Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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中部での語らい 「檀家制度」に宗門堕落の淵源

1992.12.17 スピーチ(1992.6〜)(池田大作全集第81巻)

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10  在家が悪侶清十郎の折伏行
 信徒による折伏は、尾張(愛知県)の名古屋と、その近在でも展開された。
 幕末に近い、文政五年(一八二二年)ごろ、江戸・目黒に住む信徒・永瀬清十郎が、尾張に布教したことが、その発端である。
 清十郎は、在家の信徒ながら、他宗との法論にも巧みであった。東北から尾張にいたる各地へ行って折伏に励んだ。そして有名な「砂村問答」では、日蓮宗一致派を打ち破っている。
 これについては、戸田先生も「砂村問答──清十郎の折伏記」として、「大白華」誌上で四回にわたって紹介された。
 当時の宗門には、清十郎のように、各地へ行って折伏・弘教に励み、正義を宣揚する、勇気ある僧侶はいなかったようである。
 清十郎の奮闘によって誕生した名古屋の″一粒種″は「高崎たよ」という婦人だった。婦人が婦人を折伏して、間もなく、女性だけで信徒の組織、すなわち「講」を結成する。尾張徳川家に仕えていた息子の高崎勝次、のちに折伏に立ち上がって「講」を組織し、名古屋の中心者となっている。
11  清十郎は、さらに名古屋の北在(現在の小牧市、犬山市、春日井市等)の各地で弘教し、舟橋儀左衛門、平松増右衛門、木全きまた右京、岩田利蔵などが、有力な信徒になった。
 彼らは、農民や町民だったが、学識があり、もと日蓮宗の信者だったので、仏法に関する素養もあった。正義に目覚めた彼らは折伏に励み、数多くの同志が、この地に誕生する。
 そのため、たちまち他宗から怨嫉され、訴えられ、迫害は前後四回、五十年にもわたった。その間、投獄され、拷問を受け、廃人のようにされた者も出たが、屈しなかった。
 反対に、彼らを教化しようとした日蓮宗の僧侶を破折し、正義を宣揚したのである。
 増右衛門と利蔵は、身延派の大光寺の老僧が、御書の講釈に名を借りて二人を教訓しようとしたのに対し、痛烈に反撃した。老僧は、二人の鋭い質問に返答できなくなり、ついに、を閉めて奥の間に逃げ込んでしまった。
12  その時の滑稽な様子を詠んだ狂歌が残っている。
  「ものしらぬ 大光寺まへ(大光寺の隠居) からかみを
  立るより外 立る義は無し」
 つねにいばっている傲慢な悪侶が、正義の信徒から筋道を立てて鋭く反論されると、返答できずに黙り込む──こうした醜態は、今の日顕宗が繰り返している姿である。(日顕宗を呵責した学会からの質問書等も、今まで一度として、まともに返答されたことはない)
 悪侶を描いた涅槃経の文に「唖法を受けたる婆羅門等の如し」──(悪侶は)無言の行をする婆羅門のように、誤りを責められると黙り込んでしまう──とある通りの姿である。
13  嘉永元年(一八四八年)には、日蓮宗各派の役寺七カ寺の高僧たちが、役人の立ち会いのもとで、増右衛門、利蔵、右京の三人を、教化・改宗させるための会合が、三回にわたって開かれた。
 利蔵を中心に三人は、高僧たちの邪義を、一つ一つ、明快に打ち破った。教化するはずの僧侶が、信徒の側から誤りを指摘され、しばしば詰まって閉口し、他の僧が信徒側の正義を認めるという、珍妙なものとなってしまった。
 大聖人から日興上人への二箇相承を肯定させ、波木井の謗法を認めさせるなど、信徒側の大勝利で終わったのである。
 日亨上人は「問答は富士信徒の勝利にして役寺側の悲惨の敗北で能化所化(教化する側とされる側)全く位置を転動(逆転)したること三人は面目を公場に施し七寺は恥辱を不朽に晒らすのみならず富士信仰は少しも邪義にあらず却つて日蓮宗中の正統正義なることを公吏(役人)に聞かしむるに帰した」(『尾張法難史』)と称賛されている。
 邪智・傲慢な高僧たちが、純真・賢明な正法の信徒に、惨めに打ち破られ、みずから、天下に恥を晒し、真実を証明する結果となったのである。
14  江戸時代を通じて各地で、合わせて百人近くの信徒が、権力による難にあっている。僧侶が折伏をして難にあったケースは、仙台法難の二人ぐらいしか見当たらない。権力に迎合して、保身を図っていた証左である。
 「信徒のための寺院・宗門」ではなく、「寺院・宗門のための信徒」という体質は、このようにして固まっていった。
15  「宗教革命」は日本人の「精神革命」
 日本人から「生きた宗教」を奪い、「精神的自立」を失わせたとされる檀家制度。「大石寺には、この遺物が″化石″としてではなく″生きた標本″として残っている」と驚く人もいる。
 ゆえに、この″権力化した宗教″の殻を打ち破る「宗教革命」こそ、日本の封建的な精神風土をも変革し、真実の「人間のための仏法」を広宣流布していく戦いである。
 広布破壊の日顕宗を倒すことが、大聖人の正義の「広宣流布」となる。
 日顕宗の「伝統」といっても、それは大聖人、日興上人と関係のない、むしろ正反対の、江戸時代以来の「伝統」であり、せいぜい三百五十年の「伝統」である。
 これに対し、私どもは、七百年前の大聖人に直結し、また日々、久遠の御本仏に直結して生きているのである。
 「仏法は勝負」である。私どもは、御本仏に包まれ、十方の諸仏・諸天に包まれて、いよいよ広布のため、世界の民衆のために、明年も楽しく、連続勝利の前進をしてまいりたい。

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