Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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5 恩師の存在
「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)
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1
言行一致
池田
これまで、季先生の貴重な人生経験を話していただきました。次に、先生の恩師や師弟観、教育観などについて、おうかがいします。
私にとって、十九歳で恩師の戸田城聖先生と出会ったことが、人生を大きく変える出発点となりました。先生の人生に影響を与えた思師について語っていただけますか。
季
私の生涯において恩師はたくさんいました。
小、中、高、大学時代、それぞれに恩師がいました。清華大学では、
陳寅格
ちんいんかく
教授、北京大学では
胡適
こてき
、
湯用彤
とうようとう
、ドイツではジーク教授とヴァルトシュミット教授等があげられます。そのなかで、二人の恩師について述べたいと思います。
一人は、
済南
さいなん
の
正誼
せいぎ
中学校の校長であった
鞠思敏
きくしびん
先生です。永遠に忘れられない恩師です。
鞠先生の表情は厳しくも親しみ深く、体格は堂々としており、足どりは落ち着いていました。
当時、鞠先生は授業を担当していませんでしたが、朝礼のときには、みずから全校の生徒に話をするのが常でした。先生が話す内容は、決まって世に処し、人にまじわる道理で、何も驚くべき内容ではありませんでした。しかし、それが先生の口から出ると、その穏やかな低い声、真剣で誠実な態度は、われわれを深く感動させました。
鞠先生は、口先だけの人ではありませんでした。先生はご自分の一生をもって、言行一致、民族的な気骨にあふれた人物でした。
日本の侵略者は、済南を占領したあと、鞠先生の名声を聞き、傀儡政権の威勢を強めるため、先生を利用しようとしました。なんとか先生を担ぎ出して、仕事をさせようと説得したのです。
しかし、鞠先生は、いつもきっぱりと拒絶しました。その後、生活が苦しくなり、毎日、湯でふかした餅とわずかな漬け物だけで、日々もちこたえていました。しかし、とうとう憂いのなかで、嘆きながらこの世を去ってしまったのです。
2
鞠先生の面影は、永遠に私の心の中に刻まれています。時間がたてばたつほど、先生の青年を愛する精神、教育を愛する気魄、祖国を愛する民族の気概は、ますます鮮明になってくるのです。
池田
圧迫に屈しない人を、私は尊敬いたします。偉大な師をもてる人生は、本当に幸せです。
私も戸田先生から、毎日のように、一対一の個人教授を受けました。
ふれると火傷しそうな先生の熱気、迫力がじかに伝わってくる真剣勝負の講義でした。また博学な理論家であった先生の講義は、じつに明快でした。
専門の数学をはじめ、化学、天文学、生命論、経済学、法学、政治学、日本史、世界史、漢文などを、命を削るように教えてくださいました。
今の私の九八パーセントは、すべて思師から学んだものです。私は戸田門下生であることを、無上の誇りとしております。
季先生のもうお一人の恩師は、どのような方だったのでしょうか。
3
悪への怒り
もう一人は、清華大学の西洋文学学部で学んでいたときの思師で、
西諦
せいたい
先生です。
当時の社会は封建思想がはびこり、序列はあたかも天地の大義のようでした。私はそのような雰囲気のなかで、西諦先生と知り合ったのです。
先生は他の教授とは違い、年功の序列を重んじる悪弊とは縁のない方でした。われわれ学生と、まったく平等な態度で接してくれました。
先生は大きな子どものようで、天真爛漫な心を失っていませんでした。話しぶりはとても率直で、人を押さえつけるようなことはありませんでした。
いつも優しく、親切でした。われわれは、内々でよく”西諦先生は『水滸伝』に登場する宋江のような人物”と言っていたものです。一九四六年、私がドイツから帰国したとき、先生の上海のご自宅で、食事をご馳走になったことがありました。
当時、上海では反動勢力が
猖獗
しょうけつ
をきわめていました。先生は、民主主義の獲得をめざす刊行物を編集する中心者でした。そのため先生は、反動勢力と対立する側に立っていました。彼らは、先生を目の敵にし、ブラック・リストに入れていたのです。
あるとき、私は先生とこの問題を論じあいました。すると、先生の顔色はいっぺんに紅潮し、怒りは天を衝き、声を震わせ、強い義憤と軽蔑をあらわにしたのです。
何十年来、先生が私に与えてきた印象は、優しくて親切、気さくで心が広い、「菩薩のような顔立ち」というものでした。
私は、先生が悪に対しては、仇敵を憎むがごとく冷厳であり、疾風迅雷、怒りに身を震わせるという、別の一面があろうなどとは、思いもよりませんでした。今になって、ようやく西諦先生の全体像をとらえることができました。
しかし先生は飛行機事故で突然、亡くなられたのです。その知らせを受けたとき、私はまるで頭をハンマーで殴られたようなショックを受けました!
それ以来、長い時間が流れましたが、私は西諦先生を忘れることはできません。
池田
貴重な思い出を話していただき、ありがとうございます。
民衆に対しては、限りなく温かく、優しく、そして邪悪に対しては断じて許さず、敢然と戦いぬく。私どもの牧口常三郎先生の生き方とも相通じるものがあり、感銘深くうかがいました。
牧口先生も軍部政府の弾圧と戦い、巌のごとき強き信念を貫き、殉教しました。
その一方、牧口先生は小学校教諭時代、雪の降る寒い日は登校する小さな子を背負い、また、あかぎれの子がいれば、教室でお湯をわかし、手を温めてあげるなど、子どもたち一人一人に心を砕く、慈愛の先生でした。
4
後継者の育成
池田
季先生は、北京大学教授を長い間続けられ、学生や後輩に対しても、慈父の情愛をもって育成指導しておられます。
先生は『散文集』の中で、北京大学のようすを、深い情愛をこめて書いておられますね。
「今朝早く、わたくしはまた学園のなかを歩んだこのとき、朝の光は露にさし初めていたが、暁の風はまだ起らず、あたりは静寂につつまれていた(中略)まだ歩く人もまれであったが、緑したたる湖畔、
丁香
ちんちょうげ
のくさむら、楊柳の木の下、築山の頂上から、外国語を音読する一陣の声が伝わって来た。
耳をかたむけると、ロシア語、英語、サンスクリット、アラビア語などであり、かすかにそれを聞きわけることができた。(中略)微かな声のなかにも、飢えたように知識を吸収しようとして、そのわざをまな、ぽうとする熱意が感じられた」
「わたくしが大図書館まで歩いてゆくと、またも一群の男女の青年たちが、そのなかに座り、頭をたれて数学あるいは物理・化学などを学習しているのを見たこれも全身全霊をかたむけ、声一つたてなかった。(中略)これよりも人を動かす情景が、またとあろうか? わたくしの心は、言葉にはいいあらわせない喜びであふれた」(『中国知識人の精神史』下、依田憙家訳、北樹出版)
先生は、師弟とはどうあるべきだと、お考えでしようか。教育も、研究も、本来、師弟なくして成り立たないでありましょう。
季
韓愈は次のように言っています。
「古の学ぶ者には必ず師有り」(古くから学ぶ者には必ず師がいる)。また、「弟子は必ずしも師に如かずんばあらず。師は必ずしも弟子より賢ならず」(星川清孝『唐宋八大家文読本』1、『新釈漢文体系』70、明治書院)ーー弟子は必ずしも師におばないのではなく、師も必ずしも優れているとはかぎらないーーとも言っています。
池田
師にとって、弟子が成長する姿ほど、うれしいものはないでしょう。
仏典には次のようにあります。
「たとへば根ふかきときんば枝葉かれず、源に水あれば流かはかず、火はたきぎ・かくればたへぬ、草木は大地なくして生長する事あるべからず」(御書900ページ)
仏教学の泰斗であられた故・中村元博士が、季先生がどのように後継を育成されているかを、ある本の「序」に書いておられました。
「北京大学における南亜研究所を再度訪れたときには、門下一同を召集して歓迎会を開いて下さった。
微笑をたたえながら『ここには四世代がいるのですよ。四世同堂だ!』と言われた。つまり季羨林博士の教えた人々が、次の世代の学者を育て、その世代の学者がまた次の世代を教えているから、四世代になるというのである。愛児、愛孫を見るがごとく、博士の眼を細めた顔つきは、明るく楽しそうであった」(前掲『中国知識人の精神史』上)
先生は今回の「てい談」に加わっていただいている蒋忠新先生はじめ、優れた多くの弟子を輩出し、後継の道を開かれました。
5
教育と教師
池田
教育こそ最極の人生の聖業です。
私も、牧口先生、戸田先生の遺志を受け継ぎ、創価大学、創価学園を創立しました。また、教育にはわが身を惜しまぬ信条でまいりました。
季先生の門下のように、四世代、五世代、次の人材、そのまた次の人材というように、若人が陸続と成長してほしい。それが、私のなによりの喜びであり、願望です。
季 池田先生の教育にかける精神に感動します。
どのような国であれ、どのような民族であれ、必ず教育を最優先しなければなりません。教育は最も神聖な事業です。
教育の目的は「継承」と「発揚」にあります。先人の創造と智慧を継承し、またそれを発揚し、さらに光り輝かせていく。そして後世に伝えていく。このようにして人類はたえず進歩し、精神境涯もたえず高まっていくことができるのです。
池田
同感です。季先生は、ご自身の研究をどのような弟子に受け継いでほしいとお考えでしょうか。
また、弟子、学生と接するさい、心がけていることは何でしょうか。
季
私は後継の弟子には、「才能」があり、「勤勉」で、学術研究に対して「根気強い」人でなくてはならないと言っています。
また、教師は学生と接するさいは、身をもって範を示さなければなりません。中国では古くから「身の教えは言の教えに勝れたり」(身をもって教えることは、口先で教えることよりも勝れている)と言われています。
学生に「一杯の水」ほどの知識を授けようと思えば、教師はまず「一桶の水」ほどの知識を用意しなければなりません。教師は、決して「空の桶」をさげて、授業に臨もうと思ってはなりません。
師弟には共同の偉大な目標があります。学生たちは弟子でもあり、同志でもあるのです。
池田
まったく同感です。黄金の輝きを放つ言葉です。
小学校の校長であった牧口先生も「教育の目的は児童の幸福にある」(『創価教育学体系』上、『牧口常三郎全集』6、第三文明社、趣意)と、また、教師は「尊敬の的たる王座」ではなく、「王座に向かうものを指導する公僕」であるべきだ(同前、下、同全集6、趣意)と、教育革命を叫ばれました。
教師が、”今は未完成の学生たちも、いつか必ず、自分など及びもつかない偉大な人物になるのだ”と、信じて育てていくことですね。教師は決して学生を下に見てはいけません。同じ人間として、また学問を志す同志として、学生を励まし、わが子のごとく心から愛していきたいものです。
「教育革命」は「教員革命」から始まると言えましよう。教員が良くならなければ、学生は良くなりません。学生が良くならなければ、未来の指導者は育ちません。
私も、創価大学、創価学園の先生方と、つねに教育の原点に立ち戻ろうと確認しあっております。
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