Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)
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10
戸田は、この夏、八月二十五日まで、全国にわたって、各所で初信者を前に、数多くの講演を繰り返し行い、「大聖人御図顕の御本尊は、いかなる御本尊か」「広宣流布とは何か」を、かみ砕いて回るのだった。
八月十二日の名古屋地区第二回総会でも、結集した千四百余人の地区員に向かって、戸田は、同じ趣旨の話をしてから、こう結論した。
「これを理屈でわかるために、学会では教学を教えているから、三年ぐらいみっちりやれば、絶対だとわかるようになっています。しかし、三年やって理屈でわかるよりも、今、私の言うことを、『ああ、そうか』と信じた方が早いだろうと思います。
三年目に、『ああ、そうか』とわかるのも、今、『そうか』とわかるのも、同じことではないですか。
だから、今、『そうか』と思ってやりなさい。来年、来るか来ないか知らんけれども、それまでに、私の言った通り、御本尊様を信じて功徳がなかったら、いくら私を殴っても、何をしてもかまわない。
東京へ談判に来てもよろしい。それを信じもしないで、折伏もしないで、文句を言っても、それは駄目です。やってごらんなさい。それだけを教えに来たんだからね。普段、聞いてはいるだろうけれど、念には念を入れて申し上げる。やってごらんなさい、と。これで、私の話は終わります」
名古屋地区は、この年、年間折伏目標三千世帯を立て、既に、この時までに二千世帯を突破していた。名古屋は、日本の六大都市のなかで、いちばん遅れて創価学会の根が下ろされた都市であった。中部の広大な山野をかかえたこの地方にも、広宣流布の大波は、今、ひたひたと岸辺を洗い始めたのである。
そして、地区員一同の念願は、一日も早い支部結成への熱望となっていった。
十二日、戸田は、帰京すると、翌十三日には新潟市に向かった。この新潟地区は、一九五三年(昭和二十八年)に、やっと一世帯が入会したのであったが、一年後には七百六十世帯を数え、二年後の、このころには、千百八世帯と急激に発展し、新潟市を中心として、周辺の市町村でも、活発な活動が展開されつつあった。地区の数人の幹部を除いては、すべての会員は、戸田の顔を見たこともなかった。
新潟地区総会は、夜の七時から新潟市公会堂で開かれた。定刻には、千五百人余の地区員が、初めて見る戸田城聖を、純朴な目で迎えた。布石の遅れていた日本海側一帯の、最初の総会である。好奇心と真剣さとが相半ばする会員の姿勢には、初信のみずみずしさがあふれ、おのずから求道の熱意が漂っていた。
清原かつ指導部長から、勤行と折伏についての指導があったあと、戸田は、ここでも浜松や名古屋における講演と同じことを語り、宿命打開の確実な方法としての日蓮大聖人の仏法を、懇切に説いた。
ただ、本論に先立って、この世の不公平と不合理の、著しい一面を冷静に語って、彼らの人生についての思索を促すところから始めた。
「世の中の状態を見ますのに、金持ちがいるかと思うと貧之人がいる。夫婦仲よく暮らしている家があるかと思うと、喧嘩ばかりしている家がある。そろって丈夫で楽しく暮らしている家があるかと思うと、病人だらけの家もある。丈夫な人がいるかと思うと、体の弱い人がいる。これは、どういうわけであろう。
いまだ西洋哲学に、おいては、これは結論づけられてはおりません。東洋の仏教哲学においてのみ、この結論はつけられているんです。それは、われわれの生命は永遠であるということです。
われわれは、この世で死んでも、また、この次に、この裟婆世界に生まれて来なければならん。生まれ変わるのではありませんよ。昨日、生きていた人が、今日も生きているように、今世で生きている人は、また来世で生きていかなければならん。来世を認めると同様に、過去をわれわれは認めざるを得ない。
これが、東洋の仏教哲学の根底をなすものであり、知る知らぬにかかわらず、生命の実相であります」
新潟の会員たちは、戸田の話を聞き、今、巡り合うことのできた日蓮大聖人の仏法によって、ともかくも、わが身の宿命を打開し、身をもって仏法の法理を証明してみようと思った。
戸田は、宿命を打開できず、この次、新潟に来るまでに思う通りになっていなかったら、自分を壇上でいくら殴ってもよいとまで約束している。戸田の、御本尊に対する確信は、そのまま新潟の会員の心に、ある決意を植えた。
11
満を持して待機した八月十五日が来た。夏季地方指導の派遣隊六百三十二人は、一斉に全国四十五カ所の拠点をめざした。十四日の夜半から十五日の朝にかけて、各方面への派遣隊は、東京駅から、あるいは上野駅から陸続と出発した。
総指揮の九人の最高責住幹部以下、支部・地区幹部から組長までの壮年・婦人をはじめ、男女青年部員二百六十三人、このほかに拠点に縁故者をもつ個人的な参加者など、総計六百三十二人の大量派遣である。
これまで、毎年、夏ごとに拠点となった地方の受け入れ態勢も、精力的な準備活動をもって、これに応えていた。しかし、四十五カ所に及ぶ派遣先のなかには、九州方面の十都市のように、世帯数の極めて少ないところもあった。
たとえば、若松が二十四世帯、小倉が二十五世帯、田川が六世帯、門司が十三世帯、隣接する山口県・下関にいたっては、わずか三世帯にすぎなかった。それゆえにこそ、夏季地方指導が必要であったわけだが、これらの拠点の担当幹部は、並々ならぬ苦闘を覚悟しなければならなかった。
ともかく、この夏で、全国的な布石を、ひとまず完了しなければならない方針である。日本列島は、北から南まで、弘教の波が、あちこちに広がったのである。
地方によっては、創価学会の、この勢いに驚き慌てたところもあった。北陸地方のある地域では、「創価学会来る」と警戒放送し、また、大阪の新聞などは、十四日の夕刊で早くも、「各宗教団体に法論を申込み信者増加」などと書き立てた。
九州の東部沿岸地方では、この夏の学会の折伏活動を察知した身延系日蓮宗が、各県の代表を大分市に集めて対策を協議したりした。そして、十六日付の新聞九州版には、創価学会に対する身延系寺院の慌て方と、例のごとき学会誹謗の記事が大きく掲載された。
また、警察も動いた形跡があった。九州・延岡では、刑事らしき者が座談会場に現れ、「パチンコ狂いで困っているが、治るか」などと、質問をして帰っていったこともあった。
ともかく、六百余人の派遣隊の活躍は、酷暑のさなかにあって、折伏の汗を思う存分、流したのである。
最も目覚ましい活動成果をあげたのは、北海道の札幌であった。山本室長を主将とする派遣隊が到着した十六日の晩に、たちまち五十世帯の入会決定をみたのである。翌十七日には六十世帯、十八日にも六十世帯、十九日七十世帯、二十日六十世帯というように、着々と入会決定は積み重ねられ、二十日には、目標の三百世帯を優に超えてしまった。そして、さらに飛躍をめざしたのである。
地元の態勢といえば、札幌班は五百世帯の現有勢力であったが、これを五区に分け、一区ごとに二人の派遣員が担当したにすぎなかった。
旅館の壁には、五区の成果を示すグラフが掲げられていた。各区ごとの成果が、毎夜、記入され、五本の棒が、抜きつ抜かれつ競い合った。派遣員と地元の会員との、各区ごとの責任感による団結が、水も漏らさぬ闘争となって、日ごとに着実な成果を示した。
二十一日早朝、山本伸一は、旅館で緊急幹部会を開き、勤行をし、御書の講義をしてから、疲労の見え始めた一同をねぎらいながら言った。
「連日、ご苦労様です。体の調子の悪い人はいませんか。遠慮なく言ってください」
早朝の札幌は涼しかった。五日間で目標を達成した人びとの顔は、日に焼けていたが、達成の喜びに微笑んで、体の不調を訴える人はなかった。
「今日から後半戦に入ります。これからが肝心で、気を緩めることなく、全力を尽くして悔いのない闘争を展開し、有終の美を飾りたいものです。
すべては、御本尊様がご存じです。皆さんが大功徳を受けることは間違いない。私は、それを祈っています。二十四日には、戸田先生を、お迎えして、札幌班大会を開催します。われわれは、戦い切って、勇んで先生にお目にかかろうではありませんか!」
この朝の伸一の指導に、札幌班のエネルギーは持続した。そして、この夏、札幌は三百八十八世帯の本尊流布の成果によって、岡山の三百八十五世帯、大牟田の三百十八世帯を超え、四十五カ所のなかで第一位の栄誉に輝いた。
全拠点とも、学会員の意気は盛んであったものの、苦闘を余儀なくされた地方も多かった。
日本海に面する北陸一帯は、数百年にわたって念仏の盛んな地域であり、信心の話というので、じっと気長に聞く姿勢はあったが、いつまで話しても決断がつかない。
「妙法もいいですちゃ、しかし、念仏もやめられんちゃ」という結論である。それでも、派遣員は、くじけることなく、果敢に仏法対話を推進していった。そして、富山、高岡、福井、金沢の四拠点で、三百三十一世帯の弘教を実らせたのである。
最も苦戦を余儀なくされたのは、北海道・旭川に向かった八人の派遣員と、地元三百世帯の会員である。到着第一日に、激しい雷雨に続いて豪雨に見舞われた。北海道では、かつてない雷雨で、停電の夜が二日もあり、ロウソクをともしての座談会をしなければならなかった。市内の出水は、時に膝を没し、鉄道の線路に土砂が崩れ落ちて、汽車は不通となり、出足をいたく、くじかれた。
そこへもってきて、ある地方新聞に、全段を費やして、創価学会への誹謗記事が掲載された。
旭川の学会員は、多くの友人や訪問先をもって待機していたのだが、座談会出席の確約は、ほとんど崩れ去ってしまった。また、この十日の間に、三百世帯のなかで二軒の葬儀があって、会員の足を鈍らせた。さらに、一行が泊まった旅館に盗難が発生するなど、不慮の事態が連続した。
それによって、旭川市内での活動が阻まれたので、予定を変更し、派遣員の半数は、連日、周辺町村に向かい、やっと活発な活動を展開することができた。そして、最終日までに、百八十八世帯の本尊流布を敢行したのである。
このような、全国四十五カ所にわたる、六百余人の活動の渦のなかに、戸田城聖は、自ら飛び込んで指揮と激励を続けた。
八月十五日の早朝七時四十分、戸田の一行は、羽田から、空路、日航機「白馬」で飛び立ち、福岡の板付飛行場に到着、直ちに八女市に向かった。牧口会長時代からの拠点である八女では、八女支部第三回総会が、午後二時から開催された。戸田は、この古い拠点にも、新しい人材の城が、どうやら築かれ始めたことを察知して、集まった人びとを激励し、一泊した。
翌十六日には、本部直属の班のある福岡に向かった。班といっても、既に千世帯を超えていた。二年前、一九五三年(昭和二十八年)の夏季指導で、福岡の会員は四十七世帯になったが、それが、ここ二年間にして二十倍を超える世帯になり、組織の確立が急務となっていた。戸田は、一挙に三地区の結成を行った。福岡、大名、博多の三地区の誕生である。
班大会は、地区結成大会に変わった。小岩支部所属となった三人の新任の地区部長と三人の地区担当員は、歓喜のために、一瞬、呆然となった。そして、それぞれの決意の発表は意気天を衝き、九州広布に燃え立った。
この夏、福岡を中心とする九州北部――門司、若松、小倉、八幡、田川、それに山口県・下関の各都市の本尊流布を合計すると、六百二十八世帯という数字になった。
戸田城聖は、十六日夜、羽田に舞い戻り、一日おいて十八日の午後には、また羽田を飛び立って北海道に向かった。札幌を起点として、汽車をもっぱら利用し、二十日旭川、二十一日夕張、二十二日小樽、二十三日函館、二十四日札幌帰着というように、道内を拠点を、息つぐ暇もなく一巡した。上げ潮に乗った彼の闘争が、ここにあった。
12
北海道は、戸田にとって、思い出多いふるさとである。十代の後半を送った札幌や夕張は、彼の人生の来し方を、いやでも思い起こさせた。箱車を引く店員生活のなかで、向学の志に燃え、教員免許を獲得した札幌の街、夕張の真谷地で送った教員生活、希望と失意の織り成した青春の思い出が、噴きこぼれるようにあふれた。
今、この地に、彼は、妙法流布の大使命を担って、その全国的な総帥として帰ってきた。予想もしなかったことだが、まことに人生の不可思議さに、今さらのように感に堪えなかった。
彼の思いは、過去から現在へ、また、現在から過去へと揺れた。
厚田の漁村に一庶民の子として育ち、やがて札幌に出て、庶民の生活の苦汁を、身をもってつぶさに嘗め、処世における学問の効用を痛感すると、独学の道を選んだ。
彼の苦闘は、この時から始まった。独学の学問は、彼に小学校教員の地位を与えた。夕張の山間の憂鬱と苦悶は、青雲の志となって東京の地を踏ませたのである。
苦闘は、さらに重なっていったが、彼は、牧口常三郎という終生の師に巡り合うことができた。妻子を失う不幸に耐え、師の全人格から得た価値論と信仰は、彼の人生を思うままに羽ばたかせた。
戸田は、独創的な教育者として、また、事業家としての手腕を存分に発揮したが、時代は戦争へと突き進んでいった。師の不屈の信仰は、軍部政府の弾圧を呼び起こし、師は、彼を牢獄にまで連れていった。
そして、師の牧口は、獄中で殉教の生涯を閉じた。戸田は、師の獄死に対する憤激の痛苦に沈んだ。しかし、師が、その生涯を終えようとしていた、まさに、そのころ、彼は、唱題に次ぐ唱題を重ね、法華経の真意に迫ろうとしていた。そして、何ゆえに、この世に生まれて来たかの本事を、悟るにいたったのである。
生きてあることの歓喜と、果たすべき使命の重大な自覚は、彼を敗戦後の焼け野原に、一人、立たせた。
彼は、直ちに、苦悩に沈む当時の民衆の蘇生に、残りの生涯のすべてをかけた。億劫の辛労は、日に、月に、実を結び始め、十年後の今日に至ったのである――。
戸田は、北海道の汽車の窓から、遠い原野を眺めながら、異常なまでに寡黙になることがあった。来し方のすべての意義が、彼は、今、わかったのである。
″あのことも、このことも、一つとして無駄なことではなかった。過去の種々は、すべて見事に蘇生しているではないか!″
庶民として苦渋を味わい続けてきた彼にとって、民衆の心情は、ことごとく彼自身の心情となっていた。もしも、過去のある境遇や事件が一つでも欠けていたとしたら、今日の彼という存在はなかったであろうことを、戸田は、心に反芻しながら、じっと寡黙になっていたのである。
汽車は、二十日、彼を旭川に運んだ。彼は、懐かしい北海道訛の会話で、旭川の初信者たちを身内のように激励した。さらに思い出多い夕張、小樽、函館と、戸田は歴訪の旅を続けた。
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彼の励ましは、疲れた派遣員や地元学会員に、尽きぬ活力を与えた。
二十四日、札幌に舞い戻ると、市の商工会議所で開催された講演会で、彼は、約二十分間にわたる講演を行った。この時も、「観心本尊抄」の「
此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う
」を基本テーマとして、御本尊がいかなるものかを徹底して説いた。
この夏、北海道の八拠点の法戦は、十日間で合計千三百九十四世帯という本尊流布の成果を得たのである。
八月三十日夜、八月度本部幹部会が豊島公会堂で開かれた。会員は場外にもあふれた。夜とはいえ、残暑の余熱に、場内は蒸すように暑かった。集った人びとは、流れる汗をぬぐいながら、この夏の意気揚々たる活動報告に耳をそばだてていた。言い知れぬ上げ潮の歓喜が場内に渦巻いていた。
まず、折伏成果の発表である。蒲田、大阪の両支部が、それぞれ四千世帯を超えていた。十六支部の合計が、二万二千八百九十二世帯と発表されると、聴衆のなかに、「おぉーっ」という驚きの声が漏れた。
さらに、地方派遣員の四十五カ所の成果が読み上げられ、合計五千五百五十八世帯と聞くと、人びとは拍手のなかに歓声をあげた。そして、最後に、八月度の成果総数二万八千四百五十という発表を聞いた時、皆、わが耳を疑った。そして、左右の同志を顧みて、″やった!″という誇りに輝きながら、団結の歓喜に酔ったように、はつらつたる笑顔が、会場いっぱいに花咲いたのである。
数カ月前、せいぜい一万世帯そこそこで低迷していたのが月々の成果であった。五月三日の総会の折、月々一万五千世帯の成果を続行しなければ、一九五五年(昭和三十年)度の三十万世帯の目標達成は不可能と発表され、容易ならぬことと決意した一同の胸中の蕾は、三カ月にして、早くも大きく開いたのである。
一万五千どころではない。二万を超えた。いや、それをはるかに超えているではないか。あと四カ月、これで本年度の目標達成は、確実となった。集まった数千の会員の拍手の嵐は、咲き誇った数千の笑顔の花々を輝かせた。
この夜また、男子青年部の組織の改革が発表された。上げ潮の波頭の最先端にいた男子部は、部員の急激な増加に備えて、組織の新たなる整備に着手した。これまで十六の部隊の組織は、部隊長―班長―分隊長という三段階の編成であったものを、部隊長―隊長―班長―分隊長と変革したのである。
当時の各部隊の人員は、平均千人から千五百人の部員を数えるまでに拡大してきたのだったが、なかには四千人に近い部隊もあった。秩序ある団結の前進というものが、将来、いつまで続くかという心配もあった。指導と、団結と、実践力との円滑な連動が要求されてきたのである。
新組織は、これに対応するものであり、同時に、これまでの部隊ごとの幹部室を解消して、新たに各部隊に企画部門を設置した。あわせて庶務と教学に主任制を設け、それぞれの責任分野を明確にし、今後の限りなき発展に、早くも備えたのである。
小西理事長のあいさつのあと、戸田城聖の指導となった。堂内を揺るがす拍手のなかで、戸田の姿に、みずみずしい光彩が、一瞬、走ったように思われた。その姿そのままが上げ潮の光であった。
「このたびの夏季指導によって、五千五百余世帯の不幸な人びとを救えたのは、皆さんの厚い好意によるものです。必ずしも、現地で活動に励んだ人たちの努力ばかりではありません。皆さん方の資金の応援があったからこそ、できたのであります。このことを厚く感謝いたします」
戸田は、成果の数字よりも、救われた不幸な五千五百余世帯の人びとの身の上を思って喜んだ。派遣員や地元の活動メンバーの労苦に謝するよりも、その活動を十分に可能にした応援者たちに感謝したのである。
「五千有余世帯の人は、少ないようだが非常に大きい。そこで、他宗は大変に慌てだした。例をあげると、学会をまねて″折伏″を始めた教団があった。辻説法を始めた教団もある。また、ある地域では、『創価学会が来たから、皆、戸を閉めて裏から逃げてしまえ』と防御戦術をやったそうだ。さらに面白いのは、日蓮系のある宗派では、『創価学会問答十二か条早わかり』という問答集を出した。読んでみみると、実に滑稽で、教学があるのかないのか、思わず噴き出してしまった」
ここで、笑いをこらえていた聴衆は、どっと爆笑した。
「こんなことが書いてある。――この宗派では、『黒仏』といって大聖人の像を墨で黒く塗っている。『観心本尊抄』に『
無始の古仏なり
』とあるのを勘違いして、大聖人様は古仏だから黒いはずだと言うんです。なんたる滑稽な早わかりでしよう。
彼らは、どうしたらよいか四苦八苦している。しかし、彼らがなんのかんのと理屈をつけても、御本尊の法力の点では、絶対に勝てません。これだけは、はっきり言っておく。
たとえ、いかに信心が浅くとも、どんな悩みも、最後に引き受けてくれるのは、御本尊様です。世界唯一の法力のこもった本尊を、私たちは受持しているんです。皆さんは、心から安心して、今後の信心をしっかりやっていってください」
一九五五年(昭和三十年)八月の、目覚ましい全国的な活動は、社会に大きな宗教改革のうねりを起こしていった。そして、この時に始まった上げ潮は、戸田がこの世を去るまで続き、このあと、二年数カ月で七十五万世帯達成の高潮をみるのである。
その契機が、この夏の八月の戦いであった。
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