Nichiren・Ikeda
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17 若鷲(17)
部屋のなかは、峻厳な空気に包まれていた。皆、緊張した顔で襟を正し、山本伸一の話を聴いていた。
「御書は経文です。一字一句をも、ないがしろにしてはならない。ましてや『御義口伝』を心肝に染めていこうとするなら、まず、何度も、朗々と力強く、暗記するくらい拝読していくことです。
また、御書は、身口意の三業で拝していかなければならない。御書に仰せの通りに生き抜こうと決意し、人にも語り、実践し抜いていくことです。理念と実践とは、一体でなければならない。
それが仏法を学ぶ姿勢であり、東洋哲学の在り方ともいえる」
メンバーは、伸一の指摘に目の覚める思いがした。ただ講義を聴けばよいという、受け身の姿勢で臨んだことを、深く反省せざるを得なかった。
この後、伸一は、「御義口伝」の御文に即して、講義を進めていった。
――「御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり」
「まず、南無妙法蓮華経についての御義口伝が冒頭にきているのは、南無妙法蓮華経こそ、一切経の根本であり、法華経の肝要であるからです。
大聖人は、その南無妙法蓮華経について、こう述べられている。
――南無というのは、梵語である。つまり、古代インドの文章語であるサンスクリットの音訳です。これを意訳すれば『帰命』となる。帰命とは、身命を捧げ尽くすことです。
その帰命する対境には、『人』と『法』がある。
『人』とは、文底の釈尊であり、人本尊である日蓮大聖人です。『法』とは、末法の法華経であり、法本尊である、南無妙法蓮華経です。
つまり、人法一箇の御本尊に帰命することが、真実の帰命となります。
人間は、皆、何かに帰命しているといえる。昔の家臣は、主君に帰命したし、戦時中は国家への帰命が叫ばれた。
また、現代では、仕事や会社に帰命する人もいれば、愛する人のために命を投げ出す人もいます。
大事なことは、何に帰命するか、何に自分をかけていくかによって、その人の人生の幸・不幸が決定してしまうということです。
大聖人は、最高無上の、本源的な帰命とは、人法一箇の御本尊への、南無妙法蓮華経への帰命であると教えられている」
18 若鷲(18)
山本伸一の声は、語るにつれて、ますます力強さを増していった。
「この帰命について、更に具体的にいえば、人法一箇の御本尊を、南無妙法蓮華経を広めゆくことを、わが人生の目的と定めて、生涯、広宣流布に生き抜いていくことです。そこに、絶対的幸福の道が開かれるのです。
皆さんのなかには、『不惜身命』とか、仏法のために命を捧げるなどというと、何か悲壮感に満ちた、特攻隊のような印象をもつ人もいるかもしれない。
しかし、その境地というのは、何ものをも恐れることのない、堂々たる安心立命の境地です。あたかも、澄み渡り、光り輝く大空のように、希望にあふれ、大歓喜がみなぎり、最高に充実した、最も自分らしい自由な境涯といえます。
妙法への帰命は、小さな自分の欲望に翻弄されている″小我″を打ち破り、宇宙即我という、宇宙大の自分である″大我″に立ち返ることである。その時に、自分自身が人間として最も輝くことができる。それが人間革命です」
伸一は、更に、「又帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無妙法蓮華経是なり、釈に云く随縁不変・一念寂照と」の御文の講義に移った。
ここは、受講メンバーの多くが、予習しようとして御書を開いても、御文の難解さに匙を投げ出してしまった個所である。
当時は勉強しようにも、参考となる講義録といえるものがないのである。
メンバーの手に入るものといえば、前年の一九六一年(昭和三十六年)に出版された、法華経の訓読が記されている、大石寺版の『妙法蓮華経並開結』ぐらいしかなかった。
それだけに皆、目を輝かせて、伸一の次の言葉を待った。
「ここからは、帰命ということを、『帰』と『命』に分けて、論じられているところです。きっと、理解しにくい個所であったのではないかと思う。
まず、大聖人は、『帰』というのは、迹門不変真如の理に帰することであり、『命』とは本門随縁真如の智に命くことなのであるとお述べになっています。
この不変真如の理とは、永遠不変である真実の法理ということです。
南無妙法蓮華経は宇宙の本源の絶対の真理です。題目を唱えることによって、この宇宙の本源の法則に合致することができる。これが不変真如の理に帰することになります」
19 若鷲(19)
全力で講義する山本伸一の額には、汗が噴き出ていたが、彼は、拭うことも忘れて講義を続けた。
「また、随縁真如の智とは、縁に随って刻一刻と変化していく事象に対応した真実の仏の智慧であり、信心によって湧現した最高の生命である、仏界の働きをいいます。
不変真如の理は、偉大なる妙法という真理であります。
その妙法の法則、力が、実際に、わが生命に、生活のうえに顕現されていってこそ、幸福という価値を生ずるといえる。
つまり、妙法によって、無限の生命力を、仏の智慧を湧現させ、苦難、苦悩を打開し、人間革命、生活革命をしていく、価値創造の姿が、随縁真如の智に命いたことになるわけです。
また、別の譬えでいえば、永遠に変わらざる絶対の真理が説かれた御書は、不変真如の理です。今、その御書を、私たちが、一生懸命に学んでいることは、不変真如の理に帰している姿になります。
更に、その御書の教えを、信心によって、智慧によって会得し、自身の人生観、社会観の源泉にし、社会で活躍していく時に、随縁真如の智に命いたことになります。
この方程式は、すべてにあてはまります。たとえば、マイクなどの音響設備には、声や音を聞き取り、電気信号に変え、大勢の人に話を伝えていくという構造がある。それを知ることは、不変真如の理に帰することです。
そして、スイッチを入れて、電気を流し、実際に使って役立てていく。これは、随縁真如の智に命いたと考えることができる。
さて、不変真如の理の前に、『迹門』とあるのはなぜなのか。
それは、法華経迹門に至って、初めて、諸法実相が明かされて、森羅万象ことごとく、一念三千、妙法蓮華経の当体であることが示され、更に、二乗作仏、女人成仏、悪人成仏が説かれたからです。
つまり、この法華経迹門には、一切衆生が、全宇宙が、妙法の当体であるという、絶対不変の真理が明かされているのです。だから『迹門』とあるのです。
しかし、法華経の迹門で、一切衆生が仏であることが説かれ、自分が妙法の当体であり、仏性を具していることが理論的にわかったとしても、それだけでは、現実の苦悩を乗り越えていくことはできない。観念にすぎません。理と事には天地ほどの開きがある」
20 若鷲(20)
受講生は、初めは難解であると思われた御文も、山本伸一の講義を通して、次第に、明瞭に理解できるようになっていった。
「ところが、法華経の本門に入ると、釈尊自身が、いつ、どこで、どういう原因によって仏になったかという、本因、本果、本国土が明らかにされます。
すなわち、一念三千の法理が、実際の具体的な釈尊の振る舞いとして明かされることで、本門では、現実の成仏の方途が示されたわけです。したがって、随縁真如の智の前に、『本門』の二字があるのです。
しかし、釈尊の法華経の迹門不変真如の理も、本門随縁真如の智も、大聖人の仏法から見れば、ともに、理であり、迹門にすぎません。釈尊の法華経では、本門であっても、現実に、末法の衆生を救うことはできないからです。
仮に、末法に御出現の日蓮大聖人及び三大秘法の御本尊を建造物とすれば、法華経二十八品は設計図にたとえることもできる。
家を建てるには設計図が必要ですが、最後に大事になるのは、設計図ではなく、実際の家です。
『観心本尊抄』には『釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う』と仰せです。
釈尊が成仏する因となった修行と、その結果として得た功徳が、妙法蓮華経の五字、すなわち御本尊には、すべて具わっている。したがって、御本尊を信じて、唱題するならば、仏が得たいっさいの功徳を譲り受けることになる。
ゆえに、大聖人は、『帰命とは南無妙法蓮華経是なり』と、真実の、絶対の幸福を確立するためには、御本尊に帰命する以外にないことを、宣言されているのです。
続いて『釈に云く随縁不変・一念寂照と』とあります。
ここにある『釈』というのは、釈尊が説いた経文である『経』を、天台や伝教等が解釈したものです。
更に、馬鳴、竜樹、天親らの論師たちが、経文の意を論じて、明らかにしたものが『論』です。『大智度論』『十住毘婆沙論』などが、それにあたります。
『御義口伝』の予習に際しては、必ず、この『経』『釈』『論』の出典にあたって、引用された個所の前後も含めて、徹底的に調べてきてほしいと思う。
そうでないと、『御義口伝』の正しい理解はできません。
私も、御書を研鑽する時には、常にそうして原典にあたってきました」
伸一は、受講生に、教学に取り組む基本姿勢から教えていったのである。
21 若鷲(21)
山本伸一は、強い語調で言葉をついだ。
「諸君たちは、この『御義口伝』を、生涯、自身の信仰の、思想の、また、生き方の原点とし、規範としていってもらいたい。
ゆえに、徹底して掘り下げていってほしいのです。井戸も掘り進め、水脈に至らなければ水は出ない。教学も同じです。中途半端な勉強では、信仰を高める力とはなりません。次回からは、皆が『経』『釈』『論』については、すべて調べ、理解しているという前提で講義を進めていきます。いいですね」
「はい!」という、皆の決意のこもった声が返ってきた。伸一はそれから、「随縁不変・一念寂照」の講義に入った。
「『随縁不変』とは、随縁真如の智と不変真如の理のことです。また、一念とは、瞬間瞬間の生命です。
そして、寂照の『寂』は心が静まり定まった状態をいい、静を意味します。『照』は智慧が照り輝くことで、動を意味します。つまり、随縁真如の智も不変真如の理も、ともに、一念三千の本体である妙法蓮華経に、人間の一念に、具わっているということをいうのです。
たとえば、水は″H2O″という分子式で表されますが、これを不変真如の理とすれば、状況によって、氷、冷水、湯、水蒸気と、縁によって変化していく様は、随縁真如の智といえるでしょう」
その時、前から二列目にいた、メガネをかけた生真面目そうな受講生と、伸一の目があった。田原薫という、東大の経済学部の学生である。
伸一は、今度は、彼を例にあげて語っていった。
「また、ここに、田原君という人間がいる。彼はこうして講義を聴いていることもあれば、電車に乗ったり、食事をしたり、眠ったりすることもある。あるいは、苦しみ、怒り、悲しみ、喜びもする。
ところが、何をしていても、同じ田原君という人間である。そこには彼を彼ならしめている統合性、いわば法がある。これが不変真如の理です。そして、さまざまな彼の生命活動は、随縁真如の智になる。
この不変真如の理と随縁真如の智は、いっさいのものに、ともに具わっているというのが、生命の実相であり、それを『随縁不変・一念寂照』と言われているのです。
この妙法の原理に則り、英知を輝かせ、人類の幸福と平和を築くことが、私たちの使命です」
22 若鷲(22)
山本伸一は、時には、精神身体医学(心身医学)や細菌学を例にあげて色心不二を論じ、仏法の生命観を講義していった。また、カントの時間論や空間論と、仏法で説く一念という考え方とを対比させながら、日蓮仏法の生命哲理の深遠さを語った。
更に、「当体義抄」「観心本尊抄」など、関連する御書も拝しながら、講義は進められた。まさに自在であり、受講生の心をとらえて放さなかった。
「又云く南無妙法蓮華経の南無とは梵語・妙法蓮華経は漢語なり梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり……」の個所で、伸一は言った。
「南無妙法蓮華経の南無とは、古代インドの言葉である梵語を、そのまま音訳したものです。そして、妙法蓮華経は、既に意訳された漢語です。つまり、インドの言葉と中国の言葉がともに具わっているのが南無妙法蓮華経なのです。
また、御本尊の中央には『南無妙法蓮華経 日蓮』と認められていますが、この日蓮は日本語です。更に左右に認められた十界の衆生のうち、向かって右端の不動明王と、左端の愛染明王は梵字で表されている。
つまり、一閻浮提に流布すべきこの御本尊は、梵・漢・日の三国の文字で認められている。昔の世界観でいえば、これで全世界ということになるでしょう。
私は、『御義口伝』の御文を拝する時、南無妙法蓮華経という日蓮大聖人の仏法は、一国一民族の教えではなく、全東洋の、全世界の民衆のための宗教であるとの実感を深くします。
また、この御文が、東洋広布は、世界広布は、必ずできるということを証明していると、私は確信しております。
その世界の広宣流布の大使命を担っているのが、諸君たち学生部です。したがって、どうすれば、世界に正法を広め、全人類を救うことができるのかということを、真剣に考えてもらいたい。
私は、諸君に期待しています。だからこそ、こうして、仏法の奥義ともいうべき『御義口伝』の講義もしているのです」
この日の「御義口伝」講義は、「南無妙法蓮華経」の終わりまで行われた。
講義を聴いた受講生の誰もが、仏法の深さを改めて知るとともに、それが極めて身近な、自分たちの生活に密着した法理であることに気づき、目から鱗の落ちる思いであった。
込み上げるさわやかな感動は、あたかも生命のシャワーを浴びたかのようでもあった。
23 若鷲(23)
講義を終えた山本伸一は言った。
「では、この後は質問会にしよう。聞きたいことがあったら聞きなさい」
勢いよく数人の手があがった。質問の多くは、今、学んだ「御義口伝」に関するものであった。
何人かの質問の後、この春、一橋大学を卒業し、本部の海外局に勤務している増山久が尋ねた。
「本日の講義でも、肉体と精神とは一体であり、色心不二であることをお話しくださいましたが、死後の生命の場合、色心不二については、どのように考えればよろしいでしょうか」
理屈が好きな学生部員らしい質問ともいえた。
伸一は、参加者全員に語りかけるように言った。
「死の問題をどうとらえるかは、極めて大事なテーマです。私も、特に会長に就任してから、死後の生命について、御書に照らし、経文に照らして、一生懸命に思索してきました。
また、そのことを生命で実感したいと、日々、唱題し、信心に励んできました。そして、今、私なりの実感がもてるようになったのです。
しかし、今ここで、それを、ちょっとばかり話したからといって、諸君たちには、簡単にわかりはしないでしょう。
この問題は理論的に理解するというより、信心によって、生命で実感していくことです。信仰体験を積んでいくならば、だんだんとわかってきます。
だから増山君は増山君なりに、御書を根本に、じっくり思索し、題目を唱え、体験をつかんで、自得していってもらいたい。そのうえで、哲学的にも究明し、君が将来、研究発表してください。
私も、この問題については、これから更に深めていきます。一緒に二人で勉強し、研究していこうよ」
その言葉に、増山は心温まるものを感じた。
伸一は、自分と受講生とは、ともに同志であり、同じ仏の使いであるととらえていた。受講生は自分より年は若いが、上下の関係にあるとは考えていなかった。むしろ、彼は、皆を尊敬していたのである。
伸一は、発奮を促す意味から、時に厳しい指導をすることもあったが、ともに学び合い、触発し合うことを基本としていた。それが伸一の、そして、学会の本来の人間観である。
また、彼は、メンバーが新たな疑問や問題に直面したならば、一人一人が、それを自らのテーマとし、責任をもって研究し、皆のために道を開くことを期待していたのである。
24 若鷲(24)
次に質問したのは、臼田昭という、東大の法学部の学生であった。
「さきほど、南無妙法蓮華経の『経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり』の個所で、経というのは仏典だけをいうのではなく、宇宙のすべての言語、音声が経であり、更に広げていえば、動作、行動も経となると、講義してくださいました。
ということは、私たちが文章を書くことも、経であると考えてよろしいでしょうか」
臼田は、学生部の理論誌『第三文明』の編集に携わっていた。そのなかで、彼は、広宣流布のための言論戦の、仏法上の意味を考えていたのであろう。
山本伸一は答えた。
「ものを書くことは、言語音声、言々句々の表れであるし、行動なのだから、もちろん経になります。
大聖人の御言葉である御書も経です。したがって、その仏法を多くの人びとに教えようとして、折伏の大精神をもって、文章を書いていくならば、『声仏事を為す』ということにもつながります。
思想も、哲学も、理念も、文によって表現される。言論は広宣流布の生命線といえる。
臼田君、君は言論界の王者になって、権力と戦い、民衆を守り抜いていくんだ。楽しみにしているよ」
メンバーの旺盛な求道心は、とどまることを知らなかった。
今度は上野雅也という、この春、慶応大学を出て、聖教新聞社に勤めている受講生が尋ねた。
「『梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり』とございましたが、現在はアメリカ人も、お題目は南無妙法蓮華経と唱えております。
これを将来、英語など、それぞれの国の言葉に翻訳し、題目として唱えていく必要はないのでしょうか」
彼の率直な疑問であったのであろう。
伸一は言下に答えた。
「南無妙法蓮華経は永久不変の法であり、究極の言葉です。それを翻訳し、題目として唱えていくことはありません。
南無妙法蓮華経の意味を学ぶために、御書をドイツではドイツ語に、イギリスでは英語に翻訳し、解釈することはよいが、唱える題目は、どこでも南無妙法蓮華経です。題目は、瞬時に仏に通ずる世界共通の言葉なのです。
たとえば、梵語では、妙法蓮華経は『薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧』になるからといって、題目を″ナム・サダルマ・フンダリキャ・ソタラン″とするわけにはいきません。音やリズムという問題があるからです」
25 若鷲(25)
皆、興味深そうに、紅潮した顔で、山本伸一の話を聞いていた。
「たとえば音楽でも、それぞれの曲には、独特の音律がある。ベートーヴェンの曲にしても、それは彼の己心の音律であり、民族や言語、文化の違いを超えて、心を打つものがある。
南無妙法蓮華経というのは、宇宙の法則、大宇宙の根源のリズムに合致しゆく音律であるといえる。この題目の声の響きに、生命が感応していくのです。題目とはそうした不思議なものなのです。
ところが、南無妙法蓮華経を、それぞれの国の言語に翻訳したりすれば、題目の音律が違ってしまう。だから、これは変えるわけにはいかないのです」
質問を二十問ほど受けたところで、伸一は質問会を打ち切った。
「今日は、このぐらいにしよう。次回の講義は、みんなの予習の時間も考え、十月末に行いたいと思う。
次回からは、みんなが御書を拝読し、解釈をした後に、私が講義をするという方式で進めていきます。そして、最後に、また、質問を受けます。
どうか、しっかり勉強して臨んでほしい」
それから、彼は、優しい笑みを浮かべて言った。
「みんな、おなかも空いてきただろう。今日は、私が天丼を御馳走するよ」
歓声があがった。
「間もなく準備ができると思うから、くつろいで待っていてください」
伸一は、自分も足を伸ばして、メンバーの一人一人に視線を注いだ。
彼は、受講生のなかに、少し顔色のよくない学生を見つけると声をかけた。
「アルバイトで疲れているのかい」
「いいえ、大丈夫です」
「食事はちゃんととっているの」
「はい」
「そうか。それなら、もっと明るく、伸び伸びとした顔をしてくれよ。心配しちゃうじゃないか。
学会の学生部は、真剣であるとともに、若々しく、清々しいことが大事だよ。
たまには映画でも見て、楽しんで、勉強は勉強で一生懸命にやるんだ。どこかで、いい映画はやっていないかな……。今度、みんなで一緒に見ようよ。
今日、地方から来た人たちは?」
何人かが手をあげた。
「疲れただろう。帰りの交通費はあるかい」
その言葉に、皆、伸一の温かい心遣いを感じた。兄と弟・妹のような、ほのぼのとした語らいであった。
26 若鷲(26)
第一回の「御義口伝」講義が終わった日の夜から、山本伸一は、『妙法蓮華経並開結』に、受講生の名前を揮毫していった。
何人かの代表には、既にこの書を贈呈していたが、それ以外の受講生に、講義の記念として贈ろうとしていたのである。
伸一は、一人一人の受講生の顔を思い浮かべ、皆の成長を祈り念じながら、激務の合間を縫って筆をとっていった。
このメンバーが、将来、どれほど成長し、使命の大空に飛翔していくかと思うと、彼の心は躍った。深夜の揮毫の労作業も、全く苦にはならなかった。
数日後、伸一は、揮毫した本を、学生部長の渡吾郎に託し、受講生に渡してもらうように頼んだ。
渡学生部長から、『妙法蓮華経並開結』を受けとったメンバーは、表紙をめくると、胸を熱くした。
そこには、特徴のある伸一の文字で、墨痕鮮やかに「贈呈」の字と日付、そして、左上に、大きな文字で受講生のそれぞれの名が認められていた。更に、右下に少し小さな字で「山本伸一」とあり、伸一の印が押されていた。
メンバーは、そこに、山本会長の深い真心を感じ取った。その感激は研鑽への誓いとなった。
「御義口伝」講義は、二回目以降は、順調に進められていった。
メンバーは、事前に、経文などはすべて原典にあたり、講義の前に集っては、それを発表し合い、研鑽を重ねた。一回、四時間から五時間にも及ぶ、こうした予習会が、二度、三度と、もたれたのである。
伸一の講義の折には、受講生が御書を拝読、通解するだけでなく、更に、研究の成果も発表し、そのうえで、伸一が講義をするという方式がとられていった。
受講生の教学力の向上は目覚ましかった。乾いた大地が水を吸うように、すべてを吸収していった。
彼は、この講義を通して、新しき時代をリードしゆく、真実の仏法の哲理と、学会精神を伝え抜いていこうとしていた。
たとえば「第二阿若■陳如の事」(序品七箇の大事)の「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり」の個所では、伸一は、こう語っていった。
「これまで、仏法では、煩悩、すなわち、人間の欲望などを否定しているかのようにとらえられてきた。しかし、ここでは、その煩悩を燃やしていくなかに、仏の悟り、智慧があらわれると言われている。
ここに大聖人の仏法の特質がある。真実の仏法は、決して、欲望を否定するものではないのです」
27 若鷲(27)
山本伸一は話を続けた。
「爾前経のなかの小乗教では、煩悩こそが、この世の不幸の原因であるとし、煩悩を断じ尽くすことを教えてきました。
しかし、煩悩を、欲望を離れて人間はありません。その欲望をバネにして、崩れざる幸福を確立していく道を説いているのが、大聖人の仏法です。
みんなが大学で立派な成績をとりたいと思うのも、よい生活をしたいというのも煩悩であり、欲望です。
また、この日本の国を救いたい、世界を平和にしたいと熱願する。これも煩悩です。大煩悩です。
煩悩は、信心が根底にあれば、いくらでも、燃やしてよいのです。むしろ大煩悩ほど大菩提となる。それが本当の仏法です」
また、「第一方便品の事」(方便品八箇の大事)の「秘とはきびしきなり三千羅列なり是より外に不思議之無し」の御文では、生命の厳しき因果を訴えた。
「ここでは『秘妙方便』の『秘』というのは、厳しいということであり、妙法は厳しき大宇宙の法則であることが述べられている。
なぜなら、宇宙の森羅万象は、ことごとく一念三千の当体であり、三千の変化が、一つも欠けることなく羅列しているからです。
私たちも一人一人が妙法の当体です。だから、信心に励むならば、必ず成仏することができる。また、それは同時に、生命の厳しき因果の法則からは、誰人も逃れられないということでもある。
つまり、未来にどうなるかという因は、すべて、今の一念にある。現在、いかなる一念で、何をしているかによって、未来は決定づけられてしまう。
たとえば、信心をしているといっても、どのような一念で、頑張っているかが極めて大事になる。
人の目や、先輩の目は、いくらでもごまかすことはできる。自分の奥底の一念というものは、他の人にはわからない。まさに『秘』ということになります。
しかし、生命の厳たる因果の理法だけはごまかせません。何をどう繕おうが、自分の一念が、そして、行動が、未来の結果となって明らかになる。
私が、みんなに厳しく指導するのは、仏法の因果の理法が厳しいからです。
たとえば、いやいやながら、義務感で御書の講義をしているとしたら、外見は菩薩界でも、一念は地獄界です。講義をしている姿は形式であり、いやだという心、義務感で苦しいという思い――これが本当の一念になるからです」
28 若鷲(28)
語るほどに、山本伸一の講義には、熱がこもっていった。
「学会の活動をしている時も、御本尊に向かう場合も、大事なのは、この奥底の一念です。惰性に流され、いやいやながらの、中途半端な形式的な信心であれば、本当の歓喜も、幸福も、成仏もありません。
本当に信心の一念があれば、学会活動にも歓喜があり、顔色だってよくなるし、仕事でも知恵が出る。また、人生の途上に障害や苦難があっても、悠々と変毒為薬し、最後は一生成仏することができる。
反対に、一時はいいように見えても、信心を失えば、最後は惨めです。そうなれば、人生は敗北です。
勝負は、いかなる晩年を生きたかであり、歓喜のなかに、悠々と、安祥として死を迎えることができるかどうかです。そして、それがまた、三世永遠の幸福への軌道を決定づけていく。
キリスト教などには、『最後の審判』という考え方がありますが、本来、神が人間を裁くのではなく、生命の因果の理法によって自らが裁かれるのです。
天国や地獄といっても、それは自分の生命のなかにある。その地獄の苦しみについて、大聖人は『かかる悪所にゆけば王位・将軍も物ならず・獄卒の呵責にあへる姿は猿をまはすに異ならず』と仰せです。
地獄という生命の大苦悩の前には、王様や将軍であるといった、社会的な立場や肩書など、なんの役にも立たない。苦しみに翻弄される姿は、猿回しの猿のようなものであると言われているのです。
人生の最後を大勝利で飾るかどうかは、永遠の生命のうえからも、最大の課題となる。したがって、最後の最後まで信仰の大道を歩み抜いていくことです」
また、ある時、理事長の原山幸一の息子で、早稲田大学の学生である原山高夫が質問した。
「提婆達多とは、どのような生命のことをいうのでしょうか」
伸一は、原山の目を、じっと見つめて語った。
「戸田先生も言われていたが、それは男のヤキモチです。広宣流布を破壊し、学会の前進を阻もうとするあらゆる動きも、その本質は嫉妬にある。
しかも、その生命は、すべての人間に具わった働きです。その己心の提婆達多と戦うために仏道修行がある。信心とは、仏と魔の戦いです。君も絶対に負けてはいけない」
この原山は、やがて教学部長となるが、名聞名利と嫉妬の心に敗れ、遂には学会を裏切り、哀れな退転者となっていくのである。
29 若鷲(29)
「御義口伝」講義は、学生部の発展の大きな起爆剤となり、翌一九六三年(昭和三十八年)の六月末には、部員二万人を達成するに至った。それにともない、組織も分割され、部の数も次第に増えていった。
山本伸一は、新たに誕生した部長のメンバーも、「御義口伝」講義に参加するように提案した。
そして、彼は最初からの受講生を「一期生」とし、途中から加わった新メンバーを、ユーモアを込めて、「一・五期生」と呼んだのである。
当初、一期生への講義は一年間の予定であった。しかし、新たに一・五期生が加わったことから、講義の期間を延長し、六四年(同三十九年)七月まで続け、そこで修了とした。
伸一は、既に、受講生の多くが社会人となっていたこともあり、学生部の次の人材の育成のために、新メンバーをもって「二期生」を発足させることを考えていたのである。
講義は、「御義口伝」の上巻を終え、下巻に入っていた。
この上巻の講義をまとめた原稿に、更に伸一の筆が加えられ、六五年(同四十年)四月二日には、『御義口伝講義(上)』が発刊されている。
その出版から一カ月後の五月三日の本部総会終了後、一期生の四十四人の受講生に対して、伸一から修了証書が手渡された。
伸一は、メンバーが全世界に行き、「御義口伝」の講義をする資格を有するとの意義を込めて、この修了証書を作ったのである。
伸一が全魂を傾け、心血を注いだ講義を、全身で受け止めてきた受講生たちは、皆、見違えるほど、たくましく成長していた。
修了証書を手に、頬を紅潮させ、誇らかに胸を張る若鷲たちの雄姿に、彼は深い感慨を覚えた。
東京での「御義口伝」講義の一方、伸一は、関西でも、六三年(同三十八年)の九月から、京都大学の学生を対象に、一年間にわたって「百六箇抄」の講義を行っている。
更に、京大生への「百六箇抄」講義を終えると、六四年(同三十九年)十一月から、関西の学生部の代表に、「御義口伝」講義を開始したのである。
そして、同年の十二月には、中部でも学生部の代表に対する、「諸法実相抄」の講義を実施している。
東京での「御義口伝」講義が再開されたのは、六五年(同四十年)の十二月二十二日であった。メンバーも二期生として新たに人選され、「御義口伝」下巻の講義が行われた。
30 若鷲(30)
「御義口伝」の受講生にとって、講義の場は、会長山本伸一の魂と、自身の心が溶け合う″生命の溶鉱炉″ともいうべきものになっていた。
受講生は、講義に臨み、伸一と会うことは嬉しくもあったが、また、怖くもあった。伸一と目が合った瞬間、自分の一念が、すべて見透かされてしまうように感じていたからである。
事実、伸一には、一瞬一瞬の皆の心の動きまで、よくわかった。
彼は、一人一人の性格や考え方、生活の状況に至るまで、すべて頭に入っていたし、何よりも、日々、メンバーの成長を祈り念じ、題目を送り続けていたのである。
二期生の講義も順調に回を重ねていった。しかし、それにつれて、メンバーの緊張も解け、いつしか惰性に流され始めていた。
予習会は、主任副学生部長になっていた、一期生の原山高夫らを中心に、毎回、行われてはいたが、皆の勉強不足が目立つようになっていった。こんな調子で、講義に臨めば、山本会長から叱られてしまうことは目に見えていた。
まとめ役の学生部の幹部は、一計を案じた。
――メンバーには、自信はなくとも、必ず手をあげるように徹底しておく。そして、講義の際には、自信をもって真っ先に手をあげた人だけを指名し、解釈をさせる。更に、難解な御文については、事前に解釈するメンバーを決めておき、その人を指すようにする。
皆の不勉強が明らかになり、自分にも責任が及ぶことを恐れたこの幹部の、保身のための画策であった。
講義当日は、全員が手をあげ、指名されたメンバーも、よどみなく解釈し、すべては、計画通りにいくかに見えた。
伸一の講義が一区切りつくと、まとめ役の幹部が言った。
「では次、希望者!」
「はい!」と、全員が挙手した。
その時、伸一の鋭い声が響いた。
「形式は止めなさい!
こんなことをして、なんになるのだ……」
伸一には、誰が何を画策したか、手に取るようにわかった。
メンバーのなかには、伸一が指摘したことの意味がわからず、戸惑いの表情を浮かべる人もいたが、皆、自分たちが不勉強であったことは自覚していた。
沈黙が流れた。
彼は、最前列にいたメンバーから、次々と指名していった。
指された者は、しどろもどろで、ほとんど満足な通解はできなかった。その場に立ち尽くす者もいた。
31 若鷲(31)
誰よりも真剣に、講義の場に臨んでいたのは山本伸一であった。
「学生部の代表がこんなことでは、あまりにも情けないではないか……」
伸一は、怒りを含んだ声で言った。
彼が情けないと言ったのは、受講生が御文の解釈ができなかったからだけではなかった。それよりも、その場を取り繕い、要領よく立ち回ろうとする、学生部のまとめ役の幹部の、心根が情けなかったのである。
伸一は、多くは語らなかった。
「今日はこれまで!」
彼は御書を閉じ、講義を打ち切った。その目には深い悲しみがあふれていた。
受講生は、彼の目を見た時、不勉強のまま講義に参加した、自分たちの安易な姿勢を恥じた。
次の講義は、打って変わって、皆、真剣に研鑽を重ねて集った。
伸一は、何事もなかったかのように、皆を笑顔で包みながら、和やかに講義を進めたのである。
一九六二年(昭和三十七年)の八月末から始まった、この「御義口伝」講義は、創価の後継の陣列を築き上げる、伸一の手づくりの人間教育の場であった。
彼は、よくメンバーにこう語った。
「私は、戸田先生から、十年間、徹底して、広宣流布の原理を教わった。師匠は原理、弟子は応用だ。
今度は、将来、君たちが私の成したことを土台にして、何十倍も、何百倍も展開し、広宣流布の大道を開いていってほしい。私は、そのための踏み台です。目的は、人類の幸福であり、世界の平和にある」
伸一は、毎回、講義のたびごとに、菓子や食事を用意し、一人一人を温かく包み込み、励ますことを忘れなかった。時に放たれる厳しい叱責も、深い慈愛からの指導であった。
会場の下足箱の前に立って、底のすり減った靴を見つけると、後から、その持ち主に、新しい靴を買い与えることもあった。
メンバーは、講義を通して、山本伸一という若き仏法指導者の人間に触れていったといってよい。
そして、そのなかで、仏法の法理を体現した人格の輝きを知ったのである。
受講生にとって、伸一は生き方の手本となり、人生の師として、心のなかで次第に鮮明な像を結び始めたのである。
そこには、広宣流布という最高、最大の目的に向かう師弟の、温かい交流があり、触発があった。
それは、次代を担う逸材養成の、類いまれな人間主義の学舎といえた。
32 若鷲(32)
一九六六年(昭和四十一年)七月、山本伸一は「御義口伝」講義の二期生を中心に、学生部の人材グループ「潮会」を結成した。
この二期生への伸一の講義は、六七年(同四十二年)の四月まで続けられた。
一期生への最初の講義以来、五年間にわたる、学生部の本格的な育成となったのである。
二期生への伸一の講義が、『御義口伝講義(下)』としてまとめられ、出版されたのは、その年の十月十二日のことであった。
伸一が多忙に多忙を極めたこの時期に、学生部への講義をいっさいの行事に最優先させてきたのは、広宣流布の壮大な未来図を実現するためには、新しい人材の育成が、最重要の課題であると考えていたからだ。
広宣流布は、大河にも似た、永遠の流れである。幾十、幾百の支流が合流し、大河となるように、多様多彩な人材を必要とする。
そして、いかに川幅を広げ、穏やかな流れの時代を迎えようと、濁流と化すことなく、澄み切った清流でなければならない。
それには、初代会長牧口常三郎から第二代会長戸田城聖へ、更に、山本伸一へと受け継がれてきた、仏法の精神を継承する、まことの弟子を育て上げるしかなかった。
また、もともと病弱な身でありながら、心身を削るかのように、日々、フル回転し続ける伸一には、自分はいつ死ぬかもしれないという思いがあったからでもある。
「潮会」の結成式となった箱根・仙石原での二期生の研修会の折、星空を仰ぎながら、伸一は、しみじみとした口調で語った。
「見てごらん、この満天の星を。昼間は見えないが、ひとたび太陽が沈めば、星は夜空いっぱいに輝く。その一つ一つは、太陽と同じ恒星だ。私は、このきら星のごとく、人材をつくっておきたいのだ……」
学生部の代表への伸一の講義は、彼の生死をかけた、後継の人材の育成であったといってよい。
かつて、萩の松下村塾で吉田松陰に育まれた門下生は、師の志を受け継ぎ、明治維新の夜明けを開いた。今、伸一は、彼が心血を注いで育てた受講生たちが、生命の世紀の、世界の広宣流布の夜明けを開くことを確信していた。
彼のその信念に誤りはなかった。
事実、若鷲たちは大きく翼を広げ、新しき時代の大空に、さっそうと羽ばたいていった。そして、ほんの一握りの退転者を除いて、広宣流布のあらゆる分野の中核に育ち、創価の星となって輝いていくのである。