Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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5 『法華経』の思想的価値
「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)
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釈尊の「真意」を表現
池田
時代が釈尊の思想の真髄を希求し、釈尊の思想が、時代を感じてそれに応じた形をとって出現してきた、とも言えるのではないでしょうか。
釈尊が発見した人類、宇宙に普遍的な思想が、新たな言葉の器にもられたのです。真実の思想には、永遠の生命力があり、時代に応じて蘇生してくるものです。
それはまた、釈尊の諸思想を学んだ真摯な継承者が、わが身に引き当てて思想的に格闘した結果であり、自身が生きる時代と真正面から取り組んだ成果ではないでしょうか。
彼らは、懸命な仏道修行のなかで、釈尊が目覚めた全宇宙とあらゆる生命を貫く真実の法に、自身も目覚めたのでしょう。そして、釈尊と同じく自身の生命の内にもそなわる「法」を、永遠の「法」を説く永遠の釈尊の説法として、経典に編みあげていったのではないでしょうか。
真実の「法」に目覚めた修行者は、おそらく、久遠実成の仏の説法を目の当たりに見聞きしたごとき実感をもっていたことでしょう。
蒋先生は、一般に経典編纂者たちが、釈尊の悟った「法」にどのように肉薄したとお考えですか。また『法華経』編纂者ならではの肉薄はどのような点にうかがえますか。
蒋
私の考えによれば、経典編纂者たちは、彼らの師匠からの伝授によって、仏陀の教えを悟っていったにちがいありません。
池田
なるほど、納得できる考えです。師から弟子へ、そしてさらにその弟子へと、魂の継承がなされていった。だからこそ、時代状況を超えて、よりいっそう、その思想の「真実」「本意」をより鮮明に表すことができる。
その意味で、私は、『法華経』は釈尊の「真意」を表現した経典だと言いたいのです。
もちろん、時代状況も反映しているし、その時代の歴史的な研究によって明らかになる面も多いと思います。真摯な学問的成果なら、大いに受け入れるべきでしょう。
それでも、『法華経』の思想的価値は決して揺がないし、かえって、いよいよ輝いていくと確信します。
蒋
池田先生のご見解は、強い確信をもって、ご自身の原則を貫いており、また、大きな勇気をもって、真摯な学問的成果を受け入れられていることを示しておられます。この点に心から敬服しております。
2
さまぎまな「法華経」
池田
このような「普遍的真理としての『法華経』」という考え方は、すでに『法華経』自体の中にもうかがえます。
序品には、日月灯明仏が説いた究極の教えとしての「法華経」がある。
化城喩品には、大通智勝仏とその王子たちが説いた「法華経」がある。
常不軽菩薩品には、不軽菩薩が臨終に聞き、蘇生してみずから説いた威音王仏の「法華経」がある。
しかも、これら過去の仏たちが説く「法華経」は、膨大な量であることが示されている。
「日月灯明仏の法華経」は、六十小劫という、じつに長い時間をかけて説かれた。
「威音王仏の法華経」は二十千万億の偈からなる。
「大通智勝仏の法華経」にいたっては、八千劫以上もかけて説かれ、ガンジス械の砂の数ほどの「偈」からなるとされている。
「法華経」とは、私たちが今日、見ることができる釈尊の『法華経』だけを言うのではないということです。
蒋先生、『法華経』自身に説かれる、このような複数の「法華経」について、どうお考えですか。
蒋
私たちが今日、見ることができる『法華経』の中に、たしかに先生が、おっしゃる、いくつかの「法華経」が示されています。しかし、”『法華経』が、たんに私たちが今日、見ることができる『法華経』だけを言うのではない”という問題については、私はこれまで研究したことがありませんし、先輩方がこの問題について研究されたことがあったかどうかについても、気にとめておりませんでした。
今、池田先生からご指摘がありましたので、今後の研究のなかで、この問題に注意をはらっていきたいと思います。
先生のご鞭撞をよろしくお願いします。
3
菩薩の精神
池田
『法華経』の本質を体得された、私の思師である戸田城聖創価学会第三代会長は、注目すべき『法華経』観を提示しています。
「同じ法華経にも、仏と、時と、衆生の機根とによって、その表現が違うのである。その極理は一つであっても、その時代の衆生の仏縁の浅深厚薄によって、種々の差別があるのである。
世間一般の人々で、少し仏教を研究した人々は、法華経を説いた人は釈尊以外にないと考えている。しかし、法華経には、常不軽菩薩も、大通智勝仏も法華経を説いたとあり、天台もまた法華経を説いている」(「各種の法華経」、『戸田城聖全集』3所収、聖教新聞社)と。
極理は一つだが、表現形態には種々の違いがある。しかし、すべて『法華経』と言えるということです。
最も真剣に、最も責任感をもって、万人の幸福を願い求めた人が、先行する「法華経」に出合い、それを自身の生きる時代に展開し、新たな「法華経」を語っていったのです。
一切衆生の真の幸福と安楽のために、仏みずからが悟った「法」、成仏の「法」を、すべての民衆に向かって開き示した教えーーそれこそが”普遍的な『法華経』”と言えるでしょう。
”万人を幸福にせずにはおかぬ”という智慧と慈悲の心こそ、『法華経』の心であり、永遠の真実であると確信します。
”普遍的な『法華経』”あるいは「『法華経』の心」とは何であると、お考えですか。
季
むしろ私ではなく池田先生こそ、透徹した見解おもちであると存じます。
蒋
池田先生は、『法華経』の精神とは、”万人を幸福にせずにはおかぬ”という智慧と慈悲の心である」と、おっしゃいました。これは、きわめて透徹したご見解だと考えます。
中国の民間の伝統的な言い方によれば、大乗仏教の精神、とくに『法華経』の精神は、「菩薩の精神」と呼ばれています。
つまり、大慈大悲、苦を救い、難を救うという利他の精神です。実際、私は、これゆえに、大乗仏教に対して深い敬意をいだいております。
まさに、大乗仏教の大慈大悲の精神によってこそ、人々の智慧、勇気、情熱を開かしめ、人類社会が直面しているあらゆる困難を克服させ、全人類に幸福をもたらすことができるのです。
私が、創価学会を深く尊敬するのも、創価学会が、『法華経』の精神を、時代の特徴や人民の願いに対応させながら解明していることです。
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