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日蓮大聖人・池田大作

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第五回本部幹部会、「聖教新聞」創刊五十… 創立百周年の五月三日へ出発!

2001.4.25 スピーチ(2000.11〜)(池田大作全集第92巻)

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11  「正義」と「人権」の解放
 きょう四月二十五日は何の日か?
 世界を見わたせば、イタリアがファシズムを完全に打ち破った、勝利の「解放記念日」である。民衆が決起して戦いぬき、一九四五年のきょう、イタリア全土の解放を勝ち取った。
 私たちも、いよいよこれからが、二十一世紀の本格的な戦いである。「勝利」を獲得することだ。日本全土の、正義と人権の「解放」を勝ち取るのが、広宣流布であるからだ。
 日本のため、世界のためのわれらの前進である。日蓮大聖人の御遺命である。恩師の悲願である。断じて実現する以外にない。きょうは、その大事な出発なのである。
 なお現在、イタリアでは、この解放記念日の意義をこめて、「平和の三師匠」展として、マハトマ・ガンジーとキング博士に、光栄にも私を加えていただき、平和と人権の展示が開催されている。(拍手)
 (ジェノバ県のカンポモローネ市で。同市からは解放記念日にあたり、「平和の促進者」顕彰がSGI会長に贈られた)
12  ところで、日本を見れば、きょう四月二十五日は、明治政府から「太政官布告」が出された日である。
 一八七二年(明治五年)、牧口先生の生誕の翌年のこと。僧侶の「肉食」「妻帯」「蓄髪(髪を伸ばすこと)」は「勝手たるべき事」、すなわち「自由にしてよい」と定められた。これは、まったく仏法の法理とは関係なく、権力の都合から出された法令であった。
 表面だけ見れば、自由を認めた、よい内容のように見えるかもしれない。しかし、その背景には、権力側が「神道を国家の基本に据える」ために、日本の仏教界を腐敗させ、堕落させ、骨抜きにする意図があったといわれる。これが権力の恐ろしさである。権力の魔性である。
 私どもの同志のなかにも、権力の魔性に食い破られ、慢心におちいり、堕落し、人間としての道を踏み外した愚か者も出た。
 戸田先生は、こうした権力の本質を鋭く見破っておられた。だからこそ、つねに「権力と戦え!」と叫ばれたのである。
 明治の初め、仏教界は権力の画策を見抜くことができず、まんまと乗せられ、もろくも崩れ去ってしまった。″多くの坊主たちが布告を読んで狂気乱舞し、「仏にもまさる、お上の慈悲かな」と涙を流して、ありがたがった″という情けない話も残っている。
 もちろん、宗門も例外ではありえなかった。大正時代の宗門で出されていた機関誌には「僧侶もまた人間なり」「妾も蓄うべし」などと、開き直った暴論が残されている。
 (「自然鳴」大正三年十月号に「僧侶も亦人間也。妻も持つべし。牛肉も喰ふべし。子も造るべし。妾も蓄ふべし」とある)
 その後の宗門の堕落ぶり、また閉鎖的な血族主義の横行は、皆さんもご覧のとおりである。そして今や、まったくの邪教になりさがった。
13  サンガの原義は「広宣流布の集い」
 大聖人は仰せである。
 「日蓮は、そうした妻子ももたず、魚や鳥も食べず、ただ法華経を弘めようとするゆえに、妻子ももたないのに犯僧という名が日本国中に満ち、ケラやアリさえも殺さないのに、悪名が天下に、はびこっている」(御書936㌻、通解)と。
 ただ民衆を救わんと、もっとも崇高な行動を貫かれた大聖人が、嫉妬によってであろう、こともあろうに国中の人々から、もっとも醜い汚名をかぶせられてしまった。しかし大聖人は、すべて法華経に説かれたとおりの難であり、「うれしさは、とても言い尽くすことはできない」(同㌻、通解)と、悠然と仰せであった。
 この崇高なる御精神にまっこうから違背し、遊蕩と堕落のかぎりを尽くしてきたのが日顕であり、日顕宗である。この事実を、後世に明確に残しておきたい。
 戸田先生は、よく言われていた。
 「僧侶といっても、妻帯して、われわれと同じものを食べ、同じものを着ている。そして、同じ南無妙法蓮華経を唱えている。われわれとまったく同じではないか。ゆえに、僧が上などと威張るのではなく、われわれと一緒に、平等な立場で、広宣流布に戦っていくのが本当の僧侶である」
 きょうは、戸田先生の言葉のとおり、創価学会と一体で戦っておられる「広宣流布の僧侶」の皆さまを、お迎えできてうれしい。(拍手)
14  大聖人が仰せの理想の「和合僧」は、現代では、創価学会以外にない。
 「和合僧」の「僧」を、短絡的に「僧侶」とみるのは間違いである。「僧」とは本来、仏法を正しく持ち、広宣流布に進む人々の「集まり」をいう。
 もともとは、釈尊の仏法のもとに集まった同志を、当時のインドで「僧(僧伽、サンガ)」と呼んだのである。
 (「僧」は本来、「仏教修行者の集まり」を意味する「サンガ」の音訳「僧伽」を略したもの。中国においては、「僧」が出家した個人をさすようになった)
 この原義に照らせば、「広宣流布の信心」ありてこその「僧」である。姿形ではない。広宣流布に正しく進むわれわれこそが、姿は有髪であっても、真実の「和合僧」なのである。(拍手)
15  終わりに、「インドの詩聖」タゴールの言葉を引きたい。
 「他人を中傷して自己満足にひたるのは、弱者の気晴らし」(『タゴール著作集』8、森本達雄訳、第三文明社)と。
 小さな人物が、偉大な人間を中傷するのは、歴史の常である。
 大聖人は仰せである。「愚人にほめられたるは第一のはぢなり
 戸田先生は言われた。「大聖にほむらるるは、一生の名誉なり」(「青年訓」)と。
 これからも、この大確信で戦ってまいりましょう! お帰りになられたら、同志の皆さまに、くれぐれもよろしくお伝えください。きょうは、おめでとう! ありがとう!
 (東京戸田記念講堂)

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