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日蓮大聖人・池田大作

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第4巻 「春嵐」 春嵐

小説「新・人間革命」

前後
12  春嵐(12)
 島津達夫は、を紅潮させながら答えた。
 「はい。医者も驚いています。今回の体験で、私は信心のすばらしさを、心の底から感じました」
 山本伸一は、静かに頷くと言った。
 「それは、あなたが純粋に、広宣流布のために生きようとしてきたからです。宿業を転換していく力は、広布への強い一念と実践です。そこに、地涌の菩薩の清浄にして強靭な大生命が涌現していくからです」
 伸一は、視線を湖面に落とした。そして、島津を見て言った。
 「この湖の水はきれいだ……。しかし、今の世の中は、あまりにも濁っている。利己主義、利害ばかりです。その社会を浄化していくのが、広宣流布です。
 島津さん、これからも、この十和田湖の水のように、清い信心を貫いていってください」
 その言葉は、島津の胸に突き刺さった。
 島津は頑固な性格だが、信心には純真であった。以来、その純真さに磨きがかかった。そして、このたび十和田支部長となって、再び法戦の最前線に躍り出たのである。
 今、支部結成大会に向かう車の中で、伸一は″不死鳥″のように蘇った島津を見ると、嬉しくてならなかった。
 渋滞のなかで、車は歩くような速度でしか進まなかった。ようやく会場近くまで来た時、雪道にできたに車輪がはまり、自動車は動けなくなってしまった。
 運転手は必死にエンジンを噴かしたが、車輪は空転するばかりであった。伸一は、同乗のメンバーと一緒に車を押し始めた。
 場外整理にあたっていた青年部の役員も、応援にやって来た。
 「そーれ!」
 長を履いていなかった伸一のズボンは濡れ、の中にも水が染み込んだ。
 車がを脱した時には、開会直前になっていた。伸一は、駆け足で会場に入っていった。
 支部結成大会が始まり、やがて、会長の伸一の講演となった。
 「私の話といっても、学会員の皆さんが、御本尊を持って幸福になること──これに尽きるんです」
 彼は、ざっくばらんに語り始めた。
 「その一つのお手本が、この島津支部長です。一度は、死にかかった方です。にもかかわらず、こんなに元気になり、皆さんの面倒をみる責任ある立場になった。この厳然たる事実は、誰も否定できません。
 どうか、その姿をお手本として、御本尊の功力は絶対であるとの大確信で、信心に励んでください」
13  春嵐(13)
 山本伸一が支部長の島津達夫について語ると、島津は立ち上がり、参加者に深く礼をした。大拍手が起こった。
 体験を刻んだ人は強い。その存在には、百万言に勝る説得力がある。ゆえに、労苦はかけがえのない、人間としての財産になる。
 このあと、伸一が話を続けようとした時、数百人の人が、名残惜しそうに立ち上がった。列車の時間の都合で、先に帰らなければならない、遠方のメンバーである。伸一は事前に島津から、それを聞いていた。
 周囲を気遣いながら席を立つメンバーに向かって、彼はマイクを握って呼びかけた。
 「帰りの列車の時間ですね。今日は、本当に遠くから、ご苦労様でした。どうか気をつけてお帰りください。家族の皆さんにも、よろしく。健闘を祈ります。
 さあ、みんなで、拍手で送りましょう」
 彼は、こう語ると、自ら拍手を送った。それに呼応して、会場に拍手が響き渡った。帰る友も元気に手を振り、おじぎをし、ある人は残った同志と握手を交わし、会場を後にした。
 会合の途中で帰らねばならないというのは、心苦しく、また、寂しいものだ。伸一は、遠方からの参加者に、決して、そんな思いをさせたくなかった。
 一言、声を掛けて送り出せば、帰る人の心は晴れ、明るい気持ちで、新しい出発ができる。ささいなことのようだが、そうした配慮こそが、リーダーの大切な責務といってよい。
 温かい余韻が残るなか、伸一は、再び話を続けた。
 彼は、人間として、いかなる思想的なバックボーン(背骨)を持つかが大事になると語った。そして、日蓮大聖人の仏法こそ、世界の平和と幸福を実現する、最高のバックボーンであることを訴えた。
 彼は、最後に、こう話を結んだ。
 「全世界が私たちの活躍の舞台であります。私たちは、仏のお使いとして、全地球を堂々と闊歩し、幸福の大道を開いてまいろうではありませんか」
 皆、希望を感じた。旧習に縛られながら、山間の地で、黙々と信心に励む同志は、その言葉に、垂れこめた冬の雲を払い、春の陽光に照らし出されるような思いをいだいた。
 大きな喜びのなか、支部結成大会は幕を閉じた。
 水に濡れた伸一の足は冷えきっていたが、を乾かす間もなく、彼は地区部長会に臨み、ここでも力の限り友を励ますのであった。
14  春嵐(14)
 東北の指導から帰った山本伸一は、溜まっていた本部の執務に取り組む、慌ただしい日が続いていた。
 二月二十五日には、東京体育館で二月度の本部幹部会が開かれた。
 場内はアジア指導の帰国報告に沸いた。
 席上、伸一は、三月初旬に行われる教学試験について語っていった。
 「試験を前にして、今、皆さんの頭のなかも、非常に忙しいのではないかと思います。
 本日、私が申し上げたいことは、試験に合格した方は威張らず、また、合格しなかった方も、卑屈になったりしてはならないということです。
 学会の試験は、日蓮大聖人の大生命哲理を、生涯、研鑽していくための、一つの目安、励みとして実施されるものであります。
 したがって、試験に合格しても、慢心を起こして、周囲の同志を見下すようになれば、信心の不合格者となってしまいます。仮に、試験には、受からないとしても、それを契機に奮起して教学に励み、信心の合格者となっていけばよいのです。むしろ、それが大事なのです。
 そして、御書を心肝に染めて、どのような難が競い起ころうが、微動だにしない、強い、強い信心を確立していっていただきたいのであります」
 教学の試験は、三月五日の日曜日に、全国百二十五都市で、百八十余の会場で行われた。
 まず午前九時には、講師、助師から助教授、講師への昇格試験が、続いて午後二時からは、新たに教学部員となる任用試験が実施された。
 昇格、任用を含めた、全国の総受験者数は十一万余で、それは、一九五九年(昭和三十四年)に行われた試験の受験者の約三・三倍となっていた。
 ここにも、伸一の会長就任後の、学会の目覚ましい大前進の姿があった。
 受験者のなかには、主婦もいれば、会社の社長も、学生も、教師もいた。年齢も、十代半ばの少年もいれば、高齢者もいた。
 そうした人たちが仕事や学業、更に、学会活動の合間を縫って、御書に取り組み、最高の仏法哲理の研鑽に励んできたのである。
 この勉強を通し、読み書きができなかった人が、できるようになったという話も、各地で聞かれた。
 時代、社会の建設は、民衆が確固たる生命の哲学を持ち、自己の使命を自覚していくことから始まる。それは、まさに、民衆の未聞の哲学運動であり、大教育運動であった。
15  春嵐(15)
 教学試験が行われた日の夜、山本伸一は、学会本部で、教学部長の山平忠平に声をかけた。
 「全国の採点は、順調に進んでいますか」
 「ええ。順調です」
 伸一は、つぶやくように言った。
 「受験者は、みんな頑張ったんだから、全員、合格にしてあげたいな……」
 「それはできません!」
 山平は、力を込めて答えた。伸一は、思わず笑いを浮かべた。
 「当然だよ。試験だもの……。ただ、それが私の気持ちなんです。
 たとえば、子育てで忙しい婦人が、学会活動をしながら、そのうえ懸命に御書を学ぶ。大変なことです。ゆっくり勉強しようと思っても、子供は泣くし、掃除や食事のしたくもしなければならない。戦場で御書を開くようなものでしょう。
 仏道修行だから、当然かもしれないが、そういう人たちを、試験の結果で落胆させたくないのです。合格した人はよい。合格できなかった人を、どうすれば励ませるかを、私は、いつも考えているんです」
 山平は、その言葉に感動を覚えた。彼は、自分は採点の集計の数字ばかり気にしていたが、山本会長は数字の向こうにいる人間を、同志を見ていたことを知ったのである。
 試験の採点は、五日夜から始まって、八日には終わった。この後、昇格試験の合格者は、第二次試験の面接を受けることになる。
 山本伸一は、八日にまとめられた採点の結果を、関西本部で目にした。
 これまでに比べ、平均点も高かった。彼が会長就任以来、訴え続けてきた教学の研鑽が、大きく実を結んでいったのである。
 ところで、彼は、この時、権力の魔性との激しい攻防戦のさなかにあった。
 あの大阪事件の裁判が、いよいよ大きな山場に差しかかっていたのである。
 この事件は、一九五七年(昭和三十二年)四月に行われた、参議院議員の大阪地方区の補欠選挙で、東京から来た一部の会員が引き起こした買収事件と、熱心さのあまり、何人かの同志が戸別訪問し、逮捕されたことから始まった事件であった。
 伸一が、この選挙の最高責任者であったことから、彼にも疑がかけられ、その年の七月三日から十五日間にわたって逮捕・勾留されたのである。
 また、買収事件を起こし、逮捕された首謀者らが、当時、理事長であった小西武雄の許可を得たかのように供述したことから、小西も逮捕されたのである。
16  春嵐(16)
 この大阪事件には、会員の選挙違反を契機にして、新しき勢力である創価学会の台頭を打ち砕こうとする権力の意図があった。
 検察は、取り調べの段階で、選挙違反が山本伸一と無関係であることに、気づき始めたようだ。しかし、違反を伸一の指示による組織的犯行に仕立てあげるために、検事は、彼が罪を認めなければ、会長である戸田城聖を逮捕するなどと言い出したのである。
 伸一が逮捕されたのは、戸田の逝去の九カ月前であり、恩師の体は、既に衰弱していた。逮捕は、死にも結びつきかねなかった。
 彼は、呻吟の末に、ひとたびは一身に罪を被り、法廷で真実を証明することを決意したのである。
 裁判は、一九五七年(昭和三十二年)十月十八日から始まった。起訴の段階から、伸一の買収関係の容疑は外されていた。
 そして、この六一年(同三十六年)の二月末、買収の疑がかけられていた、理事長の小西武雄らに、判決が出された。当然のことながら、小西は無罪となった。
 判決に対して、検察の控訴はなかったが、彼らは会長の伸一だけは、なんとしても有罪に追い込もうと躍起になった。
 この三月六日、七日、八日も、大阪地裁で裁判が開かれていたのである。
 その間に、伸一は弁護団と打ち合わせを行った。
 その時、弁護士の一人が言った。
 「山本さん、事態はかなり厳しい見通しです。逮捕されたメンバーの警察調書にも、検事調書にも、あなたの指示で選挙違反を行ったという発言がある。
 しかも、あなたも、検事に、それを認める供述をしている。私どもは一生懸命にやりますが、有罪は覚悟していただきたい」
 伸一は、憮然とした顔で言った。
 「無実の人間が、どうして断罪されなければならないのでしょうか。
 真実を明らかにして、無罪を勝ち取るのが、弁護士の使命ではありませんか」
 「それは、そうなんですが、検察は、巧妙に証言を積み上げてきている。それを覆すことは、容易ではないのです」
 「私は、自分が有罪になることを恐れているのではありません。ただ、検察という国家権力の、そんな横暴が許されてしまえば、正義も、人権もなくなってしまうことを恐れるのです。
 だから、私は戦います。断固、無罪を勝ち取ってみせます」
 彼は弁護士の言葉に、孤立無援を感じていた。
17  春嵐(17)
 大阪事件の裁判は、重く山本伸一の心にのしかかっていた。
 場合によっては、会長である自分が、無実の罪で服役する事態になりかねないのである。弁護士さえ、それを覚悟しろと言うのだ。同志の悲しみを思うと、たまらなく苦しかった。
 しかし、彼は思った。
 ″広宣流布の遙かな道程を思えば、こんなことなど、まだ小難にすぎない。春の嵐だ。未来には、想像もできない大難が待ち受けていよう″
 広宣流布への決定した一念から発する、彼の烈々たる生命力は、その苦難をはねのけ、愛する同志への励ましの闘魂を燃え上がらせていったのである。
 伸一は、大阪に滞在していた三月七日の夜には、中之島の中央公会堂で行われた関西男子部の幹部会と、大手前会館での関西女子部の幹部会に出席した。
 更に、翌八日の夜は、大阪市中央体育館での、関西の三総支部の合同幹部会に臨んだ。この合同幹部会では、関西の音楽隊、鼓笛隊が、初めて正式に出場し、演奏を披露した。
 山本会長が登壇した時には、多くの幹部の指導が続いた後で、開会から、かなりの時間が経過していた。
 伸一は言った。
 「今日は、難しい話よりも、私は歌の指揮を執りましょう!」
 彼と苦楽をともにし、戦ってきた関西の同志たちである。多くの言葉はいらなかった。また、一つの振る舞いが、万言に勝る励ましになることもある。
 「『躍進の年』だから、『躍進の歌』にしよう」
 彼は扇を手にすると、音楽隊、鼓笛隊の奏でる勇壮な調べに乗って、舞うように指揮を執り始めた。悠然と、流れるようであり、また、堂々たる大鷲の羽ばたきにも似ていた。
 彼は″関西、頑張れ!″と、心で叫びながら、指揮を執っていった。皆、手拍子をとりながら、声を限りに合唱した。
 終わると、体育館を揺るがさんばかりの大拍手に包まれた。その拍手は、いつまでも鳴りやまなかった。
 伸一は、会場の同志を見ながら言った。
 「では、もう一度、やりましょう」
 更に、拍手が高鳴った。
 再び、彼の指揮が始まった。前よりも一層、力強く、勇壮であった。その姿が、参加者の心を打った。
 目頭を潤ませる婦人がいた。声をからして歌う若人がいた。を紅潮させ、身を乗り出して大きく手拍子を打つ壮年がいた。
 伸一の思いと友の心が、指揮を通して一つに溶け合い、感動と歓喜の熱唱となって、場内にこだました。
18  春嵐(18)
 学会歌の指揮を執り終えると、山本伸一は深い疲労を覚えた。
 彼は、マイクの前に立って呼びかけた。
 「関西は、私が魂魄をとどめて戦い、築いた常勝の城です。私の青春の誉れの大地です。
 どうか、関西の皆さんは、何があっても負けないでください。何があっても勝ってください。そして、何があっても、私とともに、広宣流布の黄金の歴史をつづってください。
 では、また、お会いしましょう」
 関西のほんの一握りの幹部を除いては、参加者は、今、伸一がいかなる状況下にあるかを知らなかった。
 しかし、伸一の生命から発する、気迫の指揮と叫びは、激しく同志の心を揺り動かしたのである。
 三月十六日、伸一は、青年部の第一回音楽祭に出席した。一九五八年(昭和三十三年)のこの日、総本山で戸田城聖を迎えて、広宣流布の記念の式典が行われてから、はや三年の歳月が流れていた。
 あの時、戸田は、病身を押して、伸一の真心でつくられた車駕に乗って、皆の前に姿を現し、伸一をはじめとする後継の青年たちに、広宣流布の後事のいっさいを託したのである。
 音楽祭は、午後六時から、東京の世田谷区民会館で開催された。
 まず、恩師をしのび、戸田が愛した「霧の川中島」「出陣の歌」「同志の歌」などが、音楽隊によって演奏された。
 更に、鼓笛隊のロシア民謡「カチューシャ」などの演奏、次いで、男子部合唱団による「ソーラン節」、女子部合唱団によるイタリア民謡「村の娘」などの合唱が続いた。
 そして、音楽隊、鼓笛隊と男女合唱団による合同演奏が行われ、「鯱の歌」などが披露された後、全員で「星落秋風五丈原」を大合唱した。
 ″五丈原″の歌は、戸田がこよなく愛し、青山葬儀所での彼の学会葬で、葬送の曲となった歌である。
 伸一は、演奏に耳を傾けながら、戸田との思い出が懐かしく蘇り、時に熱い感慨が胸に込み上げてきてならなかった。
 更に、その後、「東洋広布への第一歩をしるす」と題された、伸一たちのアジア訪問のカラー・スライドが上映された。
 ブッダガヤで、「東洋広布」の石碑などを埋納するシーンが映し出されると、場内は、嵐のような拍手に包まれた。
 その映像は、「3・16」の誓いを果たす、師弟の精神の刻印でもあった。
19  春嵐(19)
 最後に、山本伸一のあいさつとなった。
 彼は、出演者の労をねぎらった後、真実の幸福と平和の実現のためには、偉大なる宗教、偉大なる生命の哲学が根底になければならないと述べ、学会の使命に言及していった。
 「今、世界を指導すべき大国は、強大な武力、権力を誇示しながら、口では平和を唱え、民主や平等を叫んでおります。しかし、それでは、真実の平和はありえません。
 そのなかにあって、武力、権力によらず、全民族、全人類の平等を説いた日蓮大聖人の生命の哲理をもって、実際に人間の共和の姿を実現してきたのは、創価学会だけであります。
 したがって、一人一人の幸福も、世界の平和も、この仏法の思想、学会という人間の輪の広がりのなかにこそあると、私は申し上げたいのであります」
 更に、伸一は戸田城聖との思い出を語っていった。
 「昭和三十三年(一九五八年)の三月十六日は、恩師戸田先生が、広宣流布はこのようにしていけという模擬試験の意味を込めて、広布の方程式を示された日であります。
 あの日、来ると約束していた政治家は来ませんでしたが、先生は、御本尊の御前では、一国の首相も、庶民も皆、平等であり、すべての人びとが、等しく妙法の光に照らされていく、広宣流布の姿を教えてくださいました。
 先生は、その式典が終わって、帰られる直前に、一言、こう言われました。
 『我々は、戦おうじゃないか!』
 その意味は、限りなく深いと思います。不幸な民衆を救っていく戦い、誤った宗教との戦い、不当な権力との戦い、自己自身との戦いなど、いっさいを含んだうえでの、戸田先生のお言葉であったにちがいありません。
 ともあれ、衰弱しきったお姿で、眼光鋭く、毅然として言われた『我々は、戦おうじゃないか!』との先生のお言葉を、私は、電撃に打たれた思いで聞いておりました。
 そして、何ものをも恐れず、広宣流布に向かって戦うことを、私は、その時、再び決意いたしました。
 これは、先生の魂の叫びであります。命の言葉であります。
 私たちは、恩師のこのお言葉を深く胸に刻み、広宣流布の日まで、断固、戦い抜こうではありませんか」
 伸一のこの日のあいさつは、聖教新聞に掲載され、これを目にした全国の会員は、決然と奮い立った。
 「我々は、戦おうじゃないか!」との言葉は、同志の合言葉ともなった。
20  春嵐(20)
 このころ、学会員への不当な村八分が、各地で深刻さを増していた。
 兵庫県の青垣町の、ある山間の地域では、神社の守り番を、毎年、住民が順番で行うことが、慣習になっていた。守り番というのは、神社を守る係で、掃除や建物の修理のほか、花を供えたり、参拝することなどが役目であった。
 その地域は、約六十世帯の地区民で構成され、そこに、立田治男という学会の組長をはじめ、数世帯の学会員がいた。
 この年は、立田の家が守り番に当てられていたが、彼は、神社への奉仕や参拝をしなければならないことが、自分の宗教的な信条から、納得できなかった。
 それは、ほかの学会員も同じであった。
 一月に行われた地域の総会で、立田は言った。
 「宗教は自由やないですか。私は、ほかの行事には喜んで協力させてもらうが、守り番のような宗教的な行事には参加しません」
 当時、学会の折伏が急速に進んでいたこともあり、神社にかかわりの深い、地域の役員は、学会を快く思っていなかったようだ。
 ほどなく、学会員を除外して、地域の臨時総会が開かれた。そこで、地区規約の改正が行われた。
 そして、地域の親睦のために、順番に神社の行事の係になることが、規約に盛り込まれた。更に、その義務を果たさない者は、地区民としてのいっさいの権利を失うことが明記された。
 その後、今度は学会員も参加して総会が行われた。この席で、地域の責任者である区長は、学会員に、神社の行事への参加を求めるとともに、学会をやめるように迫った。
 しかし、同志たちの決意は固かった。
 「絶対にやめへん!」
 皆、胸を張って答えた。
 翌日、学会員の家に、地域の水道委員がやって来た。家族が出てみると、家の前にある簡易水道の元を止め、の蓋の中に赤土を詰め始めた。
 「なにするんや!」
 「地区の規約で、義務を果たさん者は、水道も使えんことになる。地区の水道やからな」
 元は、目の前で赤土に埋もれていった。同志の目に、悔し涙があふれた。
 更に、地域の行事などの連絡に使われていた有線放送の設備も取り外された。共有の山林の権利も奪されてしまった。
 水道を止められた学会員は、天棒の両端に瓶をぶら下げ、川まで水をみに行き、それを飲んで暮らさなければならなかった。
 近所の人たちは、あいさつもしなくなった。子供へのいじめも始まった。
21  春嵐(21)
 青垣町の一地域で起こった、学会員への村八分事件は、憲法に保障された、信教の自由、基本的人権を脅かすものであることは明白である。
 しかし、立田治男をはじめ、地域の学会員は、法的な知識には乏しく、なんの対抗策も持たなかった。
 だが、信心はいささかも揺るがなかった。こう言って、互いに励まし合った。
 「大聖人は『此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり』と仰せや。この信心が本物である証拠や」
 山本伸一が訴えてきた教学の研鑽が、信心の確信を深めさせていたのである。
 この事件を知った、学会本部では、直ちに大阪の幹部を現地に派遣した。同志を激励する一方、人権擁護委員会などにも出かけ、交渉にあたった。
 学会員への仕打ちの違法性は、誰の目にも明らかであった。調査に来た人権擁護委員は、この事実を知ると、地域の役員のところへ行き、速やかに水道の給水を再開するように訴えた。
 こうしたなかで、これ以上、学会員への締めつけを続ければ、自分たちが、不利な立場に追い込まれかねないと判断した区長らは、学会員の地区民としての権利を認めることにした。
 青垣町の村八分事件が、一応、落着を見せるのは、事件の発生から二週間ほど後のことであった。
 区長らが役場で学会員に謝罪し、地区民としての権利の回復を認め、和解するというかたちがとられた。
 しかし、その後も、いやがらせは続いた。雑貨店を営む立田治男の家には、地区民は誰も買いに来なくなった。近隣の人は、小声でこう言うのであった。
 「あんたのところで買いたいんやけど、偉いさんがうるさいもんやで……」
 立田は、やむなく行商に歩いた。地域の人たちの多くは、道で会っても、声一つ掛けなかった。
 しかし、彼らは意気軒高であった。青垣町での布教は以前にも増して進んだ。
 学会員の主張は、法律に照らしても正しいことは明確であったし、明るさを失うことのない同志の姿に、皆が心をひかれ始めたからである。
 また、同じ兵庫県の三田市のある地域でも、同様の事件が起こっていた。
 この年の一月初めに、浄土真宗の寺院の報恩講が行われ、その費用が各戸に割り当てられた。それは地域のしきたりとなっていた。
 しかし、学会員の福田民人という青年が、支払いを拒否したのである。地域の六十数世帯のうち、学会員はわずか一世帯であった。
22  春嵐(22)
 福田民人の入会は、一九五九年(昭和三十四年)の三月のことであった。
 彼は、大阪の豊中に出ていたが、翌年の四月、広宣流布への使命に燃え、故郷の三田市に帰って来た。
 そして、山本伸一が会長に就任すると、彼も、地域のなかで、折伏に立ち上がった。しかし、旧習の深い土地柄のせいか、それが、学会への反発を招いてしまった。
 そのなかで、割り当てられた、寺の行事の費用の支払いを拒否したのである。
 福田は、自分が信じてもいない宗派の寺の宗教行事に、金を出さなければならないというのは納得できないと、主張していた。
 彼の父親は既に入会していたが、以前、その寺の檀家総代もしていただけに、地区民の反響は予想以上に大きなものがあった。
 だが、福田は、むしろ、この機会に、更に地域の人たちを折伏し、宗教に正邪があることを訴えようと思った。
 そこで、大阪の組織の男子部に応援を頼むと、二十人ほどのメンバーが喜んでやって来た。
 そして、面識のない家々を訪ね、軒並み折伏をして歩いた。最後には勝鬨をあげ、学会歌を歌って意気揚々と引き揚げていった。六一年(同三十六年)の一月半ばのことである。
 青年たちは、意気盛んではあったが、いささか常識を欠いた、自己満足的な行動ともいえた。
 夜になると、地域中から、福田の家に抗議が殺到し、怒鳴り込んで来る人もいた。
 これを契機に、福田が寺院への費用を拒否したことに対する、地域の人たちの激しい批判が沸騰した。
 地域の区長は、福田に寺の行事の費用を出すように説得したが、彼は断った。
 「なんと言われようが、今後、寺や神社の費用はいっさい出しません」
 すると、区長は地域の役員会を開き、地区民で決定した事項を守らない行為があった場合、地区民としてのいっさいの権利と資格がなくなることをうたった地区規約を、弁護士と相談して作成したのである。
 そして、二月の二十二日には、地域の臨時総会を開催し、この規約が決議されることになった。地域の役員は、総会の開催を伝えるために家々を訪ねながら、こう触れ回って歩いた。
 「この総会で、福田の家は村八分や。そのための規約を決めるさかい、印鑑を忘れんようにな」
 福田が定刻に総会の会場に着くと、既に、地域の全世帯の人が出席していた。
 彼に、一斉に視線が注がれた。冷ややかな、とげとげしい目であった。
23  春嵐(23)
 総会が始まった。
 区長は初めに、別件について語った後、おもむろに話を切り出した。
 「皆さんもご存じのように、福田さんが大阪から帰って来て、この地域で宗教活動を始められてからというもの、これまで何も波風の立ったことのない地区の平和が、壊されようとしております。
 寺の報恩講の費用を皆で出し合うことは、この地区の伝統であり、文句を言う者など、誰もいませんでした。しかし、福田さんは、それも断ってきた。
 そのうえ、学会員が集団でやって来て、強引に勧誘するようになった。恐ろしいことやと思います。
 私は、これから先のことを考えると、心配でなりません。
 そこで、この際、地区民の統制のために、寺の行事への協力を拒否するなど、地区のしきたりに従わん行為に対しては、地区の共有財産権を失う旨、明確に地区規約に定めることを決議したいと考えております。皆さん、どう思いますか」
 場内に歓声があがった。
 何人かの人が勇んで発言した。福田民人の吊し上げが始まった。
 最初に一人の壮年が話し出した。
 「わしは福田さんに言いたい。創価学会なんていうものが永遠に続くと思とるんか。そんなもの、すぐに消えてなくなるで。そうしたら、死んだ時に、誰に葬式出してもらうんや。
 そやから、地域の寺は大切にせなあかん。それを否定し、秩序を乱す者は、地区の共有財産権を失うのは当然や」
 「そうや!」
 「そうや!」
 次第に地区民はいきり立っていった。
 「地区の秩序を乱すようなことをする者には、地区の水道も止めるべきや」
 「学会をやめんのなら、地区の道も歩くな!」
 「子供の遊び場も使わせへんで!」
 もはや、脅迫といってよかった。皆の発言が一通り終わると、区長が言った。
 「福田さん、反論があれば、どうぞ」
 福田が立ち上がった。
 一斉に、罵声と怒号が浴びせられた。
 「みんなが、今やろうとしていることは、憲法違反や、人権侵害や。こんなことは、絶対に許されることやない。私は、寺の費用は何があっても出せません。これだけは譲れません」
 福田が話し終わると、区長が言った。
 「地区の平和を守るため、作った規約を発表します」
24  春嵐(24)
 区長は、新しい地区規約を読み上げていった。
 「当地区の協議決定事項のいかなる事についても、自分の好むものはよし、好まぬものは知らぬというような事になると、地区全体の統制がとれなくなる。
 よって、次の申し合わせ規約を定む。
 一、当地区自治体の協議において決定した、あらゆる共同事業の経営に際し、地区の財産及び資金をもって充当するも、何人たりとも、異議の申し立てをする事はできない。
 二、地区の協議において決定せられたすべての協議事項を履行せざる者は、(原則として)地区の一員(戸主)としての権利と資格を放棄したものと認む。
 三、この規約に違反したる者は、違反したると認めた時日より満一カ年後において、地区の一員(戸主)の資格を失うものとする」
 そして、この新規約の決議に移った。
 福田民人以外は、一人の壮年が反対しただけで、あとは全員が賛成であった。新規約に皆が署名、捺印していった。
 区長は言った。
 「これで多数決により、可決いたしました。この規約は、本日より施行されることになります」
 拍手と歓声があがった。信教の自由も人権も奪う、憲法に反する地区規約が成立してしまったのだ。
 会場を後にする福田の背に、りの声が浴びせられた。福田は、胸の底から怒りがあふれ、体はワナワナと震えた。
 ″こんなことが許されてええんか! 日本は法治国家や。人権が踏みにじられてなるもんか。
 俺は戦う。断固、戦ってみせる。絶対に負けるもんか……″
 福田は関西の幹部らと連携を取り、地元の三田署に人権侵害、名誉毀損で区長を告訴した。また、法務局にも、地区規約には憲法違反の疑いがあることを告げて、調査を要請した。
 法務局は、すぐに調査を開始し、区長に対して、地区規約を破棄するよう勧告した。しかし、地元の警察は、地区の役員らと密接ながりがあるせいか、なかなか動き出そうとはしなかった。
 また、勧告を受けても、地区の役員は、考えを改めようとはせず、役員の一人は、こう言ってはばからなかった。
 「憲法違反であろうが、なかろうが、地区のことは地区の規約によって運営するものや」
 福田の一家には、さまざまな圧力がかけられた。
25  春嵐(25)
 福田民人の地域では、竹細工が名産であり、彼の家でも竹カゴなどを作っていたが、問屋がそれを引き取らなくなった。
 問屋はこの時、寺の檀家総代であった。
 福田が勤めに出ていたことで、一家は辛うじて生計を立てることができた。
 そんな彼にとって、「我々は、戦おうじゃないか!」との、三月十六日の山本会長の指導は、大きな勇気となり、力となった。
 ″いよいよ魔が競い起こって来たんや。信心が試されているんや″
 彼はへこたれなかった。
 この事件は、区長らが地区規約を破棄し、福田が告訴を取り下げて、和解が成立するまでに、実に約二年間の歳月を要している。
 こうした事件は、兵庫県だけではなかった。やはり同じころ、三重県の熊野市のある漁村では、学会員十三世帯が、地域で祭っている「山の神」の行事への参加を拒否したことから、地区の決議によって、共有林などの財産権を奪されるという事件が起こっている。
 更に、熊本県阿蘇郡小国町や群馬県安中市では、神社の行事に協力しなかったとして、学会員には、農業に必要な共同機材などを使用させないといった村八分事件があった。
 なかには、神社の寄付を断ったことから、祭りのたびに、学会員の店に、神輿を乱入させるというものもあった。祭りを利用しての悪質な集団暴力といってよい。
 地域の祭りなどの場合、現代では、宗教的な意味合いは薄く、文化・社会的な習俗となり、地域の親睦の場となっていることが少なくない。したがって、祭りなども、信仰として参加するのでなければ、直ちに謗法となるわけではない。
 各地に起こった村八分のケースを見ると、宗教色の極めて強い行事に、しかも、半ば強制的に参加させられることへの同志の拒否に始まっている。それは、彼らが学会員となることによって、信教の自由に目覚めたからにほかならない。
 もともと、折伏を受け、対話の末に、入会すること自体が、信教の自由を前提に、自らの意志で宗教を取捨選択することであり、人間としての自立を意味しているといえよう。
 山本伸一は、村八分事件の報告を聞くたびに胸を痛めた。自分のこと以上に辛かった。彼は、励ましの言葉を送るなど、さまざまな激励の手を差し伸べた。
 また、最高幹部をはじめ各地の幹部にも、一人一人を温かく包み、応援していくよう指示していった。
26  春嵐(26)
 山本伸一は、なんの罪もない同志が、理不尽な圧迫を受けていることが、かわいそうでならなかった。
 しかし、それは仏法の法理に照らして考えれば、当然のことでもあった。彼の会長就任以来、新たな弘法の波が広がり、日本の広宣流布は飛躍的に伸展しているのである。
 学会員への村八分の理由となったのは、いずれも、寺院や神社の行事への不参加や、寄付の拒否であったが、それらは、むしろ、口実にすぎなかったようだ。
 本当の理由は、それぞれの地域で、本格的な折伏が始まったことへの″恐れ″にあったといってよい。
 学会の布教によって、まず、既成宗派の寺院や神社が、檀家や氏子が奪われてしまうという危機感をいだいた。
 更に、寺院や神社にかかわりのある地域の有力者たちが、学会員が増えていけば、地域の秩序が乱され、自分たちの立場も危うくなるかのような錯覚をもち、学会員を締め出しにかかったのである。
 そこには、他宗派や一部のマスコミの喧伝による、学会への歪められた認識もあった。
 大聖人は、「大難なくば法華経の行者にはあらじ」と仰せである。難がなければ、まことの信心ではない。広宣流布が進めば、必ず嵐が競い起こるはずだ。
 しかし、確かに嵐は吹き始めたが、それは、まだまだ本格的な嵐というには、ほど遠いことを伸一は感じていた。
 彼は「難来るを以て安楽と意得可きなり」との御文を思い起こした。そして、全同志を、どんな大難にも、喜び勇んで立ち向かっていける、強き信仰の人に育て上げなくてはならないと思った。
 伸一は、この村八分事件を、そのためのステップと、とらえていたのである。
 また、これらの事件は、社会的に見れば、日本という国の、未成熟な民主主義と人権感覚を物語るものであったといってよい。
 古来、日本には土俗的な氏神信仰があり、地域の共同体と宗教とが、密接に結びついてきた。
 江戸時代になると、幕府の宗教政策によって寺檀制度がつくられ、寺院によって民衆が管理されるようになった。そのなかで、寺院の言うがままに従うことが、本来の人間の道であるかのような意識が、人びとに植えつけられていった。
 更に、明治以降、神社神道が、事実上、国教化されたことで、神社はもとより、宗教への従属意識は、ますます強まっていった。
27  春嵐(27)
 地域の寺院や神社に従わなければ、罪悪とするような日本人の傾向は、いわば、政治と宗教が一体となり、民衆を支配してきた、日本の歴史のなかで、培われてきたものといえよう。
 戦後、日本国憲法によって、信教の自由が法的には完全に認められても、国民の意識は旧習に縛られたまま、依然として変わることがなかった。
 そして、共同体の昔からの慣習であるというだけで、地域の寺院や神社を崇め、寄付や宗教行事への参加が、すべての地域住民の義務であるかのように考えられてきた。
 では、なぜ、人びとは民主主義を口にしながらも、無批判に共同体の宗教を受け入れ、旧習から脱することができなかったのか。
 それは、民主主義の基本となる「個」の確立がなされていなかったからにほかならない。
 一人一人の「個」の確立がなければ、社会の制度は変わっても、精神的には、集団への隷属を免れない。
 更に、日本人には、「個」の自立の基盤となる哲学がなかったことである。本来、その役割を担うのが宗教であるが、日本の宗教は、村という共同体や家の宗教として存在してきたために、個人に根差した宗教とはなりえなかった。
 たとえば、日本人は、寺院や神社の宗教行事には参加しても、教義などへの関心はいたって低い。これも、宗教を自分の生き方と切り離して、村や家のものと、とらえていることの表れといえる。
 もし、個人の主体的な意志で、宗教を信じようとすれば、教えの正邪などの内実を探究し、検証していかざるをえないはずである。
 こうした、宗教への無関心、無知ゆえに、日本人は、自分の宗教について尋ねられると、どこか恥じらいながら、家の宗教を答えるか、あるいは、無宗教であると答える場合が多い。
 それに対して、欧米などの諸外国では、誇らかに胸を張って、自分がいかなる宗教を信じているかを語るのが常である。
 宗教は自己の人格、価値観、生き方の根本であり、信念の骨髄といえる。その宗教に対する、日本人のこうした姿は、世界の常識からすれば、はなはだ異様なものといわざるをえない。
 そのなかで、日蓮仏法は個人の精神に深く内在化していった。そして、同志は「個」の尊厳に目覚め、自己の宗教的信念を表明し、主張してきた。
 いわば、一連の学会員への村八分事件は、民衆の大地に兆した「民主」の萌芽への、「個」を埋没させてきた旧習の抑圧であったのである。
28  春嵐(28)
 この村八分事件を、参議院議員であった、理事の関久男は、極めて深刻な問題として受け止めていた。
 仏法という次元でとらえれば、それは御聖訓通りの法難であることは間違いない。しかし、関は、政治家としての良心のうえから、信教の自由が保障されている法治国家で、信ずる宗教によって人間が差別されていることを、見過ごすわけにはいかなかった。
 しかも、各地の村八分の状況は、事と次第によっては、生命にもかかわりかねない問題をはらんでいる。
 関は考えた。
 ″これを放っておけば、信教の自由などなくなってしまう。また、人権を守ることなどできない。人権のために戦ってこそ、本当の政治である。
 しかも、これは、ただ学会員だけの問題ではない。すべての宗教者の人権にかかわっている。いや、宗教者に限らず、人間への不当な差別を許すことになる。
 こうした差別を放置しておけば、日本という国の未来に、大きな禍根を残すことになるだろう。これを解決していくことは政治家の義務だ″
 関は、学会推薦の他の参議院議員たちとも話し合い、国会でこの問題を取り上げることにした。
 三月二十三日の参院予算委員会で、彼は一般質問に立った。そこで、海外移住や保育所、青少年問題などについて質問するとともに、この村八分事件を取り上げ、関係大臣らに、ただしていった。
 「最近、各地で、神社、仏閣への寄付にまつわる村八分事件が起こっております。これらの寄付は、敬神崇祖などの美名のもとに、祭礼等の際に強制されている。そして、それを拒否すると、村八分にしたり、あるいは神輿を乱入させるなどの、悪質な暴力事件まで起こっております。
 このことについて、まずご存じなのかどうかを、お伺いしたい」
 最初に答弁に立ったのは自治大臣であった。
 「神社、仏閣、あるいはお祭りなどに際しまして、寄付行為が日本の慣習としてあることは事実でございます。それを和気あいあいとして行っているのであれば、必ずしも、とやかく言う筋のものではないと思います。
 しかし、お話のように寄付が強制的であったり、出さなければ神輿を担ぎ込むといったような、暴力的なことに対しては、従来もそうでしたが、これからも十分に取り締まりたい。また、そうしたことのないように、気をつけてまいりたいと思います」
29  春嵐(29)
 関久男は、更に質問を続けた。
 「寄付をするか、しないかは、あくまでも個人の自由であるはずです。ゆえに宗教上の信念の相違とか、経済上の理由などで、寄付をしないという人もいるわけであります。
 その寄付を強制し、無理強いするようなことがあれば、法律違反は明らかであります。当然、警察が調査に乗り出し、取り締まらなければならないと思う。
 ところが、警察に訴えても、警察官は消極的であることが多い。なかには、寄付は志だから、出した方がよいのではないかという警察官もいる。警察官の在り方として、これでよいのかどうか、お伺いしたい」
 自治大臣が答えた。
 「そうしたケースも、あったかもしれませんが、今後は厳重に取り締まり、そういうことのないようにしていきたい」
 関は、そこで、水道までも止められてしまった兵庫県の青垣町の例や、地区の共有林等の財産権を失った三重県の熊野市の例などをあげながら、いかに深刻な事態が起こっているかを語っていった。
 「……この熊野市の場合など、駐在所に届けたところ、一週間もそのまま放置されておりました。たまりかねて本署の方へ行ったところ、署長はうすうす知ってはいたが、『告発していないから手をつけない。それは、法務局の人権擁護委員の仕事であって、法務局の要請がなければ動かない』と言っている。
 こうした村八分は、憲法第二〇条にある『何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない』という条項に違反すると思います。
 また、刑法の第二二二条に定められた『脅迫』でもあると思いますが、当局の見解はどうか、明確に答えていただきたい」
 自治大臣は大儀そうに立ち上がると、目をしばたたきながら言った。
 「お話のような事態があるとすれば、これは厳重に取り締まり、防止しなければならないと考えておりますし、至急、そうするつもりでございます。
 ただ、こういった問題につきましては、往々にして複雑な原因がからんでいることがございまして、警察の力で解決することが妥当ではない面もあろうかと思われます。
 そうした点にも、よく気をつけながら、判断し、処理をしてまいりたいと思います」
 あいまいさを残す答弁であった。
30  春嵐(30)
 関久男は、自治大臣の答弁のあいまいさを突いていった。
 「大臣の答弁を聞いておりますと、複雑な事情がからんでおれば、村八分にされても、しかたないこともあるように受け取れます。
 いかなる事情があったとしても、寄付をしないことで村八分にするというのは憲法に抵触し、刑法違反ではないかと思うのですが、この点はいかがでしょうか」
 大臣は、今度は、関のあげた事例の村八分は違法であり、厳重な取り締まりを行うことを明言した。
 関は、更に、警察庁の保安局長の見解も尋ねた。
 保安局長は、慎重に言葉を選びながら言った。
 「それぞれのケースを詳細に見ていかなければ、結論は出せませんが、今、関議員が言われましたケースは、おおむね刑法の第二二二条の『脅迫』にあたるのではないかと思います」
 関の質問は、いよいよ大詰めに入っていった。
 「そういたしますと、祭りや寺の修理などの寄付を拒否したことで村八分にあった場合、それを取り締まらないのは、警察官の怠慢と考えて、よろしいのでしょうか」
 「ご質問にありました村八分のケースを、私が想定してみました場合、まず脅迫罪があると思われます。したがって、その訴えを受けて、ぜんぜん取り調べをしない、捜査を開始しないというのであれば、若干、警察官としては、問題があると思います」
 関は鋭く迫っていった。
 「しかし、さきほども申し上げましたように、実際に、そういうことがあまりにも多い。
 調べてみると、警察官が町や村の役員などと知り合いであったり、飲み友達であったりする。
 そして、警察官がそちらの有力な方について、村八分にはかかわらないということが、現実に起こっているのです。これに対しては、どうお考えでしょうか」
 「村の有力者と馴れ合いになり、被害の届け出があっても、情実にとらわれて動かないというのは、まことにまずいことであります。厳しく監督をいたさねばならないと思います」
 これで、学会員への村八分は、違法行為であり、訴えがあれば、直ちに警察は取り締まらなければならないことが明らかになった。当然のことであろう。
 しかし、旧習の深い地域で、有力者と警察官とが馴れ合いになり、これまで、その当然のことが行われず、学会員は不当な差別に、泣き寝入りしなければならなかったのである。
31  春嵐(31)
 関久男の参議院予算委員会での追及以来、警察も学会員の訴えに、調査に乗り出し、取り締まる姿勢を見せ始めた。
 しかし、学会員への有形無形の圧力や差別がなくなったわけでは決してなかった。その後も、各地で学会員へのいやがらせや、陰険な村八分が続いていた。
 それは、正法正義のゆえに競い起こる、経典に説かれた三類の強敵のなかの、俗衆増上慢との戦いにほかならなかった。
 しかし、同志は信心で耐え、信心で戦い抜いた。
 山本伸一も、各地で、そうした同志たちから、報告を受けることがあった。その時、彼は、こう言うのが常であった。
 「長い人生から見れば、そんなことは一瞬です。むしろ、信心の最高の思い出になります。
 仏法は勝負です。最後は、必ず勝ちます。決して、悲観的になってはならない。何があっても、堂々と、明るく、朗らかに生きていくことです。
 牧口先生は獄死された。戸田先生は戦時中に二年間も投獄されている。それから見れば、村八分なんて、蚊に刺されたようなものではないですか。
 皆さんを苛めた人たちは、やがて、あなたたちご一家が功徳にあふれ、幸福になり、輝く人格の姿を目にすれば、とんでもないことをしてしまったと思うに違いありません。そして、生涯、後悔することになるでしょう」
 伸一は、同情は、その場しのぎの慰めでしかないことを、よく知っていた。
 同志にとって大切なことは、何があっても、決して退くことのない、不屈の信心に立つことである。そこにこそ、永遠に、栄光の道があるからだ。
 三月度の本部幹部会は、二十七日、台東体育館で行われた。
 三月度の折伏は、四万四千八百世帯余りで、学会の総世帯数は百八十五万を突破した。
 また、この席上、桐生、北多摩、立川、熊谷、高崎、長岡、熱田、愛知、岡崎、奈良、舞鶴、神戸、兵庫、福山、松江の十五支部が誕生した。
 更に、三月に行われた教学試験の最終結果も発表された。
 新たに助教授五百七十一人、講師二千七百九十人、助師二万二千八百七十四人が誕生したのである。
 これによって、教学部員は、一挙に二倍以上になり、四万人を超える大教学陣となったのである。
 躍進の波は一段と勢いを増し、伸一の会長就任一周年となる五月三日を目指して、更に、うねりを広げていこうとしていた。
32  春嵐(32)
 四月二日は、山本伸一が会長に就任して初めての、第二代会長戸田城聖の祥月命日であった。
 この日、戸田の四回忌法要が、東京・池袋の常在寺で、午後一時過ぎから営まれた。
 午前中は晴れていたが、伸一が会場に到着した正午ごろには、空はにわかにかき曇り、大粒の雨が降り始めた。風も激しく、雷鳴が轟いた。春嵐であった。
 伸一は、窓ガラスを打つ雨を見ながら、″嵐のなかを進め!″との、戸田の指導であるかのように思えてならなかった。
 彼は、一九五一年(昭和二十六年)の七月十一日に行われた、男子青年部の結成式の日のことが頭に浮かんだ。その日も、激しい雨であった。
 結成式の席上、戸田は、淡々とした口調で、この日の参加者のなかから、必ずや、次の学会の会長が現れるであろうと語った。
 そして、広宣流布は絶対にやり遂げねばならぬ自身の使命であると述べ、日蓮大聖人の仏法を、東洋、世界に流布すべきことを訴えたのである。
 その恩師がいて、はや三年が過ぎた。伸一は、その間の戦いに、いささかも悔いはなかった。戸田に向かって、弟子として胸を張って報告できる自分であることが嬉しかった。
 法要が始まった。
 日達上人の導師で勤行・唱題した後、各部の代表らがあいさつに立ち、最後に伸一の話となった。
 伸一は、マイクの前に立つと、一言一言、み締めるように語り始めた。
 「……戸田先生が昭和二十六年五月三日に会長に就任なされた時、嵐のごとき非難と中傷が渦巻いておりました。その前に、事業が窮地に陥り、悪戦苦闘されたことから起こった批判でありました。
 会長として立ち上がられた戸田先生は、そのころ、幾度となく、こうおっしゃっておりました。
 『今、私は百年先、二百年先を考えて立ち上がり、戦っている。だが、人びとには、それはわからない。
 しかし、二百年たった時には、私の行動が、私の戦いが、全人類のなかで、ただ一つの正義の戦いであったということが、証明されるであろう』
 先生は二百年先と言われましたが、先生が亡くなってたった三年で、その戦いが、どれほどすばらしいものであったかが、証明されようとしています」
 参列者は、目を輝かせながら、伸一の話に耳をそばだてていた。
33  春嵐(33)
 静まり返った場内に、獅子吼のような山本伸一の声が響いた。
 「今や、不幸に苦しんできた民衆が、戸田先生の教え通りに信心に励み、偉大なる功徳を受け、見事に蘇生した姿が、全国津々浦々にあります。
 この民衆の蘇生こそ、誰人もなしえなかった、最大の偉業にほかなりません。
 しかも、それは日本国内にとどまることなく、南北アメリカへ、アジアへと広がっております。これこそが、先生の正義の確かなる証明であります。
 先生のご精神は、御本尊を根本に、この世から不幸をなくし、平和な日本を、平和な世界を築くことにありました。そのために、折伏の旗を掲げ、広宣流布に一人立たれました。
 私どもは、戸田門下生でございます。先生が折伏の大師匠であれば、弟子もまた、折伏の闘将でなければなりません。私たちは、毎年、先生のご命日を一つのくぎりとして、広布への大前進を遂げてまいりたいと思います。
 私は、戸田門下生の代表として、『広宣流布は成し遂げました』と、堂々と先生の墓前にご報告できる日を、最大の楽しみに、進んでまいります。
 しかし、もしも、それができない場合には、後に残った皆さんが、同じ心で、広宣流布を成就していただきたいことを切望し、私のあいさつといたします」
 法要が終わると、伸一は窓の外を見た。
 いつの間にか、嵐はやんでいた。
 庭には、枝いっぱいに花をつけた桜の木が、雲間から差す太陽の光を浴びて、微風に揺れていた。戸田の葬儀の日に、別れを惜しむかのように、花びらを散らしていた木である。
 咲き薫る花を妬むかのごとく、吹き荒れた嵐も、一瞬にすぎなかった。
 彼は、戸田の和歌を思い起こした。
 三類の
   強敵あれど
     師子の子は
 広布の旅に
   雄々しくぞ起て
 それは、一九五五年(昭和三十年)の十一月三日、第十三回の本部総会を記念して、戸田が伸一に贈った和歌であった。
 その師子の子は、いよいよ本格的に疾走を開始したのだ。師子が走れば、大地を揺るがし、風を起こし、雲を動かし、嵐を呼ぶことは間違いない。既に、その兆しは起こっている。
 しかし、伸一の覚悟は決まっていた。
 彼は、を握り締め、春嵐に耐えた桜の枝を、じっと見つめた。

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