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日蓮大聖人・池田大作

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2 仏教の「縁起思想」  

「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)

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1  「五陰仮和合」の法理
 池田 今、季先生が提示された仏教のターム(用語)の基調には、「縁起思想」がありますね。
 「これがあるとき、かれがある。これが生ずるとき、かれが生ずる」ーーつまり、森羅万象は、個別に存在したり、生ずるのではなく、すべて関係性のなかで成立し、生成していくということです。
 人間も他の生物も、「色・受・想・行・識」という五陰の仮の和合によって生成していきます。これを「五陰仮和合」と表現しているのです。
 ここに「色」とは「物質的次元」をさし、人間や動物の身体的、生理的機能のことです。この「色」に即して、「受想行識」の精神的な働きが発現してきます。
 さて、この「色」は生理的機能によって調和がたもたれており、ここから「本能」が生みだされてきます。
 この「色」と「心」(受想行識)がかかわりあうところに、人間の高度な精神活動も展開されるのですが、「倫理」はこの次元において論じられる概念です。
 人間がいかなる性質の「識」を発動していくか、ここに「善」と「悪」の概念がかかわってきます。
 煩悩という「悪心」に染められた「識」もあれば、これを菩提という「善心」に輝く「識」に変えることもできるのです。
 このような「五陰仮和合」の法理からしでも、季先生の提示される「生理的概念」が「本能」にかかわり、「倫理的概念」が「善悪」にかかわるとのご意見はうなずけます。
  私の考えでは、生物の本能は、善や悪とは無関係のものです。善、悪という言い方をすれば、「生存すること」も「衣食足ること」も「発展すること」も、生物にとっていずれも「善」なのです。
 しかし、「造化小児」がつくりだしたものは、一種の生物だけではなかった。おびただしい数の生物でした。
 かりに一種の生物だけがつくりだされたのであれば、問題はとても簡単であり、その生物は本能の成り行きにまかせ、本能のままに発展する。障害もなく、抑制を受けることもない。さほど時間をかけずして、地球はすべてーーいちおう、地球だけを取り上げますがーーその生物に埋め尽くされてしまことでしょう。
 しかし、「造化小児」はそうしなかった。多くの生物をつくったために、矛盾が生じ、競争が起ったのです。
 あらゆる生物が、みずからの生存空間のために戦うようになりました。そして、人類が最初にその”秤”となりました。
 「造化小児」は、まるで生物をからかっているかのようです。
 老子は「天地はいわゆる仁などという人間的な感情は持っていない。天地が万物を扱う態度は全く虚心であって、ちょうど人人が祭祀の際に用いる『(=美しく飾られでも用ずみになれば情け容赦なく捨てられる)藁で作った狗』のように扱うようである」(阿部吉雄・山本敏夫『老子』、同前7所収)言っていますが、彼はこの一点に着目したようです。
 創造主は、一方では生物を本能のままに発展させ、また一方では、このような発展を抑制し、生物が皆、発展できるようにしました。創造主は、あるものを創造すると同時に、それに対立するもの、すなわち天敵を創造したのです。
 このようにしてバランスをたもち、ある一種の生物だけに世界の空間を独占させることはしなかったのです。
2  「本能」のコントロール
 池田 季先生の述べられている「造化小児ぞうかしように」「創造主」「大自然」の概念は、仏教でさし示す「宇宙生命」に相当すると思います。
 この「宇宙生命」を「仏」とも「如来」とも、また『法華経』では『久遠本仏』とも示しております。
 宇宙生命の働きは、季先生が今、指摘されたとおりです。万物の調和をたもちながら、生きとし生けるものを育む働きであり、仏教では、このダイナミツクな”調和”の働きを”慈悲”と呼んでいるのです。
  よくわかりました。
 動物のなかから自然に頭角を現した人間は、他の動物とは異なっています。植物とはいっそう異なっています。ここに「善悪」の問題が出てきました。
 人間以外の生物はただ自己保存、自己の発展だけを考え、他の動物のことは顧みません。このような現象を抑制したのが、述べたように、創造主であり、大自然です。
 しかし、人間はそうではありません。人間は本能に使われるだけではなく、本能をコントロールすることができ、自己を発展させるとともに、他の人間、生物をも発展させることができるのです。そこまで到達して初めて、私は「善」ということを考えられるのだと思います。
 池田 人間生命から発現される、「自他」ともに発展させるその働きとそが”慈悲”なのです。日蓮大聖人は、それを「自他共に喜ぶ」(御書761ページ)と表現しております。
  善の程度と、本能をコントロールするレベルとは正比例します。このような善悪は、本能というよりも後天的にそなわったもので、この点で私と孟子の考えは、ほぼ一致します。
 池田 私も、仏教者の視点から、季先生の考え方に賛同いたします。
 他者のために尽くすという「利他の我」は、じつは、先ほどあげられた「無我」の概念のさし示すととろですが、このような”慈悲”の行為をなすところに、人間生命の特質があります。
 その意味から、仏教では、人間生命を「法器」とか「聖道正器」とか表現しております。
 人間は、宇宙生命に内包された慈悲と智慧を、自覚的に体現して、「人間革命」をなしうる生命的存在であるという意味です。
  私が現在、ある人物を善人、悪人と判断する基準はきわめて単純です。
 他人の利益を考える量が六〇パーセントを超え、残りは自分のことを考えている、そこまでできれば、その人は善人です。
 他人のことを考える割合が高くなればなるほど、その人の善の程度も高くなる。逆に自分のことを考える割合が多く、四〇パーセント以上であれば、その人は善人とは言えないのです。
 厳密に言えば、「いささかも自己を利さないで、もっぱら他人を利する」、すなわち自分の生物的な本能を完全に抑制できるという人はありえません。
3  大乗仏教の「菩薩道」
 池田 きわめて明快なお答えです。季先生の、お考えは、大乗仏教の「菩薩道」とも軌を一にしております。
 季先生の論をお聞きして、中国の天台哲学の機軸ともなった「十界論」を思い起こしています。
 天台大師は、人間には「本性」として「善」も「悪」もそなわっていると説ときます。これを「性善」「性悪」と言います。一方、現実に、生命の境涯として発現される「善」と「悪」を、「修善」「修悪」と表現しています。
 そして、天台大師は、現実生活のなかで、「修善」に輝く利他的生命へと向かう段階を「十界論」として説きました。
 「十界論」でいう「地獄界」や「三悪道」「四悪趣」などは、利己的生命が発現している境涯であり、季先生のお言葉では「悪人」となるでしょう。
 仏教では、そこに「苦」が引き起こされると説きます。「善人」とは、「菩薩界」や「仏界」の境涯であり、自己の本能をコントロールしている生命状態です。
 「仏」とはまさに「極善」の生命ですが、私ども仏教者は、具体的には、現実社会の中で、利他に尽くす行為の割合を不断に高めゆく人生、「菩薩道」の実践をめざしております。
  お二方のお話に、私は大きな啓発を受けました。
 人間すなわち人間の本能は、生まれつきそなわったもので、それは生理的な概念です。また、人間の善と悪は後天的に習得された行為によって決まるもので、善を行うこと、あるいは悪をなすことは、倫理概念です。
 この両者の概念を混同してはならない。いったん混同してしまうと、自己矛盾の誤りを犯してしまうことになります。性善説と性悪説は、いずれもこの誤りを犯してしまいました。
 性善説が答えられないのは、「人間は生まれつき善であるならば、なぜ社会に悪行が生じるのであろうか」という問いです。
 性悪説が答えられないのは、「人間は生まれつき悪であるならば、なぜ社会に善行が生じるのであろうか」という問いなのです。
 季先生も、おっしゃっているように、人間と動物との間の大きな違いは、人間は本能のコントロールができることです。ある人間の善と悪の程度は、その本能のコントロールの程度によって決まります。
 そして本能のコントロールは、厳格な教育と長期的な修練を受けることによってなしうることであり、生やさしいものではありません。道徳水準の向上は、知識水準あるいは技術水準の向上よりも、はるかにむずかしいと言えるでしょう。
 ある人間の善と悪は、その人が社会の一員となってから、さまざまな社会関係や環境の影響のもとで、しだいに形成されたものです。いわゆる「朱に近づく者は赤く、墨に近づく者は黒し」が言っていることは、この道理です。

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