Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二節 生老病死の深淵を探る  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

前後
12  また日蓮大聖人は「我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し」(御書五六三㌻)と述べられている。わが心性、すなわち一念の生命は無始無終であり、死によってこの宇宙から消滅するものではない。もともと、生死をこえた永遠にわたる生命の実在がある。その生命は譬えて言えば全世界を焼尽する大火に焼けず、水が災いをして朽ちらせることもできない。剣にも切られるものではなく、弓をもっても射られることもできない。きわめて小さい芥子粒の微塵にいれても、芥子粒が広がることはなく、また広大無辺なる宇宙のなかに遍満しても、宇宙自体が広すぎるということはない。つまり一念の生命、「我」というものは、生死、生滅、大小、広狭の相対性をこえた不変の実在である。これが生命の証であり、さらに生命というものは「時間」「空間」がそこから生じてくる無始無終の実在であるといえる。これを仏法では「我」と論じているわけである。
 結論して言えば、わが生命の本源を悟れば、もはや「生死」は恐れるものではない。死とは決して生の敗北ではなく、むしろ新しき生命の蘇生のための大いなる契機であり、生きて生きぬいたこの人生を総仕上げしゆくかけがえのない時であるというのである。その永遠に崩れざる幸福境涯に立って、無量の「生命の宝」を積みつつ、最高に幸せな生死を繰り返していけるための「大法」が仏法であり、具体的実践が信仰なのである。
 ともあれ、深き生命観の探求なくして心広々とした生き方も、たしかなる幸福観の確立もない。
 一九八七年(昭和六十二年)二月、ノーマン・カズンズ氏と対談した時、氏は「『生命の永遠性』の哲理は『平和』の危機の現代にあって大きな示唆を与える。現代は人類の滅亡が現実に可能になった最初の時代である。この滅亡は肉体的側面についてもしかり。また崇高な人生を営む『精神性』の滅亡という側面もしかりである。肉体・精神双方が破壊される危機――我々はそれを、あらゆる英知と能力を使って打開しなければならない。『生命の不滅性』という仏法の教えは、こうした危機をもたらした現代人の誤った思想を根底から見直させていく力を持っていると思う」と言われていたが、まことに鋭い指摘である。
 仏法は「生老病死」、「成住壊空」の永遠の繰り返しの奥にある常住不変の生命の法則を説き明かし、そのうえに立って厳しき現実社会を凝視し、そこから出発する現実変革の哲理なのである。
 それこそ、行き詰まった時代と文明を根底から転換していく道であり、その時には、生命観はもちろん、宇宙観も変わる。人間観も変わる。社会観、自然観、幸福観等々、一切の文化・思想の根底に大変革をもたらしていくであろう。
13  死は「悲」のみではない――日寛上人の『臨終用心抄』
 「死へとかかわる存在において現存在は、一つの際立った存在しうることとしてのおのれ自身へと態度をとっている」(『存在と時間』原佑・渡辺二郎訳、中央公論社)――ハイデガーのこの言葉は、死が免れえない問題というだけでなく、人間が「死の存在」であることを自覚するところに人間の生の深淵さが開示されることを表している。たとえ死とは無縁のような青年であっても、死の問題は避けえぬ現実であり、またそれを避けていては、深い生き方はできないものだ。
14  仏法の一つの視点として「“死”の問題が深刻でないところに生まれることは、かえって不幸である」という話がある。
 それは、きわめて長い寿命を得ることができるといわれる「長寿天」に生まれると、死の無常を感じることが切実でない。そのため、なかなか無上菩提を求める心を起こそうとせず、真の幸せである成仏の境涯も得られない。そこで、この「長寿天」を、成仏できにくい「八難処」の一つとする有名な説話である。もちろん、これは「長寿」を否定したものではなく、仏法の生き方への一次元の実相を示したものであろう。
 常に「病気」とは無縁の「健康」であり、また「死」を知らぬほどの「長寿」であった場合、どれほど深き「人生観」を確立できるか、たしかに疑問となってくるにちがいない。
 真剣に「生きる」ことも考えなくなる。真剣に「死」という問題も考えなくなる。緊張感がなく、惰性に流されてしまう傾向になるのは、否めないことであろう。そこに「生」「老」「病」「死」という人生のそれぞれの段階を直視し、一切をばねとしながら、永遠の幸福へと質量ともに高めゆく、仏法の法則の偉大さを感じとることができる。
 それゆえに仏法はまた、人生の最終章となる臨終の姿をきわめて重要視していくわけである。私がいつも心に刻んできた言葉に「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」がある。その臨終ということについては、日寛上人が『臨終用心抄』という一書を残されている。日寛上人はその中で「臨終の一念は多年の行功に依ると申して不断の意懸けに依る也」と述べられている。これは正法の実践を貫いた“日常の不断の宿業転換をなしゆく良き生の歩みが良き死を招き寄せていく”との法理を示されている。
15  ところで、こうした生死の問題、また臨終のさいの苦しみについて仏教では「断末魔」の苦ということを詳細に説いている。断末魔の“末魔”とはサンスクリット語のマルマンの音訳で「死節」「死穴」等の意味がある。インド医学では、体内の筋肉・脈管・靭帯・骨・関節が、渾然一体となった小さな「急所」のことを「末魔」と呼び、これを断ずれば死にいたるとする。
 一説には、身体全体に六十四、あるいは百二十の末魔があり、これが臨終のさいには断じ分解されて、激しい苦痛をもたらすという。これが、いわゆる「断末魔の苦しみ」である。
 また仏法では、人間の身体は四大(地水火風)が仮に和合したものとみる。四大のうち、「地」は“堅(かたさ)”の性質を持ち、骨や肉に対応、「水」は“湿(しめりけ)”の性質を持ち水分に、「火」は“煖(あたたかさ)”で体温に、「風」は“動(うごき)”で呼吸に、それぞれ照応している。
 先の『臨終用心抄』には、この四大の結合を「此の四が虚空を囲みまはすが此の身也。板柱等集りて家を作る如く也」(地水火風の四大が、空である心法を囲んでいるのが、人間の身体である。それはあたかも、家が板や柱などの材料が集まって作られているようなものである)と述べられている。そして死ぬ時の苦しみは、家を槌でくずしばらばらにしていくように、身体を形成している四大が別々に切り離されるからであると教えられている。
16  さて、この断末魔の苦に心を乱されず、それを乗り越えていくためには、どうすればよいか。このことに関して、日寛上人は三点を挙げ、ふだんからの用心をうながされている。
 その第一は、他人をそしったり、いじめたり、人の心を傷つける行動を、常日ごろから慎むことである。つまり、そしり等の悪い行為が死苦を強めていくというのである。
 第二には、このわが身が四大(地水火風)の仮に和合したものであるという実相を、よく理解しておくことを教えられている。つまり「死」によって、わが身の「四大」が宇宙法界の「四大」へと帰還し、融合していく時、あらためて驚かないように覚悟しておくことである。その覚悟によって、心を乱すことを防げるからだという。
 そして三番目は、自分の「生命」と仏の「生命」とが、同じ一つの「生命」であると悟れば、臨終の平安をさまたげる悪業も生じない。そのように確信して修行に励むことが再重要であることを示されている。つまり、正しき信仰と実践を貫いていった人は、死に瀕したさいにも、何の憂いも、痛みも、苦しみもない新たな三世への旅立ちができる――ここに仏道修行の重要な目的があると、日寛上人は述べられている。また私たちは、このような死を見事なる勝利の人生の完成となした人を身近に数多く知っている。
17  その『臨終用心抄』を書かれた日寛上人の死はまことに荘厳で安らかであったことが伝えられている。日寛上人は、享保十一年(一七二六年)三月、江戸での布教を終えて大石寺に帰られる。以来、何となく健康がすぐれず日々衰えられていく。
 同年五月二十六日、法灯を日詳上人に付嘱され、後事を一切委ねられる。六月に入ってからは衰弱は日々重くなるが、病の苦しみはまったくなかった。
 御遷化の一両日前に、日寛上人は法衣を着けられ、寝所より駕篭に乗って、お別れの暇乞いに出られる。はじめに本堂に詣で、読経・唱題され、次に御廟所に参詣される。そして御隠居所の日宥上人、学頭寮の日詳上人の所へ寄られ、いずれも輿の中からねんごろに暇乞いをなされたという。
 日寛上人はそのあと、三門前で師・日永上人の妹御にも別れを告げ、門前町を通って大坊まで帰られる。沿道には人々が伏して別れを惜しんだといわれる。
 そして戻られると、番匠(大工)、桶工に命じ、急いで葬式の具を造らせ、その棺桶の蓋に自ら筆を執って一偈一首をしたためられている。
 八月十八日の深夜にいたり、命じていた床の前に大曼荼羅を懸け奉り、香華、灯明を捧げて侍者に「吾れ間もなく死すべし」と告げられる。そして、周囲に知らせるのは必ず死後にすること、臨終の時の付け人は一、二人であること、読経・唱題の注意等、臨終にさいしての指示を細かくされる。
 その後、末期の一偈一首をお書きになって、書き終わるや直ちに、好物のそばを作るように命じられる。侍者が即刻に作ると、七箸これを召し上がって、にっこり笑みを含み、「嗚呼面白や寂光の都は」と述べられたと伝えられる。まさに、三世の生命を通観された御境涯であられる。
 その後、うがいをなして大曼荼羅に向かわれ、一心に合掌して唱えつつ、十九日の辰の刻(午前八時)、半眼半口にして眠るように御遷化されたのである。
 こうした日寛上人のお振る舞いをみると、はたして「死」は、「悲」なのか「喜」なのか、と思えてくる。世間では、「死」は悲しく、つらいものである。しかし、三世の生命観からみれば、妙法に照らされた「死」は「喜」ともなっていくことを日寛上人は教えているように拝される。満足しきった境地で「生命のかちどき」をあげつつ「荘厳なる死」を迎える――そこに最高の人生とその最終章がある。
18  心奥に広がる「九識」の世界――フロイト、ユングと仏法の直観智
 人間の精神に関しての考察は、自我の意識的な部分に限っていうなら、かなり古くから哲学的研究の対象になってきた。だが、人間内面への本格的な探究が西洋において行われるようになってきたのは、十九世紀、かのフロイト以後といわれる。
 以来、深層心理学の探究によって、意識は精神のうちの表層部分に過ぎず、そのさらに奥には、はるかに広大な無意識層が広がっていることが明らかにされてきた。それは“海に浮かぶ氷山”にも譬えられている。つまり、潜在的な無意識層は氷山の海中部分に相当し、海上に現れた目に見える一部が表層の意識層に相当すると解釈できよう。
 となれば、人間の具体的な行動、思考、欲望の内奥にある無意識の領域にメスを入れないかぎり、人間精神ひいては生命の全体像を浮かび上がらせてくることは不可能になる。科学における偉大な発見、偉大な芸術における創造のひらめきが、意識活動より奥の直観によってなされている事実をみても、無意識層の領域への研究が一段と待望されよう。
19  ちなみに、西洋における深層心理学の探究は、今日までに大まかにみて三つの層を見いだしているようだ。
 第一は、先ほど“海中の氷山”に譬えて示した「個人的無意識」の層である。フロイト自身が発見したところの無意識層で、ここには意識から忘れ去られた事柄や、抑圧された心理的な内容が潜んでいるとされる。次に第二の層としてソンディによって提唱された「家族的無意識」の層があり、その奥には第三の層として、ユングの提唱した「集合的無意識」層が広がっている。この「集合的無意識」には、種族や民族、ひいては人類の最古の祖先までのすべての経験が集積されており、究極的には、宇宙それ自体にもつながっていくことが示唆されてきたわけである。
 一方、フロイトに先立つこと一千数百年以前に、仏教(唯識学派)ではすでに、きわめて整足したかたちで深層心理が明かされていた。驚嘆すべき洞察眼というほかない。それによると心すなわち識は、その表層部分から、五識、六識、七識、八識へと深層に向かって深まり広がっていると、説かれる。物事を識別する心の作用をとらえつつ、生命の全体像に迫ったのである。
 いわゆる西洋心理学は、どちらかといえば客観的に心の仕組みや働き方を分析して、人間の感覚、感情、意識、記憶などの心の領域までも探っていったものである。それに対し、仏法は、どこまでも主体的に自己の内奥へ、内奥へと探究の視線を伸ばしていった、といえるかもしれない。
 仏教心理学では、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識という五つの感覚的意識(五識)や、これらの働きをつかさどり統合する識である第六識にあたる「意識」の底に、第七識として「末那識」、第八識として「阿頼耶識」をとらえている。
 デカルトの唱えた“考える自我”は第七識の末那識に根差しているとも考えられよう。しかし、この領域は深い理性の座であるとともに、常に煩悩に汚されていることを仏法の眼は鋭くとらえている。そして煩悩に汚され、本来の自己を狭く限定する自我意識(第七識)のさらに奥に第八識の阿頼耶識を見いだしている。これは「含蔵識」とも呼ばれるように、七識までの行為によって積んだ結果をすべて蔵している。さらに、七識等を生み出す種子となっていく。
 また、六識までは死とともに消滅するが、末那識・阿頼耶識は決して消滅することはなく、無限の過去から未来永遠にわたって続いているとも説かれている。
 ソンディの「家族的無意識」や、ユングの唱える「集合的無意識」は、広大な阿頼耶識の領域を西洋心理学の視座からかいまみたものとも思われる。これら生命の深層への洞察は仏法においてはさらに深められ、中国の天台大師は、第八識の奥に人間の心身を含めて森羅万象を生ぜしめている本源としての宇宙生命へと向かい、第九識「阿摩羅識=根本浄識」を見いだしている。そして日蓮大聖人は、宇宙生命の当体そのものを覚知され「九識心王真如の都」と呼ばれたのである。
 「九識心王真如の都」の「心王」とは、心の作用の根本。「真如」とは、虚妄を離れ、不変、不改という意味である。そして「都」とは、「心王」の住処。つまり、広大にして無辺なる境界世界のことである。
20  日蓮大聖人の御書には「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」(一二四四㌻)とある。すなわち、いかなる人の生命にも清浄無垢にして常住不滅の当体があること。そして、その生命の内なる宮殿を輝かせていくところに、永遠に崩れることのない幸福、真実に偉大な人生を切り開いていける――との法理を明確に説き示されているわけである。
 言うなれば、生命は、常に外境と因縁和合しながら、「六識」をとおし、それぞれの情報を受けている。そのなかには、種々の苦悩を生むものも少なくない。しかし、「九識」の太陽が胸中に輝きわたれば、それらの苦はすべて霜露のごとく消え去っていく。信仰とは、一日また一日、いかなる時も、胸中の大空に太陽を昇らせ続ける連続作業であるといえるかもしれない。燦として輝く日輪のごとき生命力を全身にみなぎらせ、無量の喜びを心に感受しながら、悠然と生き抜いていく――。
 要するに、人はいくら社会的な地位や名誉があっても満足しない。いくら財産があっても、それだけでは本当の心の充実はない。
 このわが胸中の「宮殿」というか、広々とした境界世界を開ききっていってこそ、真実の人生の価値も、幸福感もあるのではないだろうか。
 また、この第九識とは、自我そのものが無限の宇宙生命と融合している次元であり、生命の身体的、精神的なあらゆる働きが生じる根源であり、創造力の源泉そのものである。
 人間生命の中で、理性の光が届く範囲はあまりにも限られている。理性を超えた、鋭く、正確な働きをなしうる直観智と溢れてやまぬ慈悲を包含した心身内層の世界――現代人は、西洋近代文明の発達のなかで、そうした世界を把握する能力を弱めてきたと推測することもできよう。
 この生命の内に秘められた真の叡智を開発し、自他の幸福のために用いる方途を、心ある人は希求しはじめていることを強く感じてならない。
21  人間苦を乗り越える道――コロンブス、マネらの非業の死
 もう十五年くらい前のことであろうか。トインビー博士との対談のなかで、博士が私に真剣なまなざしで語っていた一言があった。それは、死という問題から逃避した世界の指導者に対する鋭い指摘であった。
 “為政者も、各界の指導者も、この根本命題に挑戦することなく、避けて通ろうとする姿は卑怯であり、最も恥ずべきである”――トインビー博士自身、高齢という現実の苦悩に直面して、いよいよ深刻にこの問題の究明にあたり、東洋の仏法思想にその光を求めておられたように感じる。事実、私との長時間にわたる対談の折にも、仏法で説く生命観に深く驚嘆されていたことを、今日でも、まざまざと思い出す。
 歴史上の人物をみても、不遇のなかにあっても自らの信念、主義、主張に生きぬいて生涯を終えた人はいる。しかし、名声に彩られながらも、みじめな痛ましい晩年のなかで人生の幕を閉じていった人があまりにも多いことに気づくのである。
22  コロンブスは、言うまでもなくヨーロッパ人として初めてアメリカ大陸へ到達したのである。ヨーロッパからアジアにいたる西方航路の発見に生涯を賭けたその名前は永遠に讃えられ、人類史に残っていくことだろう。
 しかし、彼の後半生は数々の栄光とは裏腹に失意のどん底にあった。彼は第一回の航海ではバハマ諸島の一つに到着。キューバ、ハイチなどの島々を探検して大成功でスペインに帰ってきた。大歓声で迎えられ、彼の名声はヨーロッパ中にとどろきわたる。が、二回目の航海では、十七隻、千五百人に上る大船団で出発したにもかかわらず、思ったほどの結果を生まない。その後三回目、四回目の航海でも思うような成果を上げることはできず、かえって彼に対する多くの不満の声が、王室に達し、ついには王室からも世間からも冷たい目を注がれるようになる。
 また、「開拓者」として必要な「先駆性」「行動力」を持っていたコロンブスも、その開拓された土地で「指導力」、「統率力」が発揮できなかった。
 そのため多くの不満や反発があり、それが国王らの耳に達し、王室の冷遇として彼自身にかえってきている。
 同様なことが、いずこの世界でもある。例えば、それまで自分の置かれた立場で存分に活躍してきた人が、それよりも一歩高い立場に立ったとき、指導者として失敗する場合がある。また、ある地域では立派なリーダーとして活躍していた人が、他の地域に移ったとき存分に指導力、統率力が発揮されないで終わってしまうこともある。人材の配置とはそれほど、むずかしいものである。
 晩年の彼は、そんな周囲の冷遇に不平をかこち、関節炎やマラリヤなどに冒された老体に苦しみながら、失意のうちに生涯を終えている。
23  フランスの画家マネは、新鮮な画風で印象主義への道を開いたことで有名である。苦難のなかにも独特のタッチで多くの画家に影響を与えた彼はしだいに深き苦悩の淵に沈んでいく。まず、四十半ばのころ、左足に痛みを感じたが、その原因がよくわからない。しかし、的確な治療も施せないまま、病状だけは進んでいく。「印象派の父」とまで呼ばれ、芸術に一大革命をもたらしたマネだが、壊疽に冒され、左足がきかなくなっていく。名誉あるレジョン・ドヌール勲章を受けたのは、死の二年前であったが、彼自身は栄光というにはあまりにも暗い、激痛との戦いのなかにあった。左足の切断手術を受けたにもかかわらず、あえぎ、ひきつけを起こして苦悶のなかで死んでいったという。
 古今東西の歴史を見ても、暗殺されたり、水死、自殺、ギロチンにかけられたり等々、人生の最期にはさまざまある。
24  仏教では、この人生を「無常」と説く。また、「無常迅速」との言葉もある。
 無常とは、言いかえれば“変化”のことである。「すべては変化する」、これが仏教の根本の認識である。また人生の厳粛な真実といえよう。
 哲学者で作家の倉田百三の小説『出家とその弟子』(岩波文庫)の中に、こんな一節があった。
 「この世は無常迅速というてある。その無常の感じは若くてもわかるが、迅速の感じは老年にならぬとわからぬらしい」
 つまり、すべてが“変化”していくということは、若い人にも観念的には、よく理解できるかもしれない。しかし、“迅速”という、その変化の速さの実感は、ある一定の年齢にならないと、なかなかわからないというのである。
 たしかにだれしも、振り返ってみると、子どもの時代の一年は、比較的ゆったり過ぎていったのに比べ、年配になるにつれて、一年が、また一月、一週間があまりにも早く過ぎ去っていくのに驚くものである。先日も、ある知人が、しみじみと「一週間過ぎるのが、本当に早いですね」と語っておられた。その深い実感をたたえた口調が忘れられない。
 無常迅速――人生は、うっかりしていると、あっというまに過ぎてしまう。青年であってもやがて、そのことが身にしみて感じられる時がくるにちがいない。
 こうしたことから仏教で説く本来の「無常観」がゆがめられて、一般に、何かセンチメンタルな、諦観的なものとして受けとめられていることが多いようだ。
 世界的にも、現実否定的な、また受動的な人生観と結びつけて連想されている傾向がある。日本の文学、芸術においても、無常感は、深くその底流を形成している。この無常感の系譜を日本文学のなかに探った研究も少なくない。しかし、真実の仏法の「無常観」は、決して、そうした感傷的なものではない。むしろ、力強い、ダイナミックな、前向きの人生を教えている。
25  釈尊はたしかに、この世は「無常」であり、「苦」であり、「無我」である等と説いた。しかし、それは、享楽や安易な現状肯定に耽溺し、真実の人生を求めない者に対する、いわば方便の教説であった。
 つまり、釈尊のそれらの教えは、むしろ人々に人生の無常を自覚させることによって、真剣に「常住」の法を求めさせようとするものであった。大乗仏典において一転して「常楽我浄」と説いたのは、このためである。
 多くの日本の文人等が表面的な無常感にとらわれるなかで、仏法の真実に迫ろうと努力した人もいた。高山樗牛や姉崎嘲風らも、法華経の文上の理解までは近づいていたようだ。また文芸評論家の小林秀雄氏も、さすがに一流の哲学を感じさせた一人である。氏のエッセー『無常といふ事』も、他とは、ひと味ことなった深い趣をもっている。
 ともあれ、変化のなかに常住の法があり、永遠の生命がある。絶えまなくうつろう雲の高みに、不変の大空がある。不滅の太陽が輝いている。
 “無常感”にとらわれた人生は、この雄大なる天空の高みを知らず、下ばかり向いて歩んでいるようなものである。また、そうした弱々しい人生観と諦観的な文化からは、もはや二十一世紀に生きゆく国際的人物は生まれないであろう。人格の確かな“芯”を持たない、幼児性の取れぬ人間ばかり、つくってしまう恐れさえある。人生の無常に流されてはならない。感傷に負けてもならない。
26  例えば旅客機が飛行していく。到着までには、気流をはじめ多くの気象状況等の「変化」に、すばやく対応していく必要がある。あらゆる変化を見きわめ、逐一対処しながら、悠々と目的地への進路を進んでいかねばならない。
 それと同じく、人生も変化に次ぐ変化である。無常である。何人も、肉体的、精神的に変化していく。環境も変わる。家族も社会も変化する。時をとどめられるものは何ひとつない。そうした無限の変化にも最も的確に、最も価値的に対処し、最高の幸福の方向へと飛行していく。そのための原動力が信仰である。
 そして、これこそ正しき「常住の法」に基づいた人生の生き方である。すべての変化を、よき方向へ、よき方向へと、リードしていける力が妙法にはある。
 人生は、はやい。逡巡したり、愚痴や他者への批判に、いたずらに時を過ごし、また自らの怠惰に負けてしまったりしているうちに、あっというまに人生は過ぎ去ってしまう。大切な一日一日である。
 フランスの大哲学者パスカルは、人生の真実相から目をそむけることになるすべての営みを、「慰戯」と呼んだ。「慰戯」とは、単なる気晴らし、娯楽の謂であり、人生の構築に何ら資することのない無価値の行為のことである。また、ソクラテスは、人間が、その本来性を開覚するためには「自己に関する無知」から脱出しなければならないと考えた。不幸の根源が「自己に関する無知」から生ずるという人生への卓見である。
 どこまでも現実のまっただなかで、逞しく生きぬきながら、同時に「大宇宙」を仰ぎ、「永遠」に思いをはせる広々とした境涯で、一日が千年にも千劫にも通じるような、悔いなき一生を送っていきたいものである。

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