Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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イギリス青年部総会 生きぬけ!「使命の星」に向かって

1991.6.29 スピーチ(1991.4〜)(池田大作全集第77巻)

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16  『神曲』はまた、師のヴェルギリウス(ローマの大詩人)とともに進んだ「師弟の旅」の物語でもある。(地獄と浄罪界は師がダンテを導いていく)
 師なき「生命の旅」は停滞か、奈落に落ちるしかない。
 師はつねに「恐れるな」と繰り返す。浄罪界で、人々が自分を見て不審がるのを耳にして歩みの遅くなるダンテに、師は言う。
 「(=うわさなどに)何ゆえに心ひかれるや」「汝は汝の道を征け! 世人をして語るにまかせよ」(浄罪界篇・第五歌)
 この言葉は、マルクスが『資本論』を世に問うときに、モットーとしたので有名である。
 ダンテは地上の最高の権威である法王すら恐れなかった。「聖職者の傲慢」を、「人間の正義」の高みから見おろしていた。
17  さて「地獄の問」を入ってすぐ、裸で泣き叫び、血だらけで、虫たちに体を吸われている男女がいた。(地獄篇・第二歌)
 それは、「善いことも、悪いこともせず世を送った者たち」であった。神と反逆天使(悪魔)との戦争の時、本気で悪と戦おうとせず、どっちつかずだった者も、中に入っていた。彼らは、天国へも行けず、かといって地獄にも受けいれられず、だれからも見放され、地獄の入り口でさまよっていた。
 「『生きた』ことのない卑しい者たち!」。ダンテも、他の重罪人に対する以上に、大きな軽蔑を示す。
 なかには、聖職者としての重大な立場にありながら、臆病ゆえにしりごみしてしまった者もいる。彼が自己の責任を自覚して、信徒のために戦わなかったことを、ダンテは厳しく裁いているのである。
 ――人生はあっという間である。青年部として、広宣流布の時に生まれあわせ、「法」も弘めず、「人」も救わず、歴史を残さなかったならば、永遠に悔いを残すであろう。「可もなく、不可もなく」は不可である。
 初代会長牧口先生は「善いことを行わないのは、悪いことをするのと同じである」と言われた。
 とくに日本の青年部は、大きくできあがった広布の世界に安住して、そこで遊戯しているだけならば、あまりにも安易である。真に「生きた」という実感のない人間になってはならない。自分たちの世代で、自分たちの大いなる広布前進の歴史をつづらねばならない。それでこそ「勝利の青春」である。
18  因果の悲喜劇をみごとに描く
 このあと師弟はしだいに地獄の下方へと探究に進む。軽い罪から重い罪へ、単純な「不節制」(自分を抑えられない愛欲、貪欲、浪費とケチなど)から、他人、自然、自分に対して「暴力」をふるった者たちへ、と。(自分への暴力の最大のものは自殺)
 そして、さらに底には「欺いた者たち(ウソつき)」がいる。汚職政治家や、金もうけの聖職者、おべっかつかいや偽善者である。
 「欺いた者たち」の中でも、最後の地獄の最下層には、「裏切り者」たちがいる。その中でも、主人への反逆者が地獄のどん底にいる。キリストを売ったユダ、シーザーを殺したブルータスらである。彼らは地獄の王によって、かみくだかれている。
 「裏切り者」たちは、完全な氷の世界に閉じ込められ、顔だけ犬のようにふるえて氷の上に突き出している。凍てついた″生命の氷の世界″の象徴であろう。
 地底の底の底――「星(希望)からもっとも遠い」場所で、永遠にふるえている。ダンテがどれほど「裏切り者」に厳しかったか――。
 また彼は「客人への裏切り」(守るべき者を守らなかった罪)にふれ、ここには「生きながら魂だけ地獄に落ちてくる」とする。体は生きていても、その中には、すでに悪魔が入っており、魂だけ地獄に来ている者もいる、と。(地獄篇・第三十三歌)
 仏法では「悪鬼入其身(悪鬼其の身に入りて)」(開結四四二㌻)と説く。私も多くの人間に裏切られた。仏法の世界における裏切りは、その瞬間から生命は地獄である。何よりそのことが哀れでならない。
19  このほか『神曲』のイメージは、すべて、一度読むと忘れられないほど強化である。因果の悲喜劇の光景が、鮮やかな色彩で描かれている。
 たとえば「浪費家」と「ケチンボ」が、胸で重い荷をころがし、たがいにぶつかっては、またひき返し、「なぜ貯めるんだ」「なぜ浪費うんだ」と永遠に叫んでいる姿(地獄篇・第七歌)。金銭に振り回され、結局は金銭によって苦しむ人間の業を書いている。
 また「嫉妬の罪」をつぐなうため、まぶたに穴をあけて鉄線で縫いつけられ、光を見られないようにされている人々もいる(浄罪界篇・第十三歌)。彼らは「よりよい光」を見るのを好まなかった罪の報いを受けているのである。
 「怠惰の罪」をつぐなうため、「早く早く」といつも走り続けて休めない人々も(浄罪界篇・第十八歌)。思い当たる人もいるかもしれない。(笑い)
 また暴力者の中には、先祖の財産を食いつぶした者も「自分への暴力者」に含まれている。(いばらの中を走り回り、犬に追いかけられて体を引き裂かれる)
 かつて、こんな「ふがいない二代目」の笑い話を聞いたことがある。
 アメリカの有名な大富豪が、ホテルの部屋をとった。
 フロントは「息子さんは、いつももっと上等の部屋をとられますが?」。
 富豪は言った。
 「そうかい。彼には金持ちのおやじがいるが、わしにはいないんだ」(笑い)
 先人が苦労して築き上げた″宝城″の尊貴さを、苦労を知らぬゆえに、安易に考える青年であってはならない。正法を守り、正法を流布しゆくための″民衆の城″を、断じて悪から守りぬき、発展させていただきたい。(拍手)
20  そのほか浄罪界では、地上に残った家族や友人が祈ってくれた分だけ、早く罪を浄められるとするなど(浄罪界篇・第二十三歌)、仏教の「追善」を志向するような考え方もある。
 そして「地獄界」行きと「浄罪界」行きに分かれるのは、死ぬ前に心から懺悔するかどうかで決まる(浄罪界篇・第三歌)というのも興味深い。
 さらに「天堂界」では、たくさんある諸天のうち、それぞれの「天」で、それぞれの者たちが、自己の軌道を守りながら、「ここで光る」「ここで輝く」と微笑む印象的なシーンもある。(天堂篇・第三歌)
21  『神曲』を語って、ダンテを天堂へと導いたベアトリーチェにふれないわけにはいかないが、ここでは、ただ一点、「毅然たる女性の徳は男性を正しき道にリードする」ことだけを言っておきたい。
 ダンテの、地の底から宇宙の果てまでの「生命の旅」も、すべてベアトリーチェヘの敬慕に導かれていた。
 ゲーテの『ファウスト』でも、ファウストを最後に救い、高みに引きあげたのは「永遠なる女性的なるもの」であった。
 身近な例でも女性を心から尊敬する時、男性は、その分、豊かになっている。また、相手の徳にふさわしくなろうと努力すれば、その分、高められていく。活動においても、女子部が前進すれば、男子部も頑張らざるをえないのではないだろうか。(笑い)
 ともあれ、女性は、心清ければ天なる存在である。『神曲』全巻の執筆が、一人の若き女性に導かれたものであることを思う時、女性の力の偉大さを思わずにいられない。
 私の願いとしては、恋愛をするならば、できれば、そのことで、大いなる創造への精神力がわきいでるような、たがいに高め合うようなものであってほしい。
 『神曲』について、その他、語るべきことは尽きない。「因果の法則と人間の自由」「理性と信仰」「個人と宇宙の交流」「政治革命より人間革命を(″政局の転換″より″政治そのものの変革″を)」(浄罪界篇。第六歌、第十六歌)等々。これらはまた別の機会にしたい。
22  世界の民衆を平和の「宝処」ヘ
 最後に「御義口伝」の一節を拝したい。
 「日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は一同に皆共至宝処なり、共の一字は日蓮に共する時は宝処に至る可し
 ――南無妙法蓮華経と唱え奉る日蓮(大聖人)とその門下は、一同に「皆共に宝処に至るべし」(皆、共に宝のある処に行きつくことができる)の経文どおりに、皆、成仏という最高の幸福境涯にいたることができる。この「共」の一字は、日蓮と「共に」ということであり、その時は宝処にいたることができる――。
 御本仏日蓮大聖人が、私ども門下に対して、無上の宝処、すなわち成仏という最高の境涯にいたることができると断言された、大慈大悲のお言葉と拝される。
23  ダンテをはじめ、幾多の先人が求め、垣間見た「宝処」への道――。
 大聖人の仏法は、全人類を至高の宝処へと、確実にリードしゆく大哲理である。皆さまは、いかなる縁か、若くしてこの道を知ることができた。どうか着実に、あせることなく、歩みとおしていただきたい。
 そしてSGI(創価学会インタナショナル)はこの教えのままに、世界の民衆が皆、宝処へいたるために生まれた、不思議なる仏意仏勅の団体である。このかけがえのない和合の共進を、何ものにも乱されてはならない。
 イギリス広布の、そして世界広布の虹光る新舞台で、若きリーダーよ、晴ればれと勝利の指揮を! そして全員が社会の勝利者となり、全世界に模範のイギリス青年部と輝け! とお願いし、お祝いのスピーチとしたい。(拍手)
 「ウィ・ウィル・ウィン(We Will Win〈私たちは断じて勝つ〉)」との歌声も高らかに、愉快に進んでください! またお会いしましょう!(タプロー・コート総合文化センター)

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