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日蓮大聖人・池田大作

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第七章 「死」の実体に迫る仏…  

「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)

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13  天体異変が続出した文永年間
 ―― ああ、そうですか。“火の玉”といえば、鎌倉時代の記録には、よくそうした表現がでてきますね。
 池田 そうでしたね。
 さきほどの『吾妻鏡』のほかにも、有名な歌人で、「百人一首」の撰者でもあった藤原定家の日記『明月記』にもでてきます。
 ―― よくご存じですね。
 池田 いやいや、私も関心があって……。
 木口 定家には、天文知識があったのでしょうか。
 池田 当然、天文学者ではないし、当時は京都に住んでいたわけです。ですから、地方の天文現象などは伝聞にもとづいています。その彼が、彼なりに、天文現象をとらえ残したということは、たいしたものだと、私はみています。
 余談になりますが、この定家については、最近では作家の堀田善衞さんが、『定家明月記私抄』にかなり詳しく書かれておりますね。
 木口 そうですか。定家は、“火の玉”を、どのように表現していますか。
 池田 ここにちょうど、きょうのために、『明月記』の原文を持ってきましたので、ちょっとそこのところを読んでいただけませんか。
 ―― わかりました。
 「夜ようやく半ばならんと欲して天中光り物あり、その勢、鞠の程か、その色燃ゆるが如し、忽然として躍るが如く、坤(南西)より艮(北東)に赴く、須臾にして破裂し、炉を打ち破るが如し……」
 池田 たいへんに文学者らしい描写をしています。表現力も鋭く、豊かである。それでいて、臨場感もあります。
 木口 やはり、科学者の記述とは違いますね(笑い)。さきほど、お話しした「古天文学」では、古い時代の天文現象を最新の天体科学の粋を駆使して究明しています。
 池田 なるほど、「歴史」の真相に、現代科学が挑戦しているわけですね。たいへん興味ぶかいお話です。
 木口 この分野の専門家のなかには、天体異変が多いといわれるこの時代に、本格的に取り組もうとする人も、でてくると思います。
 池田 そうですか。かつて、調べてもらったことがあるのですが、「文永」年間に、天体異変が最も続発していたようです。
 ―― どのような記録が残っていますか。
 池田 ちょっとみてみますと、たとえば主なものでも、文永元年(一二六四年)の六月から九月まで、彗星があらわれては消え、「光芒半天に及ぶ」と記された『五代帝王物語』があります。
 さらに、文永二年十二月の彗星については『外記日記』にあり、文永三年正月の彗星は『関東評定伝』に載っています。
 文永五年七月の彗星は『公忠公記』にみえます。
 また「文永」の十三年間は、さらに日食、月食、星食がつづき、大雨、旱魃、大風、地震など、当時の史料は、異常気象でうまっています。
 木口 世界の天文学史からみても、あまり類例のないことですね。
 ―― なかでも文永八年は、天体異変が集中的に続発しているようですが。
14  「立正安国論」と天文現象
 池田 そのとおりです。
 有名な「立正安国論」に説かれた時代相が、ますます深刻化されてきた年です。
 まさに、経文どおり「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」という時代であったわけです。
 木口 「鬼神」とは、どういう意味でしょうか。
 池田 「鬼神」の「神」とは、一言でいえば思想のことをいいます。「鬼神」とは、とくに、人間をして不幸におとしゆくような悪思想をさします。
 木口 なるほど。
 池田 ですから、「正法」に対して「邪法」をさしているわけです。
 まあ現代的にいうならば、人間の思考作用が破壊され、人間性が危機に瀕する状態といえましょうか。
 人々をして幸福へと昇華させゆくべき軌道から外れた思想であるがゆえに、万民が乱れる。
 つまり、人間的な秩序の混乱であり、異常な社会不安の増大という意味になりましょうか。
 ―― すると、人間社会と国土、自然現象とのかかわりあいを、明確にとらえた意味と考えることができるわけですね。
 池田 そう思います。「立正安国論」の深義は、そこにあると思いますし、その関係性を鋭く見抜いておられると、私は拝したい。
 木口 十数年も前になりますが、池田先生は、こうした面における学問研究は、「まだまだこれからの課題」と書かれていたのを読んだことがあります。
 池田 そうでしたか。「文永年間」周辺の異常な時代相は、ヨーロッパにおける中世暗黒時代とあいまって、人類の重大なる一大転換期をはらんでいたと、私は思う。
 文学者は文学者なりに、科学者は科学者なりに、人間というものを考えるうえでの、一つのエポックとして、時代とともに無限のテーマを与えていくことでしょう。
15  「竜の口の法難」と発迹顕本
 ―― ここで、再び「死」ということに戻りたいと思いますが。(笑い)
 仏法を説かれた仏さまは、常に、たいへんな迫害をうけておりますが、殺された方はいるのですか。
 池田 ありません。
 仏の弟子である「人師」「論師」、すなわち菩薩の位の場合は、殉教――犠牲になった人は、多くおります。
 木口 ああ、そうですか。激しい布教の連続でしたから、仏さまのなかにも、殺された方がいるかと思いました。
 ―― そう言われれば、そうですね。
 有名な日蓮大聖人の「竜の口の法難」は、史実にも残っていますね。「頚の座」という死刑でしたが、ついに大聖人の命を奪うことはできませんでしたね。
 木口 そうでしたね。
 ―― 文永年間は、世界的に類例のない天体異変の連続だったということでしたが、この「竜の口」の不思議な場面について、少し語っていただけませんでしょうか。
 木口 ええ、そうですね。「竜の口の法難」は歴史的にもたいへん有名です。約七百年前の事件でありましたが、史実も確かなようです。
 ―― そうですね。
 木口 ただ、驚くべきことは、竜の口の刑場上空を閃光のように走った“火の玉”が、あたりを昼間のように照らしたという事実です。
 日蓮大聖人が、その場において、いままさに処刑にあわれんとした事実との関連性も、まさしく不思議と言わざるをえませんね。
 ―― 事実というものは、どこまでも事実でありますから……。
 いかなる原因といいますか、因果関係によってかかる現象となったか――ということを追究し解明したい、というのも現代人として当然のこととなりますね。
 池田 私は、何度も申し上げますように、日蓮大聖人の仏法の信仰者です。この荘厳なる儀式を、仏法では「発迹顕本」といいます。
 それは、凡夫の姿をはらって、「本仏」としての本来の姿をあらわされたという意義になります。
 そして、いわゆる通途の仏法にみられる三世十方の諸仏の根源ともいうべき、久遠元初の自受用身の大境界を示されたととります。これを本仏といいます。すなわち、御自身の三世永遠にわたる仏としての本身を開顕されたと拝するわけです。
 ―― まことに深遠ですね。なにか、わかるような気もしますが、たしかに難解にして、不思議なところですね。
 池田 ひたすらな信仰の行動と真剣なる思索の積み重ねによって拝する以外ない。
 木口 まさしく、「『仏法と宇宙』を語る」の真髄ですね。
 ――「竜の口の法難」について、私どもが歴史で学んでいるのは、世の乱れの根本原因を仏法の正邪により明らかにされ、一歩も退かれなかった日蓮大聖人を、時の権力者らが、斬首処刑の暴挙に出たということです。
 池田 一往、そうでしょう。
 仏法は、仏法者同士の法論によって、その正邪、優劣を論議、峻別していく伝統になっている。
 それを、他宗の僧が法論を避け、讒言し、為政者と結託しての宗教弾圧となったわけです。
 木口 なるほど。
 池田 しかし再往、仏法の次元では、もはや当時は末法に入っている。
 そこで末法に出現される仏がうける迫害については、「法華経」に明確に予言され、示されております。
 木口 「法華経」のどこでしょうか。
 ―― 「勧持品」第十三の「悪口罵詈等し及び刀杖を加うる」、また「しばしば擯出せられ」という経文ですね。
 池田 そうです。
 日蓮大聖人は、「竜の口の法難」以前には、伊豆流罪、松葉ケ谷の法難、小松原の法難にあわれている。
 その他の迫害も数えきれないというのは、あまりにも有名です。
 さきほどの「勧持品」の色読は、ここに意義がある。すなわち、文上では、「法華経」で予言された地涌の菩薩としてふるまわれ、文底では、末法の御本仏・久遠元初自受用報身如来の本地のお姿を顕現されているわけです。
16  “光り物”の正体はエンケ彗星だった
 木口 竜の口の刑場で武士の一人が、まさに頚を切らんと太刀を振りかざしたとき、とつぜんの天体現象が起こり、切ることができなかったというのは有名ですね。
 ―― 信じがたいほど不思議ですが、これは有名な事実ですね。
 池田 とつじょ、月のような“光り物”が飛びきたったことは、古来、種々の議論がなされたところです。
 木口 なるほど。そうでしょう。
 池田 しかし、それは仏法についての無認識と偏見、またその史実を裏づけるような科学の未発達が、背景にあったと言わざるをえない。
 ―― このときの状況は、「開目抄」「種種御振舞御書」、あるいは、このとき殉死の覚悟で馳せ参じた四条金吾への手紙などに、詳しくしたためられていますね。
 池田 そのとおりです。
 文永八年(一二七一年)九月十二日の丑寅の刻、いまの時刻でいえば、午前二時から四時にあたります。
 漆黒のような暗闇のなか、毬のような“光り物”が、江ノ島の方角から飛んできた。その強烈な閃光に、太刀取りは目がくらみ倒れ臥し、他の武士たちも、恐怖に大混乱をきたしたとあります。
 ―― たしかに、いくつもの御遺文にしたためられておりますね。
 池田 この天体異変を研究した天文学界の権威がおられる。故広瀬秀雄博士です。博士は、天文学上の史料をもとに、年月日、時間、高度、方位角から逆算して、これをエンケ彗星の通過による大流星であると確定している。
 ―― 私も、広瀬博士のその研究論文のコピーを持っております。いや、さきに申し上げればよかった。(爆笑)
 この方は東大の名誉教授で、東京天文台台長をなさった方ですね。
 木口 広瀬博士は私も知っていますが、エンケ彗星は、地球に接近する周期が三・三年と最も短い彗星です。
 これはアメリカの有名な天文学者フレッド・ホイップル博士が研究していることは、よく知られています。
 池田 そうですね。広瀬博士は、そのホイップル博士の研究から確認していったわけです。
 ―― この点を、もう少しお話しいただけないでしょうか。
 池田 そうですね。まず、文永八年九月十二日の「丑寅の刻」を『年代対照便覧』でみますと、一二七一年十月二十五日の明け方「午前四時」になります。
 ―― なるほど。
 池田 次に博士は、ドイツのK・ショッホがつくった『天体運行表』で計算していますが、それによると、この日の月没の時刻が、午前三時四十四分となっています。
 御文にも、「夜明けなばみぐる見苦しかりなん」と処刑を重ねてうながされている。
 木口 なるほど。
 池田 また、「上野殿御返事」の御文には「三世の諸仏の成道はうしのをわり・とらきざみの成道なり」とあります。博士は、午前三時四十四分の「丑の刻」の終わりから午前四時の「寅の刻」までの間に起きたという“光り物”を、この季節に明るい流星を発生させる「おひつじ・おうし座」流星群に属するものではないかと考えていったわけです。
 木口 そうですか。「おひつじ・おうし座」流星群は、エンケ彗星を母彗星としています。ホイップル博士が研究したエンケ彗星による流星群が、四方に飛び散るときの中心点の位置から、地球の運動を補正して逆推算していくと確認できますね。
 池田 そのとおりです。どうも広瀬博士は、この“光り物”を、ホイップル博士のデータから、午前四時に出現した高度三十四度、方位角は南から西へ七十九度の「おひつじ・おうし座」のエンケ彗星によって生まれた大流星に間違いないとしたようです。
 木口 たしかに広瀬博士の研究は、日蓮大聖人の御文を科学的に裏づけていますね。私もなにかの機会に、もう一回、その論文をもとに計算してみたいと思います。
 池田 ぜひ、研究してください。
 ―― それにしても、「おひつじ・おうし座」は、不思議な天体です。
 今年(一九八三年)の五月に、アメリカのサンタクルーズ大学の研究者が、太陽系外で、初めて惑星とみられる天体を確認したと発表していますね。
 木口 ええ、われわれの太陽系以外で、惑星の存在が直接観測されたのは、初めてです。
 ―― また、先日(一九八三年八月十一日)はこの銀河系内に、われわれの太陽系以外の恒星の周りを、固体の物体が回っているのが見つかり注目されましたね。
 木口 ええ、こと座の主星ベガの周りに、粒状の固体でできた輪をアメリカ、イギリス、オランダの赤外線天文衛星が発見したもので、いわば惑星のタマゴのようなものです。
 池田 またひとつ、新しき宇宙時代の夜明けですね。
 いや、新しき地球平和へのめざめとしなければならない段階に入ったわけですね。
 ―― 行き詰まりのこの地球世界を、確かなる希望の未来へと転換せしめていくには、やはり宇宙観……。つまり自己の小宇宙と広大なる宇宙を見つめた、新しい物の見方というものが必要不可欠ですね。
17  仏法では病気をどうみるか
 木口 ところで「死」ということと関連しますが、いま「健康」ということに、たいへん関心が高まっていますが。
 ―― 衣食たりて「礼節を知る」が、「病を知る」になっている感がありますね。(笑い)
 先日の厚生省の調査(一九八三年八月十三日発表)によると、八人に一人は、本格的治療を要する病気にかかっているそうです。
 木口 これは、たいへんなことですね。
 池田 たしかに「病」というものは、人生の最難問の一つにはちがいない。
 私も幼少のころから病弱で、「死」という問題については、人一倍悩み、煩悶した人間かもしれない。
 木口 そうですか。「生老病死」といいますが、仏法では「病」と「死」を、どのようにみるのでしょうか。
 池田 そうですね。
 関連性はないとはいえませんが、イコールとはいえないでしょう。厳密に言えば、「病気」は「病気」、「死」は「死」です。
 このことについて、戸田先生は、「病気じょうずの死にべた」という言葉を言われながら、よく指導しておられた。
 木口 なるほど。
 池田 ただ病理学的に、「死の原因は何か」というときに、肝硬変であるとか、胃ガンであるとか、心筋梗塞、脳卒中というようなことになってくる。
 木口 すると仏法では、病気そのものをどのようなとらえ方をしているのですか。
 池田 仏法では、身体は「地水火風」の四大によって構成されていると説きます。この四大が調和を乱すと身体の病気になります。「法華経」には、「仏」は「少病少悩」といわれている。
 仏身といえども生身だから、四大によって形成されている。ゆえに環境の変化によって四大が少し不調和になると、身体も少し病むことになる。また複雑な人間社会ですから、当然、多少の悩みもでてくる。
 しかし仏は、すぐに四大の調和を取り戻し、悩みを乗り越えていかれる。凡夫のように四大の調和を大きく乱し、「大病」「大悩」にまで引きずられてはいかないという意味ではないでしょうか。
 ―― 仏法には、「四百四病」とありますが、これは、どういうことでしょうか。
 池田 「治病抄」という御書に説かれた御文で、四大つまり「地」「水」「火」「風」の不順、乱れによって起こる病気の総称です。「身の病」と仰せです。
 木口 ずいぶんありますね。(笑い)
 池田 一方、三毒(貪瞋癡)などの煩悩や業によって起こる「心の病」は「いわゆる八万四千」とも説かれています。(笑い)
 ―― 「地水火風」の四大とは、どういうことなのでしょうか。
 池田 そうですね。四大とは、身体を構成する一種のエネルギーともいえます。この身体エネルギーに、四種の性質があります。
 「地」とは硬さの意で、「地大」はものを保持する作用です。人体でいえば、主として「骨」「髪」「毛」「爪」、あるいは「皮膚」や「筋肉」などになってあらわれます。
 「水」とは、湿り気の意です。
 「水大」のエネルギーは物を摂め、集めるという作用をもっています。主に血液、体液などの体液成分になってあらわれます。
 「火」とは熱さで、「火大」はものを成熟させる作用をもっています。発熱、体温となってあらわれます。
 「風」は動きの意です。「風大」はものを増長させる作用です。呼吸作用などになってあらわれます。
 この「四大」が順ならざるゆえに病気になると説いているわけです。
 木口 なるほど。たしかに、お医者さんは、どんな病気でもまず体温・血圧・脈拍を計り、呼吸をみますね。
 ―― これは、ギリシャ哲学の原子論にも影響を与えているようですね。
 ただ、アリストテレスの「四元素説」でも現象論にとどまり、いま名誉会長がお話しされたようなエネルギー論にまでふみこんだトータルな体系ではないようですね。
 池田 そうですね。また仏法では、「心の病だけは、いくら名医でも治せず、仏の法門によってのみ治すことができる」とも説いております。
 木口 なるほど。
 ―― この場合、「心の病」とは、思想的なものまで含まれているわけですか。
 池田 そのとおりです。煩悩のなかに悪見や邪見として含まれています。
 さらに、御書には、「法華誹謗の業病最第一なり」とまで説かれているのです。
 木口 なかなか、厳しいものですね。
 ―― この「四大」が調うということは、宇宙自然の調和の姿にもあてはまることですね。
 池田 そのとおりです。この宇宙も、四大という物質的エネルギーによって構成されている。四大が不調和になれば、宇宙現象も乱れます。四大が調和を取り戻せば、万物もリズム正しい運行を奏でていきます。
 妙法は自身の生命の一切の調和、開いては社会の調和、世界の調和、宇宙の調和にまで広がっていく大法則です。
 木口 たしかにそうですね。
 星のなかには、「変光星」という、せわしなく息をはずませている、発育不全のような星があります。
 これは、重力や熱の出入りが不安定な状態で、光も落ち着きがなく、地球から見ると激しく光が明滅しています。
 池田 なるほど。まさに四大の不調和ですね。
 仏法では「四大は万物を育て」と説かれます。星一つとってみても、絶妙なる「四大」の摂理により運行しているわけですね。
 木口 そのとおりだと思います。
18  人は死後どれくらいで生まれるのか
 ―― ところで「病気」から「死」の問題に戻りますが、信仰すれば自殺者がなくなると断定できますか。
 池田 それはむずかしいでしょう。
 信仰といっても、「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(「三重秘伝抄」)、また、「信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり」であり、信心の強弱、厚薄が大前提です。ゆえに、いちおう信心しているだけであるとか、ただ形式のみの場合には、薄情のようですが、別問題と言わざるをえないでしょう。ですから、信仰の確立、深化ということが大切になってくるわけです。
 ―― なるほど。
 木口 信仰していて事故死にあった場合はどうですか。
 池田 それもあります。
 ただ仏法上では「悪象」に踏まれて、とあり――現代でいえば交通事故のようなものですが、仮に、それで死ぬようなことがあっても、それが因で、地獄などの三悪道に堕ちるわけではないということも論じられています。
 木口 なるほど。
 池田 また仏法では、そうした「死」を遂げた生命に対し、追善の回向が説かれております。
 ―― ところで、人間は死んだのち、どのくらいでまた生まれてくるのでしょうか。
 池田 たいへんな難問ですね。(笑い)
 これは、あくまでも信仰のうえから考えねばならない問題ですが、仏法では、死という意味での最高の成仏というものを、「上上品の寂光の往生」と説きます。これは、またすぐ新たに、この世に生まれる。
 新しい躍動の生命で、社会に貢献しゆく人間として誕生してくる、ということになっています。
 また、「中有の道」ということが御文にある。これは、死後の生命が、夢をみるようにさまよい、やがて宇宙の十界の次元の、いずれかに融合していくということになりましょうか。
 たとえば、悪因悪果をもった生命の場合は、この「中有の道」を、怖き夢、悲しき夢、または、苦しき夢をみるごとくさまよいつづけ、最終的には、地獄、餓鬼、畜生の三悪道、または四悪趣、六道という低い次元におさまっていってしまうわけです。
 ―― 一般的に「中有」とは、死の瞬間から次の生をうけるまでの期間のことで、「中陰」「中蘊」ともいいますね。
 池田 そうですね。
 人の「中有」は、いちおう四十九日とされ、七日ごとに再び生をうける機会があり、最後の七七日までに生縁が決定されるという経文もあります。
 そこで、故人に対して追善供養する初七日から四十九日の回向という、今日みられるような伝統儀式ができあがってきたのではないでしょうか。
 ―― なるほど。
 「七」という数字はおもしろい数字ですね。
 木口 月火水木金土日の一週間も七日です。
 ―― 曜日の「曜」とは「かがやく」ということですね。
 池田 そうです。太陽と月と、それに火星、水星、木星、金星、土星の五星をそれぞれ一週間に配したわけですね。
 木口 ドレミの音階も七音ですね。
 ―― 色も七色の虹といいますね。(笑い)
 池田 宇宙の音も色も、すべて七音のリズムと、七色の光の光彩に集約することができるということでしょうね。
 ―― たしかに「七」という数字は、「基本」というような意味合いがありますね。
19  追善とは死後の生命に法味を送ること
 木口 さきほどの死後の問題についてですが、閻魔大王などは、どうなんでしょうか。
 池田 それは比喩でしょう。
 そうした譬えは、すべて、生命に内在する喜びとか、恐怖とか、苦悩とかの象徴としての生命の働きを意味しているのではないでしょうか。
 木口 なるほど。よくわかります。
 池田 ともあれ、それこそさまざまな「死」があり、「死に方」がありますが、人間、一度は「死」が到来する。そのときに「苦痛なき死」――これが人間本来の最大の願いではないでしょうか。
 ―― そのとおりですね。
 木口 そのとおりだと思います。
 池田 真実の仏法というものは、人に生きる希望を与える。
 さらに、ありとあらゆる悩みをすべて包みながら、乗り越えていける境界をもつことができる。そして、さらに安らかな微笑をたたえゆく、後悔なき死を迎えることができる法であると思っております。
 木口 なるほど。
 池田 ちょっと題名は忘れましたが、たしか裁判関係にたずさわった人で、すでに絶版になった本だと思いますが、次のようなことが書いてありました。
 木口 どのようなことでしょうか。
 池田 それは、いくら、この地球上の人間が善行を及ぼしても、この社会がよくなるとはかぎらない。そこに、別な要因を含めて考えなくてはならない。
 さまざまな苦しい死に方をした「霊」のようなものが宇宙にはたくさんあるわけで、それを成仏させなかったら、正しい社会はできない――というような内容であったと思います。
 ―― たしかに、そこらへんまで、考えていかざるをえないこともありますね。そうした存在を変えゆく、深い清らかな「法」といったものが必要と思いますね。
 木口 深い話ですね。
 池田 人生、社会へのまじめな思索の結果が、漠然とはしているが、人間の力では、いかんともしがたい、なんらかのものを感じとっていったのではないでしょうか。
 木口 わかるような気がします。
 池田 いまの話は、あくまでも、思索の範疇にすぎないことですが、仏法上の「追善」ということは、そうした死後の生命に、妙法の法味を送るという甚深の意義となるわけです。
 木口 科学者の立場としては、「追善」という意義については、なかなか納得しないむきがありますが、たしかに何か永遠性のものがあることは感じます。
 池田 仏法の勤行とは、この「法味」を服するという意義になっております。そこに「追善」という意義も摂せられ、さらに、まえにもお話ししましたが、日月、四天をはじめとするあらゆる諸天善神にまで本源力を与えていくという意味があります。
 ―― そうですね。
 池田 その点については御書に「ろがね}(鉄)を食するばくもあり、地神・天神・竜神・日月・帝釈・大梵王・二乗・菩薩・仏は仏法をなめて身とし魂とし給ふ、」と説かれています。
 ―― いま「くろがねを食する」というお話がありましたが、「鉄喰う虫」という温泉地や沼に生存する細菌がありますね。
 木口 一般には、「鉄」を食べることなど考えられないことですが、現実に「鉄」を食して生命を維持している細菌がいるわけです。
 それにしても、七百年も前に、大聖人はよく調べておられたのですね。
 ―― 一つの事実作用ですね。
 池田 この「法味」ということも、仏法上からみれば、諸天善神もこの法味を食して、威光を発揮する。われわれもまたやはり、「南無妙法蓮華経」という無上の法味を、朝な夕なに食しながら、わが色心を調和させ、生命力を満々と発現させゆく以外、真実の人生はない――ということになるわけです。
 木口 なるほど。いつものことながら、眼前の視野が、大きく広がる思いがいたします。

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