Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第七十回本部幹部会、全国青年部幹部会 世界を変えゆく悠然たる君に

1993.9.7 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

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15  日寛上人「″信心に本尊が具わる″が正しき相伝」
 御本尊といっても、大切なのは「信心」である。日寛上人は、「観心本尊抄文段」で、仰せである。
 「若し刹那せつなも信心あらば即ち一念三千の本尊を具す。故に『介爾けにも心有れば即ち三千を具す』というなり。たとえば水ある池には月便すなわち移るが如し。宗祖の所謂いわゆる『此の御本尊も只信心の二字にをさまれり』とはこれなり」(文段集四六六㌻)
 ──もし、わずかな一瞬でも信心があれば、すなわち、(その信心の一念に)一念三千の本尊を具える。故に、「ほんのわずかでも心があれば、すなわち三千諸法を具える」(摩訶止観)というのである。たとえば、水のある池には、月がただちに映るようなものである。宗祖大聖人が「この御本尊も、ただ信心の二字におさまっている」と言われたのも、これである──と。
 また「若し一念の信心あらば即ち一念三千の本尊を具す。大師の深意正しく此に在り」(同㌻)
 ──もし「一念の信心」があれば、即そこに「一念三千の本尊」が具わるのである。これが天台大師(が『摩訶止観』で説いた一念三千の文)の深き真意である──と。
 大聖人は「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」と仰せである。「信心の二字」の中にこそ御本尊は、ましますと。
 戸田先生は、御本尊を「幸福製造機」に譬えられたが、強盛な「信心」によってのみ、御本尊の広大無辺の大功力も現れるのである。この一点に、大聖人の仏法の真髄がある。
16  そして日寛上人は、「こういう法門は、前代未聞であり、だれが信じられようか」と問いを設けられたあと、大聖人の血脈抄である「本因妙抄」の次の一節を引かれ、答えとされている。
 すなわち「観行理観の一念三千を開して名字事行の一念三千を顕す、大師の深意・釈尊の慈悲・上行所伝の秘曲・是なり」と。(「観行理観の一念三千」とは、天台大師の「理の一念三千」のこと。「名字事行の一念三千」とは、大聖人の「事の一念三千」のこと)
 つまり、大変な修行と能力を必要とする天台大師の仏法を開いて、大聖人は、「信心」の二字におさまる「事の一念三千」の御本尊を顕された。このことこそ、天台大師が知っていて、しかも説かなかった「深意」であり、末法の衆生への釈尊の「慈悲」である。そして、上行菩薩(日蓮大聖人はその再誕)が伝える大切な「秘伝」である──こう、教えられているのである。
 「観心の本尊」の深義もここにある。
17  さらに、日寛上人は、このこと、すなわち「信心」にこそ「本尊」は具することを知っているかどうかに、「御相伝の家」(正しき相伝を知っている教団)か、「不相伝の輩」(正しき相伝を知らない者)かを分ける基準を置いておられる。
 すなわち、この秘伝を「不相伝の輩は聞き得て驚くべし。御相伝の家には仰いでこの旨を信ずるのみ」(文段集四六六㌻)と。
 この、「観心の本尊」の本義から言えば、「信心」強き人ほど、尊き人はない。その人の胸中には「御本尊」がましますからである。この最も「尊き人」こそ広布の戦士であり、皆さまである。皆さまをいじめ、苦しめたなら、仏罰は絶対に間違いない。
 そして、日顕宗は、「最も信心強き人」──すなわち創価学会を破門したという一点だけでも、実は「不相伝の輩」なのである。「観心の本尊」すなわち「信心の本尊」の深義を否定したことになるからである。
 まさに日顕宗は、「三大秘法」否定の邪教である。天台大師の深意に背き、釈尊の慈悲に背き、大聖人に背いた仏敵である。大聖人否定、日興上人否定、そして日寛上人否定なのである。
 この「大悪」を根絶してこそ、「大善」となる。
 私たちは、栄光の二十一世紀に向かって、いよいよ大確信に燃えて、堂々たる、そして毅然たる決意で、朗らかな楽しい「大歓喜のスクラム」の前進を始めたい。
18  賢き生命の操縦で人生を完走
 最後に、とくに年配の方に、「健康第一で」と申し上げたい。
 夏から秋、また秋から冬──といった気候の変わり目には、病気になる人が多く、亡くなる方も多いようだ。
 大切な人生である。長寿で、健康で生き抜いていただきたい。そのためには、まず、「よく休むこと」である。そして「栄養のバランスを考えること」「夜遅く食べないこと」「よく歩くこと」である。
 また「無理を重ねないこと」だ。疲労は、すべての病気の原因になるから、「十分に疲労をとること」を考えねばならない。
 睡眠は薬である。早く寝て、十分、休むことである。そうしないで、十分、食べるばかりの人もいる。
 朗らかに生きること、自分の体を自分で賢く、上手に操縦していくこと──そうできる「信心」をしていただきたい。
 「生老病死」だから、だれでも病気になる場合がある。調子がすぐれない場合もある。それを、上手に乗り越えていくことである。たとえ病気になっても、「変毒為薬」し、早めに治していく──信心による、賢明な″生命の操縦″をお願いしたい。
 体の具合が悪くなったら、すぐ医者に相談するなり、よく診断してもらうことである。近くにドクター部の方々がいれば、どんどん相談していただきたい。
 病気を治療する専門家が「医者」である。「信心」は福運をつけ、病気と闘う根本の生命力を引き出すのである。そして、医者も、薬も、友人の励ましも、すべてを「諸天善神」としていけるように、強く、賢く生きていただきたい。
 すべてを良いほうへ、良いほうへと、とらえ、動かしていけば、人生は朗らかである。
 いつも反感の顔、ヤキモチの顔、グチの顔、そして何をやるにも気持ちよくできない──そんな喜びなき人生はつまらない。
19  倒れる人は、不節制な人が多い。「寝ないでも私は大丈夫」等、自分の丈夫さや健康に自信過剰の人は、気をつけるべきであろう。
 また、具合が悪いのに、我慢している人がいる。そんな我慢が続くわけはない。もっと要領よく、幹部の顔なんか気にしないで、自分自身で、自分自身の健康を守らねばならない。
 夜の勤行も、帰宅が深夜になったり、疲れている場合、方便品・自我偈だけとか、唱題だけとか、柔軟に考えていいと思う。
 御書にも、「三座」でなければならないとは書かれていない。書かれているのは、一回の唱題にも大功徳があるということである。
 大切なのは一生涯にわたる持続であり、根本の「御本尊への信心」なのである。
 その他、交通事故や火災・ガスの事故など、身近なところで、最善の注意を払っていただきたい。
 「むずしい教義」を振りかざすのが仏法ではない。こうした「こまやかな知恵」「身近な道理」自体が仏法である。信心である。
20  ともあれ、これからも、「楽しい闘争」「楽しい前進」をお願いしたい。
 「修行」がなければ仏法はない。人間、何ごとも一流になるためには、修行が必要である。そこに勝利がある。どこまでも勇んで仏道修行に励む姿は、それ自体、「人生勝利」の証である。
 どうか、この下半期、風邪などひかないよう、健康で、はつらつと勝ち抜いていただきたい。
 全国の皆さま、長時間、ありがとう! 海外の皆さまも、グッナイ(おやすみなさい)! シー・ユー・アゲン(またお会いしましょう)!

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