Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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大田区記念勤行会 「新しい人」「新しい力」に光を

1990.11.7 スピーチ(1990.8〜)(池田大作全集第75巻巻)

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12  ″永遠なるもの″を求めよ
 敦煌はまさに″砂漠の大画廊″である。この文化遺産が、歴史の試練に耐えることができたのはなぜか。長い風雪を、どうして生き延びてこられたのか。地理的、あるいは気候的要因等、さまざま考えられるが、その根本は、敦煌の美にこめた、人々の″魂の力″ではないだろうか。
 常氏は、私との対談集(『敦煌の光彩』徳間書店)でこう語られている。
 「敦煌の作品が、今日なおみずみずしいのは、画工たちが心で、魂で創作したからだと思います。心の底から生み出した創造的な力は、にせものではありません。真の芸術作品は千数百年を過ぎたとしても、人々に感動を与える力は衰えないのです。長い歳月を経過して、今日も影響力があるというのは、作品が強い生命力をもっているからです」と。
 魂をこめた仕事は永遠に朽ちない。それは、時を超えて、魂が魂を揺さぶるからである。反対に、小才や手先の器用さだけで作り上げたものは、どれほど見栄えよく整っていても、深い感動を与えるものではない。見る人が見れば、すぐにわかるものだ。
 人生という″作品″も、また同じである。先に学んだ大聖人の仰せも、池上兄弟が命をかけて戦い、″本物の信心″に徹していたからこその称讃であったと拝される。
13  敦煌の芸術家たちにとって、絵を描くこと自体が、困難に満ちた仕事であった。常氏は対談集で、無名の画工たちの住居であった″画工洞″のありさまを紹介されている。それは、人間がまっすぐに立つことができないくらい低い洞窟であった。
 さらに氏によれば、洞窟を開く石匠と画工たちのなかには、あまりの貧しさのために、子どもを担保として借金をする者さえあったという。それでも彼らは、描いた――。
 また当時、画工たちの仕事は「廝役しえき」(しもべの仕事)とされていたという記録もある。交通手段の発達した今日でさえ、訪れるのに遠い砂漠のまんなかで、彼らがどれほどの苦労を忍んでいたことか。
 だが、それほど厳しい環境にあっても、彼らは懸命に仕事に取り組んでいった。
 彼らが見つめていたものは何か。それは″永遠″であった。信仰を根本に、″永遠の生命″を信じ、それを″永遠の美″として描こうとしていた。奴隷のような境遇であったかもしれない。しかし心は王者であった。絵筆をとる時、別世界が目の前に開けた。自在に天を翔け、時をも超えた。地上の権勢や栄華も眼中になかった。
 ″永遠なるもの″を呼吸しながら、至福の時を刻んだ。一筆一筆に、高貴なる魂のしたたりを込めた。その、祈りにも似た″永遠″への情熱が悠久の歴史を超えて、今なお私どもの魂に直接、訴えてくる。ここに本物の芸術のみがもつ生命力がある。
14  ″永遠なるもの″を創造しゆく人生――その人は幸福である。
 そして「広宣流布」こそ、最高に永遠なる事業である。千年、二千年、万年、その先までも、人類を救いゆく聖業である。今は、その土台作りである。この労作業に連なる皆さまの誉れも福運も、三世に輝いていくことは間違いない。これ以上、尊き、幸福な人生はない。(拍手)
 ゆえに、この大切な「正法の城」「民衆の城」を、永遠たらしめるために、皆さまは一日また一日、自分らしく、魂をこめた建設と創造を重ねていっていただきたい。その努力が、自分自身の″不滅の歴史″となって、生命を飾っていくのである。(拍手)
15  民衆こそ偉大なる創造の主役
 敦煌芸術の本質――それは、「民衆の芸術」であった。たしかに、それらは、支配者や富裕な人々にささげられたという一面をもっている。しかし描いたのは、無名の画工たちであった。作品には、彼ら庶民の生活やあこがれなどが色濃く反映されている。
 この点、常氏は次のように語っている。
 「私は画学生のころ、『芸術は芸術のための芸術』という考えをもっておりました。(中略)しかし、敦煌に行って民衆芸術に深い感動を覚えました。芸術は民衆に奉仕するものだと思いました。敦煌芸術は、民衆の手による民衆のための芸術だと信じています」「自己の考え方、理想を芸術のなかに表現し、民衆に捧げ、民衆のために貢献していくことが大切だと思います」と。
 敦煌の芸術が、権力者に奉仕することのみを目的としていたならば、これほどまでに人々の心をひきつける力は、とうに失われていたにちがいない。権威や権力に虐げられても屈しない。踏まれても踏まれても、頭を持ち上げていく。そんな雑草のような民衆の生命力に支えられていたことに、敦煌の″不滅の美″の一つの秘密があるのではないだろうか。
 常氏は「芸術は民衆に奉仕するもの」との信念をもっておられた。
 宗教もまた、そうでなければならない。「一切衆生」と御本仏は仰せである。今の言葉で言えば″全民衆″ということである。その無数の民衆のためにこそ、御本仏は出現され、あれほどの迫害を受けてくださった。そして全世界(一閻浮提)の民衆のために、大御本尊を建立してくださった。
 ゆえに私どもも、民衆のために進む。御本仏の大慈悲を拝して、民衆とともに歩むことが大切なのである。(拍手)
16  真実の悔いなき人生とは
 常氏自身、この民衆芸術を守るために、画家としてのエリートコースを捨て去られている。氏がフランスに留学し、西洋絵画の勉強を始めたのは二十三歳の時であった。そして、十年の間に数々の賞も受賞され、フランス・リヨンサロン(美術家協会)の委員、フランス肖像画協会の会員になるなど、画家として大成の道を歩んでいく。しかし、パリでの敦煌の写真集との出合いが氏の人生を変えた。
 「祖国にこれほど優れた芸術があったのか」「これは奇跡だ」――敦煌の美は、氏の魂を魅了し、中国人であるならば、これらの宝物を保護する責任があると、決意されたのである。
 本来なら、悠々と送れた安楽の人生コースだったかもしれない。しかし、それをなげうって、住む人もまれな″陸の孤島″の敦煌のために生きる人生を選んだ。
 そして、一九四三年(昭和十八年)に敦煌に行かれて以来、じつに半世紀もの間、砂漠に踏みとどまって、シルクロードの「美の宝石」のために全生涯をかけてこられた。なんと崇高な一生であろうか。
 パリでの留学生活を途中でやめ、敦煌へと向かった常氏。北京の美術界からは、″もはや画家ではない″と見なされたともうかがった。しかし、氏は、敦煌の仕事の激務のかたわら、毎日、油絵の修業を欠かさなかった。そして八十六歳の今なお、みずみずしい創作の歩みを続けておられる。
 今回の絵画展は、こうした大画家としての氏の多彩な業績を紹介したものである。「敦煌の守り手」として、これまでずっと、いわば陰の立場に徹してきた常氏を、このような形で晴ればれと顕彰することができ、私は本当にうれしい。
17  常氏自身が、今回出展された作品群を「私の五十八年間の絵日記」とされている。それは、たんなる芸術のための芸術ではない。敦煌芸術という偉大なる民衆芸術を、ひたすら守りぬく戦いのなかから生まれた作品群である。それだけに、私には、一点一点が、氏の人生の「勝利」の光を放っているように思われてならない。
 しかも、この展示は、父の志を継ぎ、同じ道(画家)を歩んでおられる息子さんとの、父子一体の展示会となっている。
 さらに、陰で常氏を守り、支えてこられたのは、夫人の李承仙りしょうせん女史である。長年にわたる敦煌での苦しい生活のなかでも、氏の、こよなき同志として尽くしてこられた。その夫人との、夫婦一体の作品も出品されている。まさに今回は、家族一体の展示会となったのである。
 昨日も、会談の席でお話ししたが、日蓮大聖人は御書(法蓮抄)に、中国の古典を引かれて、次のように仰せになっている。
 「松さかふれば柏よろこぶ芝かるれば蘭なく情なき草木すら此くの如し何にいわんや情あらんをや又父子の契をや
 ――中国では、昔から松が栄えれば柏が喜び、芝が枯れれば蘭が泣くといわれている。情のない草木ですらこのようである。ましてや、有情(人間など動物)はなおさらである。また、父子の契りで結ばれた、あなたとお父さんは言うまでもない――と。
 この言葉を紹介すると、常氏は「すばらしい言葉です」と深くうなずき、感動されていた。心が心に通じたことがわかった。
 氏は繰り返し言われた。
 「文革の暗黒をはじめ、私たちが乗り越えた苦しみは、とても言葉では言い表せません。ただ、池田先生はわかってくださる。それは先生が、人類のために、風雪の峰々を越えてこられた方だからです。これほどの偉業の陰に、どれほどのご苦労があったことか。私は自分の体験から、そのあまりにも大きなご苦労がしのばれるのです。ゆえに、私は先生のことを思うと、私の人生と二重写しのようになって、万感胸に迫ってくるのです」
 私も氏に対して、まったく同じ気持ちである。
18  対談集の中で、私は「人生のなかで、もっとも楽しかったこと、もつともうれしかったことは」とうかがった。
 氏は、もっとも楽しかったことは、一九五一年(昭和二十六年)、北京で開かれた敦煌文物展覧会に周恩来総理が来てくださったことである、と。
 また、うれしかったことは、敦煌の莫高窟に、初めて電灯がつけられたことを挙げておられた。なんと一九五四年(昭和二十九年)のことである。それまでは、薄暗く、風が吹けばすぐに消えるランプに頼って、模写などの精緻な作業を続けておられた。
 そこに十一年後にして初めてついた電灯――。氏は、その時の喜びを、壁画に描かれた人物たちが、「私に向かって、ほほえみをみせながら歩いてくるような錯覚を起こしました」と述べられている。
 筆舌に尽くしがたい苦労をしのばせるエピソードである。
19  日蓮大聖人は「立正安国論」の中で、「仁王経」の次のような一節を引かれている。
 「人の夜書くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是くの如し」――人が夜の暗闇の中で書いた文字は、たとえ明かりが消えたとしても、書かれた文字自体は、きちんと残っている。それと同様に、生命に刻まれた因果も消えることなく、その報いが、いつか必ず現れる――と。
 陰徳あれば陽報あり――。ご夫妻の尊き人生は、今、″勝利の春″を迎えられた。
 人生の山頂で、悠々と、また闊達な青年のごとく、ご夫妻は、使命の総仕上げへの情熱を燃やしておられる。私には、ご夫妻を称える敦煌の「飛天」たちの喝采が聞こえてくるような気がしてならない。(拍手)
 本日は、氏に創価大学の名誉博士号が贈られた。また″父子絵画展″には、すでに一万人を超す人々が訪れ、惜しみない讃嘆が寄せられている。(拍手)
20  ともあれ、私にとって大田は古里であり原点である。古里に帰れば、だれもがホッとする。そのように、どこよりも安心できる、どこよりも心が通う、どこよりも頼もしい大田であってほしいと私は願う。
 私も、今後は何度もこの地を訪れたい。そして、できうれば一週間ぐらい滞在して、皆さまとともに広布と人生を語りたい。(拍手)
 最後に、きょうお会いできなかった方々に、くれぐれもよろしくお伝えくださいとお願いし、「大田、万歳」と申し上げて、お祝いのスピーチとしたい。ありがとう、また来ます!
 (大田文化会館)

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