Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第六十七回本部幹部会 「人間革命」の無上道を前進!

1993.6.15 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

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14  先頭を進め″栄光の劇″へ
 ナポレオンは、語った。
 「それにしても、私の生涯は、何という小説ロマンであろう!」
 彼は生涯で、六十回に及ぶ戦闘を行っている。すべて″生きるか死ぬか″の命懸けの戦いであった。
 ある時は、エジプトのピラミッドを仰ぎ、ある時は、白雪のアルプスを越えながら──ナポレオンは戦った。
 皆さまも、自分自身の「ロマン」をつづり、自分自身の「歴史」をつくることである。
 だれに言われようが言われまいが、自分は自分らしく、決然たる「舞」を舞い、「曲」を奏で、「劇」を演じゆく人生であっていただきたい。
 どうせ戦うなら、身も心も軽やかに戦うことである。すべてを自分の喜びとし、生きがいとしていける人が賢者であり、幸福者である。
 ナポレオンは、戦いにあって、常に先頭に立った。
 「常に先頭に」──これが指導者の鉄則である。
 次元は異なるが、大聖人も、法戦の先頭に立って戦われた。ゆえに門下の私も、常に先頭に立つ。
 皆に戦わせ、自分は後ろに隠れて、楽をしようというような卑怯なリーダーであってはならない。
15  ナポレオンは″最悪の策とは、ほとんど常に、最も臆病な策である″との信念をもっていた。臆病は敵である。彼は、だれよりも勇敢に戦った。
 戦いの勝利を決定づけるものは何か。ナポレオンは、体験のうえから次の言葉を残している。
 「いたずらに多くの人間がいたからといって何にもならない。一人の人間こそすべてである」
 牧口先生も、「羊千匹より獅子一匹」と言われた。
 私も、「ただ一人で」の決心を貫ききってきた。大聖人の直系として、また戸田先生の後を継ぎ、私は戦う。だれがついてこようと、こまいと、また、だれが反逆し、攻撃しようと、私は私の信念で進む。周囲がどう変わろうと、私は私である。この一念ゆえに私は強い。
 人数の多さが勝敗を決めるとは限らない。むしろ、人数に頼る油断と無責任は、大きな敗因となろう。
 先に述べたインパール作戦も、そうである。十万もの大軍にもかかわらず、無謀な作戦で、数万の犠牲者を出して敗北した。
 要するに、指導者が「責任」を自覚するかいなか、「本気」になって、自ら勝利への闘争をし、自ら道を開くかいなか──この一点である。本物の指導者か、格好だけの偽者か。その違いは天地雲泥である。
16  勝負は「一人」で決まる、「小事」で決まる
 ナポレオンは戦場にあって、常にその「真剣の一人」であった。″われ、ここにあり″″われこそが頼み″との気概であった。
 イタリアにおける重要な戦闘(一八〇〇年、マレンゴの戦い)において、味方の軍は敗色濃く、総崩れとなる。敗北は決定的に見えた。だが敗走する味方を眼前にしつつも、ナポレオンは微動だにしなかった。彼は確信していた。「我、勝てり!」と。
 観念論ではない。彼は両軍の状況を冷静に見つめ、勝利の見通しを得ていた。この「将の確信」が、再び全軍の士気に火をつけた。
 この英雄の姿は、第二次世界大戦中の、イギリスのチャーチル首相の姿を思い起こさせる。
 ロンドンが、ナチス・ドイツの猛烈な爆撃をうけているさなか、チャーチル首相は、悠然とボールを放りながら国民の前に姿を見せたというのである。
 「皆、心配するな。大丈夫、私がいる!」。堂々たる名宰相の姿である。
 「将の一念」──これがどれほど大事であるか。苦しみはすべて我が身に引き受け、皆には希望と張り合いをもたせて、皆の身も心も軽くしてあげる。その「心」と「振る舞い」が、皆の心を鼓舞し、勝利をもたらす力となる。
 大将が、何かあるとすぐ動揺し、一喜一憂して、あわてふためくようであっては、そのもとで戦う人間がかわいそうである。
 また、いつも「危ない、危ない」と危機感ばかり煽っていても、「何だ、また言っている」、「これは口先だけの策だな」と、見破られてしまう。ありのままの大誠実の姿ほど、人の心を動かすものはない。
17  一方、ナポレオンの敵軍は、勝利したと思い込んで、将軍がさっさと後方の陣地に引き揚げてしまった。油断である。
 「敵は将軍がいない。攻めれば勝てる!」。ナポレオン軍は勢いを得て反撃に転じ、ついに逆転勝利を収めたのである。
 将の恥ずべき無責任さ──。実はインパール作戦でも、同様の構図があった。
 日本軍の司令官は、十万の兵士を送り出し、自分は後方に残った。飢えと病気が蔓延する前線に対して、武器や食糧の供給など、ろくに考えようとはしなかったという。(戦火の及ばない後方の町で、司令官は「何日までに、あの場所を落とせ」等、無理な命令を出すばかりであった。当初は、″おかかえの芸者″まで連れ込んで、酒色にふけっていたという)
 あまりの理不尽さに、前線の師団長が、司令官の命令に背き、退却するほどであった。
 結局、惨憺たる大敗であった。まことに、無責任で愚かな指導者についた人は不幸である。(今の宗門も、日顕は内外の批判から逃げ回る一方、末寺の困窮をよそに、放蕩の限りを尽くしている)
18  ナポレオンは、ある時、こう語った。
 「華々しい勝利から没落への距離はただ一歩にすぎない。私は、最も重大な情況において、どんな大きな事件もほんのちょっとしたことで常に決まるのを見て来た」と。
 これは、私が戸田先生から厳しく教わったことでもある。先生も、まったく同じ指摘をされていた。
 私が大阪で戦っていた時のことである。先生は、ある問題について「ほんのちょっとのことで、人間は人生を狂わせるぞ」「ちょっとのところでいくさは負けるぞ」と言われていた。実に些細な兆候を鋭くとらえての指導であった。本当に偉大な先生であられた。
 「油断大敵」。これは、一国の歴史にも、一人の人生にもあてはまる真実であろう。
 自らの歴史を晴れ晴れと″勝利″の二字で飾るには、″手抜き″は許されない。小さな油断から、人生に悔恨を残してはならない。
 どうか、自分自身のために、悔いない「今日」であり、「明日」であっていただきたい。
19  ユゴー「今世紀は″人間革命″に着手」
 六月五日、フランスのヴィクトル・ユゴー文学記念館で「『九十三年』──ユゴーの革新的な息吹」展が開幕した。同展では、貴重な直筆原稿などが多数、展示されている。
 ユゴーについては、いつかさらに語りたいと思っている。
 ご存じの通り、ユゴーの革命小説「九十三年」は、一七九三年を主舞台にしている。今年は、それからちょうど二百年にあたる。私も若き日に、戸田先生のもとで同書を繰り返し読んだ。
20  先日、フランスのメンバーの方から、「ユゴーも『人間革命』の大切さを訴えています」とのお手紙が寄せられた。「ぜひ日本の同志に紹介してください」との要望も添えられていたので、そのままお伝えしたい。
 それは一八七六年六月、友人であった著名な女性作家ジョルジュ・サンドの死を悼んで、ユゴーがしたためた一文である。
 ユゴーはつづっている。
 「フランス革命が完了し、人間革命に着手すべき今世紀」と──。
 フランス革命の「自由」と「平等」と「友愛」の理念を手にした人類は、今こそ「人間革命」に取り組むべきである、と語っているのである。
 今、学会は、この人類待望の大道を、先駆けて進んでいる。
 創価大学の記念講堂には、このユゴーの像と、トルストイの像がある。
 ユゴー研究の権威であられるつじとおる氏(東京教育大学名誉教授)は、ユゴーの思想はトルストイに継承されているとされ、両者の像を並べて建てたことに、創大の目指している精神がうかがえると高く評価してくださっている。
21  現在、私と「科学と宗教」の対談を進めている、世界的な物理学者のログノフ博士(前モスクワ大学総長)が来日されている。私はあす(六月十六日)、会談する予定である。
 博士も、語っておられる。
 「(人類の新たな文明を展望するうえで)私はきたるべき『人間革命』についての池田博士の見地に全面的に賛成します。この革命がなければ、人類は未来がもてない可能性もあります」と。
 ″学会は正しい″との証明と、励ましのお言葉と受け止めたい。日々、偉大なる「人間革命」の実践に取り組んでおられる皆さまの姿を、世界の英知は、熱いまなざしで見つめている。
 学会があまりにも時代を先取りしているゆえに、日本の社会は、その偉大さを、なかなか理解できないのである。しかし、心ある世界の人々が、そして二百年後の人類が、大喝采かっさいをもって、皆さまを賛嘆することは間違いない。
22  現実の世で広布に戦う人こそ尊貴な女性
 大聖人の門下に、妙法尼御前と呼ばれる婦人がいた。この婦人は、夫に先立たれた。そのうえ親類からも離れており、娘もあてにできない。頼るべき身寄りのない境遇であった。
 しかも、信仰のことで周囲から、あれこれといつも悪口を言われ、いじめられていた。
 しかし、彼女は、ただ大聖人の仰せのままに、一人、毅然と広布のために動いた。冒頭に述べた「無上道」を、最高に正しい道を歩み続けたのである。
 大聖人は、世間的には最も弱い立場で、人々から軽蔑されていたこの無名の庶民の女性こそ、実は最も尊貴な仏となると、最大に称賛しておられる。
 他のだれが言うのでもない。御本仏の御説法である。三世を知る大聖人の御言葉である。
 私たちは大聖人を信奉する。大聖人の門下である。ゆえに、大聖人の仰せの通りに信仰するのが正しいのではないだろうか。
 日顕は、それはいけない、自分の言う通りにせよと言うのだが、おかしいのではないだろうか。彼も大聖人の門下のはずなのだが、それとも違うのだろうか。
23  大聖人は、妙法尼御前に仰せである。
 「今末代悪世の女人と生れさせ給いてかかるものをぼえぬ島のえびすられ打たれ責られしのび法華経を弘めさせ給う彼の比丘尼には雲泥勝れてありと仏は霊山にて御覧あるらん、彼の比丘尼の御名を一切衆生喜見仏と申すは別の事にあらず、今の妙法尼御前の名にて候べし」──今、(あなたは)末代悪世の女人とお生まれになり、このように、ものごとの道理をわきまえない島(日本)の野蛮な人々にののしられ、打たれ、責められながら、それを耐え忍んで法華経を弘めておられます。かの比丘尼(ここでは釈尊の養母である摩訶波闍波提まかはじゃはだい比丘尼)と比べて、あなたのほうが天地雲泥も優れていると、仏は霊鷲山でご覧になられていることでしょう。かの比丘尼に授けられた名前を「一切衆生喜見仏」(一切の衆生が喜んで見る仏)というのは、別のことではありません。今の妙法尼御前の名前であるのです──と。
 ちなみに「妙法尼」と呼ばれる女性信徒は、佐渡に在住していたとの説もあり、その場合、「島」は佐渡を指すとの解釈もある。
 ここで引かれている釈尊の養母とは、釈尊の叔母(おば、釈尊の母の妹)にあたり、実際に釈尊を育てた王妃である。釈尊の生みの母は、釈尊を産んで七日後に亡くなっている。しかも、この釈尊の育ての母は、後に女性として初めて出家し、釈尊教団の中で女性の中心的な存在として活躍している。
 これほどまでに釈尊にゆかりが深く、身分も立場も高い女性にもまして、大聖人門下の無名の女性は偉大であると、大聖人は断言なされている。
 それは、なぜか──。釈尊の養母らは、大変な娑婆世界を避けて、楽な他方の国土で法を弘めることを願った。それに対し妙法尼御前は、この娑婆世界の真っただ中で、名利もかなぐり捨て、命をなげうって戦っている。
 娑婆とは「堪忍」の意で、わずらわしい苦悩や嫉妬などを、耐え忍んでいかなければならない場所である。
 とりわけ大聖人は、日本の国を、一闡提いっせんだいの生み広げた国と仰せである。
 (「一闡提人と申て謗法の者計り地獄守に留られたりき彼等がうみひろ生広げて今の世の日本国の一切衆生となれるなり」)
 その地で難を受けながら、忍耐強く、法のため、友のため、社会のために行動している。その姿を、大聖人は、このうえなくたたえておられるのである。
24  「王宮」の学会で幸福の「王者」と輝け
 人里離れた山の奥や、森の中で安閑と過ごすのではない。荒れ狂う現実社会を舞台に、苦悩している人のもとへ駆け付け、対話し、救っていく──その人こそ、一番、尊い人間であり、本物の信仰者ではないだろうか。
 大聖人は、三世の生命観のうえから、すべてを見通して仰せである。懸命に広布に進んでいる、その人こそ、いちばん崇高な存在なのである。
 すなわち学会の婦人部、女子部、そして全同志こそ、一切衆生が喜んで見るような仏となる。無量無辺の諸天諸仏が皆さまを賛嘆しておられる。
 幸福は外見ではない。華やかな姿で決まるのではない。人気や虚栄は幻であり、あぶくのようなものである。そうしたものに紛動されて、自分を見失えば、最後は、哀れな人生となってしまう。とくに、女子部は聡明であっていただきたい。真実と虚偽、本物と偽物を見極めるための信仰である。
 妙法のため、広宣流布のために流した労苦の汗こそ、いちばん尊い。その人こそ、生々世々、あらゆる人々から喜び慕われ、敬愛されゆく大境涯を開いていける。また、まことの信心に徹しゆく人には、教養も、品格も、福徳も、すべてが最高に備わってくる。
 どうか仏意仏勅の学会のなかで、意気軒高に人生を生き抜いていただきたい。
 学会の会館はすべてが″王宮おうぐう″である。御本尊を中心とした輝く″宮殿″である。心卑しき人間はいられない世界である。
 私どもは、この王宮で、すがすがしい心の連帯を築きながら、人々を救っていく″キングの道″を、″王者の道″を歩んでまいりたい。
 きょうは本当にご苦労さま。参加できなかった皆さまにもよろしくお伝えしていただきたい。
25  リーダーは、会合の際、新鮮味のある、味わい豊かな話をお願いしたい。
 食事でも、毎日、毎日、「ご飯と味汁だけ」では飽きてしまう。たまには、違ったものが食べたくなる。話も同じである。決まりきった話や、伝達と報告だけでは、あまりにも味気ない。心に染み入るような話で、皆の心をさわやかにしてあげていただきたい。
 人生を心から楽しんでいくための信心である。どうせ生きるならば、楽しく生きたほうが得である。どうせ戦うならば、楽しく、勢いよく戦ったほうが得である。
 悠々と、胸を張って、どこまでも朗らかな前進をお願いします!

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