Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一回長野県総会 わが生命の「幸福の官殿」開け

1990.8.12 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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11  人間の病・嫉妬は不幸の因
 ″正しき道″を進んでいる人は妬まれる。日蓮大聖人もそうであられた。日興上人もそうであられた。創価学会の歩みも同様である。そのほか歴史上の実例は無数にある。
 嫉妬は、いわば人間の病である。病気のようなものである。
 シェークスピアは、嫉妬の悲劇『オセロ』の中で、ジェラシー(嫉妬)のことを、「緑色の眼をした怪物」と呼んだ。この怪物に魂を奪われると、病のごとく、自分で自分をどうしようもなくなる。
 ギリシャの哲人アンティステネスは、「嫉妬は錆のごとし。錆が鉄をむしばむがごとく、嫉妬は汝自身をむしばむ」と。
 そのとおりであろう。提婆達多も、釈尊への妬心から、身を滅ぼした。これは″男の焼きもち″である。また女性の嫉妬は、悪鬼としての鬼子母神、十羅刹女の生命に通じるといえるかもしれない。
 現代の広布の前進においても、自身の嫉妬心に信心をむしばまれ、みずから堕ちていった人間がいたことは、ご承知のとおりである。
12  大聖人は、次のように明確に仰せである。
 「彼の阿闍梨等は・自科を顧みざる者にして嫉妬するの間自眼を回転して大山を眩ると観るか
 ――かの阿閣梨(大聖人を誹謗して、本末転倒の法門を唱えていた悪僧・尾張阿閣梨)らは、自分の誤りを顧みない者であり、(正法の行者であられる大聖人を)嫉妬するあまり、自分の目が回転しているのを、大山が回っていると見ているようなものである――。
 たしかに、自分の目が回っていれば、見るものすべてが回って見えるだろう(爆笑)。しかも自分では、その転倒に、まったく気づかない。こうなっては、もう正常な話し合いも不可能である。
 ――大きくうなずいておられる方は、奥さまの″焼きもち″に苦しんだ経験がおありの方かもしれない。(爆笑)
 ある人が言っていた。「まったく、焼きもち焼きの女房ほど、手に負えないものはない」(爆笑)。「ヒステリックになって(笑い)、何を言っても話が通じない」(笑い)。「私は、ほとほとこりました」(笑い)。「こうなったら、もう放っておく以外ありません」(爆笑)
 率直な体験談であって(笑い)、決して女性を批判しているのではない(爆笑)。むしろ、男性の嫉妬のほうが、被害も大きく(爆笑)、こわい場合が多い。
13  ぐるぐる目が回転している人に、どう見えようと(笑い)、大山は大山である。どっしりとして不動であり、不変である。
 富士のごとき、また浅間のごとき、大いなる山も、目が回っている人間には、ぐらついて見える。動かざる大地も、雲を浮かべた大空も、回って見えるのである。
 ゆえに、そうした人間の言うことを信ずるほうが愚かである。決してだまされてはならないということを、大聖人は教えてくださっていると拝される。
 嫉妬の人間の悪口はつねに、自分自身の″悪″と″動揺″を語っているにすぎない。
 妬み深い人間は、つねに動揺している。他の人の動向に一喜一憂しながら、いつも胸中で、あれこれ策をめぐらしている。本当の自信がなく、不安定に、ぐらついている。心の休まる暇がない。その意味で、彼らは不幸である。
 そのうえ、他人の幸福や成功を見るたびに、黒い炎に胸をこがして苦しむ。だから、彼らは二重に不幸である。
14  仏道修行は慈悲の実践
 さらに、目が回って、物事の正しい姿が映らない。ゆえに、必ず道を誤る。頭に血がのぼって(笑い)、常識も礼儀も人間性も、どこかに消し飛んでしまう。自分を守ってくれている味方をも敵にし、本当の敵を見失う。
 その結果、自分で自分を傷つけ、自滅していく。また、時代と民衆の進歩にとり残される。ゆえに、ますますあせる。こうした意味で、彼らは三重に不幸である。
 そして、彼らのまわりからは、正しき人は遠ざかる。妬みの人、野心の人、策謀の人が集まってくる。悪人のみに囲まれて、本当の友情も知らない。心通う同志愛のすばらしさも味わえない。この意味でも、さらに彼らは不幸である。
15  それでは、嫉妬の反対は何であろうか?ある意味で、それは慈悲ではないかと思う。
 仏法では、「慈悲を観じて嫉妬を治す」――慈悲を観じて嫉妬を治療する――と説く。
 釈尊時代、「慈悲観」という修行によって、嫉妬、また瞋恚(いかり)を静めようとしたのである。(=「減劫御書」には「瞋恚しんにをば慈悲観をもて治し」と、嫉妬と瞋恚を相通ずるものとして扱われている)
 瞋恚は、いうまでもなく、貪瞋癡(むさぼり、いかり、おろか)の三毒の一つであり、地獄界の顕れである。「慈悲」を観ずることによつて、初めて嫉妬という″地獄界の炎〔を消し静めることができるとしたのである。
 もちろん今、末法において、そうした修行は必要ないし、そんなことを教えても、火に油を注ぐように逆効果であると、大聖人は仰せである。
 末法においては、御本尊こそ大慈大悲の御本仏の生命の当体であられる。ゆえに、御本尊を持ち、妙法広宣流布へ、自行化他の行動をしている私どもは、いわば「慈悲の修行」をしているといってよい。「慈悲観」も、その実践のなかに自然に含まれているのである。
 ともあれ、私どもは、他の人の幸福を祈り、他の人の不幸に同苦しつつ、正法を弘めている。これに対し、妬みの人は、他の人の幸福に苦しみ、他の人の不幸を喜び、願って生きている。人間として、まったく正反対の生き方なのである。
16  そのうえで、十界互具(十界のそれぞれが、互いに十界を具していること。この場合は、人界にも、地獄界を含む十界が具わっていることを指す)であるゆえに、だれしも、嫉妬という地獄界の炎をもっている。だからこそ、「修行」が必要なのである。
 つねに、他の人の幸と成功を心から望み、喜んでいける――そういう強い人間を、正しい人間を、つくりあげていく。それが信仰である。仏道修行である。
 そのためには、たとえば自分のいちばん気にいらない人、自分のいちばん困っている人、その人のことを真剣に祈ってあげることである。もちろん、悪への妥協がいけないことはいうまでもない。
 また私どもは、事実、後輩のこと、同輩のこと、先輩のことまで、皆、祈っている。思いやっている。こんな慈愛の世界はない。これほど尊く、うるわしい集いもない。(拍手)
 そして、この仏道修行によって、自身の境涯、人格を押し広げ、まさに″大山″のごとき大盤石の生命、きょうの″大空″のごとき晴れやかな大歓喜の人生を、築いていけるのである。この大境涯にこそ、真の「幸福」も躍動している。
 幸福は、決して、″あれがあれば″″環境がこうなれば″手に入るというようなものではない。いずこにあっても、また何があっても、自分らしく、朗らかに、人生を楽しみきっていける自身の″境涯の開花″にこそ、幸福はある。
17  皆さまは、日々、法のため、人のため、社会のために、時には多くの人が休んでいる間も働き、進んでおられる。人類の中にあって、最高に尊い方々であられる。
 皆さまの安穏とご健康、ご長寿を、そしてご活躍を、私は懸命に祈っている。皆さまが安心し、喜びに満ちて歩んでいかれることが、私の最大の願いである。
 最後に、この長野、そして新潟の地に、世々代々にわたる信心後継のすばらしき″父子の流れ″をつくられんことを念願し、祝福のスピーチとしたい。本日は、本当にご苦労さまでした。
 (長野研修道場)

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