Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

霧ケ峰の誓い 人間世紀の夜明けの鐘を

2003.8.18 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

前後
1  わが人生の師匠である戸田城聖先生は、青年に対しては特に厳しかった。
 若き日に厳しく鍛錬された師の言々句々は、今もって私の肉団より離れない。
 「人生は戦いだ。勝つか負けるかの、熾烈な戦争だ。
 まして、広宣流布は、仏の生命と魔性の権力との大闘争である。
 戦いに甘えや気取りがあったら、絶対に勝てない。
 勝つためには命がけで戦うのだ! 遊び半分で勝てると思ったら大間違いだ」
 その師の厳しき眼光、その叫び、その気迫に……浅はかな人間は震え上がった。
 偉大なる私の師匠は、世間的な毀誉褒貶など眼中になかった。青春時代、弟子である私の骨髄まで、その指導が染み込んでいった。
 時代とともに人気者となり、そして時流に乗って、さも偉そうに大言壮語している人間など、せせら嗤っておられた。
 師は強かった。正しかった。そこに無数の純粋な青年が、磁石のように師弟一体となった。仏法の真髄たる「師弟不二」である。
 ドイツの大詩人であり、ゲーテの親友であったシラーも、増上慢の人間を呵責したことは有名である。
 その詩には――
 "ここにもあそこにも、信念もなく、人気のみで威張り腐っている連中が多すぎる。しかし、やがては消え失せるだろう"との怒りがたぎっている。
 全く強き真実の声だった。今の時代のわが国も同じだ。
 正義も信念もなく、ただ人気があるだけで、いい調子になって、悪辣な虚言をまき散らして、偉そうにしている連中が多い。優秀な評論家が嘆いて言った。
 「彼らは、いつの日か、必ず社会から厳しく断罪され、哀れな没落の姿を晒していくだろう」と。これは多くの良識ある人びとの一致した心情であるに違いない。
 シラーは悠然と、そして厳然と叫んだ。
 「なにかひとかどのことを成し遂げようと、欲する者は
 また、なんらかの偉業を果たしたいならば
 焦慮らず、へたばらずに己が最高の力を
 ある最小の一点に、集中するがよい」(『広さと深さ』小栗孝則訳、『新編シラー詩集』所収、改造社)
 人生は格好ではない。格好などで、多くの敵と戦い、厳然と勝利を収めることなど絶対にできない。厳しき必死の努力を続けていく人間が、偉大な仕事を残し、最後の勝利者と光るのだ。勝利者には必ず「鍛え」があった。
 激しき勝負の社会にあって、「負けじ根性」と「極限の集中力」をもって、懸命に地道に錬磨を続けきった人間が、誇り高き偉業を残すことができるのだ。
 ともあれ、「鍛え」だ。自分自身の鍛えがなければ、絶対に勝てない。
 いかなる学歴が、才能が、宝の如くあっても、鍛え抜く根性のない人間には、宝の持ち腐れで終わってしまうものだ。
 信仰は、本来、偉大なる仏の智慧を具えた、わが生命の宝蔵を開くためにあるのだ。
 自分自身の無限無量の可能性を引き出す力が、仏法であり、信心である。つまり、人生の根本の土台なのである。その信心を深め、生命を磨くために仏道修行があり、厳しき訓練が必要なのだ。
 ゆえに、若き時代に仏法の「信」「行」「学」の訓練を受け切った人は、それ自体が、もはや最高の勝利者の因を積み、最高の幸福者の生命へと革命されているのだ。
2  それは、一九五八年(昭和三十三年)の八月半ばのことであった。
 恩師が逝いて四カ月。世間では「学会は空中分解する」と、皆が冷笑して見ていた。
 私は立ち上がった。いな、死に物狂いで戦いを開始した。
 関西へ、北海道へ、九州へと、日本中を駆けめぐり、師子奮迅の大攻勢を続けた。いな、全学会の前進の指揮を執った。三十歳であった。
 その激闘のさなか、私の最も縁のある文京支部を中心とした記念の大会が諏訪で行われた。私は、文京支部長らと共に出席した。
 翌日、地元の同志が案内してくださり、私は、初めて、有名な霧ケ峰高原に向かったのである。
 朝方降った雨もあがった。松林からは、セミの声の合唱が聞こえた。
 月見草や、松虫草の薄紫の花が美しく咲き、ススキの穂が風に揺れていた。
 彼方に広がるのは、日本アルプスの峰々……。
 私は"忘れじの丘"に立ち、皆と一緒に散策した。
 都会で生活する私は思わず声をあげた。
 「こんな素晴らしいところがあったのか。もっと早く来たかった。そして、わが戸田先生を、ぜひとも、お連れしたかった……」
 この天地で、あの慈顔の師を囲み、未来を見つめ、戦い勝ちゆく青年と研修ができたら、どれほど有意義であったろうか。
 しかし、今は師はいない。
 いったい誰が、青年を育てるのか! 誰が、青年を愛するのか!
 私がやるしかない。今こそ弟子が師に代わって、青年を全力で育成するのだ!
 私は決意した。
 いつの日か、この素晴らしき天地に、未来の広布の建設者である若き指導者たちを連れて来ようと、心に深く決意した。
 学会の最も力を入れた人材グループである男子部の「水滸会」、女子部の「華陽会」の野外研修を、霧ケ峰で開催したのは、それから三年後の一九六一年(昭和三十六年)であった。
3   さらに、一九八九年(平成元年)に至って、長野青年研修道場がオープンし、多くの後継の人材が、創価の誓いを胸に、勇み参集するようになったのである。
4  初めての霧ケ峰で、私は、長野の出身である、島崎藤村の名作『夜明け前』に触れて、青年たちに語った。
 「藤村は、小説で明治の夜明けを描いた。しかし、近代日本は、暗黒の悲惨な戦争に突入し、あの敗戦で滅んでしまった。我々は、もっと深い次元から、東洋の、また世界の夜明けをつくっているのだ」
 清純な皆の目が光った。
 我らの手で、世界の「希望の夜明け」の鐘を打ち鳴らすのだ!
 新しき「平和の夜明け」を開くのだ!
 青年こそが、新しき夜明けの光であるからだ。
5  そして、一九六一年(昭和三十六年)七月のことであった。早くも第六回となった水滸会の野外研修が断行されたのだ。
 この自身の鍛錬と向上の機会を、初々しい指導者たちが、心から喜び、楽しみに集ってきた。
 夕刻、皆でキャンプファイアーを囲んだ。しかし、変わりやすい高原の天気は、やがて強い雨となった。
 順調な時には思い出は少ない。苦難があった時の思い出は、深くいつまでも忘れないものだ。
 若き指導者たちは、その大雨の中、敷いていたムシロを傘がわりに、「雨よ、何するものぞ」と意気軒昂であった。
 皆がびしょ濡れになって、躍り動いている楽しい姿は、今でも忘れることはできない。苦難は、勝利の人間をつくるからだ。
 降りしきる雨の中、私は、愛する青年、いな、弟子に語った。
 「私の念願は何か。それは諸君が、将来、広宣流布のため、人類の平和と幸福のために、世界の檜舞台に雄飛していくことである。それが戸田先生の念願であった。私の行動も、すべて、そのためであり、それを最大の楽しみとして、全力で道を開いているのだ……」
 君たち青年は、私の宝だ。私の命だ。私と共に、大理想を実現する同志だ。
 自分の弱さに負けたり、つまらぬことで失敗など、絶対にさせたくない。
 そのためにも、私は、大事な青年に訴えずにはいられないのだ。
6  私は、皆が尊敬する戸田先生の言葉を、幾度となく語ってきた。
 「青年は、望みは大きすぎるくらいで、ちょうどよいのだ。この人生で実現できるのは、自分の考えの何分の一かだ。はじめから、望みが小さいようでは、なんにもできないで終わる」
 時代は「大志の人」「大望の人」を求めている。
 「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」(山田済斎編『西郷南洲遺訓』岩波文庫)
 これは、西郷隆盛の「南洲遺訓」の一節である。
 戸田先生も断言された。
 「名誉欲も金欲もかなぐり捨てることだ。これらを捨てている人間ほど強く、手のつけられぬものはない」
 新しき時代を切り開く逞しき人材を育てるには、やはり厳しき訓練がどうしても必要になってくる。峻厳なる魂と魂の打ち合いなくして、信念の筋金が入った本物の人材は育たないからだ。
 御聖訓には、「鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし」%(御書九五八頁)と仰せである。今や、私は、この御書を色読できたことを、最高最大の誉れとしている。
 わが後継の青年よ!
 強くあれ、強くあれ、断じて、断じて強くあれ!
 今を勝て! 今日を勝て! 明日を勝て!
 そこに、人生の常勝の方程式があるからだ。
 そして、広宣流布の新たなる険難の山へ、忍耐と希望と愉快さを忘れずに、断固として挑んでいってくれ給え!
 尊き信仰という燃え上がる魂で、夢に見た、輝き光る人生の大勝利の開幕を飾ってくれ給え!

1
1