Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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高等部、中等部合同総会 「南条時光」の外護の信心に学ぶ

1986.8.4 「広布と人生を語る」第9巻

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13  時光は大聖人御入滅後も、二祖日興上人に真心からお仕え申し上げ、報恩の誠を尽くしている。このことは堀日亨上人の『南条時光全伝』にも書かれているとおりである。晩年は入道して「沙弥大行」と名のった。ときに五十八歳であった。私も現在、五十八歳であり、令法久住に生きぬいた時光の心情に共感をおぼえる。時光は任官して「次郎左衛門尉入道大行」と称して、正慶元年(1332年)、七十四歳でその生涯を終えている。
14  時光の生涯について、もう一歩深めて諸君に申し上げたい。
 先ほども申し上げたように、青年指導者である南条時光は、十六歳のときに自ら身延の沢を訪れ、大聖人にお会いしている。そして、お目にかかった後、すぐに御手紙をいただいている。
 その御手紙の追い書きには「人にあながちにかたらせ給うべからず、若き殿が候へば申すべし」と仰せである。
 つまり時光はまだ若い。往々にして年寄りはずるくて、くさみがあり、保守的で、大仏法を説いてもなかなかわからない。求道心にとみ、みずみずしく吸収していく若い人々と話をしていきなさい、との意味である。
 このことを通しても、大聖人、また日興上人が、後継の人材を育てるうえで、どれほど細かい気配りをしているかがうかがわれる。
 日亨上人も『時光全伝』で、時光を「本宗唯一の青年信士」と述べられている。すなわち、日蓮門下で第一の立派な青年信徒であったと讃嘆されているのである。
 南条時光は、すでに両親が入信していた。今でいえば幼い時から信心した”二世”にあたる。その意味で、諸君も現代の若き”南条時光”として大いに成長していただきたいと、私は念じている。
15  大聖人は、父の跡を継ぎ強盛なる信心を貫いている時光に、このような御手紙も送られている。
 「こうへのどの故上野殿をこそ・いろあるをとこと人は申せしに・其の御子なればくれないきよしをつたへ給えるか、あいよりもあをく・水よりもつめたきこおりかなと・ありがたし・ありがたし」との有名な御文である。
 その大意は「亡くなられた兵衛七郎殿は情に厚い父親であった。その御子息であるあなたも、御父のすぐれた素質を受け継がれたのであろう。心が清らかで、あたかも”青が藍より出て藍より青い”との道理のごとくであり、氷が水より出来て水より冷たいようなものである。ありがたいことである」との感嘆のお言葉をたまわっている。
16  妙蓮寺の変遷について
 総本山大石寺の近郊にある妙蓮寺は、伝えによると南条時光の屋敷をそのまま寺院となし、今日に続いているといわれる。時光の夫人・乙鶴の法号が妙蓮であったことから、これをそのまま寺号と定めたとされている。
 現在の本堂の建立は、私が発願させていただいたものである。
 この妙蓮寺は本堂が大正のはじめに取り壊され、そのままになっていたが、その本堂が六十年ぶりに新しく建立されたのは、昭和四十九年の三月二日であった。
 妙蓮寺は、総本山からも近く、心和むところでもあったところから、私も幾度か参詣させていただいた。その当時の御法主上人は第六十六世日達上人であられた。
 これは、自讃するつもりではけっしてないのだが、また御法主上人のお言葉を自ら申し上げるのはもったいないことではあるが、諸君も同じ心で外護の誠を尽くしていただきたいという意味から、事実は事実として伝えておきたい。
 昭和四十九年三月二日の妙蓮寺・本堂落慶入仏法変の折、第六十六世日達上人が奉読された慶讃文がある。
 「それ妙蓮寺本堂の地は 宗祖大聖人より上野賢人の佳名を給わった南條時光の邸宅の その遺址の地なり(中略)
 大行尊霊は大聖人の大檀越の一人にして 大聖入滅後は謗法に屈せず日興上人を授けて大石寺を建立し 日蓮正宗の基礎を造れる大篤信の賢人なり
 この大行尊霊去りて 六百四十二年昭和四十九年 今また大行尊霊に継ぐ大篤信の偉人あり そは法華講総講頭池田大作なり 今やこの人により宗門は 総本山を初め各本山及び末寺に到るまで 廃れたるを起し 新寺を建立し 信徒は日々に増大し 一躍大宗門の名により世界に周知せらるるに至る
 之れ池田大作の信心の威徳 功績のいたす所にして 全く 昭和の大行尊霊とも云いつべし 日達 妙蓮寺本堂新築再建慶讃の式に当り 御宝前に 総講頭池田大作の徳行を称え 御本仏の冥加を得て 願わくば此の功徳を以て普く一切に及ぼし 宗門一層の隆盛と広宣流布並に世界平和を希う」――。
 信徒として御法主上人の称讃ほど光栄なことはない。広布後継の使命ある存在である諸君たちは、どうか、もったいなくも御法主上人より讃嘆され信頼されたこの創価学会の大道を永遠に歩みゆかれんことを、心からお願いしたい。
 この三月二日の落慶入仏法要には、私は残念ながら参列できなかった。フランス社会党の執行委員で、有名な社会運動の理論家であったジル・マルチネ氏との会談があったためである。このことを今でも申し訳なく思っている。
 私に代わって、当時、副会長であった故北條浩第四代会長に参列してもらった。そして私は、この法要の四日後、北・南米への四十日間にわたる海外指導の出発の前日であったが、新築なった妙蓮寺本堂に参詣させていただいたのである。
 そのさい、妙蓮寺の御住職であった故漆畑日広尊能師がたいへんに喜んでくださった。また、庭に白梅を記念植樹させていただいた。その折のことは、今も忘れることはできない。
17  法要の日の日達上人の慶讃文は、記念碑としてそのまま妙蓮寺の境内に建立させていただくことになり、昭和四十九年の十月九日に除幕された。
 この記念碑の裏面には、
  うぐいすも 桜も祝う 妙蓮寺
 という、拙ない句であるが、刻ませていただいた。この句の脇書には「本山妙蓮寺第四十四代 漆畑尊能師に捧げる」とある。
 漆畑尊能師は昭和三十年から妙蓮寺の第四十四代の住職を務められた。また静岡北布教区宗務支院長、正本堂落慶法要委員、宗祖日蓮大聖人第七百遠忌局委員などを歴任された。そして第七百遠忌の少し前の昭和五十四年七月に七十六歳で逝去されたが、正宗の興隆に多大な貢献をなされた方であった。
 妙蓮寺は宗門屈指の古刺であり、「富士門流八本山」の一つとされたが、残念なことに近世以降、大石寺とそれほど深い交流がみられず、さまざまな変遷をたどってきた。明治九年(一八七六年)に身延派を含む本迹一致派が「日蓮宗」と称したため、妙蓮寺を含む日興門流の八山は、大石寺を中心に「日蓮宗興門派」と一時、名のった。ところが、大石寺に反する本山も多く、ついに明治三十三年(一九〇〇年)、大石寺は離脱して「日蓮宗富士派」と称した。そして、明治四十五年に「日蓮正宗」と改称したのである。
 昭和二十五年になって、ようやく妙蓮寺だけが日蓮正宗に帰一した。本来の、日興上人が血脈付法され、南条時光が貫いてきた正宗の清流に戻ったのである。
 この帰一運動に真剣に尽力なさった一人が漆畑尊能師であった。現在、妙蓮寺は、私もたいへんに親しくさせていただいている吉田日勇尊能師が御住職をされている。
 また、この妙蓮寺の境内に、日華堂が再建され、去る五月二十五日には御法主日顕上人の大導師で落慶入仏法要が営まれている。この日華堂は妙蓮寺開基の日華上人にちなみ建立されたものである。
 以上、漆畑尊能師のことを含め、妙蓮寺の歴史について少々申し上げた。というのも、漆畑尊能師は品格に優れ、また正法正義については厳正な方であった。だが、妙蓮寺が日蓮正宗に帰一するさい、多くの関係者から「大石寺からお金をもらった。だから帰一するようにしたのだ」との悪口を言われている。世間にはかならず妬みから陰湿な悪口を言う人々がいるものである。
 しかし、そのようなことはいっさいなかったと、はっきりと私は申し上げておきたい。この妙蓮寺の帰一がなって、千葉の保田の妙本寺、宮崎の日向定菩寺など名刹が帰一するキッカケがつくられたのである。その意味で、漆畑尊能師のお名前を後世にお残ししたいがために、本日、若き諸君に話しておくのである。
 妙蓮寺の本堂落慶のさい、漆畑尊能師は七十歳の老僧になられていたが、「きょうは生涯のなかで最良の日です。この寺から宗門興隆の波をつくってまいります。池田会長にはほんとうにお礼の言いようもありません」――このように仰せくださったとうかがった。それは今もって私の胸中に残っている。
 ともかく、漆畑尊能師は富士吉原の貧家に生まれ、早くも五歳のときに出家されている。その後、種々のご苦労をされたが、最後まで正宗の僧として立派な生涯を送られた。そして、日達上人より「上人号」を賜り、当時、総監であられた現御法主日顕上人からも弔辞のなかで「共の功績たるや甚だ大であり、宗門僧俗一同仰いで亀鑑と為すべきであります」とたたえられ、みごとに生涯を飾られたのである。
18  身延離山は末法万年への大法興隆のため
 さて、再び日興上人と南条時光の麗しい絆についてふれておきたい。
 私の大好きな文でもあるが、堀日亨上人は、日興上人御年三十歳、時光十六歳のころのお二人の姿について「青春気鋭のキビキビした法談が梅花と共に複郁と妙香を放った。大石寺の成るも母胎はそこにある」と仰せである。
 ともかく、すばらしい僧俗、師弟の姿であった。この文には、妙法流布の未来へ進みゆく気高い青春の薫りを感じてならない。未来を決定づけるのは若い人々である。若い人に期待をかける以外にない。
 大聖人の御入滅後も、身延には日興上人がおられた。この身延の土地を持っていた地頭は波木井実長という武士で、大聖人から何通かの御手紙をいただいた大信者であった。
 ところがこの波木井実長は、身延の学頭であった民部日向の軟風、邪義におかされ、立像の釈迦仏の造立、箱根・伊豆山の両権現と三島神社への参詣、念仏福士の塔の供養、九品念仏の道場建立という四箇の謗法をおかしてしまう。時が変わると、軟風におかされ、世間に迎合して退転していく。この原理は昔も今も同じであるといえよう。
 すばらしいと思っていた幹部でも退転してしまう。草創期にともに講習会で信心を鍛錬しあった青年部員の少なからぬメンバーも、退転してはならないと誓いあいながら、時とともに退転している。ほんとうに人の心は、はかなく移ろいやすいものである。諸君は断じてそうなってはならない。
19  師敵対の民部日向と、四箇の謗法をおかした波木井実長のために、身延の霊地も、謗法の山と化した。そのため日興上人は、大聖人の正法正義を純粋に伝えていくために身延を離山されるのである。
 そのとき、時光は日興上人に、今の大石寺、当時「大石が原」と呼ばれていたこの地にお迎えしたいと申し上げる。日興上人はたいへんに喜ばれて、末法万年の大法興隆の礎をつくり上げるとの御決心で移られたのである。ときに正応三年(1290年)、時光は三十二歳であった。ここに、末法万年への正法の清流が新たに流れ通いはじめたのである。
 これからの広宣流布の流れを考えるとき、諸君はよくよくこの歴史の教訓を胸に刻んでいただきたいのである。
 かりに多くの先輩が世間に迎合し退転していったとしても、この時光の精神を堅持した若き高等部、中等部の諸君が、かならずや新しい広宣流布の天地を開いていくにちがいないことを私は信じ、期待するのである。

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