Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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”一冊の御書”に学ぶ  

「池田大作講演集」第3巻

前後
1  昭和二十六年の初秋のある日、戸田城聖のもとに。分厚い一冊の古い本が届いた。牧口初代会長が獄中で使用していた、日蓮大聖人の御書である。
 この一冊の御書は、廻りめぐって、やっと、不思議にも戸田城聖の手に戻ったものである。山喜房仏書林発行の版で、二千四百五十九頁、横十七・六糎、縦八・五糎の「日蓮聖人御遺文」である。戦後の学会再建期には、本宗発刊の御書もなく、学会の多くの教学陣も、これと同じものを所持していた。
 戸田城聖は眼鏡をはずし、御書に顔を押しつけるようにして、頁をべラベラめくりながら散読していた。その時期は、ちようど、立宗七百年の式典を翌年に控え、日蓮正宗第五十九世堀日亨猊下を中心に、戸田城聖の発願として、新編日蓮正宗創価学会版の御書の発刊に心血を注いでいたである。「牧口先生は、我々の御書の発刊を見守って下さっているのだ」と、深い決意をただよわせている中に、師弟というものを貫く一言であった。側にいた伸一もその御書を見せていただいた。何かしら深固幽遠の念いにかられつつ、頁を開いた。幾行かに赤線が引かれている。上段の余白には、達筆な万年筆で、御金言の解釈であろうか、細字の数行が加えられていたのが印象に残った。
 戸田城聖は考え耽りながら、私に話してくれた。
 『獄中でも、先生がよく御書を勉強しておられたことがわるよ。特に座談会では、佐渡御書を引かれ、最後にアツハハ……と、よく笑われておられたなあ。その一節は、伸一ここだよ。赤線が太く引いてあるだろう』。
2  これはさてをきぬ日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人びゃくにん等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし、修羅が仏は十八界我は十九界と云ひ外道が云く仏は一究竟道我は九十五究竟道と云いしが如く日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは螢火ほたるびが日月をわらひ蟻塚ありづか華山かざんを下し井江が河海をあなづり烏鵲かささぎ鸞鳳らんほうをわらふなるべしわらふなるべし
3  戸田城聖の微笑が、伸一の瞳に素早く入った。戸田城聖の博学は有名である。特に御書の拝読の鋭さは、完璧であったことはいうまでもない。立正安国論、開目抄、観心本尊抄、文段、六巻抄、御義口伝等々、悟達の境涯よりの世界唯一の大学者であったことを、私は信ずる。その中にあって、入信まもなく、初めて出席した総会(教育会館)での開目抄下の一節の講演が、私の耳朶を劈いたことが今もって忘れられない。
4  詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をせよ、父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず
 その時の伸一の全生命には、大風と津波が、一時に難いかかったような感動が巻き起こた。しかしやがて、新生の静寂な大地と、太陽光線が描き出されていった。
5  一日中曇天。雨が降るかなと思ったが、降らなかった。少々、身体がだるい。二階の夜の書斎は、膝掛けがないと寒い。執筆の合い間に、横になりながらスタンダールのこんな言葉を思い出した。
 ″自分の本当の性格を生かせない人間は、誰でも自分の力を出しきれない”
 時計を見たら、夜半の一時をいつの間にか過ぎていた。

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