Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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3 「人間教育」に生命を注ぐ
「希望の世紀へ 宝の架け橋」趙文富(池田大作全集第112巻)
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1
「対話」と「教育」で平和を拓く
池田
趙博士がご自身の体験をとおして話してくださった、貴重な歴史の証言に対し、大きな反響が広がっています。
「日本が韓国に、どれだけ残酷なことをしてきたのか、改めて知りました」「両国の友好を深めるために、韓国の歴史や文化について、もっと学びたい」などの声が寄せられています。
趙
そうですか。うれしい限りです。
池田
さまざまな感想が寄せられていますが、若いお母さんたちから、戦争を経験した世代にいたるまで、一致しているのは、戦争の悲劇を二度と繰り返してはならないという思いです。
残念なことに、今なお世界の各地では、紛争が続いています。
さらに九月十一日(二〇〇一年)には、アメリカで痛ましい同時多発テロ事件が起こりました。多くの犠牲者を出した。あまりの惨劇に、胸が痛んでなりません。
こうした暗澹たる事件が起こされたことに強い憤りを覚えます。
徹底した真相究明と再発防止の取り組みが求められます。しかし、この事件が契機となって、「戦争」と「暴力」の渦に巻き込まれた二十世紀の悲劇を、再びたどることは、絶対に避けなければなりません。
人類が英知を結集して、「平和」と「非暴力」の新時代を断じて開いていかねばならないと、私は強く思います。
趙
本当ですね。だかたこそ、対立を乗り越えるための「対話」が重要なのではないでしょうか。
韓半島でも、アメリカでのテロ事件の数日後に、五回目の「南北閣僚級会談」が行なわれました。これは、九カ月ぶりに再開されたものです。
時間はかかっても、対話を重ねていくことが、平和を築くための地歩を固めることになります。
池田
実際、いくつかの前進も見られていますね。
最近も、二年七月の第一回「南北閣僚級会談」で合意をみた、南北を結ぶ鉄道・
京義線
キョンイせん
の一部が韓国で開通したとの、明るいニュースがありました。
一九五三年に断絶した京義線の連結が実現する可能性も高まっているそうですね。
趙
京義線の連結は、南北の平和共存への大きな礎になるものと、私も期待しております。
こうした「対話」とともに、私が、平和な世界を築くために、重要だと考えているのは、何といっても「教育」です。
池田
まったく同感です。
そこで、趙博士が「教育の道」を歩まれた経緯についてうかがいたいのですが、ソウル大学では何学部に進まれたのですか。
趙
法学部です。
勉強できること自体がうれしく、それこそ、電車の中でも、歩きながらでも、本を読だものです。しかし経済的な苦境は変わらず、いつも学費や生活費のことが頭から離れませんでした。
ソウル大学への進学は、故郷でも噂になったようです。それで、私のことを案じた兄が、実家に残された唯一の財産である田畑を売ってしまって……。
ありがたいというよりも、生活の基盤をすべて失った母や妹のことが心配でなりませんでした。
自分のために家族が犠牲になることに、胸が締め付けられる思いがしたのです。
それで、小作で生計を立てるほかなくなった母や妹のために、少しでも送金してあげたいと考え、さまざまなアルバイトをしました。
手っ取り早いのは、家庭教師の仕事だったのですが、なかなか思うように仕事先が見つからず、苦労しました。
池田
どうしてですか
趙
当時の時代状況もあったと思いますが、済州島の出身ということが敬遠されたようです。
2
心ない偏見と差別の中で
趙
募集広告を見て家庭を訪問すると、私の身元を確認しようとするのでしょう、最初に「どこの学生さんですか」と聞かれます。
私が、「ソウル大学法学部です」と答えると、安心したような顔をして、続けざまに「どちらのご出身?」と聞いてきます。
それで済州島の名を出すと、急に相手の表情が曇り、「夫が帰ってから相談するので、また来てください」と、早々に話が終わってしまうのです。
翌日、返事を聞きに行くと、案の定、「夫が他の学生に決めてしまった」などといった理由で断られたものでした。こうしたやりとりは、部屋を借りる時にも繰り返されました。
当時はまだ島に対する偏見が強かった上に、済州島では「四・三事件」が終息しておらず、多くの人びとがよくない印象を抱いていたのです。
池田
さぞや辛く悔しい思いをされたことと思います。
人間が人間を蔑み、軽んじる「差別」や「偏見」が、どれほど人の心を傷つけ、気持ちを踏みにじるのかーー。その苦しみ、辛さは、差別されたほうにしか分かりません。
私ども創価学会も、長らくか貧乏人と病人の集まりと揶揄され、馬鹿にされ続けてきました。しかし、その悪口こそ、私たちの人間主義の真価を表すものと自覚し、胸を張って堂々と前進してきたのです。
最も苦しむ人びと、最も悩める人びとに手を差し伸べずして、何の宗教か。どんな社会的な存在意義がそこにあるのか、と。
「地球上から悲惨の二字をなくしたい」「無限に湧きくる幸福を世界万民におくりたい」ーーこれが、わが師・戸田先生の悲願でした。
だからこそ私たちは、日本だけでなく世界に、皆が差別なく幸福を満喫できる社会をつくるための”民衆の連帯”を築き、広げてきました。
趙
差別は、どんな理由があったとしても、よくないことだと思います。
当時、私は、都会の暮らしに慣れない自分にも、反省すべき点があるのかもしれないと思ったものでした。だからといって、差別を肯定できるわけではありません。
その経験から私は、自分と違う地域や国から来た人に対しては、より親切にすること、他郷での生活を寂しくさせないことが大事であると考え、実践してきました。
こうした生き方こそ、人間関係において「心の平和」を保つことであり、世界平和の基盤となるのではないでしょうか。
その意味で、池田会長のおっしゃることまた創価学会の皆さま方の活動に、深い共感を覚えます。
池田
温かなお言葉、ありがとうございます。
趙博士の実践こそ、世界市民の模範の姿ではないでしょうか。
日本は傲慢なのか、社会的に地位のある人ほど、偏見や差別の心が根強いようにも見受けられます。とくにアジアの国々に対して、過去の歴史に対する反省もなく、平気で見下す傾向があります。
最も大切にし、最も友好を深めなければならないアジアの人びとに、冷酷な態度をとる人は、いまだ少なくないのです。これでは、日本はいつまでたってもアジアから信頼されず、世界の孤児になってしまう。実に嘆かわしいことです。
創価大学では現在、貴国やアジアの国々をはじめ世界四十カ国から留学生をお迎えしています。
私も創立者として、時間の許す限り、留学生の方々とお会いすることを心がけてきました。
留学生の方々は、その国の宝であり、世界の大学のなかから、わが創価大学を選んでくださった大切なお客様です。最高の礼を尽くすようにしてきました。
趙
私も以前(一九九八年三月)、創価大学を訪問した時、まるで同胞を迎えるような、温かい雰囲気を実感しました。
済州大学でも、海外との教育交流を積極的に進めており、創大生の方々も何度かお迎えしたことがあります。
初めての語学研修のときには、創大生の皆さんを前に、こう話したことを覚えています。
「皆さんはどうか、感情を昇華させることができる人間になってほしい。
その上で、苦悩に沈んでいる人びとを救っていくーーそこに、創立者の池田先生が主張される根本があると、私は思います。
『正義に反する心』が充満している世を改め、変えていくこと、そして、人間の感情の衝突を和らげ、解消していくことが、池田先生が追求されている人間愛だと、私は感じるのです」と。
池田
恐縮です。私にとってわが子にも等しい創大生への、真心こもる激励に深く感謝いたします。
博士が期待を寄せてくださったような「人間教育」の道を、さらに力強く歩んでいけるよう、私も全力を尽くしたいと思います。
3
「社会の不正」を許さぬ心
池田
ここで話を戻して、博士の学生時代の思い出について、詳しくうかがいたいと思います。
学生時代で、一番印象に残っている出来事は何ですか
趙
そうですね。大学三年の時、学内で行なわれようとした不正に対して、先頭に立って戦ったことでしょうか。
一九五七年四月のことです。ある政府首脳の子息が、陸軍士官学校から私の通うソウル大学法学部に、政治的圧力をかけて不正に編入してきました。
それにともない、私の尊敬していた民主主義的な三人の教授が私学に転職するという噂が広がりました。居ても立ってもいられなくなった私は、仲間を集めて、臨時の学生集会を開きました。
いくら貧しく苦しくても、正義の道を信じ、卑怯な生き方は避けようと心に期していたので、”こんな不正を断じて許すことはできない”と立ち上がったのです。
集会で私は、真っ先に登壇し、マイクを取りました。その時の演説の内容は今も鮮明に覚えています。
池田
どんなお話をされたのですか。
趙
大要、こう話しました。
「人類社会の歴史は、自由と平等の発展の歴史に他ならない。翻って、韓国の自由と平等を発展させることを使命としている、わがソウル大学において、今、時代の流れに逆行する事態が起こりつつある。
もし、これを黙って容認するならば、わが大学の存在価値はない。断固、戦って、不正を阻止するか、それとも、大学を廃校させるか、我々は選択しなければならない」と。
集まった学生は、皆、大拍手で賛成してくれました。それで私たちは、不正を阻止するための「同盟休学」に入ったのです。
その後、学長から呼びかけがあり、私たちも「学生は勉強しながら戦うのが筋だ」む考えるようになったので、休学は一週間で終わりました。
しかし、この時の私たちの闘争が、一九六〇年の「四・一九学生義挙」につながり、当時の政権を崩壊させる端緒の戦いとなったと、私は思っています。
池田
若いころから、強い正義感をお持ちだったのですね。感銘いたしました。
次元は異なりますが、創価学会の牧口初代会長も小学校の校長時代、地域の有力者の圧力で何度も左遷に遭いました。
”有力者の子弟を特別に扱ってほしい”との依頼を、牧口会長が厳として拒んだことを、根に持たれたのです。
こうした横暴に対し、生徒の保護者たちは、牧口校長を排斥するなら子どもを学捻にやらないと、三日間の同盟休校をしました。
街頭に出て、転任反対の演説をする保護者もいたといいます。
趙
とても慕われていたのですね。
池田
そう思います。しかし、辞令がすでに出ているとの理由で、撤回はかなわず、牧口会長は転任を余儀なくされました。
その次の学校でも、牧口会長は同様の理由で、わずか半年後に再び転任させられました。この時も、教師の有志が留任運動のために奔走しましたが、その願いは聞き届けられなかったのです。
当時の模様を、戸田先生からうかがったことがあります。
「自分も末席の教員でありながら、この運動の参加を許され、必死の擁護運動をしたものであった。
雨のどしゃ降りの中、この運動のために牧口先生のお宅を訪れて、びしょ濡れになったこともある」と。
後に牧口会長は「創価教育学体系」の中で、政治権力や行政権の不当な支配を受けずに、自主的に教育を行なうための「学校自治権の確立」を強く提唱しています。
この改革論は「子どもの幸福」を第一に考えた牧口会長の当然の帰結であったと思います。
趙
牧口会長の思想に強く共感します。
私も長らく大学の教員をしてきましたが、大学は何より「学生第一」であらねばならないと考え、行動してきました。
もともと私は、大学の役職につかずに、研究一筋で生きることを信条としていたのですが、学生のためになるならばと、学内の仕事も厭わず引き受けてきたのです。
かつて、こんなことがありました。
済州大学の社会科学学部長になって間もない、一九八〇年代の中ごろのことです。
当時、民主化を求めてデモをする学生たちを抑えるため、警察機動隊が随時、学内に入り、暴力を振るう事態が続いていました。
そんな状況に我慢ができず、隊員の手首をつかまえて、「君は、いったい、誰の前でそんなことをしようとしているのだ」と大声を出して、問い詰めたこともあります。
そうして、学生たちを保護したり、彼らの活動を陰ながら励ましたものでした。
池田
実に勇気ある行動です。博士の学生を思う心に胸打たれます。
当時の模様は、私もニュースなどで見た覚えがありますが、確か、「平和大行劃」と銘打って、非常に大規模な市民デモが行なわれましたね。
趙
そうです。一九八七年六月のことです。韓国全土で一万人以上が参加したと言われています。
学生たちの運動が広く市民を巻き込んだ結果、民主化を図る「六・二九特別宣言」を勝ち取ることができました。
全部で八項目あるのですが、その中には、「大学の自律化と教育の自治は早急に実現されなければならず、大学の人事、予算、行政などについても、その自律性を保障する」との内容も盛り込まれたのです。
また宣言では、私の専門である地方自治についても、新しい方向性が打ち出されました。
「社会各分野の自治と自律が最大限保障されなければならず、市・道単位の地方議会の構成も具体的な再検討を推進する」
その意味で、宣言は、私にとっても、ひときわ感慨深いものがあります。
4
高校教師から大学の教員に
池田
博士の教育者としての深い信念が伝わってくるお話です。
ところで博士は、ソウル大学を卒業された後、どのような仕事に就かれたのですか。
趙
最初は、高校教師の仕事でした。
しかし、仕事が忙しいため、自分が本格的に勉強する時聞がとれないのが辛く、教師の仕事を辞めては勉強し、お金がなくなると、また新しい高校の仕事を探すという生活の連続でした。
学問を追えばお金が泣き、お金を追えば学問が泣くーーそんな日々の中で、あまりの苦しさに気が狂いそうになったほどです。
そんな時に出会ったのが、妻でした。
彼女は、小学校の教師で、母親に女手つで育てられたせいか、しっかりした女性でした。
また、その母親が、彼女にもまして、強靭な精神の持ち主で……。
こんなことを言ったら変ですが、妻に惹かれたというよりも、その母親の生き方を知り、この母親ならば娘もきっと大丈夫だろうと直感したのが決め手でした。
私が少年時代から培った忍耐心が、妻を選ぶ基準になったのだと思います。
義母は八十九歳になるまで、元気にミカン畑で働いていました。妻が「もうやめてもいいのでは」と言うのですが、「いや、私は仕事をしたい」といった調子でした。
池田
お母様のお話は、以前、博士ご夫妻とお会いした時(一九九九年十二月)にも、奥様からうかがいました。神々しい理想的な人生の勝利の総仕上げのお姿です。
奥様も、小学校の教師を四年近く、続けてこられたそうですね。博士の場合と同じく、社会で活躍されている教え子も多いとうかがいました。
慈愛の人間教育者として、温和な笑みをたたえた表情の中にも、心の強さが美しく光っておられる方です。
趙
ありがとうございます。妻と義母は、私の変わらぬ”心の支え”となっています。
妻は長らく仕事を続けながら、二男四女の六人の子どもを懸命に育ててくれました。
下の四人は、まだ学生ですが、長女は、私たちの影響があったのでしょうか、現在、中学校の教師の仕事をしています。
妻と出会った頃が、私の人生の転機でもありました。
妻は、私と知り合ってからしばらくして、見知らぬ地方の小学校に転任するよう命じられました。私は悲しむ彼女を励まし、送り出したあとで、自分も近くの高校で講師の仕事を見つけ、働き始めたのです。
友人から「大学で働いてみないか」との話をもらったのは、そんな矢先のことでした。
済州大学の学長秘書をしていた彼は、わざわざ私の所まで足を運び、「済州大学の法学部で行政法の講師を求めているのだが、やってみないか」と、誘ってくれたのです。
それが、私の現在に至る大学教員生活のスタートになりました。
池田
そうでしたか。それで、生活も落ち着くようになったのですね。
趙
はい……、と言いたいところですが(笑い)、しばらくは経済的に大変な時期が続きました。というのも、私が給料のほとんどを、苦学する学生たちのために使っていたからです。
自分が味わった辛さを思うにつけ、学費が払えなくて大学を除籍になるような事態は見るにしのびなかったので、足りない分を手当てしてあげることも、しばしばでした。
ですから若い頃は、家の生活費や子どもの教育費の大半は、妻の収入で賄われることがほとんどでした。そのあと、自分でも工夫して、家族に迷惑がかからないよう心がけてきましたが。
池田
博士の支援のお陰で、助けられた学生が何人もいたことでしょうね。
自分が苦しんだからこそ、同じような苦しみを、若い人たちには味わわせたくないーー教育者として、また、一人の人間としてまことに偉大です。
学生たちも、お金以上に、博士から大切なものを学んだのではないでしょうか。
また奥様も、そうした博士の生き方を誇りにされていたのではないかと思います。
そうして韓国の未来を担う学生たちを、公私ともに面倒を見る一方で、博士は、海外で研究生活を送られたこともあるそうですね。
5
日本で送った研究生活の思い出
趙
日本で三回、またアメリカの大学でも研究生活を過ごしました。
最初に日本を訪れたのは、一九八〇年七月でした。済州大学から教員を海外に研究派遣することになり、私が日本に渡ることになったのです。
決定通知を受けた私は、かねてより尊敬していた、日本の行政法学の権威で東京大学名誉教授の田中二郎先生のもとに、手紙を出しました。
田中先生は、私と一面識もなかったにもかかわらず、”自分はもう退官しているので、受け入れることはできないが、別の教授を紹介したいと思うがどうだろうか”と、懇切丁寧な返事をくださったのです。
そこで、東大教授の塩野宏先生を紹介いただき、そこでお世話になることになりました。
池田
田中二郎氏といえば、美濃部達吉博士のもとで行政法を学び、戦後の日本で、行政の民主化と地方分権化を積極的に推進された方ですね。
趙
田中先生は、私が来日した二年後に、病気で亡くなられましたが、そのご厚恩には、尽せない感謝の思いがあります。
東京大学では、総合図書館の一室を私の研究室に割り当ててもらいました。
研究時間は、朝九時から夜十時までで、来る日も来る日も、研究テーマである「韓日の官僚制の比較研究」に関する書物を、一つひとつ精読していきました。
最終的には日本語で論文を書くつもりだったので、十分でない日本語の知識を補うために、参考文献の読み込みと並行して、語学の勉強にも取り組んだのです。
池田
慣れない日本での研究生活で困ったことはありませんでしたか。
趙
そうですね。苦しかったのは、山ほど勉強したかった私にとって、夜十時という研究室の門限時間が早すぎたことと、ぎりぎりの生活費の中で、十分に本を買う余裕がなかったことでしょうか。
それで、少し悩んでいた頃に、国際基督教大学の渡辺保男教授と知り合いました。
その渡辺教授の尽力で、今度は同大学の社会科学研究所の招待研究員として、一年間、お世話になることになったのです。
ここでは、懸案だった門限時間の制限もなく、毎晩、夜遅くまで勉強することができました。論文作成も順調に進み、書き終えた時には、四字詰め原稿用紙で一六三九枚にものぼる膨大なものになりました。
池田
大変な労作ですね。
趙
できあがった論文を見た東大の塩野先生が「日本でも昔はかなりの分量の論文を書いたものですが、最近ではほとんどないことです」と、驚いていました。
その後、一九八四年二月に帰国しましたが、その研究をさらに完成させたいとの思いが募り、一九八四年に再び、日本を訪れました。
東京市政調査会から招聘を受け、一年間、研究生活を送った後、今度は、アメリカのエール大学に渡り、地方自治の研究をさらに深め、九二年に韓国に戻りました。
しばらくして、日本の塩野先生から連絡があり、「学位論文の審査があるので、必要書類を送ってみてはどうか」との話がありました。
塩野先生は、東大を定年後、成践大学に移っておられ、そこで私の論文が審査を受けられるよう尽力してくださったのです。
翌年三月には、成際大学から政治学の博士号が授与されました。これは、私の長い研究生活の中で大きな節目となりました。
私が、ちょうど六十歳の時でした。
池田
人生の年輪を重ねる中で、ますます壮んに、学問の道を究めようとなされる姿勢に、深い感銘を覚えました。
それも、勇んで新しい環境に飛び込み、次々と大きな成果を成し遂げられた。
私も、六十歳(還暦)を迎えた時、今までの何倍もの仕事をしよう、何十倍もの歴史を残そうと決意しました。
その際、”人生の大先輩”である松下幸之助氏から、次のような励ましの言葉をいただいたことが忘れられません。
「本日(=還暦の誕生日)を機に、いよいよ真のご活躍をお始めになられる時機到来とお考えになって頂き、もうひとつ「創価学会」をお作りになられる位の心意気で、益々ご健勝にて、世界の平和と人類の繁栄・幸福のために、ご尽瘁とご活躍をお祈り致します」と。松下氏は、この時、九十四歳でした。「もうひとつ『創価学会」を」との言葉に、私は、意を強くしたものです。
師の戸田先生も、「人生、最終章が大事だ」と口癖のように言っておりました。
戸田先生の弟子として、どこまで歴史をつくれるのかーー師の偉大さを宣揚するためにも、最後の最後まで、戦い抜いていきたいと思っています。
6
済州大学の総長に就任
趙
松下氏の言葉は、含蓄深いものがありますね。私も六十歳で学位を得た後、済州大学で行政大学院長を務め、一九九七年九月に総長に就任いたしました。
まったく新しい挑戦となる、この重要な職務に就くにあたり、私は、今まで以上に強い心構えを持たねばならないと考え、ある奉仕活動に参加しました。
総長という仕事は、大学を運営する上で大きな権力を持つが、その役目は、あくまで人間らしい立場から考えて教育の目的を果たすことにあると考え、社会で最も苦しい立場に置かれている人びとのもとで働くことで、それを今一度学ぼうと決意したのです。
それで、
小鹿
ソロク
島にあるハンセン病患者の施設での奉仕活動の一員に加えてもらうことになりました。
池田
博士の誠実で高潔な人柄が偲ばれる話です。すべての指導者たちが、博士の行動に学ぶべきです。何のための職務であり、何のための責任なのか、それを忘れて、自らの権勢を誇ることにのみ忙しい指導者たちが、日本にはあまりにも多すぎます。
人びとに尽くす、人びとの幸福のために生きるーー立場が高くなればなるほど、博士のように、常に原点に立ち返る姿勢こそ、真の賢人であると思います。
趙
過分な評価に、恐縮します。
その奉仕活動で、私は、本当に得難い体験をすることができました。
若い人たちといっしょに、草刈りや掃除、壁張りや洗濯をしたり、散髪をした患者さんたちの頭や顔を洗うのを手伝ったりしました。そんな私の姿を見て、周りの仲間たちは不思議がったり、感動したりしていました。
何より私が学んだのは、患者さんたちが、自分たちの苦しい境遇に負けず、忍耐強く、常に希望をもって懸命に生きている姿でした。彼らの強さを、私たちのほうこそ見習わなければならないと痛感したのです。
それで総長就任後も、毎年のように、済州大学の学生たち数十名を伴って、奉仕活動を続けてきました。
池田
学生たちは、患者さんの懸命な姿とともに、博士が率先して奉仕に取り組んでいる姿に、多くのことを学んでいるのではないかと思います。
まさに、「人間教育」の鑑と言えましょう。
博士は、総長に就任される時も、こうした自らの教育方針をスピーチされたそうですね。
趙
ええ。学生や教職員を前に、こう話しました。
「私たちのこの済州大学を、二十一世紀の人類社会の平和と繁栄を目指しての『真の人間主義』ーーすなわち、ニュー・ヒューマニズム、ニュー・ルネサンスの発源地となるよう、建設に取り組もう!
そのためにも、まず私は、公益のために自らの私益を犠牲にすることはあっても、私益のために公益を犠牲にすることは秋毫ももないことを、ここに誓うものである」と。
そんな思いもあったので、就任式は、一切の花束や花輪を遠慮することにしました。
きわめて簡素な就任式でしたが、国内外の多くの友人や知人が祝福に駆けつけてくれたことが、一番うれしいことでした。
池田
博士の教育理念は、私ども創価大学の目指すべき道と一致するものです。
八月二十四日(二〇〇一年)に、アメリカ創価大学のオレンジ郡キャンパスで第一回の入学式が行なわれましたが、ここで日本の創価大学とともに、「真の人間主義」のための新しい教育に挑戦していきたいと決意しています。
博士が言われるように、教育こそが、「世界の平和」と「民衆の幸福」の一切の基盤となるものです。
私は、尊敬する博士と力を合わせながら、「教育の光」で二十世紀を、そして人類の未来を明るく照らし出していきたいと強く念願しています。
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