Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第十一回関西総会 広宣流布の錦州城たれ

1989.19.12 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

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13  永遠の″広宣の火種″を諸君に
 さらに、松陰は言う。
 革命の炎を燃え立たせたのは自分ではないか。その正義の炎に対抗する「逆焔」も自分が煽ったのだ。その僕の動きを止めようとは、なんという心得違いか。
 「且つ今の逆焔は誰れが是れを激したるぞ、吾が輩に非ずや。吾が輩なければ此の逆焔千年立つてもなし。吾が輩あれば此の逆焔はいつでもある。忠義と申すものは鬼の留守の間に茶にして呑むやうなものではなし。吾が輩屏息へいそくすれば逆焔も屏息せようが、吾が輩再び勃興すれば逆焔も再び勃興する、幾度も同様なり」(同書簡)
 ――そのうえ、今、革命に対する炎は、いったいだれが燃え立たせたのか。この僕ではないか。僕がいなければ、この炎は千年たってもなかろう。僕さえいれば、この炎はいつでもある。
 忠義というのは″鬼のいない間に、一息入れて茶を飲む″ようなものではない。
 僕が息をひそめれば、炎も息をひそめる(小さくなる)だろう。僕がふたたび立てば、炎もふたたび大きく燃え上がる。これは何度やっても同じことだ――。
 「忠義と申すものは鬼の留守の間に茶にして呑むやうなものではなし」――なんと痛烈な言葉であろうか。
 何やかやと理由をつけて、動こうとせず、その実、危険を避けて、わが身をかばおうとしている。そうした門下の、政治家的な要領のよい生き方と弱さを叱咤しているのである。
 何より、「革命の火種」としての松陰の自負は大きかった。自分が立てば、反動も大きい。そのとおりだろう。当然ではないか。われこそ″革命の主体者″なのだ。その僕を抑えて、時を待つなどと言ったところで、何年たっても何ひとつ変わらないぞ、と。
 炎を広げるには、「火種」を第一に守りぬいていく。これが当然すぎるほど当然の道理である。その道理が見えないのかと、松陰はあえて言わざるをえなかった。
 広宣流布も、「火種」を守りぬけば、いつでも燃え広がる。また永遠に続いていく。「火種」を消せば、広布の炎も消える。この重大な一点を忘れてはならない。
 今、私は戸田先生から受け継いだ、正法広宣流布への確かな火種を世界に広げながら、さらに次の時代のため、万年のために、真正の「革命の火種」を青年諸君の魂に伝えようとしている。(拍手)
14  この後に、冒頭にあげた有名な言葉が出てくる。
 「江戸居の諸友久坂・中谷・高杉なども皆僕と所見違ふなり。其の分れる所は僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り」(同書簡)と。
 ――江戸にいる諸友、久坂、中谷、高杉なども皆、僕と考えが違う。そのわかれるところは、僕は忠義をするつもりであり、諸友は功業(手柄)をなすつもりなのだ――と。
 松陰の言う「忠義」と「功業」とは言葉は古いが、現代的にはこうも言えよう。報酬を求めぬ「私心なき赤誠」と、功名心にとらわれた「政治的方便」と。別のところで松陰は、同じことを「真心」とも表現している。
 師弟の違い。それは、大義に死する革命詩人と、功名に生きる政治的人間との違いであった。
 ――たとえわが身がどうなろうと、身を賭して正義を明らかにすべきではないか。それでこそ″時″をつくり、時代を開ける。今やらねば、いつやるのだ。このまま、おめおめと生き、火種を消してしまうのか。
 ――上手に生きよう生きようと立ちまわるのは、「功業の人」である。国家のためにと言いながら、生きて功名を立て、革命の甘い汁を吸おうというのか。
 「皆々ぬれ手で栗をつかむ積りか」(一月十六日、岡部富太郎宛書簡)
 ――高杉、久坂、中谷らは皆、「ぬれ手で栗をつかむ」つもりなのか――。
 松陰の言葉は、いよいよ激しい。高杉よ、久坂よ、「時を待て」とは何たる言い草だ。皆、苦労もせず「ぬれ手で粟」で、功名のみを得ようというのか、と。
15  師はだれよりも弟子を知る
 客観的には、あるいは弟子たちの状況判断にも無理からぬ面があったかもしれない。実際、そう論じる人もいる。また「手柄」を立てることが悪いというのでもない。何の手柄も立てられないのでは、しかたないともいえるかもしれない。
 しかし松陰が言いたいのは、そんなことではなかった。自分と弟子たちの″奥底の一念の差″を嘆いたのである。
 「革命のための人生」なのか。それとも「人生のための革命利用」なのか。
 私どもで言えば、広宣流布のために自分をささげるのか。自分のために広布を利用し、信心と学会を利用するのか。この「一念の差」は微妙である。ある意味でタッチの差である。
 しかし、その結果は大きく異なる。広布のため、正法のために――との信心の一念は、諸天を大きく動かし、友の道を限りなく開いていく。自身の生命にも、三世永遠の福徳の軌道、確たる″レール″が築かれていく。
 反対に、口には広布を唱え、裏では、心堕ち、銭に執着し、身が堕ちてしまった人間もいる。立場や名利、金銭に執着し、その心を本として、たくみに泳ぎつつ生きていく。これまでの退転者らがそうであった。
 また、人に認められよう、ほめられようとの一念で行動する人もいる。しかも自分では、けっこう頑張っているつもりでいる。自分で自分のエゴがわからない。
 松陰がここで言うのも、弟子たちが自覚していない、心の底の「臆病」と「野心」を撃っているのである。
 弟子を知る者、師にしかず――。師匠には弟子が自分で気づかぬ心までわかっている。反対に、師の心を知る弟子はあまりに少ない。
16  吉田兼好の『徒然草』に、「師の眼力」を書いた一文(第九十二段)がある。
 「或人、弓射る事を習ふに、もろ矢をたばさみて的に向ふ。師の言はく、『初心の人、ふたつの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、はじめの矢に等閑なほざりの心あり。毎度ただ得失なく、この一矢に定むべしと思へ』と言ふ。わづかに二つの矢、師の前にてひとつをおろかにせんと思はんや。解怠けだいの心、みづから知らずといへども、師これを知る。この戒め、万事にわたるべし」(『日本古典文学全集27』神田秀夫・永積安明・安良岡康作 校注訳、小学館)と。
 ――ある人が弓を習っていた。手に二本の矢をはさみ的に向かった。弓の師匠が言った。「初心の人は、二本の矢を持つな。あとの矢を頼んで、まだ一本あると思い、初めの矢をなおざりにする心が出るからである。毎回、矢を射るたびに、成功、失敗を気にせず、ただ『この一矢で終わりにしよう』と思え」と。
 二本の矢のみである。師の前で、一本をおろそかにしようと思うだろうか。しかし、怠けの心は、自分では気づかずとも、師匠は知っているのである。この戒めは、万事に通じるものである――。
 さらに兼好は言う。
 「道を学する人、夕には朝あらん事を思ひ、朝には夕あらんことを思ひて、かさねてねんごろに修せんことを期す。況んや一刹那のうちにおいて、解怠の心ある事を知らんや。なんぞ、ただ今の一念において、直ちにする事の甚だ難き」(同前)
 ――道を学ぶ人も、夕方には、明日の朝があることを思い、朝には夕方があることを思って、そのときには、ふたたび真剣に修行しようと決意する。それほどであるのだから、いわんや一瞬の間に、怠けの心があることを知りえようか。「ただ今の一念」において、ただちに、なすべきことを実行することのなんとむずかしいことか――。
 師匠は、弟子の心がよくわかるものである。だからこそ、自分の怠け心に気づかず、真剣に道を求めようとしない弟子のために、教え、励まして成長させようとする。
 師がいてこそ、求める道も正しく進み、究めていくことができる。自身の成長も、人生の向上もある。
 ともあれ、人生も、青春も長いようで短い。「この一矢」「ただ今の一念」をきちんと定めて、充実した、価値ある一日一日を生きていかねばならない。そのためには、どうしても師が必要である。このことを教えた『徒然草』の文である。
17  さて、松陰の門下は師から遠ざかった。「先生、おとなしくしていてください。今は、行動しないで、静かにしていてください」――彼らの心根を一言で言えば、こうであった。
 そこには師を危ない目に遭わせたくない、という心情もあったつもりかもしれない。しかし、その本質は、師の心を知らず、自分たちのさかしらな考えにとらわれていた。臆病の心もあった。
 「先生のおもりに困っているんだ」とさえ、愚痴を言った門下もいる。これは手紙が残されている。
 松陰は嘆いた。「勤王のきの字を吐きし初めより、小弟しょうていもとより一死をはめての事なり」(一月十三日、兄杉梅太郎宛書簡)と。
 「勤王」の「き」の字を口にして、革命を志したときから、すでに一死を覚悟している。何を恐れることがあろうか。なのに″情勢が厳しい″″今はその時ではない″などと門下たちは言う。今さら何の「臆病論」(同書簡)なのだ。
 大義に死す者がいないとは、太平の世に柔弱になりきったのか。「日本もよくもよくも衰えたこと」(一月二十三日以後、入江杉蔵宛書簡)だ。情けないかぎりだ。「哀し哀し」(二月十五日以前、某宛書簡)と、松陰は血涙をしぼった。
 このときの松陰の思いは、「星落秋風五丈原」の歌の一節「成否を誰れかあげつらふ一死尽くしゝ身の誠」に通じるものがあろう。
 戸田先生は、かつて、「五丈原」の歌を青年部に歌わされたが、この歌詞のところにくると涙されるのが常であった。″無責任な傍観者が何を言おうと、広宣流布は断じてなさねばならない。いったい、だれがそれを成すのか″との思いが、歌詞と二重写しになって胸に迫られたにちがいない。
 しかし、戸田先生のもとにはつねに私がいた。私は「広宣流布」の「こ」の字を口にしたときから心は決めていた。死も覚悟のうえだった。そして戸田先生の誓願実現のために、走りに走った。
 戸田先生も「大作がいるからな」と喜んでくださっていたし、私に一切を託された。一切を託せる弟子を持つことほど、師にとっての喜びはないし、幸せはない。(拍手)
 広宣流布も、また大闘争であり、当然、戦術、戦略というべきものもある。また、冷徹な情勢分析も絶対に必要である。しかし、より根本的なものは「師弟の道」である。その道を外れては、どんな作戦も価値を生まないことを知らねばならない。(拍手)
18  ″民衆の決起″こそ革命の原動力
 さて、松陰は、明治以後になると、いわゆる「勤王の志士」とたたえられ、軍国主義などに利用されてきた歴史がある。しかし、彼が、苦しみの果てにいたった結論は、じつは「民衆による革命」であった。「草漭崛起そうもうくっき」(民草、民衆の決起)――これが松陰の、最後の考えであった。
 他人は信ずるに足らず、幕府も諸大名も頼むに足りない。では、どうするのか。――民衆である。革命は、民衆に拠るしかない――と。松陰だけではない。歴史上、まがりなりにも革命を成し遂げた人物は、やはり民衆に焦点をあてていた。
 「草漭崛起、豈に他人の力を假らんや。恐れながら、天朝も幕府・我が藩も入らぬ、只だ六尺の微躯が入用」(四月頃、野村和作宛童日簡)――名もない民衆の決起、もはやそれしかない。どうして他人の力など借りようか。恐れながら朝廷もいらぬ、幕府もいらぬ、わが藩もいらぬ、ただこの六尺の身があればよい――。
 もうだれも頼らない。わが一身が炎と燃えれば、人は民草に燃え広がろう。権力者などあてにするのは、一切やめだ――と。
 民衆は弱いようで強い。いざとなれば権力など、ものともしない。怖じない。無名の民衆の力こそ、革命の真の原動力である。広布という未聞の大業もまた、無名の庶民によって、たくましく切り開かれてきた。(拍手)
19  松陰が、この「民衆決起」の考えにいたった発端は、どこにあったか。それは、日蓮大聖人の戦いであった。彼は書いている。
 「余が策の鼻を云ふが、日蓮鎌倉の盛時に當りて能く其の道天下に弘む。北条時頼、彼のこん(=髪をそられた罪人のこと。ここでは日蓮大聖人を指す)を制すること能はず。實行刻苦尊信すべし、爰ぢや爰ぢや」(同書簡)
 ――この戦略を思いついた発端は、日蓮(大聖人)は鎌倉幕府の勢いの盛んな時に、よくその教えを天下に広めた。権力者である執権の北条時頼でさえ彼を制することができなかった。この事実から考えついたのだ。「実行」と「刻苦」と。苦しみつつ実践に生きることは尊ぶべきであり信ずべきである。肝心なのはここだ、ここだ――と。
 この「民衆決起論」は、やがて弟子たちに受け継がれ、近代日本の扉をこじ開けるテコになる。いわば、日蓮大聖人の、権力をものともしない「民が子」としての戦いが、時代を超えて松陰に飛び火し、明治維新の淵源をもつくっていったのである。(拍手)
20  こうした手紙を書いた約半年後、松陰は江戸で処刑される。
 門下の衝撃は大きかった。「仇を報わでは」と、皆、泣いた。そして、師の手紙や遺文を集めた。それぞれが、ばらばらに持っていたものを結集し、皆で学んだのである。
 そこで、初めて弟子たちは松陰の真意を知った。「これが、わが師の心であったのか」――。その思想の深さ、慈愛の大きさ。あらためて自分たちが師を知ることのあまりに少なかったことを悔いた。
 松陰は遺言に言う。
 「諸友蓋し吾が志を知らん、爲めに我れを哀しむなかれ。我れを哀しむは我れを知るに如かず。我れを知るは吾が志を張りて之れを大にするに如かざるなり」(十月二十日頃、諸友宛、「諸友に語ぐる書」)
 ――諸君は僕の心を知っているであろう。死にゆく僕のことを悲しんではならない。僕の死を悲しむよりは、僕の心を知ってくれるほうがよい。僕の心を知るということは、僕の志を受け継ぎ、さらに大きく実現してくれることにほかならない――。
 師の心を知った弟子たちは、炎と燃えて立ち上がった。もはや彼らには迷いはない。革命の本格的な狼煙は、ここから広がり始めたのである。
 やがて「民衆決起論」は高杉晋作の奇兵隊(農民まで含めた新軍隊)を実現させた。
 そればかりではない。松陰の「幕府もいらぬ、藩もいらぬ」との到達点紙は、久坂玄瑞を通じて坂本竜馬に、そして全国の志士たちにと伝えられ、革命の爆発の発火点となっていった。孤独のなかの松陰の魂の叫びが、やがてこだまにこだまを重ね、新しい時代を開いていったのである。(拍手)
21  やがて、久坂も高杉も、師の心を抱きしめながら、大義のために死んでいった。
 生き残り、革命の甘い汁を吸ったのは、伊藤博文や山県有朋ら、一ランクもニランクも下の人物であった。革命に殉じた人々の功績と労苦を、生き残った者がみずからの保身や功名のために利用する。広宣流布の歩みにあっては、こうしたことは絶対にあってはならない。
 妙法広布に生き、殉じた功労者が最大にたたえられ、報われ、また末永く顕彰されていくうるわしい世界。これこそ学会のあるべき姿であると、私は念願してやまない。(拍手)
 ともあれ、時の権力者とまっこうから戦うなかで、名もなき庶民をこのうえなく愛され、大切にされた日蓮大聖人。その大聖人に、みずからの革命思想の偉大な模範を見いだしたのが吉田松陰であった。
 そして、″民衆″への限りない御慈愛をそそがれて戦われた大聖人のお心のままに、広宣流布ヘの民衆の大河を、広く深く築いているのが、私ども創価学会であると、重ねて申し上げておきたい。(拍手)
22  強き情熱と使命感いだき
 話は変わるが、先日(九月二十六日)、私はパキスタンの駐日大使と会見した。席上、同国の若き首相、ベナジル・ブット女史についても種々、お話をした。
 ブット首相は昨年、就任して以来、同国の民主化に取り組んでいる。父親のアリ・ブット首相は、軍事クーデターによって死刑になった。彼女が今日あるのは、この父への誓いによるものといえる。
 「父は政治は情熱だと言いました。しかし、私にとって政治は使命感です」と首相は言う。
 処刑を前にした父は、彼女に言った。「私はいなくなる。しかし、お前はどんな時にも、決してやけを起こしてはいけない」と。ブット首相は、この父の言葉をささえとして、苦しみのなかでも自分を抑え、自分を乗り越えてきたという。
 彼女は、選挙戦では父親の社会主義的政策を否定し、徹底した現実路線をとった。首相なりに考えぬいた結論であったろう。
 ちなみに、この選挙戦の最中、首相は男児を出産する。出産の三日後には選挙運動に復帰。過労で腎臓を痛めたが、連日二十時間の仕事をしたと聞いた。
 こうして、現実的な民主化政策をかかげたブット首相は、国民の信任を獲得した。まさに、女性の強さとともに、「女性の時代」の到来を感じさせる話である。パキスタンはこの十月一日、新首相のもと、十九年ぶりで英連邦に復帰した。
 父親のアリ・ブット元首相が処刑されたのは、一九七九年であった。父の死に臨むことさえ許されなかった彼女は、後日、母とともに父の墓を訪れている。
 父の墓を前にして、″父のめざすものが、自分のめざすところとなった″ことを実感する。そして彼女は誓った。「パキスタンに民主主義が復活する日まで休むまい」と――。その誓いのとおり、数々の投獄や軟禁にも屈せず、戦い続けたのである。
 パキスタンの指導者であるブット首相の人となりの一面を、紹介させていただいた。
 いずれにせよ、世界的なリーダーと目される人たちは、多くの苦難と戦い、そのなかから深き使命感をいだいて立ち上がっているものである。
 皆さま方も、どうか強き「情熱」と「使命感」を持って、広布のあらゆる山を乗り越えゆく″勇者″であっていただきたい。(拍手)
 明年、一九九〇年五月三日には、学会創立六十周年の、すばらしき佳節を迎える。その時は、この関西の地で盛大に、記念の祝賀の集いが開催されることになっている。そのさい、ふたたび皆さま方にお会いできることを楽しみに、本日のスピーチを終わらせていただきたい。
 (関西文化会館)

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