Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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3 苦節のドイツ留学時代
「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)
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1
滞在十年
季
私の行く道は、あまりにも漠然としていて、天のみが、どこへ行くのかを知っていたのです。
池田
季先生はゲッテインゲン大学でインド学を専攻され、世界的に有名な仏教学者であるヴァルトシュミット教授、ジーク教授に師事し、サンスクリット、パーリ語、トカラ語を学ばれます。
その間、一九三七年、日本の軍国主義者は大規模な中国侵略戦争を起こし、貴国に全面攻撃を始めました。その二年後、ナチス・ドイツが第二次世界大戦を引き起こしたため、先生は帰国もままならず、ヒトラー支配下での不自由な留学生活を余儀なくされますね。
先生のゲッテインゲン留学当時のようすを、お聞かせください。
季
私は当初、二年間の滞在予定でした。しかし、戦争のためこの人口わずか十万人しかない小さ在町に、まるまる十年間滞在することになるのです。
ほとんどの精力をサンスクリットとパーリ語の学習に費やしました。この長い十年間、平穏で、快適な日を過どすことは、幾日もありませんでした。
ドイツに来てまもなく、バターと食肉の配給制が始まりました。それもしだいに少なくなっていきました。第二次世界大戦が勃発すると、すぐにパンも配給制となり、量はしだいに前り、質もますますひどくなっていきました。
あとになると、バターも見かけ在くなりました。料理用の油は、何やら化学合成のものが使われるようになりました。しかも毎月の配給量はわずかで、鍋に入れると、一瞬のうちに煙となって、すべてなくなってしまうのです。
パンを焼く粉も、大部分は小麦粉ではなくなりました。ドイツ人もそれが何だかわからず、ある人は魚粉でつくったものだと言い、またある人は木を乾かしてつくったものだと言う始末です。
手に入れたばかりのときは、なんとか口に入れることができるのですが、一晩おくと臭くて耐えがたいものになりました。
数年間こんな日々を送り、毎日ひもじい思いをしながら、夢にまで故国の食べ物が現れるようになりました
。このときばかりは、本物の飢えを経験したと言えるでしょう。
当時、私はロシアの作家ゴーゴリの『検察官』を読んでいました。その中に、ある人が食べるものがなく、「おれは、地球を一飲みにしたいくらい、腹がへっている」とこぼしたくだりがありました。私はそれを読んで大いに喜びました。なぜなら、このロシアの作家が、私の当時の気持ちをよく表してくれていたからです。
池田
飢える苦しみーー今の日本の若い人には想像もできないでしょう。
私も戦時下を経験していますから、多少は実感をもって、季先生のご苦労をしのべる世代です。
一九四四年、十六歳のときでした。真夏の太陽が照りつける猛烈に暑い日でした。私は青年学校の軍事教練で、先頭集団の一員として行進していましたが、急に気分が悪くなり、血疲を吐いて倒れてしまいました。そのころ、私は結核の病状が悪化して、日に日に体が衰弱していたのです。
翌年になると、アメリカ軍の東京空襲は連日のようになり、焼夷弾は雨のように落とされ、工場や家々はほとんどが焼けてしまいました。私たち家族も焼け出されてしまったのです。
季先生は戦闘機が飛び交い、つねに生命の危険にさらされながら、また「朝食をとれれば良いほう」という飢餓状態でありながら、机に原稿を積み、倦むことを知らず、朝まで学問研究を続けられた、とうかがっています。
2
インド仏教史研究
季
ええ。私は、学問研究を決しておろそかにはしませんでした。相変わらず寸暇を惜しんで、すべての時間を勉学にあてました。読書、資料探し、原稿書きの苦しみに耐えぬいた時期です。
初めの三年の間に、私は仏教混淆サンスクリットについて少しも知識のない段階から、少しずつ知識を修得する段階を経て、ついにこの分野についての多くの知識を有するようになりました。とともに、仏教混淆サンスクリットに対して、だんだんと興味をもつようになったのです。
池田
強靭なる精神力をもって、研究を続けられ、ついに一九四一年、ゲッテインゲン大学を卒業し、哲学博士の学位を取得されますね。学位論文は、有名な経典である「『マハーヴァストゥ』の
偈頌
げじゅ
における定動詞の活用」だったとか。
季
この論文およびそれ以降のいくつかの重要な論文は、どれも仏教混淆サンスクリットについて述べています。
私はインド仏教史に興味がありました。私の独特な方法は、言語を根拠とした方法です。言語は、部派仏教、および初期の仏典が発生した時期と地域を明らかにしてくれます。これは、それまでだれも用いたことのない方法だったのです。
池田よく存じております。季先生の世界的な業績については、のちほど詳細にうかがいたいと思いますが、先生はゲッテインゲン留学時代、仏教文献学の堅固な基盤を構築されました。
先生は歴史記録の少ない、あるいは無いなかにあって、仏典の年代と起源を判定するのに、言語学的方法を提供され、当時の学会に大きな貢献をされました。
しかし空襲は日増しに激しくなり、祖国へ帰ることもできなくなったのですね。
3
戦争の惨状
季
ええ。この時期、すでに戦争の情勢は大きく変わってきました。ドイツのファシストは勝利から敗北に転じ、ただ相手の攻撃を食い止めるだけで、すでに反撃の力はなくなっていました。
イギリスの飛行機がドイツを爆撃する爆弾の威力はしだいに強まり、ビルを徹底的に破壊するまでになりました。ときには、貫通させたあと、地下から地上に向かって爆発するようにもなったのです。
この爆撃の規模は日増しに拡大し、アメリカが昼間爆撃したかと思えば、イギリスが夜爆撃しました。イギリスは、「絨毯爆撃」方式、つまり、絨毯を敷くように、一点の隙間も残さず爆撃するというやり方でした。
あるとき、私は郊外の林の中へ行き、空襲から避難しました。草地に伏して、アメリカやイギリスの飛行機が隊を編成して飛んで行くのを仰ぎ見ました。飛行音は地を揺るがし、黒い影は天を覆い、一回伏すと一時間ほど動けませんでした。
私は当然、祖国に帰りたいと思いました。日本軍国主義の野獣の類が、私の故郷で残虐のかぎりを尽くし、火の手をまき散らしている。しかし、祖国は幾山河の彼方、雲と天の果てにあり、私はなすすべもない状態にありました。
私は、ときには、ふたたび生きて最愛の祖国を見ることはできないのではないかと思い、すっかり希望を失ってしまいました。家族とも連絡が途絶えました。私は「峰火三月に連る 家書万金に抵す」(「春望」『杜詩』2〈鈴木虎雄訳注〉所収、岩波文庫)ーー戦乱ののろし火は三カ月を経てもまだやまず、家族からの手紙は、万金にも値するように思われるーーという杜甫の詩を思い出していました。
池田
胸が痛むお話です。あまりにも申しわけないことに、日本は先生の大切な祖国を侵略し、償いようのない大罪を犯しました。私は日本人の一人として、心から深くおわび申し上げます。
季
日本の侵略戦争は中国とアジアのいくつかの国々、さらには日本本国の人民にまで甚大な災難をもたらしました。そして、現在も、日本の国内ではまだ一握りの軍国主義者が侵略という犯罪の事実を否認し、愚かな行動をとっています。
池田先生がこのととに対し、「深いおわび」を表明されていることからも、先生が、道徳があり、良識があり、先見の明があり、博識があり、真実に立ち向かう方であることがわかります。このことに私は敬意を表します。
池田
寛大なお言葉に感謝いたします。
私が子どものころ、四人の兄が出征しました。あるとき、中国へ送られた長兄が一度帰ってきて、こう言ったのです。
「日本は、ひどいよ。あれでは中国の人たちが、あまりにも、かわいそうだ」
その長兄もビルマ(現・ミャンマー)で戦死してしまいました。
”日本は、絶対に中国に対して償わなければならない”。これは、言わば兄の遺言です。
私は空襲で家を焼かれ、兄を失い、病弱な体を酷使し、戦争の残酷さを五体に刻み込みました。
終戦後、軍国主義と戦い牢に入った戸田城聖先生と出会い、創価学会に入りました。私は戦争の悲惨を断じて繰り返してはならないとの決意から、ささやかな行動ですが、日中の国交正常化に取り組み、民間人の立場で平和への対話を重ねてまいりました。
私の胸の底には、長兄の戦死の報を受けたときの母の背中があります。知らせを受けるや、母は黙って、くるりと背中を向けました。無言でした。その肩が、その背中が小刻みに震えていました。
ところで、ヨーロッパの戦況が終息へと向かっていった当時のようすをうかがいたいのですが。
4
戦争の傷跡
季
ファシストによる体制が崩壊したあと、ドイツは廃撞となりました。私は、当時のハノーヴァーへ一度行ったことがあります。この百万の人口(=近郊の人口をのぞけば五十万人)を擁する大都市は、建物の骨組みだけが残り、ほとんど住民を見ることはありませんでした。
大通りの両側は破壊されたビルだらけで、外壁が少し残っているばかりでした。外壁にそった地下室の窓のそばには、どこも死者に手向ける花束が並べられていました。地下室に埋められた人は数千、数万にのぼるということでした。爆撃直後は、まだ助けを求める声が聞こえていました。
しかし、地下室を掘って彼らを救う方法はありませんでした。その声は日増しに衰えていき、ついには地下室の中で、無言で死んでいったのです。
戦争が終わっても、地下室を掘って死体を運び出すことは、まだできませんでした。家族の墓参りといっても、窓の外に花束を供えるしかなかったのです。この光景は、身の毛もよだつほど、恐ろしいものでした。
池田
戦争ほど、残酷なものはありません。戦争ほど、悲惨なものはありません。
幾百、幾千万の人々が虫けらのように殺されていく。戦争は、あまりに愚劣な、あまりに残忍な破壊行為です。その泥と炎の中で苦しみ、うめき、嘆くのは、いつも罪のない民衆なのです。
季先生はヨーロッパの戦場の硝煙がまだ消えきっていない一九四五年の秋、十年間過ごしたゲッテインゲン大学を離れ、スイスに半年間滞在したのち、フランス、ベトナム、香港を経由して、一九四六年夏、十一年ぶりに祖国に帰ってこられました。
ナチス政権下で、有色人種の留学生として、しかも戦時下で生き延びるだけでも大変ななか、世界最高レベルの学問研究をされたことは、奇跡にひとしいことではなかったでしょうか。
帰国の途中も、一緒に出発した船は、三艘のうち二艘が潜水艦に撃沈されるなど、危険と困難に満ちたものだったと、聞きました。留学前から、奥さまはじっと先生の帰国を待っておられました。帰国後、感動的な再会を果たされたとうかがっております。
季
ええ、そうです。私の長い流浪の生活はここで終止符が打たれたのです。
池田
一九四六年秋、先生は要請を受け、北京大学において教授兼東方言語文学学部学部長になられます。しかし、帰国の当初は、研究に専念できるような状況ではなかった……。
季
はい。仏教混淆サンスクリットの研究については、帰国してからというものは、必要な専門書が不足しているだけでなく、必要な雑誌も之しく、徒手空拳で何もない状態でした。
私は仏教混淆サンスクリットについて、まだ深い興味をもっており、研究への意気込みがまだ盛んでしたが、やむなくぺンをおくよりほかにはありませんでした。この分野の研究作業は、どのみち進めようがなかったのです。
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