Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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2 「朝鮮通信使」と友好交流
「希望の世紀へ 宝の架け橋」趙文富(池田大作全集第112巻)
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1
民音が韓国の二団体を招聘
池田
本年(二〇〇二年)の韓国と日本の「国民交流年」に合わせて、私の創立した民音(民主音楽協会)でも、記念事業の一環として、貴国の二つの芸術団体を招聘しました。
まず、貴国トップの劇団である「シンシ・ミュージカル・カンパニー」です。
民音として、韓国のミュージカルを招聘するのは初めてのことです。大きな注目が集まりました。
もう一つは、一九九八年から招聘を続け、これが四度目となる「ソウル芸術団」です。
有名な「扇の舞」や宮廷舞踊、民衆のなかから生まれた「農楽」など、貴国伝統の舞踊や音楽を、日本の多くの人びとが、堪能しました。
趙
民音を通じて、両国の実質的な文化交流を進められている池田会長に、韓国人の一人として、心から御礼申し上げます。
2
麗しい文化交流をもたらした通信使
池田
ありがとうございます
「文化」こそ人間と人間を結ぶ原動力です。先ほど話題になったように、江戸時代の日本に大きな実りをもたらしたのも、貴国との文化交流でした。
「朝鮮通信使」を復活させた徳川家康自身も、「日本朝鮮和平の事、古来の道也」「通好はたがいに両国の為也」との言葉を残しています。(『通航一覧』清文堂出版)
この家康の慧眼は、江戸幕府が長く繁栄した要因の一つとされています。
趙
史実として明らかになっているとおり、二百年にわたる朝鮮通信使は、儒学、絵画、工芸、楽器など、あらゆる文化・技術を日本に伝えました。
豊臣秀吉軍の侵略の期間(一五九二年~九八年)を除く、五年の友好の期間のうちでも、最も善隣友好が進んだ時期です。
池田
通信使は、九州の対馬から大坂(大阪)までは海路、大坂から江戸までは陸路を進んだのですね。
訪れた各地で、日本の学者や文人などと、漢文や漢詩を書いて交歓し、絵画を描き合うなど、多彩な文化交流が行なわれました。
通信使の旅の疲れをいやすため、子どもたちが言葉を覚えて会話の相手をしたり、踊りを披露したことも伝えられています。
世界的にも有名な江戸時代の屏風絵「洛中洛外図」では、京都・二条城の前の大通りを進む”文化の使節”を、京都の町の老若男女がにぎやかに喜び迎えている様子が、実に生き生きと描かれています。
麗しき「平和の絵」です。
趙
広く庶民にまで「友好」の心が息づいていたことを象徴していますね。
池田
「江戸時代の日本」が、「文化の大恩人」として一番尊敬し、一番仲がよかったのが、貴国でした。
鎖国の時代です。当時の日本の文人・学者たちが、数百人もの朝鮮通信使から、貴国の文化を吸収しようと競っていたとの話も、うなずけます。
このような、すばらしい歴史を、日本でも積極的に教えるべきだと思います。
これまでも私は、折々に、貴国は日本の「文化の大恩人」の国であると申しげてきました。青年たちに、「永遠に、子孫末代まで韓国の大恩を忘れないでいただきたい」と訴えてきました。
趙
「正しい歴史観」を若い世代に伝える会長の行動に、深く感謝いたします。
3
深き友情で結ばれた両国の学者たち
池田
以前、慶熙大学創立者の
趙永植
チョヨンシク
博士とお会いした時に、松田甲氏の『日鮮史話』などに描かれた両国の学者の美しい友情の話が話題になりました。
一六八二年(天和二年)、第七回の朝鮮通信使として訪れた貴国の
洪世泰
ホンセテ
と、日本の人見鶴山の話です。
二人は江戸で出会った直後から、互いの見識を認め合い、深い友情を結んでいます。
鶴山が「あなたは博学で、人格は雄々しく偉大。聡明さは群を抜き、志は非凡である」と言えば、世泰は”いにしえより、一言で百年の交わりを定む、とありますが、これは私とあなたのことです”と語った。
誠実な洪世泰は、帰国後も次の使節に鶴山への手紙を託します。
「あなたと日本で詩を交わし合い、楽しく語り合ったことを、いつも思い出します。ああ、あなたとは国が異なり、遠く万里を離れ、山海が隔てています。しかし、私たちは、心は通い合っています」
ところが、手紙が江戸に着くころ、鶴山はすでに亡くなっていた。
その手紙は、かつて二人の語らいに同席していた、鶴山の息子に渡されました。そして父の貴志を継ぎ立派な学者に育っていた息子は、父に代わって深い感謝の返書を送ったのです。
趙
本当に、美しい話です。
二十一世紀を担う両国の若い世代にも、このような友好の歴史をもっと学んでほしいですね。
4
「文化」が日本人の心を開いた
池田
朝鮮通信使は、日本の祭りにも、多大な影響を及ぼしたようです。
庶民には「隣国の人と、ともに生きたい」という素朴な願望があります。その思いが、もともと民衆が主人公である「祭り」に具現化したのでしょう。
それほど、平和だった。それほど、仲がよかった。
言葉は通じなくても、珍しい衣装に、乗り物、そして音楽……。「文化」が心を開いたのです。「文化の力」は、本当に大きい。
私が世界平和の前提となる「相互理解」から「相互信頼」へと進む一助となればと、民音や東京富士美術館などを創立したのも、「文化の力」で世界の人々を結ぼうと願ったからにほかなりません。
趙
「教育」「文化」の活動に、縦横無尽に活躍される池田会長の行動に、深く共感いたします。
日本を訪れた通信使が大変お世話になったことは、第九回の通信使(一七一九年=享保四年)として訪れた
申維翰
シンユハン
が詳しく残しています。
申維翰は、日本人との応接で詩文をつくる「製述官」として日本を訪れました。
その功績の一つは、有名な紀行文『海遊録』を著したことです。同書では通信使一行の行動と日本側の応対はもちろん、宿に来る日本の学者との交流、沿道の景観、日本の文物や風物などが鋭く描かれているなど、極めて豊富な記述でした。
池田
日本の民衆が朝鮮通信使を一目見ようと集まった姿を、「雲の如く集まった」と記した人ですね。
趙
ええ。そのほかにも申維翰は、当時の日本の”出版事情”について、「わが国(朝鮮)から日本にもたらされる書籍の十倍の量が、中国の商人によって持ち込まれている」といったような興味深い内容を残しています。
また、具体的な学者との交流としては、対馬藩の儒者・雨森芳洲との交流が、随所に登場します。
おもしろいことに、両国の立場を代弁して激しく対立している様子まで描かれています。(笑い)
極めて近い関係だったからこそ、激論を交わしえたのでしょう。二人は、歴史と文化、社会と人間を、時間をかけて論じ合いながら、さらに深く理解し合うまでになりました。
5
国際人の鑑・雨森芳洲
池田
雨森芳洲については、我が国でも「江戸時代の国際人」として有名です。
現在の滋賀・高月町の出身で、十八歳で江戸に出て、対馬に赴任したのは二十六歳の時でsぢた。
高月町の生家跡には一九八四年、「雨森芳洲庵」(東アジア交流ハウス)が建てられ、著書、書状、掛け軸などが数多く展示されているそうです。
趙
それは行ってみたいですね
池田
この「雨森芳洲庵」の二代目の館長を務められた木村一雄さんが以前、『聖教新聞』に登場されたことがあります。
インタビューで、そこを訪れる貴国の方の姿について、次のように語っておられました。
「『アンニョンハシムニカ、ウェルカム芳洲庵』という案内板をご覧になって、お年寄りのなかには万歳を叫んだり、涙を流す方もおられます。
日韓併合の時期、この方たちは表では日本人といわれながら、裏では差別され、弾圧をされてきた。そんな重い三十六年間の歴史を背負っております。ところが、この琵琶湖の北の小さな村で、思いもしなかった祖国の文字ハングルを見付けた。そのことだけで胸が躍るんです」
「研修がすむと私のそばにきて『ありがとう』と言い『子供たちがきたらどうか声を大にして話してやってください。私たちは悲しい歴史の中で生きてきました。けれども、もうそんなことは二度と起こってはなりません。これからは隣国同士が仲良くしなければいけません』。そう言って、一人一人握手をしてお帰りになる」ーー。
趙
すばらしい民衆交流ですね。
今後はさらに、韓国でも日本でも、このような心の通う交流が盛んになることを望みます。
池田
雨森芳洲は「相手国の言葉が語れなくて何が交隣ぞや」と語り、朝鮮語(韓国語)、そして中国語を必死に学びます。
当時としては決して若くはない、三十六歳にして釜山に渡ったあと、日本語と朝鮮語の初めての教科書である『交隣須知』を完成させました。この教科書は、明治期まで使われ続けました。
やはり、語学というものは大切ですね。そうした先駆の人びとが歴史を開いてきたと思います。
趙博士も日本語が堪能で、昨年、お会いした時も、通訳を介さず、日本語で話してくださった。
言葉の端々から、博士の真心が伝わってきました。
趙
恐れ入ります。
池田
日本は、博士のような方を大切にしながら、貴国との友好を深めていくことが大事だと思います。
話を戻しますが、芳洲は大変な努力家で、長崎の唐人屋敷にも出向き、中国人から直接、中国語を学んだこともあったようです。
当時、三カ国語に通じた日本の国際人・文化人は、きわめて貴重な存在でした。
また芳洲は、外交の基本方針などを記した『交隣提醒』を著しています。
そこでは、「誠信之交」、つまり、言葉や文化、習慣や歴史などから相手の心を知り、互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることこそ、真の国際交流である、と訴えました。
「朝鮮との外交は誠信をもって取り組むべし」ーー芳洲が貴国の人びとと交渉を重ねるなかで、得た結論でしょう。
まさに、現代にも通じる外交の要点と言えるのではないかと思います。
6
民衆と民衆の交流こそ肝要
趙
雨森芳洲は、日本の人びとがわが国を理解するために最も困難な「言葉の壁」を、打ち破った人だったのですね。ところで、当時の代表的な文化人に、新井白石がいますね。
幕政の一翼を担っていた彼は、財政負担の軽減という観点から、朝鮮通信使を迎える儀式の簡略化や、歓迎方法の変更など、大幅な見直しを行ないました。
一七一一年(正徳元年)、第八回の通信使を迎え入れるにあたってのことです。
その見直しの中に、日本の将軍の呼称を「大君」から「日本国王」に改めさせるというのがあり、これが雨森芳洲らから猛反発を受けたそうですね。
池田
新井白石は、合理と実証を重んじる優れた儒学者で、雨森芳洲と同じ木下順庵の高弟の一人でした。
白石は、実際の政治の場でも、妥協を許さずに自らが掲げた儒学的な理想主義を貫こうとしたようです。
その結果、貴国との交流について、さまざまな場面で衝突し、国内でも論争を巻き起こしました。
「理想」を高く掲げることも大事ですが、やはり状況を的確に反映させた「現実の声」を重視することは欠かせないということでしょう。
一七一六年、徳川吉宗の将軍就任とともに、白石は失脚します。さまざまな教訓を含んだ「歴史の断面」だと思います。
趙
申維翰が第九回の通信使の員として訪日したのは、白石が失脚した三年後となります。
この時、通信使制度は、ほとんど元に戻されました。通信使一行の対応にあたった中心者の一人が、雨森芳洲で、大幅な見直しのあとの、幕府と朝鮮の間の難しい問題をまとめました。
ただし、先ほども紹介したように、申維翰と雨森芳洲の間で意見が対立したこともあったようです。
池田
その背景については、京都大学名誉教授の上田正昭氏が編んだ『朝鮮通信使ーー善隣と友好のみのり』(明石書店)に、詳しく記されています。
上田氏は、芳洲自身の著書などをとおし、「雨森芳洲の値打ちが下がるわけではありません」と断りつつ、「雨森芳洲のような当時の最もすぐれた朝鮮理解者でも、(『日本書紀』以降の)『三韓征伐』説からは脱却していない」と、結論しておられます。
芳洲の人生を顧みれば、心の底で朝鮮の人びとを軽んじた、ということはなかったでしょう。しかし芳洲は、自分の「立場」を踏まえざるをえなかったのだと思います。
申維翰は、芳洲の「外交官」としての側面に、時折、苛立ちを覚えたのではないでしょうか。
趙
なるほど。確かに『海瀞録』で論争として記述されていることがらは、そのような背景によるものかもしれません。
これに限らず、「国」と「国」ではなく、「民衆」と「民衆」の交流こそ、肝要になってきますね。
現代にあっては、なおさらのことです。
池田
朝鮮通信使は国家同士の正式な交流であり、二百年の間に十二回に及びましたが、規模の小さい交流は、数えきれないほどあったでしょうね。
趙
ええ。古来、韓半島とのつながりが深かった対馬藩と、釜山の東莱府とは、使節の往来と貿易が、非常に盛んに行なわれました。
貿易での主な品目は、日本からは銀・銅等の鉱産物と、南方産の丹木、水牛の角などでした。朝鮮からは、米、大豆、朝鮮人参、木綿、それに中国産の絹や生糸などがもたらされたようです。
7
「寛政の改革」で打ち切られた朝鮮通信使
趙
こうした交流を築きながらも、朝鮮通信使は、一八一一年(文化八年)を最後に終わりを迎えました。
理由はさまざまありましたが、最大のものは、両国を襲った大飢僅による財政難のようです。
池田
経済的な問題が重なり、通信使派遣が繰り延べになったのですね。
日本では、「天明の大飢饉」の直後にあたり、百姓一揆や「打ちこわし」が続出したことで知られます。
前回の通信使(一七六四年=宝暦十四年)から、実に四七年の歳月が流れていました。
しかも、最後の通信使は、江戸には行かず、対馬だけで儀礼を行なった。いわゆる「易地聘礼」です。
これはもともと江戸時代後期の老中・松平定信が進めた「寛政の改革」の一環として始まったものでした。
定信は、財政再建、綱紀粛正などの諸政策を行なった一方、朝鮮通信使の見直しも実行に移しました。
新井白石の著書による影響も指摘されています。ただ、実際の通信使派遣は、定信の失脚後でした。さまざまな紆余曲折を経て、ようやく対馬での聘礼が実現したようです。
趙
朝鮮側から見れば、「朝鮮通信使」を派遣する重要な目的の一つは、朝鮮国王が日本の新しい将軍と国書を交わし、通信使らも幕府の要職人物と交流を深め、「交際」の意志を再確認することにあったようです。
しかし、対馬までの往来で終わってしまっては、この目的が達成されなくなってしまいました。
その後も、対馬や大坂での聘礼が計画されていたようですが、結局、実現されないままに、明治維新を迎えてしまいました。
この定信とともに、通信使への儀礼縮小に影響を及ぼした学者がいました。大坂の朱子学者・中井竹山です。
李進熙
イジニ
・
姜在彦
カンジェオン
の共著『日朝交流史』(有斐閣)などに詳しいのですが、彼は一七八9年に著した『草茅危言』で、神功皇后の「三韓征伐」を持ち出し、「もともと日本の属国であった耕鯨と、統一軒に交流するとは」と述べたのです。
池田
また「三韓征伐」ですね。『日本書紀」が史実と神話の組み合わせで構成されていることは、今となっては明らかです。
こうした『日本書紀」に端を発する、誤った「神国意識」「皇国史観」が根強く存在したが、日本人の歴史観を歪ませてきた一つの要因とも言えるでしょう。
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”日本だけで成し遂げたのではない”
趙
諸説が分かれる古代の歴史については、改めて論じ合いたいと思いますが、中井竹山が『草茅危言』を記した十八世紀末は、本居宣長と、その門下を自称した平田篤胤による「国学」思想が広まった時期とも重なります。
宣長は『鉗狂人』で、「元来わが国は四海万国を照らす天照大御神が誕生した本国であり、その皇孫の生命が天から降りてきて、天地とともに永遠に治める国ある」(趣意)などと、神話そのものの内容で「皇国」を論じています。
これに対し、同じ日本人である藤貞幹は『衝口発』で、次のように論じています。(鷲尾順敬編『日本思想闘争資料』4所収、東方書院、参照)
「日本書紀」を読む時、わが国が
馬辰
ばしん
に二韓から始まり、弁韓の要素も一緒に交じり合っていることを念頭に置かなければ、これを解読することはできない。古来、韓より根が始まっていることを隠しているという事実を知らずに、この国(=日本)だけで何でも成し遂げられていると考えるために、韓の言語を日本式に読み、多くの論理を立ててしまう。そして何も得られなくなるのである」(趣意)と。そうしたなか、朝鮮通信使が途絶えた日本では、結局、中井竹山が主張した論理が、頭をもたげるようになってしまったと言えるでしょう。
池田
ある面で、松平定信が下した一つの決定が、両国の友好の歴史を大きく変えてしまった。
その後、両国の関係が悪化していったことを本いえれば、きわめて残念な結果だったと思います。
趙
ええ。実際に日本は、明治維新をきっかけに「交隣」から「征韓」に傾いていきます。
しかし、一八一一年の通信使で、すべてが途絶えたかというと、そうではありませんでした。
対馬藩は、その後も明治にいたるまで、ずっと朝鮮と交流を続けていました。
「藤貞幹」の”この国だけで何でも成し遂げられたわけではない”という叫び、それを最後まで貫いたのが、対馬の人々だったと思うのです。
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よみがえる朝鮮通信使
池田
まったく同感です。
そうした「交流」の心を現代にも受け継いでいく必要があります。
趙
サッカーのワールドカップ共催から、両国の関係は、大きく前進しています。
新聞、雑誌、テレビでの特集や、映画、音楽の相互交流、国内旅行と見まがうまでの両国間ツアーの活性化ーー。
お巨いの”等身大の実像”が見えてきて、妙にうれしくなったり、とまどったりする国民が、両国で争えているのではないでしょうか。
池田それに関連して、「朝鮮通信使」を復活させ、両国を縦断させようとするイベントも登場しました。
貴国の外交通商部、「韓・中・日文化観光連合会」や、日本の外務省、NHKなどが主催する「『朝鮮通信使』全国縦断リレーイベント」です。
二〇〇二年九から、韓国のソウル市、密陽市、釜山市の三都市で朝鮮通信使の行列を再現した後、日本の下関市、岡山・牛窓町、近江八幡市、静岡市など七市町で同じくパレードを行なう、画期的なもので、日本の市町は、いずれも朝鮮通信使ゆかりの地です。
メーンイベントは十一月、千葉市の幕張メツセで行なわれます。
趙
すばらしい企画ですね。「ワールドカップが終わっても、交流は終わらせない」との意気込みが伝わってくるのです。
池田
このほか、両国の都市による姉妹提携が進んでいるのも、明るい話題と言えましょう。
二〇〇二年二月には岡山市が貴国の
富川
ブチョン
市と、三月には金沢市が
全州市
チョンジュ
と、それぞれ姉妹提携を結びました。
こうした都市による友好交流の前進は、本当に喜ばしい限りです。
富川市からは、以前(一九九七年十二月)、顕彰を受け、「市の鍵」を頂戴したことがあります。
これは私が、貴国から初めていただいた顕彰であり、忘れえぬものです。
趙
池田会長の正しい歴史観、平和への行動は、わが国でも、よく知られています。
池田
いずれにしましでも、「最大の友好の期間」が厳然と二百にわたって続いたことは、両国の大きな財産だと思います。
時代は変わっても、同じ「人間」です。現代に生きる私たちもまた、朝鮮通信使がもたらしたような友好関係を築けないはずはありません。
これは単なる楽観論でもなく、空想でもありません。
両国間で解決しなければならない問題は多くあるでしょう。しかし私たちの先輩は同じ「人間」として、「善隣友好」を成し遂げた。
その歴史から苧び、「希望の光」を見いだしていかねばなりません。私たちの対話が、その挑戦につながることを、願ってやみません。
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