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日蓮大聖人・池田大作

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11 一神教の自然観  

「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)

前後
1  自然から切り離された人間
  私は、古代パレスチナの問題について、あまり考えたことはなかったのです。
 しかし、古代へプライ、古代エジプト、、および両河川流域の古代パビロン、アッシリアからアラピアにいたるまでのイスラム文化を東方文化体系に属するものと見なしたことがありました。
 この問題について、私は、池田先生とトインビー博士の対談に啓発を受けました。
 トインビー博士は、仏教の「依正不二」とキリスト教以前のギリシャ、ローマの世界観は近い、あるいは似ていると指摘しました。そして、こう述べていますね。
 「(=人類共通であった)”依正不二”を意識的に、しかも全面的に侵害する端緒となったものは、ユダヤ一神教という革命的な理念です」
 「この革命的な教義が、結果としては”正報”と”依報”の”不二”性を破壊することになったのです。人間は自然環境から切り離され、自然環境はそれまでもっていた神聖さを剥奪されました」
 そして「(=自然環境への)畏敬の念が、イスラエルのユダヤ一神教創始者たちだけでなく、キリスト教徒やイスラム教徒によっても、放逐されてしまったのです」(前掲『二十一世紀への対話』)と。
2  環境問題克服への視点
 池田 「ユダヤ一神教」の自然観を象徴的に表すものとして、よく引用されるのが、『旧約聖書』「創世記」の神の言葉ですね。
 「われわれは人をわれわれの像の通り、われわれに似るように造ろう。彼らに海の魚と、天の鳥と、家畜と、すべての地の獣と、すべての地の上に這うものとを支配させよう」(『創世記』関根正雄訳、岩波文庫)
 この「創世記」の文の解釈は、現代の学者によって、さまざまになされております。一神教の宗教が、地球環境問題に取り組むのに不可欠の課題です。
 しかし、これまで、人間による自然支配を認めたユダヤ一神教的な自然観が、デカルトの物心二元論に代表される近代の機械論的自然観のベースになったことだけは確かでしょう。
  一方でトインビー博士は、論証を通して、イエスとフランチェスコの思想は「依正不二」と同じものであると、述べていますね。
 池田 トインビー博士は、イエスについては「イエスはパレスチナに住んでいたのですが、それは当時まだパレスチナのユダヤ人のほとんどが農民で、依正不二の精神そのままに、自然環境との調和を図りながら生活していた」と述べていました。
 またフランチェスコについては「フランチェスコは、イエスからの感化を受けています。しかも、イエスもフランチェスコもともにユダヤ的伝統の中で育ちましたが、両者の”依報”対する態度は、ユダヤ的思想に内在するものとは正反対のものだった」と述べています。
 そして「彼は、仏教用語でいえば”依正不二”の熱烈な信奉者であり、賛嘆者だった」(前掲『二十一世紀への対話』)とまで言いきっておられました。
 季先生もよく交友をたもたれていた故・中村元博士も、「依正不二」論の一つの表現である「草木国土は悉く皆成仏す」の文に関連して、フランチェスコをあげております。
 中村先生は、「神に対する愛のゆえに神の創造したすべてのもの、獣のみならず、火、風、大地のような自然界の諸事象も愛の対象となった」(『自己の探求』青土社)と述べております。
  私は、東洋思想は総合的、包括的で「合二而 一」(二つを合わせて一つとなる)の思惟モデルで、西洋思想は分析的、排他的で「一分為二」(一つが分かれて二つとなる)の思惟モデルであると考えています。ただし、これはマクロ的に見たものであって、当然、東西いずれも一パーセントまったく純粋ということはありえません。
 池田 非常に大事な視点だと思います。私は、季先生と同様に、環境問題を克服し、人類が幸福を享受していくためには、中国の「天人合一」論や仏教の「依正不二」論が、全地球的に要請されなければならないと思います。

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