Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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完勝の旭日・沖縄  

2004.5.15 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)

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1  友よ綴れ 人間革命の大ドラマ
 ドイツの有名な世界的詩人であるグライムは叫んだ。
 「幸福な人は、人を幸福にすることができる。
 そして、人を幸福にすることは、自分をますます幸福にしているのだ」(Sammtliche Werke, Bd. 5, Bureauf. Literatur und kunst)
 私には、わが愛する沖縄の同志の顔が浮かんでくる言葉である。
2  その朝、私は一人、文机に向かい、万年筆を握ると、原稿用紙の第一行に力を込めて書き始めた。
 「人間革命」―― 
 そして、「第一章 黎明一」と続けた。
 一九六四年(昭和三十九年)の十二月二日は、青空高く晴天であった。
 私は、大海原の見える沖縄本部にいた。天も青く、海も青く、その海岸を思い描きながら、決意も深く、小説『人間革命』の執筆を開始したのである。
 「人間革命」とは、人間の、そして人類の平和と幸福の「黎明」を開きゆく闘争である。
 そうだ。「最大の強者は、世界にただ独り立つ人間である」(『民衆の敵』竹山道雄訳、岩波文庫)と、ノルウェーの作家イプセンは書いた。
 その真実の通り、決然と一人立ちゆく正義の勇者こそ、無数の人びとを照らしゆく「黎明」となるのだ。
 四十年前のあの日、あの時、今日まで続く、私の間断なき「ペンの闘争」は始まった。あの猛爆の跡地に建った沖縄本部の質素な一室から、始まったのである。
3  私は、『人間革命』という平和建設の大ドラマを、なんとしても、沖縄で書き起こし、歴史を残しておきたかった。
 太平洋戦争の末期、日本で唯一、凄惨極まる地上戦の戦場とさせられた沖縄である。本土防衛のために「捨て石」にされ、冷酷無残な権力者に犠牲を強いられた血と涙の沖縄であった。天空と海の青さからは想像も絶する、この世のものとは思えぬ「修羅」と「地獄」の悲痛と絶望が刻みつけられたのである。
 その南部方面の戦跡を、私は胸を痛めながら、わが沖縄の同志と共に見つめた。そして、すべての尊き犠牲者に追善の祈りを捧げた。
 戦後も、アメリカの施政権下に置かれ、今度は、軍事基地の島とされた沖縄である。
 かくも戦争の「残酷」と「悲惨」を味わったからこそ、いずこの地よりも、平和への誓いを宿命としながら、決意も強く、沖縄は戦後の復興に向かった。
 「平和の心」「生命の心」「幸福の心」は、いかなる権力にも脅威にも、絶対に譲り渡すことはできない。これこそ、正義の怒りの炎を持った沖縄民衆の不滅の魂だ。
 日本は永遠に、この「沖縄の心」を尊敬し、感謝し、宝としていかねばならない。
 大聖人は「立正安国論」に仰せである。
 「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり
 一個の人間の「寸心」――すなわち「一念」の変革から、平和の建設の第一歩は始まる。この「人間革命」の法理を、沖縄は厳然と証明してきた。
 沖縄の天地で、私は、若き同志に、書き記して贈った。
4  「幸福は平和を包む。
 生命は平和を望む。
 平和を勝ちとるためには
 大仏法の広布しかない。
 この大哲学なくして
 永遠の平和はありえない。
 故に あなたも私も
 歴史に残る菩薩の戦を!」
5  「一人立つ精神」――これは、沖縄の全同志の血管に脈打つ熱き闘魂である。
 一九五四年(昭和二十九年)の九月、一人の無名の青年が本土から渡ったことから、わが沖縄の広宣流布の歴史は始まった。
 そして今年は、「沖縄広布五十周年」の佳節となる。
 草創期の我が友は、折伏に行けば、悪口を浴びせられ、罵倒された。塩をまかれ、水をかけられたことも、数え切れないほどであった。
 私はこの友を守るために、何かをしなければ、何か行動を起こさなければいけないと、断固たる決意であった。
 私の沖縄訪問も、十七回を数える。
 「沖縄広布」と一口に言っても、琉球の海はあまりにも広い。東西千キロ、南北四百キロの広大な海域に、大小約百六十の島々が点在する。そのうち、五十近い島々に、人びとの暮らしがある。
 沖縄本島も、十四世紀、いわゆる「三山」(中山・南山・北山)に分かれていた時代から、各地域の特性は、それぞれに強く豊かである。
 現在でいえば、県都である那覇市をはじめ、沖縄市、浦添市、宜野湾市、また、糸満市、与那原町などを擁する中・南部。そして、名護市と国頭郡からなる北部である。わが沖縄研修道場がある恩納村、平和記念墓地公園のある本部町は、この北部地域にあたる。
 さらに私は、忘れもしない三十年前、宮古島と石垣島を訪問したのをはじめ、多くの島々の同志と、深き心の交流を幾重にも結んできた。
 主立った島々を挙げさせていただくと――
 沖縄諸島の久米島、伊江島、屋我地鳥、渡嘉敷島、座間味島、粟国島、渡名喜島、伊平屋島、伊是名島、瀬底島、水納島、津堅島、浜比嘉島、平安座島、宮城島、伊計島、久高島、奥武島……。また、北大東島、南大東島。宮古諸島の伊良部島、多良間島、池間島、さらに八重山諸島の西表島、由布島、与那国島、竹富島、小浜島、黒島、波照間島……。
 沖縄健児である我が同志のあまりにも健気な力闘の話を聞くたびに、私の心は燃えた。私の心は大きく揺れ動いた。
 すぐにでも行って、わが友と握手し、抱きかかえてあげたい。私は最大なる励ましを捧げたいと、熱い涙を浮かべ、題目を送り続けてきた。
 大激戦があった、あの島にも、地獄の苦しみがあった、この島にも、平和のために、敢然と一人立ち上がった人間がいた。その正義の勇者である皆様の大奮闘によって、あの地域にも、この地域にも、導き広布史が綴られていったのだ。
 それは、一人から「二人・三人・百人」と、御書に説かれる「地涌の義」の通りの拡大であった。
 尊き父たち母たちは、私の大好きな「沖縄健児の歌」の如く「命をかけて ひと筋に」妙法流布の道なき道を切り開いてこられたのである。
 平和の闘士マハトマ・ガンジーの令孫で、非暴力研究所の所長として行動されるアルン博士とも、私は対話を重ねてきた。
 沖縄の生命尊厳の心に共鳴する博士は語られた。
 「一人の力は偉大です。『目覚めた一人』が出現することこそ、社会変革の出発点なのです」と。
 我らの琉球天地には、この「目覚めた一人」の偉大な力が、いずこにも沸騰している。
6  無数の厳しい条件の中で、なにゆえに、沖縄の同志は、堂々と勝ち越えてきたのか。それは、ただただ「誠実」の二字で勝ってきたのである。
 複雑にして怪奇な悪い社会の荒れ狂う怒涛のなかで、わが沖縄の同志は、人間の真実の道をば、誠心誠意、貫き通してきたのだ。
 「至誠にして動かさざる者は、未だ之れ有らざるなり」(内野熊一郎『孟子』、『新釈漢文大系』4所収、明治書院)とは、中国の孟子の名言である。
 誠実一路の真剣さは、人の心を動かし、諸天をも動かさずにはおかない。そして、敵さえ味方に変えていくのだ。
 沖縄の同志は、蓮祖が仰せのままの「勇気ある信心」で、まっすぐに進んできた。ゆえに同志は、難にあえばあうほど、悪口罵詈されればされるほど、「経文通りだ!」「御書の通りだ!」 「学会指導の通りだ!」と、大確信をもって戦い抜いてきたのだ。
 大聖人は、池上兄弟の弟・宗長に、厳しく指導された。極楽寺良観に騙された父親から、兄・宗仲が二度目の勘当を受けた折のことである。
 三障四魔に勝つか、負けるか――その正念場で、大聖人は烈々と叱咤なされた。
 「せんするところひとすぢにをもひ切つて兄と同じく仏道をり給へ
 ――つまるところ、一筋に思い切りなさい。お兄さんと同じく仏道を遂げなさい、と。
 目先の利害にも、権力の謀略にも、世間の風評にも属せず、信心を貫き通せ!
 この御手紙で、大聖人は、「信念を言い切りなさい」と何度も強調されている。
 全学会員は、一人も残らず、この御聖訓を実行していくべきだ。
 私は絶対に忘れない。沖縄の友が、傲岸な権力者らの根も葵もない誹謗と中傷のなかで、悔し涙をこらえて、仏法の正義、学会の正義を、声をからして叫びに叫び抜いてきたことを!
 三世十方の仏菩薩は、全部、御照覧である。
 日蓮大聖人が、御賞讃しておられる。
 だからこそ、沖縄は勝ったのだ。だからこそ、沖縄は世界で最初の広宣流布のモデル地域として信頼され、栄光の旗と語らいの輪が広がってきたのだ。
 沖縄に足跡を留められた、統一ドイツのワイツゼッカー初代大統領は洞察された。
 「平和の内容、それは人間性である」(『ヴァイツゼッカーのことば』加藤常昭訳、日本基督教団出版局)
 この傑出した哲人指導者に、私も、ボンの大統領府で迎えていただき、種々、意見を交換したことが懐かしい。
 大統領は明言されている。
 「いかなる世代の者にせよ、その人が抱く市民としての勇気が、われわれの文明を新しく決定していくのである」(同前)
 沖縄の方々は、大海原のように広々と、心の開かれた世界市民である。
 浦添市を中心に、お隣の中国との友好を結んできた歴史も、ゆかしい。
 沖縄に光る大誠実の「人間性」と、恐れを知らぬ「勇気」こそが、二十一世紀の平和文明の決定力となりゆくことを、私は信じてやまない。
7  三十年前(一九七四年)の二月、私は石垣島にいた。盛大な地域交流の祭典″八重山祭り″に参加したのである。楽しき歌と踊りに、皆が沸き返った。
 未来を開きゆく子どもたちの心に、「希望の種」を、「精神の滋養」をと、代表校に最初の図書贈呈を行ったのも、この時である。「第一号」となる真心の書籍を、私から受けてくださったのは、海を隔てた西表島の竹富町の大原中学校であった。
 以来、三十年闇、全国のあの村の学校へ、この町の学校へ、あの島の学校へと、図書を寄贈してきた。それは延べ千三十校を超え、贈呈書籍は約四十五万冊に上る。
 ″沖縄発″で広がった文化の光――私は、沖縄の偉人である程順則(名護寵文)を思い起こすのだ。十七世紀から十八世紀を生きた彼は、琉球に学校を開いた大教育者であり、中国でも知られた詩人であった。彼は中国に渡った際に、一冊の道徳の入門書「六諭衍義」に目を止め、自ら印刷して持ち帰った。この本は、その後、江戸の徳川将軍の知るところとなり、やがて全国の寺子屋で学ばれていったという。
 いわば″琉球発″の文化の光が、日本中の子どもたちを照らしていったのである。
 偉大なる沖縄は、文化の島だ。文化の力が武力を凌駕しうる希望の宝島なのである。
8  それは、今もって忘れ得ぬ感動の大舞台であった。
 二〇〇〇年(平成十二年)の二月五日、宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで行われた、世界青年平和大文化総会のことである。
 歓喜が弾けた。四千五百人の若き生命が燃え上がった。フィナーレを迎えると、会場が一つになって、千波万波がうねるように、カチャーシーの舞が始まった。
 私も立ち上がった。
 両手を高く掲げ、わが青年たちと一緒に、カチャーシーを舞いに舞った。まるで地清の菩薩が歓喜に舞い踊りながら、沖縄の大地に涌出したかと思う、素晴らしき瞬間であった。
 私の胸に、大聖人の御聖訓が生き生きと浮かんだ。
 「上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか……」
 勇んで戦いを起こし、使命に生き抜く人には、大歓喜がみなぎる。生命の躍動がある。それこそが、人間革命の原動力なのだ。創価の完勝の源泉なのだ。
 わが沖縄の英雄の君よ、青春に輝く君たちよ!
 君よ舞え! 私も舞う!
 君よ戦え! 私も戦う!
 師弟は不二であり、勝利も一体である。
 イギリスの指導者チャーチルは、胸を張って断言した。
 「我々から勝利を奪いとれるものは、ただ一つの悪しかない。それは、我々が目的を達成する決心を弱めることだ。そして、その結果、我々の団結が弱まることである」(The Collected Works of Sir Winston Churchill, vol.21, published by the Library of Imperial History)
9  数々の悪事を誰かに着せようとする、狡賢い姿を見よ!
 偉大なる正義を破壊せんとする陰謀の者たちは、刑場行きの行列となるだろう。
 魂を失いゆく絞首台に上っていく、命乞いをしている哀れな姿よ!
 しかし、「お前には、もう逃れる術はない」と、天の声は断罪する。
 愚者の智者ぶった振る舞いは、まるで野獣だ。
 正義の王者の魂は、壮麗である。
 「人間だれしも経験するのは/究極の幸福と人生最後の日」(「格言風に」内藤道雄訳、『ゲーテ全集』1所収、潮出版社)とは、ゲーテの有名な言葉であった。
 君よ、幸福を新たにしゆく信仰を、喜びをもって断行し抜くことだ。何の遠慮もいらない。我らの胸は一段と快活になり、勝利が近づいてくるのだ。
 ″人並みの信心″では、いけない。
 これは、かの文豪の一詩から響いてくる教訓である。
 「真実の信仰をせよ!
 人から笑われようが、誰人が何と言おうが、固い信念の一人となれ!」と。
10   勝ちにけり
    また沖縄は
      勝ちにけり
    広宣流布の
      夜明けの使命と
 沖縄の勝利は、沖縄のみの勝利ではない。わが沖縄の勝鬨は、人類の蘇生の規範となるからである。
 沖縄健児の一人ひとりの勝利が、苦難と戦う、世界中の民衆の希望の光なのだ!
 正義と平和の灯火の拡大なのだ!
 だからこそ、沖縄の友よ!断固として勝ってくれ給え! 勝つことが、平和の最前線を開拓する沖縄の誉れの使命であり、栄光の宿命である。
 わが沖縄の前進とともに、「人間革命の世紀」の偉大な太陽は煌々と昇りゆくのだ!
 我らの沖縄、万歳!
 沖縄の完勝、万歳!
11  ――五月十五日
 沖縄の本土復帰三十二周年を記念して

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