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日蓮大聖人・池田大作

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「民衆の幸福」「社会の平和」を開く「正…  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

前後
13  池田 確かに建物は立派だ。僧侶も続々といる。
 しかし、すべて形式ばかりであった。その見せかけの格好に、人々は目を晦まされ、心を奪われていた。その様子を大聖人は、続く御文で、厳しく指弾されている。
 森中 「但し法師は諂曲てんごくにして人倫を迷惑し王臣は不覚にして邪正を弁ずること無し」と仰せです。
 〈通解〉――しかし、現在の僧侶の心は、へつらい曲がった心が強く、人々を迷わせている。また国王や臣下たちは仏法に無智のため、僧や法の邪正をわきまえていないのである。
 池田 人々を盲従から解放しようとされ、為政者の自覚と責任を促されているのです。まさに「立正安国論」は、警世の書であり、諫暁の書です。
 斎藤 「種種御振舞御書」には、「立正安国論」は「白楽天が楽府にも越へ仏の未来記にもをとらず」と位置付けられています。
 池田 諫暁書である白楽天の「新楽府」、そして「仏の未来記」に比しているということは、大聖人御自身、安国論を「諫暁書」、「予言書」として位置付けられていたと拝することができます。
 森中 白楽天は、白居易ともいいます。中国・唐代の著名な詩人です。
 彼は、詩は真実の道を託するためのものと位置付け、民の嘆きを謳い為政者を諭す諷諭詩こそ、詩の根本としていました。そして、時の皇帝である憲宗にしばしば諫言したのです。憲宗は、「白居易小子は朕に礼なし」(内田泉之助著、『白氏文集』、明徳出版社)(訳・白居易のやつは、皇帝の私に対して礼儀をしらない)と慨嘆することもありましたが、多くは受け入れて善政を行ったといいます。
 池田 「詩は志なり」――高い志をまっすぐに貫く「詩心」こそ、精神の混迷を打ち破るカギです。これは、アイトマートフ氏をはじめ、多くの世界の一級の文学者と語りあった実感です。
 白楽天は、平凡な家庭に生まれ、学問を究め、民衆のために尽くし、為政者を正している。大聖人がこの中国の大詩人に光を当てられた意義も、わかる気がします。
 森中 白楽天は、「唐生に寄する詩」に、「宮律の高きを求めず、文字の奇なるを務めず、ただ生民の病を歌うて、天子に知られんことを願ふ」(内田泉之助著、前掲書)(訳・言葉の調子が高尚であることを求めない。文章・文字遣いに奇をてらうこともない。ただ民衆の苦悩を詩にうたって皇帝に知られることを願うばかりである)と述べています。
 平明な言葉で、どこまでも民衆の苦しみを皇帝に訴えたのです。
 池田 そうです。「わかりやすい言葉」が大事です。いくら善いことを言っていても、人々に通じなければ役に立たない。また、「力強い言葉」が大事です。勇気から湧き上がる確信の一言こそが心を打つ。
 そして、深く広い心が生み出す誠実が胸に響くのです。
 斎藤 「新楽府」の「序」には「総てこれを言えば、君の為、臣の為、民の為、物の為、事の為にして作る。文の為にして作らざるなり」(内田泉之助著、前掲書)とあります。
 池田 どこまでも、皆のためを願っての正義の言論を――それが白楽天の心であった。その心が、大聖人の御境涯と響きあったのでしょう。
 「安国論御勘由来」には、こう仰せである。
 「ひとえに国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず
 自分の地位や名誉のためではない。どこまでも、社会のため、法のため、民衆のために、大聖人は命を賭して訴えられた。
 斎藤 まさしく「立正安国」とは、民衆仏法の在り方そのものですね。
 池田 学会は、個人次元の立正のために、正しい信仰の確立を目指している。社会次元での立正のために、人間尊厳・民衆根本の精神を広げている。その思想を基調として、現実社会で、すなわち王法の次元で、文化・平和・教育の運動を、大いに展開している。世界百八十カ国・地域を舞台とした、この仏法を基調とした大運動は、必ずや「人類の崩れざる平和」へ、大河の流れになっていくと思います。いよいよこれからです。

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