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日蓮大聖人・池田大作

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第23回本部幹部会、第七回婦人部幹部会… われらの前進が「民主」の前進

1998.6.16 スピーチ(1998.3〜)(池田大作全集第89巻)

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12  御手紙では、こうも仰せである。
 「此の法華経には我等が身をば法身如来・我等が心をば報身如来・我等がふるまひをば応身如来と説かれて候へば、此の経の一句一偈を持ち信ずる人は皆此の功徳をそなへ候、南無妙法蓮華経と申すは是れ一句一偈にて候、然れども同じ一句の中にも肝心にて候
 ――この法華経には、私たちの身を法身如来、私たちの心を報身如来、私たちの振る舞いを応身如来と説かれています。ゆえに、この経の一句一偈を持ち信じる人は、皆、この(三身如来の)功徳を(わが身に)具えるのです。南無妙法蓮華経というのは、一句一偈です。しかし同じ一句の中でも肝心(の一句)です――。
 妙法を信受する人は「仏」となると断言しておられる。
 皆さまは、自分も多くの悩みを抱えながら、それでも広宣流布のため、法のため、人のために、いつわり多き泥沼のごとき社会に飛び込んで奔走しておられる。何と尊き方々であろうか。見返りを求めることもなく、悪口を言われながら、「もう一歩、もう一歩」と広宣流布を進めておられる。御書に照らして、皆さま方こそ菩薩であり、仏であられる。
 ゆえに皆さまを、我々をいじめれば、法罰・仏罰を受けるのは間違いない。今の日本が、まさにそうなっていると指摘する人もいる。
13  広宣流布に進みゆく時、わが心には仏の生き生きとした生命力がわき、智慧がわく。
 「今、いちばん価値的な行動は何か」「会員の方に喜んでいただくには、どうしたらいいか」。それがわかるリーダーでなければならない。
 会合の終了時間ひとつとっても、臨機応変に気を配っていただきたいのである。会員の皆さまあっての幹部である。皆さまに、ひざまずくような思いで、敬って迎え、「お忙しいところ、ようこそ、いらっしゃいました!」と、誠実に、気持ちよく接していくべきである。
 接した人々から「本当に、いい人だ」「本当に、ありがたいな」と感謝され、慕われてこそ、幹部としての勝利である。絶対に、いばらず、悪に対しては毅然として戦い、友に対しては限りなく誠実なリーダーにならねばならない。
14  勝ってこそ広宣流布
 ともあれ今日まで、日本中そして世界にまで広宣流布を進め、妙法流布を成し遂げてきたのは皆さま方である。
 大聖人後の七百年、また仏法三千年の歴史で、だれ人もできなかった世界広宣流布を現実にしたのは、わが創価学会である。(拍手)
 この大偉業をしたのは、有名人でもなければ、学者や博士でもない。いわんや坊主がやったのでもない。すべて無名の庶民がやったのである。なかんずく毎日毎日、けなげに戦ってこられた婦人部の信心の力である。(拍手)
 大功徳がないわけがない。だれが何と言おうと、この生命の勲章と功徳は金剛不壊であり、不滅である。永遠に崩れない。皆さまこそ仏法の大功労者なのである。どこに行っても大手を振って歩いていただきたい。(拍手)
 学会だけが仏意仏勅の陣列である。「学会に勝るものなし」との確信で進みましょう!(拍手)
 わが同志の異体同心の団結で、永遠不敗・永遠不滅の歴史をつくってまいりましょう!(拍手)
 勝てば楽しいからである。人生は勝たねばならない。負ければ悲しい。負ければ不幸である。広宣流布も、勝ってこそ広宣流布なのである。
15  学会活動で「悩み」をも「幸福」へ
 戸田先生は言われた。
 「妙法に帰した(帰命した)以上、私たちは『人間界の仏界』に至ったのである。人間ではあるが、仏の道に入った以上、菩薩の行をしなくてはならない」(一九四二年〈昭和十七年〉十一月、創価教育学会の第五回総会で)と。
 「仏」と言っても、現実の行動は「菩薩」となる。
 そして「学会活動」こそ、現代における菩薩行である。
 「悩みとの戦い」こそが人生
 学会活動に邁進している人は、いかなる試練もすべて、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」と転じていくことができる。
 どんなに「いやだな」と思うことがあっても、すべて希望と福運の方向へ、永遠なる幸福の方向へと、回転させていくことができる。
 何と素晴らしいことか。
 人生――それは「悩みの連続」である。「悩みとの戦い」が人生の実相である。
 これは、どんなに福運をつけ、どんなに功徳を受けた後でも、永久に変わらない。
 もしも、何の悩みも、何の葛藤もなくなったら――それは良いように思えるかもしれないが、じつは、むなしい生活である。生きているとは言えない。
 悩みがあるから、人生である。悩みがあるから、前進もある。悩みがあるから、成長もある。
 悩みをすべて、より大きな幸福へのエネルギーにしていくことである。それができるのが学会活動し抜いた人生の素晴らしさなのである。
16  「祈りとして叶わざるなし」
 有名な日寛上人の仰せには、次のようにある。
 「祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」(「観心本尊抄文段」文段集四四三㌻)
 こう断言なされている。この大確信を忘れてはならない。
 では、時として、祈りが叶わないように見えるのは、なぜなのか。
 それは、より祈りが深くなるように、また、より強い人間、より深い人生になれるように、そして、より深き福運をがっちりとつけるようにとの御仏智なのである。
 何でも、ちょっと祈って、すぐに叶ったのでは、人間は堕落してしまう。これでは立派な人生が築けるわけがない。会社に働きに行っても、その日に給料がもらえるわけではない。木を植えても、すぐに大きくなるものではない。
 本当に深き祈りも、死にもの狂いの努力もなくして、簡単に祈りが叶ってしまえば、人間を堕落させるだけである。それでは偉大な人間をつくる仏法ではなく、人間を破壊する仏法になってしまう。
 また、「叶う、叶わない」には、さまざまな要因がある。
 ゆえに、大切なことは、祈りは「叶うまで続ける」ことである。祈り続けることによって、自分を厳しく見つめることもできるし、地道な努力の軌道へと、生活を向上させることもできる。
 かりに具体的な結果がすぐには出ない場合でも、祈り続けた人は、何かのときに、祈り以上の結果が証明され、そしてまた、大きく守られていくのである。
 たとえば仕事のことを祈ったとしても、それだけでなく、より広く、大きく、人生万般にわたって、幸福の方向へと軌道修正されていく。あとから振り返って、「これで良かったんだ」という所願満足の自分に、必ずなっていくのである。
 要するに、その人が本当に幸福になり、立派になるための祈りであれば、必ず叶う。すぐには結果が現れない場合でも、長い目で見れば、絶対に叶っていくのである。
17  ともあれ、正しい、偉大なる人生という目的に向かって、健康で、常に希望に燃えて、進んでまいりましょう!(拍手)
 忍耐強く、朗らかに、友と仲良く、本当の同志愛で、この人生を堂々と、悔いなく飾ってまいりましょう!(拍手)
 それでは七月の本部幹部会で、また「朗らかに」お会いしましょう!
 大切な皆さま方のご健康とご活躍を祈っております。どうか、お元気で!
 (創価国際友好会館)

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