きを意味しているのではないでしょうか。
木口 なるほど。よくわかります。
池田 ともあれ、それこそさまざまな「死」があり、「死に方」がありますが、人間、一度は「死」が到来する。そのときに「苦痛なき死」――これが人間本来の最大の願いではないでしょうか。
―― そのとおりですね。
木口 そのとおりだと思います。
池田 真実の仏法というものは、人に生きる希望を与える。
さらに、ありとあらゆる悩みをすべて包みながら、乗り越えていける境界をもつことができる。そして、さらに安らかな微笑をたたえゆく、後悔なき死を迎えることができる法であると思っております。
木口 なるほど。
池田 ちょっと題名は忘れましたが、たしか裁判関係にたずさわった人で、すでに絶版になった本だと思いますが、次のようなことが書いてありました。
木口 どのようなことでしょうか。
池田 それは、いくら、この地球上の人間が善行を及ぼしても、この社会がよくなるとはかぎらない。そこに、別な要因を含めて考えなくてはならない。
さまざまな苦しい死に方をした「霊」のようなものが宇宙にはたくさんあるわけで、それを成仏させなかったら、正しい社会はできない――というような内容であったと思います。
―― たしかに、そこらへんまで、考えていかざるをえないこともありますね。そうした存在を変えゆく、深い清らかな「法」といったものが必要と思いますね。
木口 深い話ですね。
池田 人生、社会へのまじめな思索の結果が、漠然とはしているが、人間の力では、いかんともしがたい、なんらかのものを感じとっていったのではないでしょうか。
木口 わかるような気がします。
池田 いまの話は、あくまでも、思索の範疇にすぎないことですが、仏法上の「追善」ということは、そうした死後の生命に、妙法の法味を送るという甚深の意義となるわけです。
木口 科学者の立場としては、「追善」という意義については、なかなか納得しないむきがありますが、たしかに何か永遠性のものがあることは感じます。
池田 仏法の勤行とは、この「法味」を服するという意義になっております。そこに「追善」という意義も摂せられ、さらに、まえにもお話ししましたが、日月、四天をはじめとするあらゆる諸天善神にまで本源力を与えていくという意味があります。
―― そうですね。
池田 その点については御書に「ろがね}(鉄)を食するばくもあり、地神・天神・竜神・日月・帝釈・大梵王・二乗・菩薩・仏は仏法をなめて身とし魂とし給ふ、」と説かれています。
―― いま「くろがねを食する」というお話がありましたが、「鉄喰う虫」という温泉地や沼に生存する細菌がありますね。
木口 一般には、「鉄」を食べることなど考えられないことですが、現実に「鉄」を食して生命を維持している細菌がいるわけです。
それにしても、七百年も前に、大聖人はよく調べておられたのですね。
―― 一つの事実作用ですね。
池田 この「法味」ということも、仏法上からみれば、諸天善神もこの法味を食して、威光を発揮する。われわれもまたやはり、「南無妙法蓮華経」という無上の法味を、朝な夕なに食しながら、わが色心を調和させ、生命力を満々と発現させゆく以外、真実の人生はない――ということになるわけです。
木口 なるほど。いつものことながら、眼前の視野が、大きく広がる思いがいたします。