Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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学生部結成30周年記念総会 指導者は「生命の尊厳」を第一義に

1987.6.28 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

前後
13  ネルソンらの勇気ある行動に対し、司祭のウガルテらの振る舞いは対照的であった。彼らは火事の最中に、こっそり聖器保管室の裏側から逃げ出してしまった。そのまま行方をくらまし、その後の動静は誰にもわからなかった。しかも祭壇にあつた高価な聖具や教会の家具だけは、侍者たちの手で運び出された。何とずるく、卑しい姿であろうか。
 本来、人々を救済することを天職とし、まっ先に人命を助けるべき聖職者である。その彼らの信じ難き醜い振る舞い。民衆は激しく弾劾だんがいの声をあげた。″家具などを運ぶ前に、なぜ何よりも先に崇高なる人命を救わなかったのか″と。当然の怒りである。民衆の憤激によって、チリ大統領もついに教会廃止の布告を発令している。
14  民衆の正義の怒りほど強いものはない。強大に見える時の権力をも動かし、社会と時代を進歩させていく。ゆえに青年は悪に鈍感であってはならない。卑劣なる指導者と戦う覇気を無くしてはならない。社会悪に対し、陰で愚痴を言っているのみであっては、あまりにも後進的な、封建社会の如き姿と言わざるを得ない。青年は、正義のために、断固、民衆の先駆となって、勇んで立ち上がるべきである。
 ともあれ、大切なのは指導者である。利己主義の指導者を持った民衆は不幸である。司祭ウガルテは、責任者であるにもかかわらず、自分達だけ、まっ先に逃亡してしまった。頼るべき中心者を失った信者たちは、ただ右往左往する以外なかった。
 かりに事故が起こったとしても、その後の冷静な判断と的確な指示があれば、大惨事は防げたであろう。直ちに消火を始めること、順番に静かに出口から外へ向かうこと等、明快な指示を与えるとともに、落ち着いて行動するよう激励するなど、できることは幾らもあったに違いない。その責任を放棄した罪は大きい。あまりにも無慈悲であり、残酷である。
15  御書にみる指導者の重要性
 ここで、指導者の重要性について御書を拝読しておきたい。
 大聖人は「一つ船に乗りぬれば船頭のはかり事わるければ一同に船中の諸人損じ」と仰せである。
 一つの船に乗り合わせた以上、船頭という指導者がカジ取りを間違えれば、乗っている人々もみな遭難してしまう。これは道理である。他の乗り物にせよ、また、あらゆる団体、組織、社会も同様に、中心となる指導者いかんで方向が大きく決定づけられてしまう。指導者の責任の重要性は、いかに強調してもし過ぎではない。
 また大聖人は、日本の一切衆生の謗法の罪について、「女人よりも男子の科はををく・男子よりも尼のとがは重し・尼よりも僧の科はををく・破戒の僧よりも持戒の法師のとがは重し、持戒の僧よりも智者の科はをもかるべし」と御教示されている。
 当時の日本社会においては、女性よりも男性の方が、おおむね指導的立場にあった。また仏法のことでは僧の方が在家の信者より責任があるのは当然である。ゆえに、そうした責任が大きい立場であればあるほど、誤った言動の罪は大きいとの仰せと拝する。
 とりわけ智者として多くの人々の尊崇を集めている指導者の罪は大きい。現代でいえば、世論に大きな影響を与える権威と信用を持った指導者が、誤れる言論等で正法正義を迫害することは、最大の罪となる。
16  大聖人御在世当時、そのように「智者」とあがめられながら、最も卑劣な方法で大聖人を迫害した聖職者がいた。有名な極楽寺良観である。大聖人は、その悪の本質を鋭く喝破かっぱされている。
 四条金吾への御返事である「王舎城事」には、極楽寺の火災にふれて、次のように仰せである。
 「名と申す事は体を顕し候に両火房と申す謗法の聖人・鎌倉中の上下の師なり、一火は身に留りて極楽寺焼て地獄寺となりぬ、又一火は鎌倉にはなちて御所やけ候ぬ」と。
 すなわち、その火事は″極楽寺″を焼いて″地獄寺″へと変じさせたばかりか、御所をも焼いてしまった。二カ所を焼いたのだから、名は体をあらわすように、″良観房″ではなく″両火房″だと揶揄やゆされているのである。
 「謗法の聖人」「鎌倉中の上下の師」の仰せのように、彼は、あらゆる人々から聖人と思われながら、その実、大謗法の指導者であった。大聖人は、火災という一現象をとらえられながら、彼の隠れた悪の本質をえぐり出されているのである。
 ゆえに、次に「又一火は現世の国をやきぬる上に日本国の師弟ともに無間地獄に堕ちて阿鼻の炎にもえ候べき先表なり」と御指摘になられている。
 極楽寺の一火が現世の国を焼いたことは、死後、良観もその弟子である日本国の人々も、ともに無間地獄で大苦悩の炎に焼かれる前兆であると。誤れる指導者につけば、現世のみならず、三世にわたって、永遠に苦悩の境涯となってしまうとの仰せである。
17  ″生命の勝利者″の人生を開きゆけ
 最後に「四条金吾殿御返事(法華経兵法事)」の一節を拝しておきたい。金吾が、敵人の襲撃による生命の危難を無事、乗り越えたことを喜ばれた御文である。
 「前前の用心といひ又けなげといひ又法華経の信心つよき故に難なく存命せさせ給い目出たし目出たし」と。
 金吾が生命を守れた理由は、一つには常日ごろの用心であった。二つにはいさぎよい勇気に満ちていた。三つには強盛なる信心があった。ゆえに難を越えて生命を永らえることができたとの仰せである。
18  諸君の将来は長い。これから、自身の決定した一念によって、いくらでも無限に素晴らしき人生を開いていける。何百年、何千年にも匹敵するような価値ある一生を築くこともできる諸君である。
 ゆえに、つまらない事故等で大切な未来を閉ざしてしまうことがあっては絶対にならない。四条金吾への仰せのごとく、強き信心の上に、人一倍、用心すべきは用心し、注意すべきは注意して、無事故の一日一日を重ねていってほしい。
 また、たとえ絶望的に思える出来事があっても、一時の不幸で自棄やけを起こし、人生全体を狂わしていくような弱き青年であってはならない。
 若くして仏法の真髄を持った諸君である。妙法の絶大な力を原動力に、一人残らず、人生と社会の大勝利者になっていただきたい。いな、生命は永遠であるゆえに、一時の幸不幸を超越して、″永遠の生命の勝利者″となっていただきたい。そして広布の歴史に永遠に輝きゆく名指導者として、悔いなき生涯を全うしていただきたい。
 このことを強く念願し、諸君に最大の期待と信頼の心を捧げつつ、本日の記念スピーチとさせていただく。

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