Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

4 波瀾万丈  

「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)

前後
1  「文化大革命」
 池田 次に「文化大革命」について、おうかがいしたいと思います。季先生にとっては思い出すのも辛い歴史かと思いますが、後世のため、青年のために、ぜひとも教えてください。
 一九六六年に「文化大革命」が勃発しました。季先生も、多くの教師、研究者、知識人、文化人と同様に、「反革命分子」として、迫害の矢面に立たされたことを、私は厳粛な思いでうかがいました。
  ええ。あの十年間、深い淵に臨むがごとく、薄氷を踏むがごとく、毎日、戦々恐々とした日を送りました。
 池田 どのような状況だったのでしょうか。簡単には表現できないとは思いますがーー。
  そうですね。「文化大革命」の混乱のなか、派閥同士の争いも深刻でした。学校、機関、工場、企業、ひいてはある部隊にいたるまで、対立する派閥に分かれました。北京大学も例外ではありませんでした。
 各派とも「唯我独尊」でした。どちらとも、殴打、破壊、強奪、ひいては殺人、放火等を行い、現在からみれば、いずれも同類の悪党で、似たようなものだったのです。
 現在、だれが是で非であったのかを、再検討することは、まったく意味がありません。だれであれ、そのような状況に身を置かれたなら、まるで何かにとりつかれたようになってしまう、ということでしよう。
 本来、仲が良くうるわしかった家庭が、不幸にも二派に分かれ、夫婦は離婚をするはめになり、父子で反目しあう者もあり、兄弟で相争う者もあり、日々、家の中でもけんかが絶えなかったのです。
 あの雰囲気のなかで、一人一人が、どの分派の親分であろうが、どの派閥の者であろうご、皆がまるで魂をまよわす毒薬を飲んだように、非人間的状態になってしまったことを思い出します。
 ぶつ人もぶたれる人も皆、被害者であり、ただ置かれていた立場が違っていたということだけだったのです。
 池田 季先生も、その渦中に巻き込まれることになったのですね。
2  走資派のレッテル
  そうです。運動が始まったとき、私は北京大学の学部長でしたので、「走資派(資本主義の道を歩む実力者)」、「資産階級反動学術権威」というレッテルを張られたことは、当然の成り行きで、避けられませんでした。私は、どちらの派閥からも「反革命分子」と言われ、批判されました。
 ついに私は、睡眠薬を飲み、俗世間に別れを告げ、いさぎよく去ってしまおう、と決意するまでになったのです。
 そのときです。三人の紅衛兵(学生)がドアをけたたましく叩き、私を批判闘争大会に連行しにやってきたのです。
 池田 そうでしたか。季先生が経験された批判闘争大会とは、どのようなものだったのでしょうか。もし、よろしければーー。
  私は学内最大の室内集会所に連行されました。首筋を押さえつけられ、頭を上げられないようにして、批判闘争台に連れて行かれました。
 「腰を曲げろ!」。「はい」。私は腰を曲げました。
 「頭を低くしろ!」。「はい」。私は頭を低くしましたが、背中に何度もげんこつをくらいました。
 「もっと下に曲げろ!」。「はい」。私は下に曲げましたが、足に凶暴な蹴りを入れられました。
 「もっと下に曲げろ!」。「はい」。私はもっと下に曲げました。
 立っているととができ、なくなり、膝に手を当てて体を支えると、すぐにまたげんこつをくらい、蹴られるのです。
 「膝に手を当てるな!」。”革命少将”は、ジェット機の形を真似して、私にその格好をするよう命じました。ずっと、その姿勢のままなのです。
 私はいっそのこと、ひざまずとうかと思いましたが、そうすれば、きっとげんこつと蹴りを招くだけなのです。
 私の二本足はもはや力尽きて、体を支えきれなくなっており、痛みは筆舌に尽くせないほどでした。眼からは火花が散り、顔中に汗が流れましたその私の左の頬に向かって、痰がぺッと吐きかけられました。
 突然、背後の台で、人が話しているのが聞こえました。いったいどういう内容を話しているのか、私はまったく聞く気はありませんでしたが、この日の主役は私ではなく、私は「闘争のついで」として連行されたことが、おぼろげながらわかってきました。
 群衆の声が澎湃とわき起こり、スローガンを叫ぶ声が、天地を揺るがしていました。
 批判闘争大会が終了すると、私はふたたび人に首を押さえられ、両手を後ろに縛られたまま、幌の開いた車に乗せられました。
 私は、芝居はまだ終わっておらず、これから「見せしめ」に出されるのだと、わかっていました。
 私は何も見えず、何も見る勇気がありませんでした。ただ道路の両脇には人が、ぎっしりいることを感じました。
 ある人は、私に向かって石を投げ、頭、顔、体にぶつけました。頭上に千本の手が振られ、千本の足が私の足を蹴り、千の口が私に向かって、つばを吐いているように感じました。沿道の叫び声は天地を揺るがし、スローガンの声は山岳を震撼させ、このうえなく勇壮な大合唱となっていきました。
 車は急に停止し、一人の労働者が、私を蹴って車から降ろしました。私はもんどりうって、地面に倒れ、懸命に起き上がろうとしました。そのとき、また顔を蹴られました。
 そして、「滚蛋ぐんだん!(消え失せろ!)」のどなり声で、私は解放され、家に帰されたのです。
 私はまるで昔の小説の「刀下留人ダオシアリュウレン」(死刑執行をしばらく待つよう求めるときの言葉)のかん高い叫び声のなか、かろうじて釈放された死刑囚のようでした。しかし、そのあとも、さらに残酷で蟻烈な批判闘争にそなえなければならなかったのです……。
3  ラーマーヤナの翻訳
 いな、余人にはうかがいしれないご苦労であったここと拝察いたします。
 五十五歳から六十五歳の十年間といいますと、学者として働きざかりの時間です。私が感銘するのは、季先生が「迫害に耐えた」のみならず、「迫害の渦中で偉大な仕事をなされた」事実です。
 すなわち、このような逆境のなか、先生は驚くベき精神力をもって、インド二大叙事詩の一つ『ラーマーヤナ』の翻訳に取り組まれた。そして、四年の歳月を費やし、ついに一万八千七百五十五頌、八万行に近い長編の翻訳を完成されました。
  はい。私の当時の仕事は「門番」でした。手持ちぶさただったのです。
 私は夜、自宅に戻ると、『ラーマーヤナ』の原文を子細に読み、サンスクリットの詩句をまず中国語の散文に翻訳しました。
 翌日になると、三十五楼(建物の名称)へ出勤する途中で、また出勤後の「門番」の仕事中や、電話の取り継ぎ、手紙の受け入れ、発送の合間に、前夜の散文を詩に直し、さらに韻を踏んで、しかも各句の文字数がほぼひとしい詩に改めました。
 私はしばしば散文の訳文を紙切れに雑然と書きなぐり、ポケットにしのばせていました。ひまなひととき、それを取り出しては、推敲し、磨きをかけたのです。
 身は門番部屋にあることも忘れ、頭上に重たい冠(”罪人”のしるしとして、ピエロのかぶるような三角帽)が乗せられていることも忘れ、そのなかにみずからの楽しみを見いだしたのです。
 池田 偉大なご境涯です。真実の「学の人」であられる。
 今、振り返って、「文化大革命」とは、いったい何であったのでしょうか。もっと時間がたたないと、歴史の位置づけはできないかもしれませんがーー。
  いわゆる「文化大革命」は、空前の災禍でした。いったいどういうことであったのか、定義を下すには、まだ時期尚早でしょう。
4  さらに高き峰へ
 池田 よくわかりました。
 季先生は、中国民族がまた人類が、二度とあのような不幸な歴史を繰り返してはならないーーその赤誠の思いから、勇気ある、また後世に残しゆく重要な証言をしてくださったものと拝察します。
 先生は幾多の困難を乗り越え、生きて生きて生きぬき、国家、人類に大きな貢献をしてこられた。不境不屈の人生は多くの青年に、勇気を与えることでしょう。また、苦難の、なかにある人に、希望を与えることでしょう。
 ソ連のノーベル賞作家であるショーロホフ氏は、私に語っておられました。
 「信念のない人は、何もできません。私たちは、皆が”幸福の鍛冶屋”ですよ。精神的に強い人は、運命の曲がり角にあっても、自分の生き方に、一定の影響を与えうると信じます」と。
  私は、過去を振り返ると、田舎から都会へ、国内から国外へ、小学校、中学校、高等学校、大学から西洋の大学院にいたるまで、「学に志す」年代(十五歳)から「心の欲するところに従って矩をえず」の年代(七十歳)まで、あるときは紆余曲折のでとぼと道を、あるときは前途光明に満ちた道を、あるときは小さな丸木橋を歩いてきました。
 また、ときには「山かさなり水かさなりみち無きかと疑う」(重なる困難に前途がないと思った)といった経験をし、ときには「柳暗く花明るくして また一村あり」(パッと道が開けた)との思いになりました。(=陸遊りくゆうの詩「遊山西村」による)
 喜びと悲しみが交錯し、失望と希望が肩を並べたときもありました。私のこれまでの経験は、じつに波瀾万丈だったと言えましょう
 私はすでにかなりの年齢になっております(一九一一年生まれ)。しかし、老人のなかでもまだ若いつもりです。私は春を悲しむこともないし、秋を嘆くこともありません。また、老いを憂えることも、貧を苦にすることもありません。
 生きて平和な世の中にめぐりあえた、私の唯一の希望は、「さらに少しでも長生きをして、多くの仕事をする」ことです。
 池田 美しく光るお言葉です。人生の険しい峰々を登りきわめてこられた季先生が、「さらに高き峰を登らん」としておられる。
 波瀾の歳月で磨きぬかれ、鍛えぬかれた宝のごとき境涯です。先生のこの生き方自体が、全人類に対する偉大な教訓ではないでしょうか。歩み続けた人、戦い続けた人が勝利者です。
 私が三十年前、ロンドンのトインビー博士の自宅を訪ね、対談した折のことです。博士に「座右の銘」を尋ねたところ、即座に「ラテン語で『ラボレムス』ーー『さあ、仕事を続けよう』という意味の言葉です」と答えられました。
 当時、八十三歳の博士が、さらに一心に学問研究に奮闘される姿にふれ、私は心の底から、ふつふつと前進の力がわいてきたことを、きのうのことのように思い出します。
 私も現在、七十四歳です。生涯、前進、また前進です。一日一日を完全燃焼させながら、二十一世紀を担う青年の育成に、人類の平和のために、全精魂をそそいでいく日々でありたいと決意しております。

1
1