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日蓮大聖人・池田大作

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第2巻 「先駆」 先駆

小説「新・人間革命」

前後
14  先駆(14)
 山本伸一の会長就任の日から、三百万世帯達成への大波は広がっていった。
 それは、彼が全国を駆け巡り、自ら水中に身を投じて起こした大波であった。
 彼は走った。
 五月十三日には総本山に赴き、大御本尊に創価学会の新たな出発を祈念し、東京に戻ると、十六日には、台東体育館で行われた、小岩・江東・飾の三支部合同幹部会に出席した。
 そして、翌十七日には、川崎市民会館での鶴見・京浜・横浜の三支部合同幹部会にやって来た。
 鶴見は、伸一にとって、懐かしい思い出の地であった。
 戸田城聖の事業が暗礁に乗り上げた、あの試練の時代に、彼は仕事で、この地に、毎日のように足を運んだ。胸を病み、体も最も憔悴していた時代である。
 彼は、その思い出から語り始めた。
 「戦後の学会の最初の難は、戸田先生の事業が窮地に陥ったことです。先生は最も苦しまれていた。その時、かつて、先生にお世話になった三人の幹部が言ったことが忘れられません」
 そのなかの一人は、伸一にこう語ったのである。
 「戸田なんかに使われるのはやめ給え。体まで壊してしまって、つまらないじゃないか」
 恩知らずな、厚顔無恥な言葉であった。伸一は、胸が煮えたぎるような憤りを覚えながら、毅然として言った。
 「戸田先生は私の師匠です。師に仕え抜くのが弟子ではないですか」
 更に、別の一人は、ささやくように語った。
 「もう戸田になど付かないで、俺に付いて商売をやらんか。うんとかるぞ」
 卑劣な生き方である。
 伸一は、そのずる賢い男を睨みすえた。
 しかし、ある一人の幹部は、彼にこう言ったのである。
 「今こそ信心で立つべき時だ。決して御本尊様を疑ってはいけない。また、戸田先生を守り切ることだ」
 戸田は、これらの幹部の言動をじっと見ていたにちがいない。
 ある日、戸田は言った。
 「伸一、今が勝負だぞ。難があった時に、信心し抜いていけば、後は功徳が大きい。題目を唱え切れ。お前の体も必ずよくなる」
 伸一は、戸田とともに戦い抜いた。前の二人は、やがて学会から去り、そのうちの一人は病に侵され、また一人は事業に行き詰まり、無残な姿をさらしていた。
 しかし、戸田を守れと語った人は、悠々自適の境涯で、学会の幹部として元気に活躍し、皆の尊敬を集めていた。
15  先駆(15)
 山本伸一は、三人の幹部の現在の姿を伝えた後、力を込めて訴えた。
 「大聖人は『邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし』と仰せです。広宣流布の団体である学会が難を受け、窮地に追い込まれた時、師子王のように敢然と一人立ってこそ本当の信心です。
 現在の私があるのは、広宣流布の総帥であられた戸田先生が最大の苦難にあわれた時に、一心に仕え抜いた福運であると確信しております。
 人間の真価は、いざという時にすべて現れる。学会が難を受け、非難と中傷の集中砲火を浴びた時に、いかに行動するかが、いっさいの分かれ目です。難こそ自身の成長のチャンスであり、大飛躍の時です。
 ゆえに、ひとたび難があったならば、それを喜びとし、また、誇りとして、敢然と戦う師子王の如き皆さんであっていただきたい」
 伸一が、敢えて難に触れたのは、学会の未来に競い起こるであろう法難を、ひしひしと感じていたからである。
 学会は三百万世帯の達成に向けて、怒涛の前進を開始した。しかも、それは最初の一波であり、その波は更に勢いを増し、早晩、未聞の広布の時代を開く大波と化していこう。
 そうなれば、御聖訓に照らして大難が競い起こることは間違いない。「からんは不思議わるからんは一定とをもへ」である。
 その時に、一人たりとも脱落させてはならないとの、願いを込めての指導であった。しかし、単なる彼の追憶談として、話を聞いていた人もあった。
 伸一の指導は続いた。
 「では、いざという時に頑張れば、普段は、どうでもよいかというと、そうではありません。常日頃からいい加減な信心の人が、大変な時に戦えるわけがありません。スポーツでも、普段から練習を重ね、鍛えてこそ、勝負の時に力を発揮できるのです。
 大切なのは今です。永遠といっても、一瞬一瞬の連続です。今、戦わずして、いったい何年後に戦おうというのですか。
 ゆえに大聖人は、『臨終只今にあり』と、今、この時を懸命に信心に励むよう、仰せになっておられる。ゆえに、この一瞬を、そして、今日という一日を、最善を尽くして戦い、悔いなき人生の、一ページ一ページを開いていってください」
16  先駆(16)
 第三代の会長就任から、わずか二カ月間のうちに、山本伸一の行動は、ほぼ日本全国に及んだ。
 五月二十二日は北海道・札幌での北海道総支部幹部会、二十九日は福岡での九州総支部幹部会、六月四日は福島県・郡山での東北総支部幹部会、十日は名古屋での中部総支部幹部会、十二日は、岡山での中国総支部幹部会に臨んでいる。
 そして、その間に、東京をはじめ、首都圏の各支部幹部会に、連日のように出席していった。
 彼は、「使命」を果たすために、文字通り命を使っていたのである。
 また、伸一は、会長就任の日から、全同志に題目を送ろうと、常に唱題しながらの指導行を続けていた。
 そのさなかの五月二十四日未明、大津波が、東北、北海道などの太平洋岸を襲った。津波の高さは、最高四、五メートルに達した。
 これは、南米のチリで、前日の二十三日午前四時過ぎ(日本時間)に起きた地震によるもので、それが太平洋を越えて、一昼夜をかけ、日本の岸辺を襲ったのである。死者は、全国で百三十九人、被害家屋は、四万六千戸余りとなり、特に被害が大きかったのは三陸、北海道南岸であった。
 伸一は、早朝、目覚めると、すぐにラジオのスイッチを入れた。前日、チリで大規模な地震があったことをニュースで知った彼は、現地の被害を憂慮するとともに、それに伴う津波を懸念していたのである。深夜にも、何度か目を覚まし、ラジオのスイッチを入れたが、午前三時の段階では、津波警報は出されていなかった。
 しかし、この時は、臨時ニュースとして、岩手の釜石市などで、津波が発生したことを告げていた。
 伸一は、急いで本部に向かった。本部はまだ閑散としていた。職員もほとんど出勤していなかった。
 しばらくすると副理事長の十条潔がやってきた。一旦緩急の際に、どう反応するかに、その人の責任感が表れるといってよい。さすがに午前八時過ぎには、大半の職員が顔をえた。
 伸一は、ワイシャツの腕をまくり、次々と被災地に見舞いと激励の電報を打っていった。
 更に、被災地の各支部に被災状況の調査を依頼する一方、最も被害の大きい地域に、直ちに幹部を派遣することを決めた。
 あわせて、災害対策本部を設け、救援活動を行うように指示し、津波の被害のなかった地域に、救援を呼びかけた。
 迅速にして、的確な手の打ち方であった。
17  先駆(17)
 山本伸一は、同志がどんな状況にあるかと思うと、食事もほとんど喉を通らなかった。
 打つべき手を打つと、彼は、広間の御本尊の前に座り、人々の無事を祈った。
 間もなく被災地から、続々と報告がもたらされた。
 市の中心部まで津波が及んだ宮城県塩釜市からは、興奮した声で、こう伝えてきた。
 「幸いにして学会員は全員無事です。みんな『守られた。功徳だ』と言っています。そして、先生の激励の電報に、同志は元気いっぱい頑張っています。
 また、船が、津波のために陸の上に押し上げられているような状態です」
 岩手県宮古市からは、簡潔にして、力強い報告の電報が寄せられた。
 「功徳顕著。御本尊の流失なし。浸水四、床下浸水七。今夜御授戒、前進の意気高し」
 幸いなことに、どの地域でも、会員の被害は極めて少なかった。
 被災地には、全国の同志から続々と救援物資が届けられた。
 また、現地で指揮をとる幹部たちも、学会員であるなしに関係なく、全力で人々に激励と援助の手を差し伸べた。この学会の迅速な救援は、全被災者にとって、大きな復旧の力となったのである。
 しかし、この時、政府の対応は極めて遅かった。それは、衆議院で自民党が新安保条約を強行単独可決したことから、社会党が国会審議を拒否し、国会が空白状態にあったからである。
 とりあえず内閣に津波災害対策本部を設置することが決まったのは、津波から三十数時間が経過した二十五日の昼であった。
 だが、国会がその機能を果たしていないために、抜本的な対策は何一つなされなかった。
 被災地の人々にしてみれば、迷惑このうえない話である。
 二十七日には、岩手県の副知事らが上京。この津波災害に対して、特別立法による国庫補助の要請も出された。
 津波自体は自然災害であるが、適切な措置を講ずることができず、人々が苦しむのは、人災以外の何ものでもない。
 政治家の第一義は、国民を守ることにある。災害に苦しむ人々の救援こそ、最優先されねばならない。
 伸一は、被災者の苦悩を思うと胸が痛んだ。そして安保をめぐる党利党略に固執し、民衆という原点を見失った政治に、怒りを覚えるのであった。
18  先駆(18)
 津波の被災地に対する、政府の杜撰な対応を目の当たりにして、山本伸一は立正安国の実現の必要性を、痛感せざるを得なかった。
 「立正」とは「正を立てる」すなわち仏法の「生命の尊厳」と「慈悲」という人道の哲理の流布であり、仏法者の宗教的使命といってよい。また、個人に即して言えば、自らの慈悲の生命を開拓し、人道を規範として確立していく人間自身の革命を意味している。
 創造の主体である人間の生命が変革されるならば、その波動は社会に広がり、人間を取り巻くあらゆる環境に及んでいく。そして、政治に限らず、教育、文化、経済も、人類の幸福と平和のためのものとなり、「安国」すなわち「国を安んじる」ことができよう。
 それは、ちょうど、一本の大河の流れが、大地を潤し、沃野と化した大地に、草木が豊かに繁茂していくことに似ている。仏法は大河、人間は大地であり、草木が平和、文化にあたる。
 日蓮仏法の本義は、立正安国にある。大聖人は民衆の苦悩をわが苦とされ、幸福と平和の実現のために、正法の旗を掲げ、広宣流布に立たれた。
 つまり、眼前に展開される現実の不幸をなくすことが、大聖人の目的であられた。それは、「立正」という宗教的使命は、「安国」という人間的・社会的使命の成就をもって完結することを示していた。
 そこに仏法者と、政治を含む、教育、文化、経済など、現実社会の営みとの避け難い接点がある。
 しかし、それは、政治の場に、直接、宗教を持ち込んだり、政治権力に宗教がくみすることでは決してない。宗教は人間を鍛え、磨き高め、人材を育み、輩出する土壌である。
 ゆえに学会は、全国民のために政治を任せるに足る人格高潔な人材を推薦し、政界に送り出すことはしたが、学会として、直接、政策などに関与することはなかった。
 新安保条約をめぐって、学会が推薦した参議院議員が、伸一に政策の決定について相談を持ちかけると、彼は、きっぱりと言った。
 「それは、あなたたちが悩み、考え、国民のために決めるべき問題です。私の思いは、ただ全民衆のため、平和のために、戦って欲しいということだけです」
 伸一の願いは、どこまでも民衆の幸福と平和にあった。そのために、社会の各分野に、どこまでも民衆のために戦う力ある人材を育て、送り出すことに、心を砕いていたのである。
19  先駆(19)
 若き翼は、未来の大空に勇敢に羽ばたいてゆく。そこには、金色の希望の輝きがある。
 六月二十六日、山本伸一は、東京・世田谷区民会館で開かれた第三回学生部総会に臨んだ。
 学生部は、北海道・夕張で、学会員が炭労から締め出されるという、夕張炭労事件のさなかの一九五七年(昭和三十二年)六月三十日に誕生した、戸田城聖が最後に結成した部である。この時、伸一は、不当な炭労の弾圧を粉砕するために、友の窓辺に勇気の灯をともしながら、北海の原野を駆け巡っていた。
 つまり、炭労という、当時の大きな組織権力の横暴から、民衆を、信教の自由を、人々の人権を守らんとする戦いの渦中に誕生したのが、学生部であった。
 それは、次代の社会のリーダーとなって、民衆を守りゆく学生部の使命を物語るものである。
 伸一は、その結成大会に万感の思いを託して、北海道の地から祝電を寄せた。
 その時、集ったメンバーは約五百人であったが、以来、三年の歳月を経て、部員数は二千八百人に達していた。
 この日の総会では、有志が作った学生部の歌が披露された。
 そこには、山本新会長とともに、三百万世帯の達成に向け、世界平和への新出発を遂げんとする、学生たちの躍動の息吹がみなぎっていた。
 大号令はとどろきて
 いま師子王はひとり征く
 生命にめざめし若人が
 雄叫びあげて集いたり
 つづけ二万のわが学友よ
 清きまことをつらぬかん
 歌声は意気天を突く勢いである。
 この二万というのは、戸田の七回忌までの目標として、学生たちが立案した、部員増加の目標であった。
 それは、総会の席上、前年の十一月に学生部長に就任した渡吾郎のあいさつのなかで、活動方針として確認された。
 渡は、そのなかで、三百万世帯の達成を目指す学会にあって、学生部は二万人に拡大を図り、この大法戦の先駆を切りたいと抱負を語った。
 場内は嵐のような拍手に包まれた。
 男子部も立った。女子部も立った。そして、今、知勇兼備の若き学徒が立ち上がろうとしていた。
 広布の山河に、法旗を高く翻し、いよいよ英知の友が躍り出ることを思うと、伸一は頼もしさを覚えた。彼は学生たちの心意気が嬉しかったのである。
20  先駆(20)
 会長山本伸一の講演となった。彼は、参加者に深く一礼してから話し始めた。
 「大変にしばらくでございました。私は、学生部の皆さんにお会いすると、希望がわいてきます。また、私は、皆さんを信頼し、尊敬いたしております」
 社会の大リーダーに語りかけるような、丁重な口調であった。
 彼は、学生たちの一人一人を、一個の完成された人格として遇した。
 教育とは、人格による人格の触発である。若き人格を尊重できぬ人には、既に人間を育む資格はないといってよい。
 「……私の青春時代は、貧しく、そのうえ病弱で、いつ死ぬかわからぬ体であり、十分に勉強することもできませんでした。
 しかし、戸田先生という偉大なる師と巡り会い、訓練を受け、信心を全うし抜いてきたために、今は、これほどの幸福者はいない、という境涯になりました。
 その先生のご恩に報いるためにも、先生の示された広宣流布の構想は、全身全霊を打ち込んで、命をかけて実現してまいる決心でございます。
 ただ、私が倒れた場合、あるいは、私に力なくして、それが実現できない場合があったならば、皆さん方が私以上の力で、私を乗り越えて、恩師戸田先生の構想を果たし、先生の大思想を世界に宣揚し抜いていただきたいと、お願い申し上げるものでございます」
 彼は、永遠不滅の広布の流れをつくるために、体力の限界を超えた戦いを開始していた。
 いつ倒れても決して不思議ではない敢闘であった。それゆえに、未来を青年たちに託しておかねばならなかった。
 伸一の話は、宗教と文化の関係性に及んだ。
 彼は、政治も、経済も、科学も、その根底には偉大なる哲学、偉大なる宗教が必要であることを述べ、色心不二の生命哲理である日蓮大聖人の仏法こそ、真実の人間文化を創造する源泉であると訴えた。そして、偉大なる文化を建設する担い手には、偉大なる信仰、偉大なる情熱がなければならないと語り、青年の生き方に言及していった。
 「今、皆さんが成すべきことは、大情熱をたぎらせ、人の何倍も勉強し、信仰の実践に取り組むことです。鍛えを忘れた青春の果てには、砂上の楼閣の人生しかない。決して、焦ることなく、未来の大成のために、黙々と学びに学び、自らを磨き抜いていっていただきたいのであります」
21  先駆(21)
 総会に集った学生のなかには、あの″安保闘争″に参加した闘士たちも少なくなかった。
 しかし、この三日前に新安保条約が発効し、激しかった反対運動も、潮の引くように終焉を迎えた。そして、″安保闘争″に情熱を傾けた学生たちの心には、挫折感が重くのしかかっていたのである。
 山本伸一は、最愛の学生部員たちに、無用な回り道をさせたくはなかった。
 真実の平和と民主主義の社会の建設は、急進的で、破壊的な革命によって築かれるものではない。
 それは人間一人一人の生命の大地を耕す人間革命を基調とし、どこまでも現実に根差した、広宣流布という漸進的な″希望の革命″によって実現されるのである。
 伸一は、最後に、祈るような思いで語った。
 「皆さん自身が幸福になるとともに、人々を幸福にしていく社会のリーダーになっていただきたいのであります」
 彼は、学生部の未来に限りない期待を寄せていた。彼らこそ、新しき哲学の旗を掲げ、人間主義の文化を建設する使命を持った先駆者にほかならないからだ。
 伸一は、人間という座標軸を定め、そこから、人類の凱歌の未来図を描いていた。その実現に何よりも必要なのは人材であった。
 彼はその思いを、七月二日に創刊された文化部の理論誌『潮』に、「世界に貢献する人材に」と題して、次のように綴っている。
 「いずれの時代、いずれの国、いずこの社会でも、最大、根本の大事は『人材』である。かつて、戸田城聖先生は、仙台の指導におもむいて、青葉城址に立ち『武人は城をもって戦いにのぞんだ。今、学会は、人材の城をもって広宣流布に進むのだ』と。
 『法妙なるが故に人貴し』の御書に照らされ、文化部の同志の人々には、学会内でも、社会にあっても、各自の特性を生かし、偉大なる人材に育っていただきたい。(中略)また国際的にも、重大な、日本民族の岐路に立つ。願わくは、この時代に、全世界に最大の貢献をなしゆく人材の羽ばたく日を、待つものである」
 そこには、広く人材を渇望する、彼の切実な叫びが込められていた。
 なお、文化部は一九五四年(昭和二十九年)に、多角的な文化活動の展開に備えて設けられた部である。
 また、その理論誌の『潮』は、後に出版社として独立し、同誌は、新たなヒューマニズムを創造する総合月刊誌へと発展し、世論をリードしている。
22  先駆(22)
 飛行機の窓の外には、エメラルドの瑚礁の海が広がっていた。
 彼方には、美しき緑の島が見える。
 七月十六日の夕刻、会長山本伸一は、悲しき歴史に挑み立つ、雄渾の人々のいる沖縄の天地に、訪問の第一歩を印そうとしていた。この訪問を、彼は会長就任前から念願としていたのである。
 伸一は、沖縄の悲劇の歴史に心を痛め続けてきた。
 沖縄は、戦時中、本土決戦を引き延ばす″捨て石″とされ、日本で唯一、住民も巻き込んだ凄惨な地上戦が展開された地である。
 ここでの戦闘は、三カ月以上も続き、″鉄の暴風″といわれる激しい砲爆撃にさらされ、地形までも形を変えてしまった。この沖縄戦で、約六十万人といわれた県民のうち、十二万余の人たちが犠牲となったのである。
 更に、戦後はアメリカの軍政下に置かれ、人々の自由は著しく拘束された。
 そして、一九五二年(昭和二十七年)四月二十八日に、サンフランシスコでの対日講和条約の発効によって、日本が独立した後も、沖縄は、アメリカの施政権下に置かれることになった。この条約の第三条で、それが謳われていたのである。
 戦後の東西冷戦構造のなかで、アメリカにとって沖縄は、軍事戦略上、″太平洋の要石″として、必要欠くべからざるものとなっていたのだ。
 いわば、沖縄を差し出すことを条件に、日本は独立を果たしたともいえよう。沖縄の人々にとっては、戦時中と戦後の二度にわたって、日本のために犠牲を強いられたことになる。
 沖縄でのアメリカの施策は、すべてに基地が優先された。基地建設のための土地の強制収用をはじめ、人々の権利は、深く侵害されていった。
 また、伸一が沖縄を訪問した、この年の三月には、沖縄に八カ所のミサイル・ホーク基地を新設することが発表された。
 そして、五月になると、ミサイル・メースB基地を建設することが、米下院で承認されている。
 その後、更に基地建設は急速に進み、施政権が返還される前年の一九七一年(昭和四十六年)には、沖縄本島の総面積のうち基地の占める割合は二六・五%に達し、嘉手納村(現在は嘉手納町)では八割以上を占めるに至った。「基地のなかに沖縄がある」と言われるゆえんである。
 伸一は、この″うるま島″の宿命を転じ、永遠の楽土を建設するために、支部を結成することを、深く、強く決意していた。
23  先駆(23)
 山本伸一は、沖縄を眼前にして、深い感動のため息をついた。
 それは、奇しくも、この日が、日蓮大聖人が「立正安国論」をもって、国主諫暁された一二六〇年(文応元年)七月十六日から、ちょうど七百年にあたっていたからである。
 打ち続く、大火、大風、大地震、大旱魃、疫病の惨状を目にして、大聖人は、民衆の救済のために、時の最高権力者・北条時頼に、正法である法華経に帰依するよう諫めた。
 当時、念仏の教えが人々の間に広く流布していた。その教えは、この世の中は穢土であり、ただ南無阿弥陀仏と唱えれば、死して後に、西方十万億の仏国土の彼方にある極楽浄土に行くことができる──というものであった。
 宗教は、人間の生き方の根本の規範である。この世を「穢土」とする念仏の思想からは、現世の希望が生まれることはないのみか、世をはかなみ、無気力にならざるを得ない。
 そして、死して後に「彼方」の「極楽浄土」に行けるとする教えは、現実から目を背け、逃避とあきらめのなかで、死を渇仰させることにもなろう。
 そこからは、人間完成へと向かう生き生きとした意欲も、社会建設の力も生まれはしない。
 大聖人は「立正安国論」をもって、社会的に最も大きな影響を持つ為政者を諫め、その生き方を改めさせようとされた。そして、念仏を不幸の「一凶」と断じて、正法への帰依を説いたのである。
 宗教は、人間の意識を変え、精神を変え、生命を変える。宗教のいかんで、人は強くもなれば、弱くもなる。愚かにもなれば、賢明にもなる。建設にも向かえば、破壊にも向かう。
 創造の主体である、その人間の一念が変化すれば、環境、社会も大きな転換を遂げていく。それが立正安国の原理である。
 また、この七月十六日という日は、一九四五年(昭和二十年)、アメリカがニューメキシコ州の砂漠で、人類初の原爆実験に成功した日でもあった。
 この実験の成功の知らせは、直ちにトルーマン米大統領に報告された。そして、翌十七日、ポツダム会談に出席した、チャーチル英首相にも伝えられた。「赤ん坊たちが生まれた。つつがなく」との表現で。
 それは、まさに人間の生命の魔性が生み落とした、忌まわしい子供にほかならない。
 その核ミサイルが、今、沖縄に次々と配備されようとしていたのである。
24  先駆(24)
 山本伸一は思った。
 ──戦争に苦しみ、不幸の歴史を刻んできた、この沖縄の人々が、真正の仏法によって救われることは、日本国中の民衆が幸福になっていく証明となろう。
 彼は、この沖縄の地に、平和の楽土の建設を誓いながら、那覇国際空港に降り立った。
 伸一が、七月半ばに沖縄を訪れたのは、酷暑の太陽の下で生きる友の苦労は、暑い盛りに行かなければわからないとの思いがあったからである。
 最高幹部のなかには、伸一の健康を気遣い、もっと涼しい季節に沖縄を訪問してはどうかと進言する人もいた。だが、彼は計画を変えようとはしなかった。
 この日は、さわやかな涼風が一行を迎えてくれた。
 那覇では、六月二十日以来、ほとんど雨が降らなかった。しかし、伸一たちの到着前に、スコールがあったのである。この恵みの雨によって、芝生の緑は蘇り、吹き渡る風も涼しさを増していた。
 空港のターミナルには、二百人ほどの同志が詰めかけていた。伸一がタラップに立つと歓声が上がった。
 一行は空港でパスポートを出し、入国の審査を受けた。沖縄がアメリカの施政権下にあることを実感させた。伸一の初の海外訪問は厳密にいえば、この沖縄であったといえる。
 伸一がロビーに姿を現すと、沖縄地区部長の高見福安が待っていた。
 「先生! ……」
 高見は満面に喜びをたたえて叫んだ。
 彼の顔を見ると、伸一は笑顔で語りかけた。
 「とうとう来たよ」
 その言葉に、高見の目頭が潤んだ。
 彼はこの日の来るのを、一日千秋の思いで待ち侘びていたのである。
 高見は、沖縄の一粒種であった。彼は、戦時中、中国大陸で日本軍の関係者として特務機関の仕事をしていたが、戦後、日本に引き揚げると、東京の立川で、進駐軍相手に、土産物店を始めた。ところが、やがて米軍の数が減り、仕事は不振に陥った。
 彼は、米軍の多い沖縄で商売を始めることを思い立った。そして、沖縄を本拠地にして、将来は、東南アジアにも事業を広げたいと考え始めた。
 そのころ知人から学会の話を聞かされた。最初は信心に抵抗を感じていたが、紹介者の熱心さに負けて、「半年、信心に励んで功徳がなかったらやめる」という″契約″で、半信半疑で信心を始めたのである。
25  先駆(25)
 高見福安の初信の功徳はすぐに現れた。
 沖縄に移転するために売ろうとして売れなかった家が、予想外の高値で売れたのである。
 沖縄では、幸いにも那覇市の繁華街に、好条件の店舗が見つかった。一九五四年(昭和二十九年)のことである。
 功徳を実感した高見は、東京の幹部に手紙で指導を受けながら、素直に信心に励んだ。
 また、沖縄の″苦悩″を知るにつけ、彼の広布への使命感は深まっていった。沖縄の宿命の転換を願い、彼は、先駆けとなって弘教の旗を掲げた。
 高見が驚いたのは、「ユタ」と呼ばれる巫女や「三世相」といわれる占い師の託宣で物事を決めるという習慣が、根強く定着していたことであった。
 ──これではいかん。民衆が賢明になることだ。
 彼は『折伏教典』をむさぼり読み、宗教には正邪や高低浅深があることを、知り合った人たちに語っていった。やがて入信を希望する人が出てきたが、大きな関門が待ち受けていた。
 先祖を神と崇める祖先信仰が根深いうえに、本土への不信感が強く、学会も本土から来た宗教ということで、受け入れようとしないのである。
 「ヤマトンチュウ(日本本土の人)の神様など拝めるものか」
 高見は、何度もこんな言葉を聞かされた。
 しかし、彼は、粘り強く対話を続け、同志は次第に増えていった。また、各支部も沖縄に弘教の手を伸ばし、四年が過ぎた時には、同志は千世帯を突破していた。そして、前年、蒲田支部・沖縄地区が結成され、高見は地区部長になった。このころから、沖縄では、毎月、数百世帯の人が入会するまでになっていた。
 五月三日に山本伸一が会長に就任すると、高見は会長の沖縄訪問を真剣に祈り始めた。彼は沖縄中を駆け巡り、決起を呼び掛けた。
 「山本先生は広宣流布の指導者だ。だから、弘教の波を起こして迎えよう」
 そして、上半期の弘教で、沖縄地区は、全国トップの成果を出すに至ったのである。
 高見にとって伸一が沖縄の地を踏んだ喜びは、筆舌に尽くせぬものがあった。
 「先生、ようこそ……」と言ったきり声が詰まり、後は、もう言葉にはならなかった。
 「働くよ。三日間で三年分は働くからね」
 伸一は、こう言って高見の肩をポンと叩いた。
26  先駆(26)
 山本伸一をはじめとする一行七人は、空港から車で宿舎に向かった。
 そこは、学会員が経営する小さな旅館であった。
 伸一は、旅館に着くと、高見福安らの地元幹部と懇談し、沖縄の様子を詳細に尋ねていった。
 高見は、基地建設にともなう土地の強制収用など、人々がいかに忍従を強いられてきたか、そして、祖国への復帰が沖縄の人々の痛切な願いであることを語っていった。
 伸一は、そのなかで、今や同志は七千世帯に至り、無数の功徳の体験が生まれていることを聞くと、心から友の健闘を称えた。
 「尊いことだ。皆、よく頑張ってくれた。これだけの仏子が誕生すれば、沖縄は変わるよ。十年後、二十年後が楽しみだね」
 平和の戦士たちの顔は、生き生きと輝いていた。
 夜は四会場に分かれて、同行の幹部が担当して指導会が、更にその後、班長・班担当員以上の幹部が集って幹部会が行われることになっていた。
 地元のメンバーが帰っていくと、伸一は、同行の幹部と急いで夕食をとった。
 同行幹部は、理事長の原山幸一、副理事長の十条潔、指導部長の関久男、青年部長の秋月英介、婦人部の本部常任委員の田岡治子、女子部長の谷時枝であった。
 食事をしながら、十条が伸一に尋ねた。
 「沖縄の同志は、本当にはつらつとしているし、功徳と歓喜にあふれている。また、大変な発展をしています。海外ということで、本部の指導の手もあまり入らなかったのに、どうしてなんでしょうか」
 「沖縄のメンバーは、沖縄を幸福にするのは、自分たちしかいないと自覚して頑張ってきた。人に言われてやっているのではなく、それぞれが広宣流布の主体者の使命と責任を感じている。だから、歓喜がわき、功徳も受け、発展もするんだよ」
 「なるほど。主体者の自覚の如何ですね」
 相を打ちながら、十条が語り始めた。
 「実は、海軍兵学校の時に、よくカッターの帆走をやりましたが、どうしても舟に酔うものが出ます。ところが、カジをとらせると酔わないのです。
 自分がやるしかないという責任感と緊張感によるものと思えます。結局、舟に酔うのは、自ら舟を操ろうというのではなく、舟に乗せられているという、受け身の感覚でいるからだということを学びました」
27  先駆(27)
 山本伸一は十条の話を聞くと、面白そうに頷いた。
 「そうかもしれない。広布の活動を推進するうえでも、自らが責任をもってカジをとろうとするのか、それとも、ただ舟に乗せられている乗客になろうとするのかによって、自覚も行動も全く違ってくる。
 乗客のつもりでいれば、何かあるたびに舟が悪い、カジ取りが悪いということになって、グチと文句ばかりが出る。それでは、自分を磨くことはできない。
 私は戸田先生の会社に勤めた時から、先生の会社も、学会のことも、すべて自分が責任をもつのだと決意した。当時は、職場でも一介の社員に過ぎなかったし、学会でも役職はなかった。しかし、立場の問題ではない。自覚の問題です。
 そう決意した私には、給料が遅配になっても不平など微塵もなかった。また、自分の部署を完璧なものにするだけでなく、常に全体のことを考えてきた。それが現在の私の、大きな力になっていると思う」
 それから伸一は、青年部長の秋月英介を見て、話を続けた。
 「戸田先生が、こんな話をされたことがある。
 ──ある工場が倒産し、機械が差し押さえられ、競売に出された。そして、落札者が機械を運び出すことになった時、その工場で働いていた一人の職人が必死になって叫んだ。
 『この機械は、俺が何年も可愛がってきた機械なんだ。この機械を持っていくんなら、俺も一緒に連れていってくれ』
 戸田先生は、この話をされて、こう言われた。
 『見上げたものじゃないか。職人魂がある。月給いくらで雇われているというような根性ではなく、機械と心中しようというのだ。機械に対する彼の愛情は、仕事に対する情熱の表れにほかならないだろう』
 先生は″雇われ根性″を最も醜いものとされた。特に青年で、そういう根性のあるものは、将来は見込みがないと断定された。これは、広宣流布という″仕事″にも通じることだよ。
 何ごとも″雇われ根性″では、習得などできない。青年は、万事、自分が主人のつもりで、何事にもぶつかっていくことだ。
 『習得する』ことを『マスター』と言うが、英語の『マスター』には『主人』の意味があるじゃないか」
 伸一は、愉快そうに笑った。彼は、学会の後継者となる青年部に、まず広宣流布の「主体者」「主人公」の自覚を植えつけておきたかったのである。
28  先駆(28)
 創価学会の会長としての山本伸一の責務は、人々を学会丸という大船に乗せ、幸福と平和の広宣流布の大陸まで、無事に運ぶことにあった。
 それには彼とともに、濃霧の日も、波浪すさぶ嵐の夜も、友を幸の港に運ぶために船を守る、さまざまな乗組員が必要である。
 いな、船長ともいうべき自分が、いつ倒れても不思議ではないだけに、彼と同じ決意、同じ自覚に立ち、大船を担える人材を、彼は必死になって育成しようとしていたのである。
 しかし、そんな彼の胸中を、正しく理解する幹部はいなかった。
 彼らには、伸一の考える壮大な広布の構想が理解できずにいたし、三十二歳という彼の年齢から、まだ先のことは何も心配はいらないという、安易な安心感があった。
 ましてや、戦いに臨む烈々たる伸一の気迫に触れると、すべて伸一に任せてさえおけば、大丈夫だとの思いを強くするのであった。
 夕食を終えた一行は、それぞれ各部別の指導会に出席し、その後、那覇市内の正宗寺院・光明寺での幹部会に臨んだ。
 光明寺は、この年の三月に、落慶入仏式を迎えた寺であった。増大する入信者への御本尊下付のために、寺院の建立を熱願する同志の要請に応え、創価学会が建立寄進したのである。
 寺院の建設用地は、高見福安をはじめとする地元の同志が、足を棒にして歩いて見つけ出した。更に、沖縄がアメリカの施政権下にあるため、日本から資材を搬入するにも許可が必要であり、何度となく役所に通わなければならなかった。
 そうした同志の献身的な努力によって、海外初の寺院が、沖縄に誕生したのである。
 この幹部会の席上、伸一は沖縄支部の結成を皆に提案した。
 「実は、もし、皆さんが宜しければ、明日の大会で沖縄支部を結成したいと思っています。現在、沖縄の皆さんは、蒲田支部の沖縄地区をはじめ、四十余りの支部に所属していますが、一本化して沖縄支部にしようと考えております。
 太陽が東から昇り、西を照らしていくように、この沖縄に始まり、やがて、台湾、香港、インドなど東洋の各地に、支部が誕生していくことでしょう。
 その先駆けの使命を、沖縄の皆さんに担っていただきたいのですが、いかがでしょうか」
 場内に、賛同の大拍手が沸き起こった。
29  先駆(29)
 拍手をする誰もが、沖縄支部の結成の喜びに心を躍らせた。
 山本伸一は、更に、言葉を継いだ。
 「支部長については、これまで、沖縄地区部長として活躍してこられた高見福安さんにお願いしたいと思います。
 沖縄は、高見さん一人から始まった。道を開いた人がいるから道がある。その功績を考えると、高見さんこそ適任であると思いますがいかがでしょうか」
 またしても、大きな拍手が渦巻いた。
 「後の人事は、今夜、これから検討いたしますが、私どもを信頼して、任せていただきたい。
 また、高見支部長を、みんなでしっかりと守っていただきたい。中心者を守れば、やがて、自分が守られます。それが仏法の因果の理法です。
 陰で幹部になった人の悪口を言ったり、怨嫉をしたりすれば、仏勅の団体を内から壊すことになります。最後は、自分が不幸になります。
 そして、幹部になった人は、私に代わって、温かく皆を包み込むように、面倒をみてあげてください。
 そうして麗しく、美しい人の輪をつくりあげていくことが、そのまま広布の姿を示すことになります。今後、沖縄支部が発展するかどうかの鍵は、団結にあります」
 山本会長の話を聞きながら、高見は目を潤ませた。彼が沖縄に渡ってから、わずか六年で、この慟哭の島に、支部旗が翻るまでになったのだ。
 ──沖縄中の人々を幸せにしてみせるぞ!
 高見は唇をみ締めた。
 彼は、戦時中、大陸で、何度も死ぬような目にあってきた。運転していた自動車が地雷に触れて、車ごと泥水の川に吹き飛ばされたこともあった。ようやく水面に顔を出すと、今度はピストルを乱射された。しかし、幸運にも、九死に一生を得たのである。
 戦争の悲惨さは、いやというほど、自らの体で感じてきた。そして、やって来た基地の島・沖縄では、東西の冷戦という戦争がまだ続いていることを思い知らされた。
 高見は、自分の生涯は、この沖縄の広宣流布のためにあるのだと、今、心の底から感じることができた。
 一行は、その後、宿舎で高見らを交え、地区・班の体制づくりと人事の検討に入った。
 検討の最大の焦点となったのは、支部婦人部長の人事であった。
30  先駆(30)
 沖縄支部の人事の大綱については、既に学会本部で検討されていた。その結果、支部の婦人部長には、上間球子が推薦された。
 彼女は、一九五二年(昭和二十七年)に、東京で夫とともに入信した。夫は、有名な大学を出ていたが、事業に失敗し、そのうえ結核を患っていた。
 信心して四年後、彼女は夫の故郷である沖縄にやって来た。そして、地道に活動にも励み、功徳の体験もつかんできた。夫も真面目な人柄であったが、仕事などの関係で、活動にはあまり参加できなかった。
 もし、彼女が支部婦人部長になれば、沖縄中を駆け巡らねばならず、多忙を極めることになる。夫の理解と協力がなくてはできるものではない。したがって、夫の了解を得たうえで、支部婦人部長にと、山本伸一は考えたのである。
 伸一は、その夜、上間夫妻を宿舎に招いた。夫の俊夫は、暑いさなかにもかかわらず、威儀を正して、きちんとネクタイを締めてやって来た。彫りの深い顔立ちの紳士であった。
 あいさつを済ますと、伸一は単刀直入に尋ねた。
 「私たちは、宿命の島・沖縄を、妙法の力で、二度と戦争の犠牲になることのない平和の島にする決心でおります。この理想を実現するために、奥様を、沖縄の婦人部の中心者にと考えています。ご家庭の事情もおありかと思いますが、いかがでしょうか」
 伸一が話し終わると、上間俊夫は、即座に答えた。
 「けっこうです。了解いたしました。
 愛する妻が沖縄の人々のために働くのですから、私は妻を応援します。どんなことをしても守っていきます。ご安心ください」
 俊夫は、弟を沖縄戦で亡くしていた。それだけに故郷の平和への思いは、人一倍強かったにちがいない。彼は、隣にいた妻に視線を向けると、そっと手を差し出した。
 「球子、頑張るんだよ」
 妻は頷きながら、その手を握り、固い握手が交わされた。球子の目に、大粒の涙があふれた。それは、一幅の名画を思わせた。
 友のリーダーとなって広布を推進するには、大きな辛労がともなう。しかし、その人を陰で支える家族の努力も、計り知れないものがある。
 伸一は、その陰の人に常に目を向けることを忘れなかった。それは、彼の広布への強い責任感から生まれる配慮といえよう。
 この日、支部結成に関する一行の協議が終わるころには、空が白々と明け始めていた。
31  先駆(31)
 翌七月十七日──。
 沖縄支部の結成大会の会場となる那覇商業高校前には、朝から長い人の列ができていた。
 この日を待ち侘びてきた友が、沖縄全土から続々と集まって来たのである。沖縄本島の北の国頭、名護からも、また、宮古や八重山の島々からも、友は喜々としてやって来た。
 開会一時間前の午前十時には、その列は、琉球政府(現在の沖縄県庁)前にまで至った。
 この琉球政府前は、ひと月前の六月十九日、アメリカのアイゼンハワー大統領が訪れた際、沖縄祖国復帰要求デモの波に埋まったのである。
 当初、同大統領は、この十九日に日本を訪れる予定でいたが、新安保条約の批准をめぐって国内が騒然としていたため、日本政府は延期を要請。訪日を中止した大統領は、台湾から韓国に向かう途中、沖縄に立ち寄ったのであった。しかし、それは、わずか二時間余りの滞在であった。
 沖縄の祖国日本への復帰を願う気持ちは、支部結成大会に集った人たちも同じであった。
 しかし、単にアメリカの統治下からの解放のみを目指すのではなく、その奥にある、不幸に泣いてきた沖縄という国土の宿命からの解放に、彼らは立ち上がろうとしていたのである。
 まさに、一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にすることを、立証しようとしていたといってよい。
 山本伸一は、会場に向かう車中、ちょうど三年前のこの日が、大阪事件で無実の罪で逮捕された彼の、出獄の日であることを思い起こしていた。
 彼は、あの日、十五日間にわたる勾留の末に大阪拘置所を出所した。彼にとってこの投獄は、民衆を守り抜くために、権力の魔性との生涯の戦いを誓った、原点となったのである。
 思えば、創価の歴史は、権力の魔性との壮絶な闘争の歩みであった。初代会長牧口常三郎も、その跡を継いで後に第二代会長となった戸田城聖も、ともに軍部政府の弾圧によって牢獄にがれ、高齢の牧口は獄中で去した。
 その権力の魔性が引き起こした戦争の、最大の犠牲となったのが、この沖縄である。
 伸一は今、沖縄の同胞のために、永遠の幸福と平和の道を切り開く決意を深く心に秘めつつ、会場の門を潜った。
32  先駆(32)
 会場の那覇商業高校体育館は人であふれ、校庭も立錐の余地もないほど、大勢の人で埋まっていた。
 この日の参加者は、学会員だけでなく、未入信の家族をはじめ、友人も数多く出席していた。
 山本会長の話を、ぜひ聞かせたいと、同志は、友人や知人にも出席を呼び掛けてきたのであった。
 伸一は、車を降りると、開襟シャツ姿で扇を手に、人込みのなかを進んだ。
 途中、父親らしい壮年に手を引かれた四、五歳くらいの子供を見つけると、ツカツカと近づいていった。
 「坊や、よく来たね。お父さんと来たの。しっかり勉強して、立派な人になるんだよ」
 彼は、笑みを浮かべてこう言うと、子供の頭をなでた。子供は、ニッコリと頷いたが、傍らの壮年は怪訝な顔で、押し黙って、伸一をじっと見ていた。
 一部の幹部を除いては、これまで、伸一を目にする機会がなかっただけに、開襟シャツを着て、気さくに声をかけて歩いている青年が、山本会長とは、ほとんどの人が気づかなかったのである。
 午前十一時、沖縄支部結成大会は開会された。
 開会の辞、体験発表に続いて、指導部長の関久男が沖縄支部の結成を発表すると、拍手と歓声がしばし鳴り止まなかった。
 更に人事が紹介され、高見福安支部長、上間球子支部婦人部長をはじめ、十三の地区の地区部長、地区担当員が任命になった。
 新任幹部の代表抱負に移った。
 支部長の高見福安は、感無量の面持ちで、こう決意を締め括った。
 「……私たちは、全国の皆さんに先駆けて、この沖縄に広宣流布の、また、平和のモデル・ケースをつくってまいります。先生、見ていてください!」
 それは、この日集った同志全員の魂の叫びであったにちがいない。
 やがて、会長山本伸一の登壇となった。
 「沖縄の同志の皆さん、日夜の闘争、まことにご苦労様でございます……」
 伸一の声が響いた。若々しく、力強い声であった。
 彼はまず、初代会長牧口常三郎、第二代会長戸田城聖が、果敢に軍部政府と戦い抜いた、創価学会の歴史を語っていった。
 そして、学会の目指す広宣流布とは、決して一宗一派の繁栄のためではなく、この世から悲惨の二字をなくし、世界の平和を実現するものであることを、強く訴えた。
33  先駆(33)
 南国・沖縄の空に真っ赤に輝く太陽にも増して、同志の胸には、喜びの太陽が燃え盛っていた。
 メンバーは、今、若き山本会長を迎えた歓喜のなかで、我らの祖国沖縄の平和を建設するために、この信心の素晴らしさを、一人でも多くの友に伝えたいとの思いをいだいていた。
 しかし、惜しむらくは、メンバーの大半は、その仏法の正しさを客観的に論証する術を知らなかった。
 伸一は語っていった。
 「それでは、なぜ人々が幸せになるには、日蓮大聖人の仏法でなければならないか。私どもは、自分たちが信心しているから、大聖人の仏法が正しく最高であると主張しているわけではありません。そうであるならば、独善にすぎないことになります……」
 ここで、彼は、「文証」「理証」「現証」について述べ、この宗教批判の尺度に照らして、日蓮仏法が真実の民衆救済の大法であることを、理路整然と論じたのである。
 そして、呼びかけた。
 「この三つのなかで、一番大切なのは現証です。現実の生活のうえに、功徳の実証を示し、皆さんが幸福になることが、最大の証明です。あり余るほどの功徳を受け、今世の人生を楽しく、有意義に暮らしていただきたいのであります」
 この指導は、沖縄の同志に強い確信を与えるとともに、教学の大切さを痛感させた。
 沖縄支部結成大会は、午後一時、歓喜のなかに幕を閉じた。各地に散っていく友の足取りは弾んでいた。
 この後、代表が参加し、近くのビルのホールで祝賀の集いが行われた。伸一は、苦労を重ねてきた同志を、心から労いたかった。
 メンバーは、支部結成の喜びを託して、琉球舞踊や空手を披露していった。彼は一つ一つの演技が終わるたびに、称賛と励ましの言葉をかけた。それを見ている人たちも、いかにも踊りたい様子である。
 「ほかの皆さんも、自由に踊ってください」
 伸一が言うと、待ってましたとばかりに、飛び入りで民謡や歌などを披露する人が相次いだ。皆、嬉しくて仕方ないのである。
 賑やかに舞い踊る友を目にすると、伸一も嬉しくてならなかった。
 「みんなも一緒に踊るんだよ」
 彼は、同行の幹部に言った。しかし、気恥ずかしさが先に立つのか、誰も自ら進んで、前に出て踊ろうとはしなかった。幹部には、同志のためなら、どんなことでもしようという姿勢がなくてはならない。
34  先駆(34)
 幹部として、今、大事なことは、ともに沖縄の新出発を祝うことであった。しかし、その配慮が欠けていることが、山本伸一は残念でならなかった。
 「さあ、原山さんも、十条さんも、みんな踊って」
 伸一は、再び同行の幹部に促した。すると、十条潔が意を決したように、立ち上がった。
 「では、私は『田原坂』を踊らせていただきます」
 皆が『田原坂』を歌い始めた。
  雨は降る降る
  人馬はぬれる……
 十条は懸命に踊り始めたが、しゃちこ張った不自然な動作になってしまった。
 「だめだなあ、ロボットの踊りみたいで。もっと、にこやかに。せっかくのお祝いなんだから」
 伸一が言うと、爆笑が広がった。
 「はい。もう一度、初めからやります」
 今度は、十条は、笑みを浮かべて踊り出したが、ますます体はぎごちなくなっていった。
 「それじゃあ、お地蔵さんみたいじゃないか」
 その言葉に、皆、腹をかかえて笑い出した。
 十条は、また、初めから踊り始めたが、途中から手と足の動きが合わなくなってしまった。それが更に笑いを誘った。
 「しようがないな。それでは私が舞いましょう」
 伸一は、扇を手に『黒田節』を舞い始めた。
  酒は飲め飲め
  飲むならば……
 それは、悠々として力強く、流麗な舞であった。皆、息を飲んで、彼の舞に見入った。
 踊り終わると、盛んな拍手が起こった。
 「先生、もっと踊ってください」
 会場から声がした。
 「踊りましょう。皆さんが喜んでくれるなら」
 彼は、また舞い始めた。
 その姿に目頭を潤ませる人もいた。同志を思う伸一の真心が、熱く友の胸に染み渡っていったのである。
 この夜、宿舎の旅館に戻った一行は、伸一の提案で、支部結成を祝って寄せ書きをした。伸一は「沖縄の同志よ団結せよ」と記した。
 平和の楽土・沖縄の建設は、そこにいる人たちの手で行うしかない。これまで所属していた支部は異なっていても、使命は一つである。心を一つにして、団結することから、新しき建設は始まるのである。
35  先駆(35)
 その日の夜は、四カ所に分かれて、御書の講義が行われた。
 そして、翌十八日は東京に帰る日であった。一行は午前中、バスを借りて、地元の同志の代表とともに南部戦跡を視察した。
 ──一九四五年(昭和二十年)三月二十三日、フィリピン、硫黄島を攻略したアメリカ軍は、沖縄諸島への総攻撃を開始した。
 沖縄には、南西諸島の防衛のために第三二軍が守備隊として配置されたが、既にその任務は、沖縄を守ることではなかった。戦いを持久戦に持ち込み、本土決戦のための時間をかせぐことにあった。
 つまり、犠牲をものともせずに戦い、米軍の戦力を消耗させ、本土の捨て石となって玉砕することを余儀なくされていたのである。そのため、沖縄県民もまた多大な犠牲を強いられることになる。
 三月二十六日、遂に米軍は、那覇沖合の慶良間諸島に上陸した。
 守備隊は、米軍が上陸すると、住民の乏しい食糧を供出させた。しかも、彼らは、ガマと呼ばれる自然壕に身を潜めたが、住民が一緒に逃げ込むことを認めなかった。
 身を隠す場所さえなく、米軍に包囲され、追い詰められた住民に残された最後の道は″集団自決″しかなかった。
 手榴弾を使って爆死する人もいた。クワ、カマ、ナイフ等で互いの首や手首を切る家族もいた。凄惨な光景であった。
 守備隊は、軍人ばかりでなく、住民にも皇民として″自決″を強いてきたのである。また「鬼畜米英」と教えられてきただけに、米軍に投降することなど思いもよらなかった。
 米軍が沖縄本島に上陸したのは四月一日であった。米軍は、約千五百隻の艦船と、延べにして五十四万八千人の兵員をこの沖縄に投入した。それに対して日本側はわずか約四分の一の陣容でしかなかった。
 米軍は、一週間で沖縄本島の西北部をほぼ制圧し、宜野湾、浦添、首里へと進撃を開始した。首里城の地下には、第三二軍の司令部があり、ここで激しい壮絶な攻防戦が展開された。
 約二カ月にわたる戦いで、守備隊は六万人を超す死者を出し、五月末、首里は米軍の手に落ちた。
 一方、米軍の死者は約五千三百人であった。
 しかし、それでも、まだ沖縄戦は終結しなかった。玉砕のための、血で血を洗う凄惨な戦いが、続けられたのである。
36  先駆(36)
 生き残った守備隊の兵士は、南部の喜屋武半島に撤退し、持久戦に入った。
 これに対して、米軍は、空と海と陸からの総攻撃を続けた。″鉄の暴風″と呼ばれた砲爆撃によって、丘は削られ、大地は波のようにうねっていった。
 また、守備隊が潜んでいそうな所を、火炎放射器で焼き尽くしたり、人々が逃げ込んだ自然壕の出入り口を占領し、ガス弾などを投入する、″馬乗り攻撃″と言われる戦法がとられたのである。
 六月十一日、米軍司令官バックナー中将は攻撃を中止し、日本側に降伏を呼びかけたが、第三二軍の牛島満司令官は、それを拒否した。
 そして、十八日、戦況視察中のバックナー中将が戦死すると、米軍の攻撃は更に激しさを増した。
 ここに至って、牛島司令官らの司令部首脳が自決し、沖縄での組織的な戦闘は終結することになる。
 しかし、その後も掃討戦などが続き、いっさいの戦いが終わるのは、なんと、終戦の八月十五日から二十余日が過ぎた、九月七日のことであった。
 沖縄戦がとりわけ悲惨な戦いとなったのは、持久戦に持ち込み、時間をかせぐために、住民を巻き込んだ戦闘が行われたことにあった。
 そのために、沖縄守備隊は、住民を根こそぎ召集していった。
 一九四五年(昭和二十年)に入ると、満十七歳から四十五歳の健全な男子は、ほとんど召集された。三月には「国民勤労動員令」が公布され、満十五歳から四十五歳の男女が動員されるに至った。
 更に、中等学校等の生徒で学徒隊も編成され、男子生徒は「鉄血勤皇隊」として、女子生徒は「ひめゆり学徒隊」など看護要員として戦場へ送られた。これは、それまでの陣地構築などの勤労動員と異なり、戦火のなかへの投入であった。
 こうして、沖縄県民の戦没者は、軍人軍属二万八千余人、一般住民約九万四千人(推定)という、膨大な犠牲を払うことになったのである。
 この犠牲者のなかには、守備隊にスパイとして、殺された住民も少なくなかった。沖縄の方言や外国語を話したというだけで、スパイとされた人もいれば、守備隊が食糧を略奪するために、スパイの汚名を着せて処刑するケースもあった。
 また、食糧がなくなり、飢餓のために死んだり、山に逃げ込んでマラリアに罹り、命を失う人も続出したのである。
37  先駆(37)
 山本伸一は、「ひめゆりの塔」の前に立った。
 そこは、県立第一高等女学校と師範学校女子部の生徒・職員を合掌する慰霊塔であった。
 塔の前には、壕がポッカリと口を開けていた。
 伸一の傍らで、沖縄戦で生き残った関係者が、当時の模様を説明してくれた。
 ──両校の生徒は、米軍の攻撃が始まると、動員され、負傷者の看護にあたった。置かれた死体からは腐臭が漂い、負傷者の傷口にはウジがわいた。薬も包帯もなく、「水をくれ」とうめく破傷風患者にも、水に浸したガーゼで、口を潤すことしかできなかった。
 やがて、首里城の攻防が始まると、彼女たちは、南部の喜屋武半島に撤退し、激しい攻撃のなかで、自然壕で看護を続けた。
 六月十八日、米軍が包囲するなか、学徒隊の解散命令が出された。
 それは、勝つと信じ込まされて戦ってきた乙女たちにとって、寝耳に水のような命令だった。皆、茫然自失していた。
 壕を脱出しても、敵の砲撃のなかに身を投じるしかなかったのである。
 彼女たちのある一団は、戦場をさまよい、荒崎海岸にたどりついたが、そこで目にしたものは、海に浮かぶ無数の敵艦だった。
 岩穴にじっと身を潜めていると、近くで、米兵の発砲が始まった。一緒に逃げていた教師は手榴弾を取り出すと、そこにいた九人の生徒を道連れに自決したのである。爆発音とともに瑚礁は鮮血に染まった。
 また、別の壕にいた乙女たちは、壕から脱出しようとした時、投降を勧める米軍の声を聞いた。しかし、誰も壕からは出なかった。
 ほどなく黄燐弾が投げ込まれ、続いてガス弾が炸裂した。
 一瞬にして、そこにいた四十六人の乙女らの命が奪われ、生き残ったのはわずか五人に過ぎなかった。
 伸一の足下に口を開け、ゴツゴツとした岩肌を覗かせているのが、その壕であった。
 彼は、関係者の説明を聞き終わると、つぶやくように言った。
 「残酷だな……、あまりにも残酷だ」
 そして、合掌すると、題目を三唱した。それは平和への深い一念を込めた祈りであった。
 一行は、更に摩文仁丘に向かった。
 バスを降りて、岩山に沿って下って行くと、青年というにはまだ若すぎる三人の像が目についた。「健児之塔」であった。
38  先駆(38)
 「健児之塔」は、「鉄血勤皇隊」として部隊に配属された十五歳から十九歳の学徒隊の慰霊塔である。
 彼らは、伝令や、食糧調達の任務を負わされ、砲爆撃のなかを奔走した。従軍した男子生徒のうち、約半数が戦死している。
 しかも、これらの学徒隊は、法的な根拠もないままに、組織されていったのである。
 山本伸一は、人々が身を隠したという洞窟や、いくつかの慰霊碑を見た後、摩文仁丘に立った。
 切り立った断崖の向こうには、青く澄んだ瑚礁の海が広がっていた。
 太陽の光を浴びて、岸の緑は鮮やかに映え、海の彼方は、銀色に輝いていた。
 この美しい島で、わずか十五年前に、凄惨な地獄絵が展開されていたかと思うと、無残さは、なおさらつのった。
 「戦争は悲惨だな……」
 伸一は、誰に語るともなく、しみじみとした口調で言った。
 彼は、生前、恩師戸田城聖が、「もう、二度と戦争を起こしてはならん。そう誓って、私は敗戦の焼け野原に一人立ったのだ」と、しばしば語っていたことを思い起こしていた。
 まさに、戸田の生涯は、その戦争を遂行しようとする権力の魔性との、壮絶な闘争であった。
 信教の自由を貫き、正法正義を守り抜いたがゆえの二年間にわたる獄中生活。過酷な軍部政府の弾圧は、彼の体を衰弱の極みにいたらしめたのみならず、敬愛してやまぬ恩師牧口常三郎の命をも奪った。
 そして、出獄した彼は、焼け野原に立って、「大悪をこれば大善きたる」と、御聖訓に照らして広宣流布の時の到来を自覚したのである。
 彼の起こした戦いは、人間の生命の魔性の爪をもぎとり、一人一人の胸中に平和の砦を打ち立てる戦いであった。
 その波は、一波が万波を生むように、戸田の晩年には、彼の念願であった七十五万世帯の民衆の平和のうねりとなって、日本全国、津々浦々にまで広がったのである。
 その戸田の遺訓が、逝去の前年の九月八日、横浜・三ツ沢の競技場で発表された「原水爆禁止宣言」であった。
 彼はこの宣言で、世界の民衆は生存の権利をもっており、原子爆弾を使用するものは、それを脅かす魔もの、サタンであると断じ、その思想を、全世界に広めゆくことを、青年たちに託したのであった。
39  先駆(39)
 今、戸田城聖の起こした平和の大潮流は、慟哭の島・沖縄にも波の花となって広がり、友の歓喜は金波となり、希望は銀波となったのである。
 山本伸一は、その恩師の偉業を永遠に伝え残すために、かねてから構想していた、戸田の伝記ともいうべき小説を、早く手掛けねばならないと思った。
 しかし、彼には、その前に成さねばならぬ誓いがあった。戸田の遺言となった三百万世帯の達成である。伸一は、それを恩師の七回忌までに見事に成就し、その勝利の報告をもって、恩師の伝記小説に着手しようとしていた。
 戸田は「行動の人」であった。ゆえに弟子としてその伝記を書くには、広宣流布の戦いを起こし、世界平和への不動の礎を築き上げずしては、恩師の精神を伝え切ることなどできないと彼は考えていた。文は人である。文は境涯の投影にほかならないからだ。
 伸一は、恩師の七回忌を大勝利で飾り、やがて、その原稿の筆を起こすのは、この沖縄の天地が最もふさわしいのではないかと、ふと思った。
 彼の周りに、見学を終えた友が集まって来た。
 伸一は語りかけた。
 「かつて、尚泰久王は、琉球を世界の懸け橋とし、『万国津梁の鐘』を作り、首里城の正殿に掛けた。沖縄には、平和の魂がある。その平和の魂をもって、世界の懸け橋を築く先駆けとなっていくのが、みんなの使命だよ」
 高見福安が答えた。
 「必ずそういたします。沖縄はアメリカの統治下にあるので、海外に行く手続きは本土より簡単なため、世界に羽ばたこうとしている人がたくさんいます。また、基地に働くアメリカ人で、信心する人も増えております」
 「そうか。そこからまた広がっていくね。沖縄は広宣流布の″要石″だ。この美しき天地を、永遠の平和の要塞にしていこう。
 仏法には三変土田という原理がある。そこに生きる人の境涯が変われば、国土は変わる。最も悲惨な戦場となったこの沖縄を、最も幸福な社会へと転じていくのが私たちの戦いだ。やろうよ、力を合わせて」
 「はい!」
 決意を込めた友の声が、潮騒のなかに響いた。
 伸一は、ニッコリと頷くと、彼方を仰いだ。
 ここに、新しい沖縄の、輝く未来への歴史のページが開かれたのである。
 それは、″汝自身″の使命を自覚した人間による、民衆のための平和と文化を創りゆく戦いの始まりであった。
 彼は、沖縄の天地に、生命の世紀の太陽が昇るのを見る思いであった。

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